『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』
(ロジャー=スポティスウッド:監督・2016年・イギリス)
うれないストリートミュージシャンのジョームズのもとに、
1匹のノラネコがあらわれる。
ネコはなぜかジェームスになつき、
ネコ(ボブ)を肩にのせてうたうと、
おおくのひとが興味をひかれ、ふたりは話題のコンビとなる。
要約してしまうと、いかにもベタなはなしになってしまう。
ほんとうは、ジェームズのそだちや、
彼がヘロイン中毒からたちなおるようすなど、
いろんな要素がからまって、教訓のおおい作品なのだけど、
ようするに、ボブのおかげで有名になったミュージシャンのはなしだ。
NHK-FMの音楽遊覧飛行「映画音楽ワールドツアー」をきいていたら、
紺野美沙子さんがこの作品をとりあげ、
「キュン死するほどボブがかわいい」といっていた。
映画のなかでも、ジェームズの演奏をきく観客たちが、
しきりに「かわいいネコ」と表情をやわらげていたけど、
ネコにあまいわたしでも、にわかには賛成しがたかった。
もちろん、すべてのネコはかわいい、
という意味において、ボブはかわいい。
でも、「キュン死」はさすがにおおげさで、
客観的にいうと、ボブは、ホワッツマイケルを
もうすこしぶあいそうにしたようなネコ、というのがせいぜいだろう。
ただ、ハイタッチをするしぐさは、たしかにかわいい。
この作品は、実話をもとにつくられており、
ボブ役のネコは、ほんもののボブがつとめているという。
ボブはジェームズの肩にのりながらも、
ふたりのあいだがらは どこかギクシャクしてみえるのは、
ジェームズは本人ではなく、べつの役者さんがやっているからだろう
(ほんもののジェームズも、ちらっと出演する)。
主演をつとめるルーク=トレッダウェイの演技はともかく、
ネコへのせっしかたは いまひとつで、
ボブは彼にあまりなついていないようにみえる。
ぜんぜん関係ないはなしにうつるけど、
せんじつわがやのココ(ネコ)が右目をあけにくそうにしていた。
目ヤニもでて、あかくはれている。
病院へいくのは、ココにとっておおきなストレスであり、
つれていくわたしも、ココにきらわれたくないので、
できれば病院へはいきたくない。
でもまあ、ほっておけない状況なので、
ココをなだめながら カゴにいれて病院へいった。
角膜が かなりはれているといわれ、目薬を処方される。
家にもどると、いやなおもいをさせたわたしにたいし、
ココが不信感をもつかというと、そんなことはなく、
わるいところをケアしてくれたとわかるようで、
しきりにあまえて からだをすりよせてくる。
もちろん家にかえってきた安心感もあるのだろうけど、
通院により、きずなが一段とふかまったようにわたしはかんじた。
なにがいいたいかというと、
ボブとジェームズは、きびしい試練をのりこえてきたにもかかわらず、
ふたりのあいだに あまり親密な関係がきずけているようにはみえない。
ストーリーはいいし、脚本もよくねられているけれど、
ネコになれた役者さんを起用するべきだったとわたしはおもう。
ジェームズ役のルーク=トレッダウェイに非があるわけではないけど、
さいごまでボブが彼にこころをひらいていないようにみえる。
「キュン死」するほどのかわいさを ボブからひきだせず、
ボブはさいごまで かりてきたネコとしてたたずんでいた。
ハイタッチするネコを肩にのせて歌をうたえば
だれでも人気がでるかというと、もちろんそうはいかない。
肩にのるかのらないか、さらにいえば、
家にいてくれるかどうかも、すべてはネコにかかっている。
ネコはいやなことはしないし、いくらごはんがあっても
じぶんがなっとくできない場所にはいつかない。
ボブとであえたジェームズは、超ラッキーだった。
ただ、ジェームズは、ボブをすてネコとしてお世話したのであり、
であいのとき、もうけようという したごころはなかった。
この作品の教訓をまとめると、ネコを大切にあつかえば、
いいことがそのうちおこるかも、となる。
ジェームズは、ボブとのはなしを本にかき、ベストセラーになった。
家をかい、仕事もえた。
ネコのおんがえし的で、めでたしめでたしのものがたりだ。