『グラン・トリノ』
(クリント=イーストウッド:監督・2008年・アメリカ)
朝鮮戦争の帰還兵で、50年フォードの自動車工場につとめた老人が、
妻をなくし、教会での葬儀にのぞんでいる。
がんこな性格から、むすこたちの家族とおりあいがわるく、
となりの家にすむモン族とも なかよくやるつもりはない、
という状況が、映画のはじめでしめされる。
もちろん、そのままでは映画にならないわけで、
がんこな老人(コワルスキー)が、となりにすむモン族の一家と
しだいにかかわりをもつようになり、
血のかよったむすこたちの家族よりも、
モン族たちといるほうがあたたかい、なんていいだす。
(以下、ネタバレあり)
コワルスキーのこころをひらいていくのが、
モン族のむすめスーと、彼女のおとうとタオだ。
タオは、モン族の不良たちにそそのかされ、
コワルスキーの愛車、グラン・トリノをぬすもうと車庫にしのびこむ。
気づいたコワルスキーにおいはらわれるけど、
この事件をきっかけに、コワルスキーとモン族との交流がはじまる。
グラン・トリノをぬすもうとしたおわびに、
タオはコワルスキーに仕事の手つだいをもうしでる。
タオは、くちかずがすくなく、
コワルスキーからみるとぐずでうすのろにみえたけど、
家まわりの大工仕事ぶりをみているうちに、
かしこくて、つかえる男なのがわかってくる。
スーは、アメリカとモン族のあいだをとりもつ存在で、
一族の老人たちをたいせつにするし、
アメリカ社会のよいところ、わるいところをよく理解している。
モン族の不良たちは、しつこくタオにちょっかいをかけてくる。
コワルスキーがタオにかした大工道具をこわしたり、
タオのほほにタバコでやけどをおわせたり。
腹をたてたコワルスキーが不良のひとりをいためつけ、
こんどタオに手をだしたらゆるさないとおどす。
でも、それでひっこむような不良たちではなかった。
ある夜、スーたちの家に銃を乱射し、
スーをひどくレイプして しかえしするのだった。
いかりにもえるタオは、不良たちへ復讐しようと
コワルスキーの協力をもとめる。
コワルスキーは、こういう場合 しっかりした作戦が必要だと、
タオにまず冷静になるようもとめ、
夕方4時にもういちどこい、といいわたす。
映画をみているわたしだってその気になった。
あのダーティーハリーが(コワルスキーだけど)
どんなに壮絶な暴力を不良たちにあびせるのかとたのしみにする。
あのダーティーハリー(コワルスキーだけど)をおこらせるなんて、
運のわるい アホな不良たちだ。
さいごにしめされたのは、おどろくべき意外な結末だった。
『スティング』は、さいごのさいごまで
はなしのおちどころがわからないように、
この作品もまた、ラストを予想できるひとは そうおおくないのでは。
コワルスキーは、不良たちの家にひとりでのりこみ、彼らを挑発する。
タバコを手にして、「火をつけるぞ」と 胸ポケットに右手をいれる。
恐怖にかられた不良たちは、コワルスキーをいくつもの銃で乱射する。
あおむけにたおれるコワルスキー。
このときもまだ、わたしは彼が防弾チョッキをきていて、
これからはでなドンパチがはじまるのだとおもっていた。
でも、そうはならなかった。
コワルスキーは ほんとうに死んでしまった。
自分の命をなげだして、不良たちに罪をおわせ、
モン族の兄弟へ 永遠にちょっかいをだせないようにするのが、
コワルスキーがたどりついた作戦だった。
目撃者がおおくいるまえで、
丸腰のコワルスキーを乱射した不良たちは、
長期刑になるだろうと、現場にいた警官がタオにおしえてくれる。
警官がそんなことをくちにするとはおもえないけど、
みているわたしたちを納得させるのに必要な情報だ。
セキをするときに、たびたび血をはくコワルスキーは、
自分の命が もうさほどながくないのをしっていた。
不良たちの家にでかけるまえ、
床屋で髪をととのえ、ヒゲもそり、スーツをあたらしくしたてる。
教会で懺悔をし、愛犬もモン族のおばさんにまかせ、
自分がかかわったことのケリを、自分ひとりでつけた。
こんな命のつかい方があるとは、まったくおもってもみなかった。
ダーティーハリーのイメージを、どうしてもコワルスキーにもとめる。
それだけに効果的で、だれも予想できないラストとなる。
映画のおわりは、はじまりとおなじように
教会での葬儀に場面をうつす。
棺桶にはいっているのは、コワルスキーの奥さんではなく、
コワルスキー本人だ。
弁護士事務所では、弁護士が遺産のふりわけをよみあげる。
コワルスキーは、愛にあふれるメッセージとともに、
グラン・トレノをタオにのこしていた。