今週は伊藤理佐さんの回で、
子どものころ、大人は大人だとおもっていたのに、
というはなし。
伊藤さんが保護者の当番活動として、音楽室でおこなわれている
子どもたちの練習につきそっている。
難しい顔している。みかけは50歳、57キロ(秋、肥えた・・・)な、大人だ。しかし、中身は、
(ど、どーしよ、な、なんて言おう)
でいっぱいだった。
演奏の練習がおわり、子どもたちがふりむいて
保護者へおれいの挨拶をするときに、
なにを、どういえばいいのか、に伊藤さんはなやんでいる。
ありがとうございました、とかえすのはおかしいし、
おつかれさまでした、もへんだ。
これから授業へいくのだから「いってらっしゃい」かな、
と伊藤さんはことばをさがす。
この、「大人は大人だとおもっていたのに」は、
わたしにもこころあたりがある、というか
ずっとつきまとっている心境でもある。
子どものころ、30歳をこえた大人は、
みんなそれなりの中身がつまった大人にみえた。
いざ自分がその年代になってみると、
なかみがまったくともなっておらず、
あまりにかわらないのがなさけない。
みかけも年齢も それなりのおとなのはずなのに、
なかみは子どものころとたいしてちがいがない。
成熟してないし、年そうおうのふるまいができない。
そんなことをひとにいっても、みんなそうですよ、
となぐさめられるけど、ほんとうだとはおもえなかった。
でも、伊藤さんの「大人は大人だとおもっていたのに」をよみ、
どうやらほんとに みんな そんなものらしい、と安心する。
ひとのなりふりをみて安心する、
というのが、そもそもなさけないけど。
伊藤さんは、けっきょくどんな挨拶をかえしたか。
「・・・・ざ ぃし た!」
だったのだという。
何も言ってない。でも何か言っている。そこんとこ、ちゃんと大人、だった。
これもまた、「大人」でないことを自覚しているおとなは、
おもわずひざをうつひとことだ。
なにかいわなければならない、でも
つたえたい内容が、具体的にはない。
社会でやりとりされている手紙だって、
おおくはひとことで内容をあらわせるけど、
それでは紙面があきすぎるので、
あたりさわりのないことばをならべているだけだ。
子どもたちへの挨拶は、
「・・・・ざ ぃし た!」でじゅうぶん用をはたしている。
わたしも「・・・・ざ ぃし た!」
がいえるようなおとなに はやくなりたい。
ちなみに、きょう11月23日は、
勤労感謝の日でおやすみなのだという。
もともと土曜日がやすみのひとがおおいきょう、
あえて祝日、しかも勤労に感謝する日として
わざわざ土曜日に設定する意味がどこにあるのか。
いやがらせか、ブラックジョークにしかおもえない。
勤労感謝の日は、ぜったいに土曜日以外でなければならない。
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