2019年11月10日

デイリーポータルZでの「ブルボン総選挙」に胸をあつくする

デイリーポータルZに
「ブルボン総選挙」の結果が報告されている。
https://dailyportalz.jp/kiji/bourbon-general-election-2019-results
わたしはブルボンといえばルマンドであり、
ほかにもブルボンがあるとはしらなかった。
すきなブルボンの種類は?
と「デイリーポータルZ」が投票をよびかけたところ
https://dailyportalz.jp/kiji/bourbon-general-election-2019
おおくの票がとうじられ、かなりの接戦となった。
投票によせられたコメントをよんでいると、
ブルボンをすきなひとたちが、どれだけこのおかしにたいし
あついおもいいれをもっているのかがわかる。
自分ではたべなくても、ひとがこんなにも熱意をよせると、
こちらまであたたかい気もちになる。
大丈夫。世界はまだ愛にみちている。

総選挙で1位となったルマンドへのコメントを紹介する。
王道・最強 一生愛します。
しおり

ルマンド、それは至高…。「どうせルマンドが多いでしょう」という選挙にありがちな予告情報操作に負けず、ルマンドに投票します。
ルマンドの里

やっぱりルマンドです。サクサクの軽い食感で、さながら美味しい空気。一度食べ始めるとひと袋空いちゃいます。でも大丈夫。美味しい空気なのでゼロカロリー。
ろはん

カバンの中でボロボロになってしまうなら、カバンに入れる前に食べ切ってしまえばいいのです。
私はルマンドなら1日で30本食べられる。
ぽてこ

死ぬほど好きです。無限に食べられます。
mori

メジャーなものを好きと言うのは少し恥ずかしいですが、いい歳なので堂々と言えるようになりました。ルマンドが好きです。
ようつ

一番人気には賭けない主義なんですが主義を曲げてもやらなくてはならないことがある。それが今!
北の空

こんなに美味い菓子が100円くらいで買えていいのか、時々不安になります。
じお

小さい頃からルマンダーです。本当に大好き。変わり種より純ルマンドが好き。愛しています。
mashirock

これまでの人生、こぼしてきたルマンドのかけらに供養の思いを込めて一票を投じます。
かながわ

Calbeeが菓子界の帝王ならBOURBONは女帝です。ルマンドほど口にまだ入っているのに次の個包装を剥いてしまう菓子に出会った事がありません。控えめに言っても断トツの一位です。
Beercat


「予告情報操作に負けず、ルマンドに投票します。」
「主義を曲げてもやらなくてはならないことがある。それが今!」
なんとはげしく、ストレートで、ただしい愛なのだろう。
これだけの愛をかきたてるブルボンシリーズとはなにものなのか。
きっとわたしはたべたことがある。
でも、こんなに気もちをたかぶらせたおもいはない。

ルマンド以外のブルボンシリーズでは、バームロールにたいし、
好きすぎて他部署に用意してあったのを残業時に完食して問題になったくらい好き!
(レアルマドレーヌ)

どんな「問題」になったのかわからないけど、
そんな行為にまでかきたててしまう、
倒錯的な愛が ルマンドの世界ではふつうにかたられている。
「すき!」という肯定的な気もちは、
すべてをまえむきにとらえるちからをもつ。
ブルボン総選挙によせられた熱意をみていると、
人類は、もうしばらくこのまま平和にすごせるような気がする。

posted by カルピス at 21:25 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月09日

『ホリデイ』家を交換してすごす2週間の休暇

『ホリデイ』(ナンシー=マイヤーズ:監督・2006年・アメリカ)

家をとりかえて休暇をすごした2人の女性のものがたり。
それぞれ恋愛が破局をむかえたのをきっかけに、
環境がかわれば気分もかわるだろうと、
おたがいの家をとりかえて、2週間の「ホリデイ」をすごそうとする。
(以下、ネタバレあり)

ロンドンではたらくアイリス(ケント=ウィンスレット)は、
恋人だとおもい、3年間つくしてきた男性が、
自分とは別の女性と婚約したことでショックをうける。
自分がいいようにもてあそばれていたのをしり、
涙にくれ、しばらくたちあがれない。
ロスにするアマンダも、恋人が浮気していたのをかぎつけ、
家からおいだしてしまった。
アマンダは、「ホーム=エクスチェンジ」のサイトで
アイリスの家をみつけ、アイリスに家の交換をもうしこむ。
かなしみにしずんでいたアイリスは、
気分をかえるのにいい機会だとおもい、アイリスからの提案をうける。

リアリティをもとめるわたしは、
家の交換(ホーム=エクスチェンジ)を提案されてから、
つぎの日にはもう旅だつなんて、
いくらなんでもいそぎすぎにおもえる。
家のどこになにがあるかのひきつぎや、
出発の準備や部屋のかたづけなど、
そんなにたやすく旅だてるだろうか。
かっている犬の世話についてもひとこともふれなかった。
犬の気もちはどうなるんだ。いきおいで交換をいそぎすぎる。

なんだかなー、とあまり気のりしないでみていたけど、
2人の女性が交換さきの家であたらしいであいにめぐまれ、
いきいきとすごしはじめると、画面にひきこまれはじめる。

よかったのは、アイリスが、
ロンドンからわざわざ自分にあいにきた元カレを
みごとにおいかえした場面。
はじめは元カレが自分を必要としてくれたと、
うっかりよろこんでしまうが、けっきょく彼はふたまたをかけ、
いいように自分を利用しようとしているだけだとみぬく。
3年間、さんざんつらいおもいをしてきたうっぷんもふくめ、
「わたしをあまくみないで!」ときつくおいだしてしまう。

近所でしりあったあった老人(引退した有名な脚本家)に、
きみは主役ができる女性なのに、
わき役ばかりやっている、と指摘され、
アイリスは自分が人生の主人公であるのに気づく。
自分をもてあそぶ ろくでもない男にまよわされなければ、
アイリスはやさしく、いきいきと生きていけるひとだ。
自分の気もちそのままを大切に、
まわりのひとたちへ、こころをひらいてかかわることで、
アイリスは自分らしく生きていくつよさを身につけていった。

アマンダは、ロンドン近郊にあるアイリスの家で、
アイリスの兄、グレアム(ジュード=ロウ)とであう。
おたがいに好感をもつものの、休暇は2週間しかない。
ややこしい事態におちいらないよう、
感情のコントロールになやみながら ふたりはひかれていく。
ラストにちかいシーンで、空港へむかうタクシーのなか、
アマンダは、グレアムをおもうあまり、
自分が涙をこぼしているのに気づく。
両親の離婚により、16歳でないて以来、
もう涙をながせないかとおもっていたのに、
感情のしばりをときはなてたことで、彼女は涙をとりもどせた。
おおいそぎでグレアムのもとえとひきかえし、家にはいると、
グレアムもまた涙をこぼしている。
ふたりとも おなじ気もちであいてをつよくおもっていた。

ひとつのカットがながく、会話の場面では
俳優たちのこまやかな表情のうつりかわりをたのしめる。
グレアムの娘ふたりがかわいい。
とくに長女のソフィアは上品なほほえみをうかべ、
自然なあたたかみにあふれている。
彼女をみているだけでいい気分になれた。
ラストは、これ以上ないという大団円。
2組のカップルができあがり、むすめたちもまじえ
にぎやかに大晦日がすごされる。
いくつものであいがあり、彼らはそれをしっかりとらえた。
であいをいかせるかどうかは、
自分がどれだけこころをひらけるかにかかっている。

posted by カルピス at 10:11 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月08日

「フランシーヌの場合」がながれなかった

職場でお弁当をたべる時間に
NHK-FM「歌謡スクランブル」をときどきつける。
この番組は、演歌のながれる確率がきわめてたかく、
演歌の専門番組みたいにおもわれているけど(わたしだ)、
ときどきそうでない曲の特集もくまれる。
きのうがそうだった。
フォーク・ミュージック作品集として、
1960年代から70年代にかけての曲をかけるという。
「結婚しようよ」「私は泣いています」「戦争を知らない子供たち」
など、ふるくて、きいたことのある曲がながれてきた。
「私は泣いています」は、歌詞をひろってみると、
フォークにのせた演歌であり、けっきょく男にあわせようとする
女のうたなのかと、がっかりする。
わたしは「フランシーヌの場合」がかかるのをまっていた。

「フランシーヌの場合」。
しずかなメロディと、「おばかさん」という
なにか かなしそうな歌詞が印象にのこっている。
わたしがすきな『熱気球イカロス5号』(梅棹エリオ)にも、
「フランシーヌの場合」の歌詞を
「イカロス昇天の場合は あまりにもおばかさん」
にかえてうたった、とある。
日本ではじめて熱気球をとばそうという
梅棹エリオさんたちの「イカロス昇天グループ」は
まわりからみると、あるいは ほんにんたちにとってさえ、
「おばかさん」なとりくみにおもえ ぴったりだったのだろう。
1970年に出版されたこの本にのっているぐらいだから、
「1960年代から70年代にかけて」という
「歌謡スクランブル」の特集にあっている気がするけど、
けっきょく きのう「フランシーヌの場合」はかからなかった。

ウィキペディアをみると
1969年3月30日の日曜日、パリの路上でフランシーヌ・ルコント(当時30歳の女性)が、ビアフラの飢餓に抗議して焼身自殺した[2]。3月31の朝日新聞夕刊が小さなスペースでこの外電(AFP)を載せた。

とある。プロテストソングだったのだ。
フランスのうたを日本語に訳してうたったのかとおもっていたら、
作詞・作曲とも日本人による日本製の曲だった。
「フランシーヌの場合」
いまいずみあきら:作詞 郷伍郎:作曲
フランシーヌの場合は
あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は
あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ
フランシーヌ

ユーチューブで新谷のり子さんによる「フランシーヌの場合」をきく。
わかい女性の焼身自殺をしずかにうたわれると、すごくものがなしい。
「私は泣いています」のひとりよがりな歌詞とちがい、
こちらのほうが よほどわたしのむねにせまってくる。

posted by カルピス at 10:18 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月07日

ことしのボジョレー=ヌーボーで、どんな仮装をするかの腹案

まいとしこの時期の記事にかいているのは、
事業所がボジョレー=ヌーボーをくばるとき、
どんなコスチュームをきるかについてだ。

これだけでは、なんのことかわからないだろう。
すこしくわしく説明すると、わたしがはたらく事業所は、
ボジョレー=ヌーボーが解禁される 11月の第3木曜日にあわせ、
この一年間おせわになったひとたちへ、
ボジョレーと鶏肉料理、それに
手づくりの雑貨などをプレゼントしている。
それらをただくばるのではなく、職員2人がペアをくみ、
なんらかの仮装をして家いえをまわる、というきまりが
ことをやっかいにしている。

わたしは、はでな仮装は趣味にあわないので、
デイリーポータルZがとなえてひろまりつつある
地味仮装により、これまでの3回をきりぬけている。
https://dailyportalz.jp/kiji/jimihalloween2019report
1回目はクロネコヤマトの配達人として、
2回目は、家出少女が近所で出没している、
という回覧板をとどけにきた町内のおじさんとして、
3回目は、選挙運動に家いえをまわる
国会議員候補とその秘書という設定で。

国会議員候補は、われながらいいアイデアで、
家をまわったときに 玄関でマニヘストの説明をし、
「ごあいさつ」としてボジョレーを手わたせばぴったりだった。
正直なところ、もうこれでわたしの貧困なアイデアはでつくしており、
つぎはなにをしようかと、プレッシャーにつぶれそうになりながら
この1年をモンモンとしてすごしてきた。
かんがえたところで、なにかおもしろいネタがおちてくるわけはない。
こまっていたところ、ことしのパートナーである女性職員が、
スターバックスの店員への仮装を提案してきた。
ただ仮装するだけでなく、なにかストーリーをくわえ、
必然性のある訪問とプレゼントにしたい。
いま まとまりつつ案は、

「まいとしボジョレーをおとどけしてきましたが、
 ことしはお金がなくなり、ボジョレーではなく
 番茶と白湯しかサービスできなくなりました」

というもの。
徹底的に貧乏な設定にしたらおもしろそうだ。
パリッとしたスターバックスの店員が、
洗練されたしぐさで番茶と白湯を紙コップにそそぎ、
ぞんぶんにのんでもらおう。

そうはいっても、けっきょくはボジョレーをふくむプレゼントを、
たずねた家でおわたしするわけで、
だったら すこしもったいぶってから「なーんちゃって」とわたしたい。
そのひとひねりをどうするか、このところずっとなやんでいる。
のこされた期間は2週間となった。
いろいろ検討し、できるだけあそんでからプレゼントしたい。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

スーパーの魚うりばに、「地雷みたいな店員」がいてたのしい

すこしまえのブログに林雄司さんがかいていた、
「あのファミレスには厨房にとんだ地雷みたいな店員がいる」
http://yaginome.jp/?p=2278
がおかしかった。
味のついてない肉をだすとか、
エビのジュノべーゼなのに、エビがはいってないとか、
とんでもない料理をだすファミレスについての記事で、
「地雷みたいな店員」という表現が気にいった。
そういえば、わたしのまわりでも、
よくにたできごとがおこっている。
ただし、地雷ではなく、ボーナスみたいに
気まえよく値段をつけてくれる ありがたい店員さんだ。

よくいくスーパーの魚うりばをのぞくと、
きのうは、ブリのきり身がパックにはいってうられており、
1きれ・2きれ・3きれと、3とおりのパックをえらべた。
スーパーでよくみかける、あたりまえの光景だ。
でも、この店の魚うりばがありがたいのは、
ときどきボーナスみたいなチョンボがあることで、
この日のブリは、どれだけおおきくても、そして、ちいさくても、
2きれいりのパックは210円だった。
魚なので、肉のようにグラムいくらとは
値段をつけられないのだろうけど、
それにしてもおおきさにちがいがありすぎる。
おおきなひときれは、ちいさなものの2倍ほどあり、
じょうだんみたいにおおきなきり身なので、
はじめは210円がしんじられなかった。
家ではかってみると、1きれ160グラムもある。
「地雷みたいな店員」さんが、めんどくさくて、
きり身の数だけを基準にパックしてくれたのだろう。
ありがたく いちばんおおきなきり身がはいったパックをえらび、
2日ぶんのおべんとうのおかずにする。

この店がときどきチョンボをやらかすのに気づいたのは、
サンマをかったときだった。
2匹いりと1匹うりにパックがわかれ、
1匹うりのパックを2つかえば、2匹いりよりやすくかえた。
サンマのおおきさに差があるならわかるけど、
おなじサイズのものばかりならんでいたので、
あきらかに1匹いりを2つかったほうがとくだ。
それ以来、「地雷みたいな店員」さんが、
チョンボしていないかどうか、
魚うりばをいつもチェックするようになる。

ブリの目の部分がついた おおきなかたまりが
たった1000円でうられていたこともある。
いまおもえば「地雷みたいな店員」さんによるチョンボだろう。
おなじ商品がべつの支店ではずっとたかい値段になっていたので、
まちがえてつけた値札にちがいない。
ありがたく家族の数だけ3つもとめ、
たべごたえのあるおかずにさせてもらった。

たのしい魚うりばにくらべ、肉うりばはおもしろみがない。
グラムあたりの単価をたしかめるくらいしか
客の側にできることはなく、おとくなチョンボにであえない。
魚うりばが、どんな方針で値段をつけているのかしらないけど、
うれのこるより、ぜんぶうれたほうがいいわけで、
あんがいチョンボではなく、大胆なファインプレーの可能性もある。
ちいさなスーパーの、そのまたちいさなうりばに、
たのしい値段がついてないかどうか、
かいものの ささやかなたのしみとなっている。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月05日

『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』ネコずき映画ファンのやつあたり的感想

『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』
(ロジャー=スポティスウッド:監督・2016年・イギリス)

うれないストリートミュージシャンのジョームズのもとに、
1匹のノラネコがあらわれる。
ネコはなぜかジェームスになつき、
ネコ(ボブ)を肩にのせてうたうと、
おおくのひとが興味をひかれ、ふたりは話題のコンビとなる。
要約してしまうと、いかにもベタなはなしになってしまう。
ほんとうは、ジェームズのそだちや、
彼がヘロイン中毒からたちなおるようすなど、
いろんな要素がからまって、教訓のおおい作品なのだけど、
ようするに、ボブのおかげで有名になったミュージシャンのはなしだ。

NHK-FMの音楽遊覧飛行「映画音楽ワールドツアー」をきいていたら、
紺野美沙子さんがこの作品をとりあげ、
「キュン死するほどボブがかわいい」といっていた。
映画のなかでも、ジェームズの演奏をきく観客たちが、
しきりに「かわいいネコ」と表情をやわらげていたけど、
ネコにあまいわたしでも、にわかには賛成しがたかった。
もちろん、すべてのネコはかわいい、
という意味において、ボブはかわいい。
でも、「キュン死」はさすがにおおげさで、
客観的にいうと、ボブは、ホワッツマイケルを
もうすこしぶあいそうにしたようなネコ、というのがせいぜいだろう。
ただ、ハイタッチをするしぐさは、たしかにかわいい。
この作品は、実話をもとにつくられており、
ボブ役のネコは、ほんもののボブがつとめているという。
ボブはジェームズの肩にのりながらも、
ふたりのあいだがらは どこかギクシャクしてみえるのは、
ジェームズは本人ではなく、べつの役者さんがやっているからだろう
(ほんもののジェームズも、ちらっと出演する)。
主演をつとめるルーク=トレッダウェイの演技はともかく、
ネコへのせっしかたは いまひとつで、
ボブは彼にあまりなついていないようにみえる。

ぜんぜん関係ないはなしにうつるけど、
せんじつわがやのココ(ネコ)が右目をあけにくそうにしていた。
目ヤニもでて、あかくはれている。
病院へいくのは、ココにとっておおきなストレスであり、
つれていくわたしも、ココにきらわれたくないので、
できれば病院へはいきたくない。
でもまあ、ほっておけない状況なので、
ココをなだめながら カゴにいれて病院へいった。
角膜が かなりはれているといわれ、目薬を処方される。

家にもどると、いやなおもいをさせたわたしにたいし、
ココが不信感をもつかというと、そんなことはなく、
わるいところをケアしてくれたとわかるようで、
しきりにあまえて からだをすりよせてくる。
もちろん家にかえってきた安心感もあるのだろうけど、
通院により、きずなが一段とふかまったようにわたしはかんじた。

なにがいいたいかというと、
ボブとジェームズは、きびしい試練をのりこえてきたにもかかわらず、
ふたりのあいだに あまり親密な関係がきずけているようにはみえない。
ストーリーはいいし、脚本もよくねられているけれど、
ネコになれた役者さんを起用するべきだったとわたしはおもう。
ジェームズ役のルーク=トレッダウェイに非があるわけではないけど、
さいごまでボブが彼にこころをひらいていないようにみえる。
「キュン死」するほどのかわいさを ボブからひきだせず、
ボブはさいごまで かりてきたネコとしてたたずんでいた。

ハイタッチするネコを肩にのせて歌をうたえば
だれでも人気がでるかというと、もちろんそうはいかない。
肩にのるかのらないか、さらにいえば、
家にいてくれるかどうかも、すべてはネコにかかっている。
ネコはいやなことはしないし、いくらごはんがあっても
じぶんがなっとくできない場所にはいつかない。
ボブとであえたジェームズは、超ラッキーだった。
ただ、ジェームズは、ボブをすてネコとしてお世話したのであり、
であいのとき、もうけようという したごころはなかった。
この作品の教訓をまとめると、ネコを大切にあつかえば、
いいことがそのうちおこるかも、となる。
ジェームズは、ボブとのはなしを本にかき、ベストセラーになった。
家をかい、仕事もえた。
ネコのおんがえし的で、めでたしめでたしのものがたりだ。

posted by カルピス at 22:04 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月04日

『知的生産の技術とセンス』梅棹忠夫さんの業績を適切に評価し、発展させる

『知的生産の技術とセンス』
(堀正岳・まつもとあつし・マイナビ新書)

べつの本をさがしていたら、本棚で本書をみかけた。
よんだおぼえがない。
「はじめに」には、梅棹忠夫さんの
『知的生産の技術』のアップデートをこころみた、とある。
すこしよんでみると、すごくおもしろい。
こんないい本をみつけてラッキーだった、とおもったら、
本文には、いくつも線がひいてある。
おわりの章まで線やらかきこみがあり、
どうやらわたしはすでにこの本をよんでいるようだ。
ブログをしらべてみると、2014年のことだ。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/406237128.html
もういちどよんでみると、記憶にないだけあり、
まるで はじめての読書のようにこころにひびいてくる。
たのしみつつも、がっかりしながらの再読となった。

こんかいよんでみて、アウトプットしつづける意味がこころにひびく。
無名の個人がいくらかの記事をかいたところで、
なにもおこらないようにおもえる。
 しかしここで、とることができる戦略があります。注目を受けなくても、反応がなくても、コンスタントにアウトプットをし続ける。アウトプットのログ(記録)を蓄積し続けるという方法です。

ジョナサンというミュージシャンの活動を例にあげ、
アウトプットをやめずに蓄積することで、
1 しだいに彼のアウトプットが彼の個性を開拓していったこと。そして
2 アウトプットに個性が増えるにしたがってそれを求めている人々が彼を発見した、という2点です。

わたしはまいにちブログに記事をかいており、
「個性を開拓していった」という実感はないけれど、
客観的にみれば、まいにちひとつの記事をかきつづける技術を、
いつのまにか身につけられた、とはいえるだろう。

本書は、梅棹さんの業績にいまいちど光をあて、
けして過去のひとではないとしらしめてくれている。
梅棹さんファンとして、こんなにすばらしい本はないのに、
それをよんだことさえすっかりわすれていたなんて。
はじめにこの本をよんだときの興奮が、
ブログをかきつづけるちからとなった、とおもいたい。

本書が指摘するように、梅棹さんが
『知的生産の技術』で世におくりだしたメッセージは、
世界をかえる影響をあたえている。
私たちは自分たちの知的好奇心や驚きや感動を人に伝えることで、世界がほんの少しでも良い方向に変わるのだと信じようではありませんか。

壮大な事業に参加していることを、こころのささえとしたい。

posted by カルピス at 16:53 | Comment(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月03日

『パーフェクト・ワールド』ケビン=コスナーがぴったりのはまり役

『パーフェクト・ワールド』
(クリント=イーストウッド:監督・1993年・アメリカ)

(以下、ネタバレあり)
仲間とふたりで刑務所を脱獄したブッチ(ケビン=コスナー)は、
たまたまはいった家で、8歳の少年フィリップを人質にとる。
そうなってしまったのも、もとはといえば、
仲間(テリー)のかるはずみなうごきが原因だった。
テリーは、やたらとバカをしでかす根っからの犯罪者で、
ブッチは刑務所にいるときからいやけがさしていた。
いっしょに脱獄したものの、テリーとこのままいるつもりはない。
3人で逃亡するうちに、テリーがフィリップに手をだすと、
ブッチはためらいなくテリーをうちころしてしまう。
じゃまものがいなくなり、ここからは
2人での逃亡へとステージがうつる。
かんたんにテリーをうちころしたからといって、
ブッチが冷酷な悪者かというと、どうもそうではないらしい。

ブッチはなにをかんがえているのかつかみにくい男で、
どこまで本気で、どこからがふざけているのかわからない。
フィリップに38口径の銃をもたせ、
自分がかいものをするあいだ、
車のなかでテリーをみはらせたりもした。
お店でごくふつうにふるまってかいものをしたり、
しりあった家族の車をぬすんでおきながら、
家族おもいの父親を本気でほめたりする。
脱獄し、逃亡をつづける身なのに、
なんであれだけおちついてうごけるのか。
にげているのに、どこかひとごとで、さしせまった危機感がない。
畑で夜をあかすときも、警戒をおこたらない、というしぐさはなく、
ただ気らくにぐっすりねむっている。
冷徹かとおもうとあたたかい人間性もみせるブッチに、
警察は彼の心理をよみきれない。

車での逃亡をつづけるうちに、
フィリップとブッチは だんだん気もちがつうじあうようになる。
ブッチは、フィリップにとってたのもしいおじさんだ。
少年とおじさんがいい関係になる映画はおおい。
最近みただけでも
『ビンセントが教えてくれたこと』
『グラン・トリノ』
そしてこの『パーフェク・トワールド』と、
ひとつのジャンルになっている。
少年が成長する過程で、いっけんまともにはみえないけど、
すじをとおしていきる つよい男が必要なのだろう。

ブッチは、たまたまはいった食堂のおばさんと
うまくいきかけているところをフィリップにみられる。
「キスしてたね。なぜキスを?」
「気もちがいい」
「お尻にキスしてたね?」
「その説明はむつかしい。バカだとおもったか?」
子どもからの質問だからといって、
ごまかさないところがいいかんじだ。

フィリップの家族はエホバの証人の信者で、
そのためフィリップは、これまでクリスマスも
ハロウィンも経験したことがない。
さいごのシーンで、ブッチを包囲した警察は、
フィリップの母親もつれてきた。
犯人を説得するための常套手段なのだけど、
ブッチはハロウィンをフィリップにゆるよう母親に約束させる。
ふつうの犯人が警察ととりひきするような条件、
たとえばにげるための車を用意させたりではなく、
ブッチが気にかけるのはぜんぶフィリップのことだ。
自分が子どものころ、親とのまともな関係がなかったブッチは、
フィリップに、しあわせになってほしいと ねがいをたくす。

ブッチがおさないころに家をでていった父親が、
アラスカから絵ハガキをおくっている。
「パーフェクトワールド」とは、
その絵ハガキにある、うつくしい風景のアラスカのことで、
ブッチはその絵ハガキをだいじにとっている。
脱獄し、人質としてのフィリップをつれ、
ブッチがどこへむかってにげるのかというと、
ほんとはたいしてあてがあるわけではない。
ブッチは、漠然としたイメージから、
とりあえずアラスカへむかっているものの、
本気でアラスカにたどりつけるとはおもっていない。
銃で腹をうたれ、もうにげるちからがのこっていないブッチは、
さいごにこの絵ハガキをフィリップに手わたそうとする。

ラストは、『グラン・トリノ』とよくにている。
イーストウッドの作品に特徴的な、ふかい余韻をのこす。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月02日

「悩みのるつぼ」に登場したエスペラント語がなつかしかった

朝日新聞の土曜日版「be」に、「悩みのるつぼ」という欄があり、
毎週いろいろななやみがよせられる。
今週は、20代の女性が、職場での
「エスペラントハラスメント」をうったえている。
男性の元上司(いまもおなじ職場)が、
エスペラントの「布教」に熱心で、
しつこく自分にすすめてくるのでこまる、という内容だ。
エスペラント語は、国際共通語として、
1887年にポーランド人のザメンホフがつくりだしている。
https://www.jei.or.jp/3pundesiru/
いまは英語が世界共通語のようにおもわれているけど、
これでは英語以外をはなすひとたちにとって不公平となる。
エスペラント語が世界じゅうにひろまれば、
英語など、特定のことばをはなすひとだけがとくをしない。
ことばから世界平等をめざす、とても理想主義的なとりくみといえる。

女性がストレスにかんじるくらい、
エスペラントの勉強にしつこくさそうのだから、
布教というより、わかい女性となかよくしたい、
スケべで無神経なおやじにおもえる。
とはいえ、人工言語であるエスペラント語を、
いまもまだ勉強しつづけているひとがいるのにおどろいた。
しかも、そんな非常識ともいえる熱心さで。
英語やフランス語の勉強に、しつこくさそうひとはいないから、
エスペラントのめざす世界平和への夢が、
そうした布教活動にかりたてるのかもしれない。

わたしが30代前半だったころ、梅棹忠夫さんの影響で、
エスペラント語をすこし勉強したことがある。
エキスプレスという初心者むけシリーズのテキストをかい、
いちおう、さいごの課までつづけた。
地元にある大本教の支部にも連絡してみたけど
(大本教は、エスペラント語に熱心だというので)、
その当時は、あまり活発に活動されていないようで、
勉強の手がかりとはならなかった。

英語やフランス語を勉強する場合、
動詞の変化をおぼえるのがやっかいだけど、
エスペラント語には、いっさい例外がなく、
たとえば現在形はかならず語尾が「as」となり、
過去形では「is」がくる。
この、例外がない、というのが、エスペラント語では徹底されており、
それがどれくらい学習者をらくにするか はかりしれない。
それに、英語やフランス語を勉強するときは、
どうしても こころのどこかかたすみに、屈折した感情がわいてくる。
言語帝国主義に加担するようで、すんなりした気もちでとりくめない。

すぐれた理想をかかげたエスペラント語を、
熱心に布教するひとが現実にいて、
それが新聞の相談コーナーにのるなんて、
すこしだけでもエスペラント語をかじったわたしには、
なつかしさをかんじてしまった。
エスペラントの精神と、あいての気もちをかんがえない
しつこい布教は ほんらい あいいれない。
相談をよんだ読者が、エスペラント語について、
わるい印象をもたなければいいけど。
もしエスペラント語が世界じゅうにひろまれば、
英語を勉強する必要なんてなくなる、
すばらしい世界がまっているのに。

posted by カルピス at 17:37 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月01日

『サマータイム』はだれがうたってもすてきだ

佐藤多佳子さんの『サマータイム』は、
連作短編集で、はなしのなかにピアノがよくでてくる。
一作目でひかれるのが「サマータイム」で、
どんな曲なのかとユーチューブでさがしてみた。
ノラ=ジョーンズがうたう「サマータイム」は
わたしがしっている曲だった。
サム=クックのベストにはいっており、
彼がうたっているので、ジャズだとはおもわなかった。

ユーチューブには、「サマータイム聞き比べ」
というページまであった。
エル=フィッツジェラルドがいいなー、とおもうと、
ジャニス=ジョップリンも、彼女らしくてすてきだ。
彼女がうたう「サマータイム」も、
彼女のアルバムで、これまでなんどもきいていたのに、
「サマータイム」だと気づかなかった。
はじめて「サマータイム」をきいたのは
サム=クックがうたったものだ。
とうぜんききなれており、わたしにとって
「サマータイム」とは彼がうたう曲だった。
でも、それはわたしのかってなおもいこみで、
「サマータイム」は「聞き比べ」がこころみられるほど、
たくさんのひとにうたわれてきた曲のようだ。
それぞれが、自分のうたにアレンジしきっている。
アレンジしきっているので、まるでべつの曲にきこえる。

清志郎がうたう「サマータイム・ブルース」は、
「サマータイム」とはべつの曲だ。
ウィキペディアにはエディ=コクランの曲とある。
清志郎は「原子力はいらない!」と歌詞をかえてうたっている。
わたしはこの曲で日本にある原発が37基(当時)なのをおぼえた。

岸谷香さんの「Unlock the heat」をラジオできいていたら、
「これまでにもっとも衝撃的だった曲は?」
という視聴者からの質問に、岸谷さんがくわしくこたえている。
外国の曲をいくつかあげたあと、
「日本では、やっぱりRCサクセションかなー、
キヨシロウさんにはいろいろと・・」というおしゃべりがあった。
岸谷さんのはなし方に これまでしっくりこず、
ほかに番組がないからなんとなく、というていどにきいていた。
でも、「衝撃的な曲」に、RCの名前をあげてくれたので、
好感度がいっきにたかまる。
岸谷さんは、RCの「よォーこそ」をとりあげ、
「バンドのメンバーを紹介しながら、それを曲にしてしまうなんて
サイコーのアイデアだとおもった」とはなしていた。
ものすごくたくさんのアーティストと、
彼らがうたうものすごくたくさんの曲のなかで、
RCがいちばん衝撃的だった、なんていってくれてすごくうれしい。

posted by カルピス at 22:05 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする