2020年01月31日

シーツをあたらしくしたら、生活をととのえられる気がする

シーツをかいかえる。
これまでつかっていたシーツが、
おもにネコたちの活動で さけたりよごれがついてきたし、
わたしの首があたるところは、汗で色がかわっている。
定期的にあらってはいるものの、ながくつかすぎ、よごれがひどい。
そろそろ手ばなすときがきたようだ。
いったん気になると、いいおとなが、
こんなシーツでねるのってどうなんだ、とおもえてきた。
シーツをあたらしくしたら、
生活がいいほうにころがりはじめるような気もする。
丁寧に生きるあかしとしての、きれいなシーツ。

ホームセンターにいくと、
サイズはいろいろあるものの、柄はえらべない。
ふとん屋さんでかったほうがいい商品のようだ。
サイズに自信がなかったこともあり、
税込1000円ほどの、いちばんやすいシーツをかった。
家にかえると、さっそくふるいシーツといれかえる。
やすもののせいか、あまり生活をととのえた感はない。
いちにちの1/3をすごす睡眠に直結するものだから、
もうすこしいいものにすればよかった。
ただ、生活をたてなおすにはシーツから、
というのは、わりといい目のつけどころではないか。
よごれたシーツからは、うるおいのない生活がすけてみえる
(いままでなんの疑問ももたずにねていたのだけど)。

エバーノートで「シーツ」を検索すると、
かとうちあきさんがインナーシュラフについてかいていた。
インナーシュラフとは、
寝袋のうちがわにいれるシーツみたいなもので、
山小屋でとまるときなど、布団のよごれが気になるひとは
インナーシュラフをつかえばいいらしい。
かとうちあきさんは、夏に冷房がききすぎたお店でこまったとき、
はおりものとしてありなのでは、と気づいたという。

そういえば、わたしもインナーシュラフをもっていた。
アウトドアショップで、夏はシュラフではあつすぎるから、
インナーシュラフでじゅうぶん、とすすめられたのだ。
その後たいして出番がないまま、おしいれでわすれられていた。
とりだしてみると、シュラフのかわりになるほど
信頼できるあたたかさはないし、
かさばるうえに500グラムとおもい。
車による旅行でなければ、
こんなものをわざわざもっていく気にはならない。
ただ、夏のむしあつい夜に、ゴザをしいて、
ふとんのかわりにインナーシュラフをはおるのは ありかもしれない。
安宿にいるナンキン虫をふせぐにも役だちそうだ。
いずれにしても、かなりつかい道をえらぶ道具で、
実用にするより ゴッコあそびとしてつかうほうがむいている。
かとうちあきさんが、夏の冷房をきっっかえに、
インナーシュラフのよさに気づいたのは、
道具としてのインナーシュラフが、
きわめて限定的なつかい道しかないのを示唆している。
たいして必要でないけど、夏にはすこし役だつときがあるかも、
というていどの位置づけしかできない道具。
こんなことをかいていたら、野宿がしたくなってきた。
インナーシュラフはもちろんおるすばんだ。

posted by カルピス at 21:41 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月30日

1月が、やたらにながくかんじられるのはなぜだ

いつまでたっても1月がおわらない。
ふつう、1・2・3月は はやくすぎるといわれるのに、
わたしの実感はまったく逆だ。
きのうの「今日のダーリン」に、
糸井さんが「ほんとうに、1月が長い」とかいていた。
1月がながいとかんじるひとも、なかにはいる。

1月は、あたりまえながら「正月」があって、
5日に仕事をスタートした(わたしの場合)。
インフルエンザでねこみ、
沖縄旅行へでかけ、
お風呂のキュートー機がこわれ、
40センチのひもをのみこんだネコのココが5日間くるしみ、
世間ではコロナウィルスのおおさわぎがつづいている。
ついでながら、この4日間はお酒をのんでない(ただほしくなくて)。
これだけたくさんの「スペシャル」があったのに、
まだ1月がおわらない。
きょうとあしたが まだ1月としてのこっている。
いったいどうなってるんだ。

ふつうは、充実した時間をすごしていると、
毎日がはやくすぎていくはずで、
わたしの場合、充実とはちがうけど、
いろんなできごとに翻弄され、あわただしく1月をすごした。
それなのに、いつまでたっても1月なのがしんじられない。
そうおもいながら もう2週間をすごしている。
もっとも、1月をながくかんじるのはことしだけではなく、
まいとしおなじ感想をもっているのだから、
わたしは1月に苦手意識をもっているのかもしれない。
さむさにもよわいので、1月がよけいにながくかんじるのかも。

とはいえ、ことしは暖冬で雪もふらず、いつもの1月とはちがう。
いつもの冬なら さむさと乾燥で 指さきがひびわれてくるのに
ことしはニベアのお世話にならないし、
湯たんぽをつかいたいほどさむい夜もまだこない。
さむさよりも、なにかスペシャルがあると
わたしはよけいにながくかんじるようだ。
なにもない月のほうが、スルスルっとすぎてゆく。
たのしいことをしていたら、すぐに時間がたつのとおなじで、
つらいこと、たとえばインフルエンザやペットの不調があると、
なかなか日がはかどらない。
個人的にも社会的にも さまざまな
負のスペシャルがあったことしの1月は、
いつもよりもさらにながい1月として記憶にのこるだろう。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月29日

『ひとり旅立つ少年よ』まだ12歳なのに、めちゃくちゃハードなロードノベル

『ひとり旅立つ少年よ』(ボストン=テラン・文春文庫)

12歳の少年が主人公のロードノベルと紹介されていた。
主人公が少年のはなしも、ロードノベルもすきだ。
たのしみに本をひらく。
(以下、ネタバレあり)

ロードノベルというと、旅をつうじて
すこしずつかわっていくようすをえがいた、
どこかのんびりしたイメージをもっている。
でも この小説は、少年がおかれている状況がハードすぎた。
自分のペースで旅をするのではなく、
ずっと命をねらわれつづけての逃避行だ。
ただ、ゆきさきだけはきめている。

時代設定は1850年代の後半で、南北戦争がはじまるまえ。
アメリカじゅうが、奴隷制度をめぐってもめている。
主人公は、詐欺師の父親をもつ12歳の少年、チャーリーで、
彼もまた、父親と旅をしながら詐欺の相棒をつとめてきた。
父親の生き方を否定しながら、自分もまた
どうしようもなく よごれた人間だと おもいこんでいる。
チャーリーたち親子は、奴隷解放運動をすすめる伝道師から、
ニューヨークで4000ドルをだましとる。
父親は、チャーリーの上着に4000ドルをぬいこみ、
おってをごまかそうとしたものの、
チャーリーをにがしたところで自分はころされてしまう。
ひとりぼっちになったチャーリーは、
服にぬいこめられた4000ドルを、
もともとつかわれるはずだったミズーリ州の教会へとどけるときめ、
困難なひとり旅を ニューヨークからスタートさせる。

さきほど「状況がハードすぎた」とかいたのは、
この時代のアメリカは、奴隷制度をめぐり
南部だけでなく、全土が混乱した状況におちいっていたからだ。
道理はとおらず、ちからをもったものが、無理をとおす。
チャーリーは、白人なのに、黒人だといったんきめつけられると、
そのながれから のがれられなくなる。
身分証明書が正式でないと いいがかりをつけられ、
奴隷としてとらえられたうえに、奴隷市場で競売にかけられる。
ただ、そんなめちゃくちゃな世のなかにも、
少数ながら ただしく生きようとするひとたちもいる。
チャーリーは、旅さきでであったひとたちにたすけられながら
西にむかう旅をつづける。
おってはきわめてしつこく、いつまでもチャーリーをおいかけてくる。
4000ドルをねらう二人組、奴隷商人、奴隷制度賛成者たち。
いくつものグループが、それぞれにちがう理由から
チャーリーの命をねらいつづける。

さいごの銃撃戦は壮絶だった。
敵も味方も、どんどん銃弾にたおれていく。
チャーリーもギリギリのところまでおいつめられ、
相手を銃でうちころさなければならなかった。
まだ12歳の少年なのに。
自分のためにおおくの命がうしなわれたかなしみと、
人をころしてしまった罪悪感に、
チャーリーはこころがこわれそうになる。
ながく壮絶な旅は、この時代に生きるものにとって、
さけてとおれない必然だった。
チャーリーは、ボロボロになりながら、
ようやく目的地の教会にたどりつく。
父親がだましとった4000ドルを、本来の目的である
奴隷解放運動につかうよう 責任者であるモンゴメリー氏にわたす。

チャーリーは、自分がなしとげたことをほこりにおもいつつも、
けして手ばなしでよろこびにひたってはいない。
 ぼくのいるべき場所はどこなんだろう?それはどこにあって、どうすればそこに行けるんだろう?その問いかけは大きすぎた。今の彼にはとても答えられそうになかった。
 チャーリーは、ビールを飲み、葉巻を吸い、ベンチの上にのせた片脚を折れていない方の腕で抱え、赤と金と白と青の激しい閃光が空いっぱいに広がるのを眺めた。彼のそばにはそんな騒ぎにも動じないストレンジャー(いっしょに旅をしてきた馬)がいた。

チャーリーは、タフな旅にもかかわらず、
つよく、ただしく、やさしいこころをうしなわなかった。
これからもゆくさきざきで、ひとに愛され、
仲間としてしんじられ、いちにんまえにそだっていくだろう。
チャーリーの旅をおわりまでよみおえたとき、
おもくるしかった緊張がとけ、わたしもようやくひとごこちがついた。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月28日

AFC U-23選手権は韓国が優勝

タイを舞台におこなわれたAFC U-23選手権は、
韓国が決勝でサウジアラビアをやぶり 優勝をきめた。
延長戦の後半にいれた1点を韓国がまもりきる。
決勝トーナメントにのこった国の試合をみると、
どのチームも積極的にゴールにむけてせめこんでいる。
そんなことはあたりまえだろう、といわれそうだけど、
これらのチームと日本とのちがいは、技術や戦術よりも、
ゴールへの姿勢にあるようにおもった。

この大会、日本はグループリーグを2敗1分けにおえ、
4チームちゅう4位の成績でやぶれさった。
おなじグループにいたサウジアラビア・シリア・カタールは、
いずれも積極的にゴールをめざし、ちからづくでせめてくる。
ビデオ・アシスタント・レフェリーの運営もわざわいして、
日本にとって、結果も内容も最低な大会となってしまった。
日本は、きれいにせめようとしすぎるのか 迫力がなく、
ゴールをうばえるような気がしない。
U-23というチームをどんなコンセプトでつくりあげるのか、
日本の試合からは なにもつたわってこなかった。
いまのU-23日本代表は、選手たちが自信をうしない、
このままガタガタとくずれてしまいそうだ。
日本をどうたてなおしたらいいのか、わたしにはわからない。
ただ、ゴールにむけた姿勢の差は おおきいようにみえる。
これまでつみあげてきたものをしんじ、
ゴリゴリとゴールへせまる迫力のある攻撃をみせてもらいたい。

決勝の解説は山本昌邦さん。
いつものように、さいごは気もち、みたいなことを
延々とはなすのが このひとの特徴だ。
なか2日のタフな日程、タイのあつさ、
オリンピック出場をかけたプレッシャー。
コンディションがきびしくなればなるほど、
山本さんは得意そうに精神論をふりかざす。
こまかなデーターをもちだすかとおもえば、
けっきょくは気もちのつよいほうがかつ、
みたいなはなしがおおい。
サウジアラビアのサイドバックにいい選手がいて、
山本さんはさかんに彼のすぐれたうごきをもちあげる。
「こういう選手が11人いたら、
 当然つよいチームになるんですけどね」
なんてのたまった。
実況のアナウンサーはスルーする。
あたりまえじゃないか、とわたしは一瞬おもったけど、
かんがえてみれば、ゴールキーパーからセンターフォワードまで、
ひとつのタイプの選手でまかなってつよいチームになるはずがない。
おそらく、ゲームへの理解がふかく、
サッカーをよくしっている選手がそろっていたら、
という意味の発言なのだろう。
メッシが11人いても、イニエスタが11人いても、
サッカーは試合にならない。
いつもながらとはいえ、山本さんの「解説」に
うんざりした大会としても記憶にのこりそうだ。

posted by カルピス at 21:58 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月27日

ネコの誤飲に気をつけましょう

ココの吐き気とゲリがおさまらず、
ごはんをたべる量もへり、げんきはあるものの、
これからどうなるのかと、心配する日が6日目をむかえた。
くらい気もちで朝のトイレそうじをしていたら、
砂のなかからビニールのひもがでてきた。
腸をくぐり、便にまじって でたのにちがいない。
ビニールのひもをあやまってのみこむ危険性は、
このまえいった獣医さんでもいわれていた。
でも、すこしだけどごはんをたべられるし、
ゲリとはいえ便がでていたので、
まさか異物が原因の吐き気だとはおもわなかった。
赤ちゃんがボタンやビー玉をのむ危険がよくいわれているけど、
ネコもまた、あやまってへんなものをのみこみがちだ。

ひもは、ながさをはかると40センチもあった。
のみこむときは、ながいままではなく、
まるめてあったのではないか。
ビニールの袋やひもであそぶのがココはだいすきで、
ビニールの、カサコソした音がすると すぐにとんでくる。
でも、あそぶのがすきだとしても、まさかたべてしまっていたとは。
40センチのひもがお腹にあったのだから、
ココはさぞくるしかっただろう。
たべれば吐く、の状態になって当然だし、
胃腸がつまっているのだから、ゲリになっても不思議はない。
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よくクジラやイルカなどのお腹から、
大量のビニール袋がみつかった、というはなしをきくけど、
そうした動物たちも、ものすごくくるしんでいるのではないか。
便がだせずに、吐いているかもしれない。
わたしの母親が、大腸ガンからの腸閉塞になったとき、
たべものをうけつけなくなり、すこしたべただけで
ものすごく くるしみながら ぜんぶ吐いていた。
ココも、ひもで腸がつまっていたのだから、
どれだけくるしかっただろう。
奇跡的にひもがでてきたからよかったけど、
あのままずっとお腹にあれば、どうなっていたことか。
トイレでひもをみつけたときは、
原因がわかり よろこびながらも、
でてこなかったときのことをおもったら、ぞっとした。

わたしはいつもどうでもいい記事ばかりかいているけど、
こんかいの記事だけは、ネコずきなひとにとって
たいせつな情報となるはずだ。
ネコの誤飲に気をつけること。
ビニールのひもであそばせないこと。
病気でないのになんども吐いたり ゲリをしたら、
誤飲をうたがったほうがいい。
内視鏡をあつかう獣医さんなら、とりだしてくれるそうだ。
でも、なによりも予防に気をくばったほうがいい。
ビニールの袋やひもであそばせないよう注意すること。

ひもを便といっしょにだしたココは、すっかりげんきになった。
さかんな食欲をみせるし、なにかといっては はしりまわる。
テーブルのうえにあがり、おかずをねらう。
なにをしても、げんきをとりもどしたココがかわいい。
ココがいない生活などかんがえられず、
これからも、ココといっしょにすごせるだけでうれしい。
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タグ:誤飲

posted by カルピス at 18:56 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月26日

「わしがなんとかしよう」といえるかどうか

『ルパン三世 カリオストロの城』には
ルパンが肉やチーズにソーセージと、
大量にたべものをかきこむ有名な場面がある。
機関銃でうたれ、ふかい傷をおったルパンが、
はやくからだをもとにもどそうとして、
たべものをもとめたのだ。

ルパンが次元に
「くいものだ!くいものをもってこい!」というと、
次元は「おかゆか?」とききかえす。
大ケガをおい、ついさっきまでねこんでいた人間なのだから、
「おかゆか?」は当然の発想だろう。
でも、ルパンは
血がたりねえ、なんでもいい
ジャンジャンもってこい

という。
とてもおかゆなんかでは、おさまらないかんじだ。
ただでさえ、ひっそりかくれているルパンたちだから、
そうかんたんには食料を用意できない。
「ジャンジャンもってこい」
といわれても次元はこまってしまう。
「そんなこといったってよ」と、とまどっていると、
庭師のおじいさんが
「わしがなんとかしよう」
とひきうけ、ごちそうの山をルパンたちにとどける。
そのごちそうを、ルパンはすごいいきおいで
ぜんぶかきこんでしまう、というのが冒頭の場面だ。

説明がながくなったけど、ああいう場面で
「わしがなんとかしよう」
といってくれるひとの存在がどれほどありがたいか。
なにげないひとことだけど、
おじいさんがひきうけてくれなかったら、
ルパンたちはおわっていた。
仕事でもプライベートでも、メンバーがこまっているとき、
「おれがなんとかするわ」
といえる人間がいたら、どれほどすくわれるか。
そういえる人間でありたいと、ふとおもった。

posted by カルピス at 21:36 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月25日

2020年の2月には、2月なのに土曜日が5回ある

2020年の2月には、土曜日が5回あることに気づいた。
2月なのに5回もあるのは うるう年だからで、
4年にいちどはそういう年がくる。
ただ、それが土曜日なのは、7回にいちどの確率なので、
4×7で28。28年にいちどは、奇跡とまではいかなくても、
すごくめずらしい年といえる。
2月に土曜日が5回ある年は、わたしにはこれがさいごなのでは。
なにか特別なおいわいをしたほうがいいかもしれない。
そしてなによりも、28といえば完全数ではないか。
2020年は、完全数の確率で土曜日が5回あるすごい年なのだ。

28が完全数というのは、
小川洋子さんの『博士の愛した数式』でしった。
完全数とは
その数字自身を除く約数の和がその数字自身に等しい自然数

なのだそうで(28=14+7+4+2+1)、
小説では、江夏の背番号である28と、
完全数である28をきれいにいかしていた。
ほかにも、約数の和が相手の数字となる友愛数など、
数字同士が不思議な関係にある例をあげ、
冷徹で、感情がないとおもっていた数字にも、
うつくしさがかくされているとおしえてくれる。

(220と284は友愛数の関係にあり、
約数の和は、それぞれ相手方の数字である284と220となる。
220:1+2+4+5+10+20+44+55+110=284
220=142+71+4+2+1:284)

2020年は、単純に、そのならびだけでもめずらしい。
ゾロ目だけならいくつもあるけど、
20と20のようなくりかえしとなると、
2020年のまえは1010年で、ウィキペディアによると、
ベトナムに李朝ができた年、とある。 
まだアンコールワットができるまえだから、ずいぶんむかしだ。
そして、2020年のつぎは3030年だけど、
その時代の地球と人類の姿は、想像がつかない。

このまえNHK-FM『トーキング ウィズ 松尾堂』をきいていたら、
「令和2年は子年、ネズミに注目」という内容だった。
ネズミ年なので、ネズミに注目、なんてすごくベタだけど、
いまさらネズミ年をとりあげるだけあって、興味ぶかいはなしだった。
ベタでもなんでも、1月下旬ながら
やりたい企画を 堂々ととりあげる姿勢に好感をもつ。
数字のもつ不思議に感心しながら、
ベタな番組内容もまた、おもむきがあっていいものだ。
けっきょくなんでもよかったりして。

posted by カルピス at 20:34 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月24日

「生きてるだけでまるもうけ」は、ココがいてくれてこそ

いっしょにくらしているネコのココが、
2日まえからなんどもはくようになった。
胃がたべものをうけつけないようで、
たべてもしばらくすると
何回かにわけて、ぜんぶもどしてしまう。
固形物をだしきると、そのうち液体やアワだけになった。
おしっこはでるけど、便はゲリ状態だ。
ネコは、わりとよくはく動物とはいえ、
それが2日つづくのはふつうではない。
ただ、わりと元気があり、わたしの手にじゃれついてくるし、
なでるとノドをならしてくつろいでいる。
毛皮をつまんでもすぐにもとにもどり、脱水症状はない。

きょうの午前に動物病院へつれていく。
獣医さんがみても、よくわからない。
熱はなく、感染症ではなさそうだ。
なにかへんなもの、たとえばプラスチックのヒモなどをたべ、
それが胃にのこっているのかもしれない、といわれる。
腸までいくと、つまってしまい、とりだせないそうで、
いっきにココのからだが危機をむかえてしまった。
まだ腸がつまっていると、きまったわけではないのに、
わるい方向ばかりにかんがえてしまう。
2日まえまでげんきだったココと、
きゅうにおわかれするなんて、わたしにはたえられない。

家にもどり、モンプチの缶詰をあけると
ココは興味をしめしてすこしたべた。
きゅうにたくさんたべると、胃がうけつけないので、
すこしずつにしてください、と先生にいわれている。
すこしでもたべてくれたら、
そしてそれをはかないでいてくれたらうれしい。
胃を保護する薬をもらったので、いやがるココにむりやりほどこす。
わたしにできるのは、神だのみするぐらいだ。
たべたり のんだりしたものが、なんとか胃におさまるようねがう。

動物が病気になると、いつもながら
平凡な日常のありがたさが身にしみる。
「生きてるだけでまるもうけ」な生活をたのしめるのは、
ココをふくめ、家族が「ふつう」にすごせているからだ。
自分のからだなら、自分でなんとかするけど、
ちいさな子や動物の場合、わたしにできるのは
病院へつれていくぐらいしかない。そして、いのる。
病院から家にかえってきたココは、
食欲がすこしもどり、そしてなによりも、
たべたものをはかずにすごしている。
いっしょにおひるねをしたし、
わたしたちが夕食をたべているテーブルにあがり、
料理にちょっかいをかけようとする。いつものココだ。
なによりもしあわせな「いつもとおなじ」に感謝する。

posted by カルピス at 20:31 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月23日

「ラジオマンジャック」に最適なコンディションをのがしてしまった

土曜日の午後4時からはじまる
NHK-FM「ラジオマンジャック」がすきで、
できるだけこの時間はラジオに耳をかたむけるようにしている。
とはいえ、ほんとうのところ、
それほどのぼせてきくほどの、特別な内容でないこともたしかで、
たのしみにしていると、かたすかしをくいやすい。
かるくて、どうでもいい内容がうりの番組だから、
そうした感想をもってしまうのは、
番組づくりが成功している証拠ともいえ、
けして たいくつだとか、つまらない、といっているわけではない。
この番組のためだけに2時間をあけるのは、
すこしもったいないけど、きかないでいるのもさみしい、
みたいなビミョーな関係におちついている。

インフルエンザからなんとかたちなおったあとの土曜日、
ぼーっとした頭をかかえ、年賀状の返事をかいていた。
6時をすぎたころ、つまり番組がおわったころ、
土曜日だから 「ラジオマンジャック」の日では、
とようやく気づく。
やみあがりで、本をよむ気にはなれないものの、
かるい内容のラジオ番組ならぴったり、
というコンディションが。何年にいちどかおとずれる。
ぼんやりと「ラジマン」に耳をかたむけるのが、
サイコーな場面だったのに、みすみす みおくってしまった。
やみあがりにきかなければ、いつきくのだという
不思議な番組をききのがし、はげしく後悔する。
「聞き逃し放送」をしらべても、
「ラジマン」は対象外の番組のようで、
もはやどうにもならない。にがした魚はおおきかった。

そのつぎの週になると、やみあがりの時期をおえ、
「ラジマン」だけのために2時間をあてるには
からだも頭もげんきすぎた。
でも、まえの週にききのがしたくやしさから、
意地になって「ラジマン」に周波数をあわせる。
はたして、番組の内容とわたしのコンディションが一致せず、
本をながめたり、ネットをのぞいたりしながら、
ほとんどうわのそらで番組をきいた。
あんがい、やみあがりに最適、というのは
わたしのたんなるおもいこみにすぎず、
じっさいは、いつきいても、パッとしない番組かもしれない。
やみあがりという、最適な機会をのがし、
「ラジマン」のただしい きき方を、いまだにつかめずにいる。

posted by カルピス at 22:54 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月22日

なんにでも慣れてしまうのは、わるこことじゃないかも

ひとはなんにでも慣れてしまう、とよくいわれるし、
自分でも、不便だとおもっていたことが、
そのうちなんでもなくなり、
ほんとになんでも慣れてしまうなー、と感心していた。
感心する、というより、
おおざっぱな自分にあきれる、というかんじだ。
「ひとはなんにでも慣れてしまう」は、
環境にすぐそまってしまい、自分が大切にしてきたことを、
かんたんに手ばなすようではだめだと、
慣れるのをいましめたことばだとおもっていた。
でも、慣れるって、ほんとうにわることだろうか。

いま、台所の蛇口がうまくはたらかなくなっていて、
バーのうごきにあわせて水がでず、
とめるときも やみくもにバーをうごかす。
水のでかたとバーのうごきに法則性はなく、
そのときどきにより、バーをてきとうにうごかして、
水をだしたり とめたりしている。
たぶん、なかのパッキンがいかれているのだろう。
不便だけど、とにかく水がでるのだから、
いろんなむきにバーをうごかして、ごまかしながらつかっている。

だんだんと、不便になれてきたころ、
こんどはエコキュートに警告の表示がつくようになった。
お風呂にお湯はたまるけど、蛇口から、お湯がでない。
冬の炊事にお湯をつかえないと、かなり手がつめたい。
ネチネチと、いじわるをされているような気がしてくる。
お皿のよごれは、ヤカンのお湯をかければなんとかなる。
でも、手のつめたさには、いつまでも慣れない。

25年まえ、結婚し、アパートでくらしはじめたときは
湯わかし器がなかった。電子レンジもなかったし、
テレビはあっても、アンテナにつながないので
番組はみられず、ビデオ専門の映像機だった。
貧乏を自慢しているのではなく、なくても不便だとおもなかった。
そのときも、食器あらいにはヤカンのお湯をつかい、
それがあたりまえだとおもったし、手のつめたさもおぼえていない。
わかかったせいか、便利なくらしでなくても、平気だった。

30代前半だったわたしは、50代後半になった。
なんにでも慣れて、不便を不便とおもわない
タフな人間のつもりだったのに、
すぐ根をあげる、ヘタレな老人になりつつある。
お湯がでず、水のでかたも安定しない蛇口に、
ただそれだけで つかれてきた。
震災にあい、家をうしなったひとや、
難民キャンプで不自由な生活をおくるひとにくらべ、
ゼロみたいに ささやかな不便でしかないのに、
よわくそだってしまった わたしのこころが、
不便にたえられなくなっている。

冒頭にかいたとおり、「なんにでも慣れる」は、
自分が大切にしてきたことをわすれ、
環境にそまってしまうよわさを
いましめたことばと解釈していた。
でも、慣れて、なんともおもわなくなるのは、
おおざっぱな心理ではなく、タフな精神でないとできない。
いまとなっては、湯わかし器がなくても平気だった
わかいころのわたしをほめてやりたい。
慣れるには、タフさがもとめられる。
まさか、お湯がでない程度で根をあげる
よわい人間になるとはおもわなかった。

posted by カルピス at 22:27 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月21日

大橋悦夫さんの「途切れても、やめなければOK」にはげまされる

何年かまえからエバーノートの分類をやめていて、
ぜんぶ「inbox」にいれたまま ほったらかしている。
記憶力がよわいため、むかしつくったノートには
その内容をぜんぜんおぼえていないものもある。
きょねんのいまごろに、
わたしはいったいどんなノートをつくっただろうか。

エバーノートをのぞいてみると、
シゴタノ!の大橋悦夫さんが、2019年2月の記事で、
ランニングを10年つづけた経験をとりあげており、
感銘をうけたわたしは、記事をクリップして
あたらしいノートにしている。
こまかな内容はおぼえていないけど、
「途切れても、やめなければOK」は新鮮な提案だった。
「途切れても、やめなければOK」
これが習慣を続けるコツなのだ、と。
当たり前に聞こえるかもしれませんが、続かないということは続けようとしているからであり、続いているということは続けなくてもいい(途切れてもOK)と受け入れているからである、というパラドックスがそこにはあるのです。

つづけようとするからつづかなくなる、
というのは盲点だった。
ものすごくひくいレベルからはじめれば、
「つづけよう」とおもわなくても
ストレスなしにとりくみやすい。
そしてわたしの場合、とぎれると、
もうそのとりくみに意味がないようにおもいがちだった。
頭がかってに「おわった」ときめつけてしまう。
とぎれても、おわったのではなく、しつこくつづければいい。

せんじつインフルエンザにかかったとき、
それまで7ヶ月のあいだ、まいにちつづいていた
「みんなで筋肉体操」の連続日数がとぎれてしまった。
ブログなら、熱があっても、無理すれば なにがしかはかけるけど、
はげしいうごきがもとめられる筋肉体操は、
体調をくずしたからだではとてもできない。
でも、4日やすんだからといって、連続記録がとぎれただけで、
体調がもとにもどれば また練習をはじめればいいだけのはなしだ。

筋肉体操のうでたてふせでは、
30秒できるだけはやくうでたてふせをくりかえし、
10秒やすんだあと、こんどは20秒を全力のスピードで、
というメニューがある。
半年のとりくみで、合計の回数がだんだんとふえ、
50回できるようになっていたのに、
インフルエンザのあとでは45回しかできなくなった。
しばらくつづけるうちに、またもとの回数にもどるとおもうけど、
筋力はかんたんにうしなわれ、うしなわれた筋力は、
なかなかもとにもどらないのがわかった。
コツコツつくってきたからだが、
インフルエンザで4日ねこんだ だけなのに、
あっけなくもとにもどってしまった。

でも、大丈夫。
「途切れても、やめなければOK」なのだから。
いきなりもとの回数をめざさなくても、なんにちかやすんでも、
うでたてふせもどきのうごきでも、なんでもいいので、
やめないのが習慣をつづけるコツなのがわかった。
やめなければ、いつか陽はまたのぼる。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月20日

冒険だけでなく、ただの旅行もふたりが基本なのかも

『エベレストには登らない』(角幡唯介・小学館)

角幡唯介さんのエッセイ集『エベレストには登らない』に、
「単独行大国ニッポンの不思議」というはなしがのっていた。
角幡さんのしりあいが、外国の冒険家から
「日本人はどうして単独行ばかり好むんだ?」と
たずねられたはなしを紹介している。
そういえば、堀江謙一さん・植村直己さんなど、
日本でしられている冒険家は、だれもが単独行をこのんでいる。
わたしは、欧米人もまた、基本は単独行かとおもっていたけど、
どうもそうばかりとはいいきれないようだ。
合理的に計画を成功させたいなら、明らかにパーティーで行動したほうが有利なのだ。単独行は何か<深い体験>ができる感じはあるが、明らかに手法としては非効率的なので、文化的にその<深い体験>に日本人ほどの理解を示せない訪米の冒険家は、単独行の非効率性ばかりに目が奪われ、なんでそんなことをするの?という疑問を持つに至るのだろう。

バックパックをかついで貧乏旅行をする人たちを見ても、一人旅の日本人はかなり多いように思う。それにくらべると西洋人の旅行者はだいたい、仲間か恋人を連れて二、三人で旅をしているようだ。これはいったいどういうわけなのだろう。

たしかに、わたしが外国を旅行しているときでも、
目にはいるおおくの欧米人は二人以上でうごいている。
わたしがひとりでさみしいおもいをしているのに、
彼らはグループでたのしそうな声をあげてもりあがっている。
彼女といっしょに旅行できるなんて、単純にうらやましい。
ひとりですごすほうが、よりふかい体験をあじわえるのだから、
旅行はとうぜんひとりがいいと これまでおもいこんでいた。
自分さがしだったり、修行としての旅行ならそれもわかるけど、
いつもひとりにこだわらなくてもいいのでは、とおもいだした。
つれがあったほうが ご飯を注文しやすいし、
間がもてるし、荷物の管理はらくだし、
ホテルやタクシーがわりやすだし、いいことづくめだ。

もちろんだれとでも旅行できるわけではないので、
むりにひととあわせるよりは、ひとりのほうがいい場合もある。
要は、ひとりを当然ときめつけず、
二人で旅行するよさも頭においておけばいい。
せんじつの沖縄旅行は、25年ぶりに配偶者とふたりで旅行した。
やすみがあわない、ということもあったけど、
ひとりがあたりまえとおもっていたから、
これまでは、ためらいなくひとりで でかけてきた。
ふたりでの旅行は、おもいがけず うまくいった。

角幡さんのこのエッセイ集は、
アウトドア雑誌『ビーパル』での連載をまとめたものらしい。
いかにも『ビーパル』らしく、読者の物欲をくすぐろうと、
それぞれのはなしにイラストや写真がついている。
そのうちのおおくが装備に関係する写真で
わたしなんかはつい、どのメーカーなのかが気になった。
ハードシェルに防水チャックをつけるなど、
余計な機能を批判する文章ものっており、角幡さんとしては、
読者の物欲にまで責任はもてないだろう。
しかし、あらゆるジャンルをほりおこし、どこまでもすきまをさがし、
初心者からお金をまきあげようとするアウトドアメーカーの存在を、
『ビーパル』のうしろにかんじてしまった。

posted by カルピス at 21:52 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月19日

震災から25年、長田区をたずねた遠藤さんと重朗

阪神・淡路大震災から25年をむかえた朝、
朝日新聞に「夜廻り猫」がのった。
遠藤さんと重朗がたずねたのは長田区だ。
深谷かおるさんは、そして遠藤さんは、
長田区のひとたちがかかえるかなしみを、
どうすくいあげるだろうか。

25年まえの朝、震災にあった河合さんが
遠藤さんを長田区へ案内しながら当時をふりかえる。
「おっちゃん助けて、パパとママ埋まった」と
おさない姉妹にたすけをもとめられた体験を
河合さんが遠藤さんにはなす。
マンガとしての「夜廻り猫」に、いつものようなひねりはない。
深谷さんは、自分のアイデアをふくらますのではなく、
ただきき役にてっしている。
深谷さんは福島県出身で、東日本大震災のとき、
ふるさとが被災している。
当事者が、震災のときにどんなおもいでいたのか、
深谷さんは耳をすまそうとしている。
深谷さんは、いかに遠藤さんであろうとも、
震災でこころにキズをおったひとたちに
よりそうのは かんたんではないとしっている。

「夜廻り猫」でえがかれるのは、
かなしいおもいをしているひとたちだ。
ストレートにに「かなしい」といえるひとばかりではなく、
こんがらがった「かなしみ」をかかえるひともいる。
遠藤さんは、そのひとがかなしみに気づかなときでも、
そっとよりそうし、反対に遠藤さんが、
なにかをおしえられるときだってある。
17日にのった「夜廻り猫」で、
遠藤さんは「人を助けるのは人なんや」という
河合さんのことばをひきだしている。

遠藤さんをもってしても、震災の事実はデリケートだ。
ワカルだったら、はなしをかるくはできるだろうけど、
あんまりヘラヘラしたわらいではおさまりがつかない。
遠藤さんが、いつものようにきき役にまわるしかなかった。
そして遠藤さんは、震災の事実をかたりつぐ
たいせつな役割をはたした。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月18日

ゲームからエスペラント語という あたらしいうごき

朝日新聞の土曜日版beに
「国際語エスペラントは今」がのった。
英語ばかりがひとりがちしている状況なのに、
いまさらエスペラント語に出番があるのだろうか。
記事では、パソコンゲーム「ことのはアムリラート」
でつかわれているのがまさにエスペラント語なのだという。

このゲームは、
 主人公の少女が、日本とそっくりなのに言葉が通じない異世界に迷い込む

のだそうだ。
異世界のキャラクターが日本語を普通に話すことに疑問をもったのが制作のきっかけ。

とある。
わたしはわかいころに ほんのすこし
エスペラント語をかじったことがあり、
ほんのちょっとしかしらないものほど
おおくをかたりたがる、という原則どおり、
エスペラント語が話題になると、口をはさまずにいられない。
これまでに、このブログでもなんどかかいてきた。
またおなじような内容になるけど、
しつこく、えらそーにエスペラント語をかたりたい。

エスペラント語は、ポーランド人のザメンホフが
1887年につくった人口のことばだ。
いまの社会では、英語が世界共通語のようにおもわれており、
英語を母語とするひとが なにをするにも有利になる。
しかし、それでは公平な関係ではないじゃないか、
という発想がエスペラント語にある。
もしも、だれもが母語のほかに
エスペラント語をはなせるようになれば、
世界じゅうのひととコミュニケーションがとれる。
国際補助語としてのやくわりを、エスペラント語がはたす。
アメリカやフランス、そしてロシアなど、
いくつかのかぎられた国が ことばにおいて徳をするのではなく、
どのことばをつかうひとも平等であれたら、
という平和へのねがいから エスペラント語はかんがえられた。

日本人の外国語べたは おおくのひとにおぼえがあるだろう。
なんねん英語を勉強しても、はなせるようにならない。
外国人は、たとえばフランス人が英語をはなせるようになるのは
比較的かんたんなのにくらべ、
日本人が欧米のことばをまなぶときは、
文法や発音などが日本語とおおきくことなるため、
身につけるためには膨大な時間と努力が必要となる。
エスペラント語は、人工言語とはいっても、
単語のおおくをラテン系のことばからもってきており、
イタリア人は、日本人よりもかんたんにはなせるだろう。
それでもエスペラント語は、
日本人が英語やフランス語を勉強するよりも、
はるかにすくないエネルギーで身につけられる。

エスペラント語がすぐれているのは、
文法がよく整理されており、例外がないところにある。
たとえば動詞の現在形は語尾に「as」がつく。例外はない。
未来形にするには、動詞の語尾を「os」にかえるだけでいい。
過去形は、語尾を「is」にかえる。これもまた例外なしだ。
動詞の原形(不定詞)は語尾が「i」で、
語尾を「o」にかえると名詞となり、「a」すれば形容詞となる。
単語をひとつおぼえたら、動詞と形容詞にも そのままいかせる。
例外ばかりの英語やフランス語を勉強したあとで、
すべて例外がないエスペラント語が、どれほど楽かにおどろいた。
もうひとつエスペラント語を勉強していて気づくのは、
言語帝国主義に加担していない気分のよさだ。
英語を勉強していると、どうしても、いったいなにがかなしくて
おれは英語なんかを勉強しているのかと、むなしさが頭をかすめる。

平和運動や、国際補助語というこころざしはたかくても、
エスペラント語をつかうひとがすくなければ理想におわる。
こんかいの記事で紹介されているように、
パソコンゲームをきっかけにして
わかいひとたちがエスペラント語を勉強するなんて
いぜんにはかんがえられなかったうごきだ。
2012年にはGoogle翻訳の対象にもなったそうだし、
はなし相手もSNAでみつけられる。
ラジオで女性DJが、舌をふくざつにうごかしながら、
ネイティブっぽい発音をしてみせるとうんざりするけど、
だれかが すらすらとエスペラント語をはなしだしたら
英語やフランス語より、ずっとかっこいい。

posted by カルピス at 20:01 | Comment(0) | エスペラント語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月17日

森保一監督にもとめられる仕事のむつかしさを理解し、エールをおくる

タイでおこなわれているAFC U-23選手権で、
日本はグループリーグを2敗1分けにおえ、
まさかのグループリーグ敗退となった。
このふがいない結果に、森保監督への批判があつまっている。
球際のつよさとか、気もちとか、いろいろいわれるし、
たしかに決定機をはずしつづけ、
なかなかうまくいかない試合ばかりだった。
シュートをはずしたのは選手たちだけど、
彼らを起用するのは監督なので、責任はもちろん森保監督にある。
しかし、わたしはこのまま森保監督に、
オリンピックと代表の監督をつづけてほしい。

この大会の結果しだいで、
オリンピックへの出場がかかっている日本以外のチームと、
代表へのアピールの場ではあるものの、
絶対にかたなければならないわけではない日本の選手たちとは、
おかれている状況がちがう。日本はかなりやりにくい立場だ。
タイを舞台とする あつさのなかの大会ということで、
もしも決勝までのこれば、みじかい期間に6試合を体験でき、
東京オリンピックにむけての、
よいシュミレーションとしても期待されていた。
それがまさか3試合でおわるとは。
ただ、あつさが強調されていたけど、
この時期のバンコクは冬にあたり、
あついといっても30℃程度でしかない。
あつさとピッチコンディションはあいてテームもおなじであり、
日本だけがくるしい状況におかれたわけではない。
日本がくるしめられたのは、あつさではなく、
審判のふえであり、VAR制度だった。

とくに3戦目のカタール戦で、田中碧にくだされたレッドカードは、
ありえない判定であり、田中に気の毒だった。
あの場面でのVARは、
レッドカードかどうかをみきわめるものしなかく、
はじめ、いったい主審がなにをしたいのかが わからなかった。
1戦目、2戦目でもVARによるPKをあたえている。
中東の選手は、いつもながらおおげさにたおれる選手がおおい。
日本のほうが被害者でも、相手チームの選手は
平気でピッチにたおれこみ、いたみをうったえる。
田中碧は、それまでうまくボールをさばき、
攻撃のリズムをつくりだしていた。
レッドカードをとられたプレーにしても、
ごくふつうのボール奪取にすぎず、ファウルですらない。
あれでレッドカードなら、中東チームのおもうツボだ。
審判の判定は絶対なのだから、
不用意に誤解をまねくプレーは注意しなければならない。
それが当然とはいえ、この試合の審判はひどかった。
わたしはVARの導入が、試合をつまらなくするとおもっている。
この大会でのVARは、相手チームがじょうずにつかい
レベルのひくい審判が試合をこわした。
日本の準備不足といえるかもしれないけど、
「3試合でPK3本、レッド1枚」は、
審判が一貫してゆるい基準でさばいた結果だ。
日本はいつものようにプレーし、
相手チームは審判の判断基準をうまくいかした。
とはいえ、あんなのサッカーじゃない。

すこしまえの朝日新聞に、一面をさいて森保監督がとりあげられた。
長崎でうまれ そだち、広島でサッカーをながくつづけた経歴が、
森保監督の 平和にむけた あついおもいをそだてている。
代表監督と、平和へのおもいは直接には関係ないとはいえ、
人間としてなにを大切にするかの部分が、
ふかいところでつちかわれている人物として好感をもった。

U-23のチームに結果をもとめられても、
日本サッカー協会には、海外でプレーする選手を招集する権利がなく、
あくまでも選手が所属しているクラブの判断にまかされる。
選手はだしてくれないのに、
結果だけはつよくもとめられるのだから、
オリンピック代表の監督はたいへんだ。
わたしは東京オリンピックに あまり関心がなく、
その意味からはオリンピックでのサッカーがどうなろうと
それほどこだわるつもりはない。
あつめられた選手たちで、ベストをつくした大会にしてくれればよい。
ただ、いま森保監督へむけられている批判は、
協力しないでおいて 結果だけをもとめているようにうつる。
W杯カタール大会と、東京オリンピックの両方について、
結果をもとめるむつかしさがどれだけ理解されているだろうか。
自信をうしなったチームと選手たちをたてなおすのはたいへんだ。
森保監督がおかれている状況のややこしさが認識され、
オリンピックにむけたチームづくりがすすむようねがっている。

posted by カルピス at 21:11 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月16日

沖縄旅行とはなんだったか

正午の便で那覇から伊丹へ。
出発は40分おくれたけど、飛行時間はたったの90分だった。
くるときは、2時間半かかったのに、かえりはずいぶんはやい。
風の影響なのだそうだ。
出雲への便にのりついで、夕方の5時に家へもどる。
3泊4日の沖縄旅行とは、なんだったか。

まず、25年ぶりに夫婦ふたりで でかけた旅行となった。
とくにおおきなトラブルはなく、あぶなげなく、
淡々とすごし、淡々ともどってきた。
この「淡々と」というのが、わかいころはなかなかむつかしく、
新婚旅行からかえってきたカップルが、空港でわかれたりするらしい。
熟年の旅行は逆で、どうしても「淡々と」になってしまう。
よくいえば、あうんの呼吸、というやつだ。
観光地のホテルで、おしゃべりなふたりがいたら不倫ちゅうで、
しずかなふたりはふつうの夫婦、というのをきいたことがある。
わたしたちは、どこからみてもふつうの夫婦だったとおもう。

夫婦ふたりによるひさしぶりの旅行は、
このさき年をかさねたときに、旅行の相棒として、
わたしたちの相性はどうなのかの みきわめとなる。
夫婦として これまで生きのびてきただけあり、
おたがいに心配性なところや、どの観光地へいきたいか、
などのこのみが似ており、わりとすんなり予定をくみたてた。
なにをたべたいか、どこへいきたいかを、
いちいち議論したり、ガマンするのはおたがいにストレスだけど、
なんとなく つぎの方針がきまり、わるくない相棒だったとおもう。
いつもひとりで旅行しているわたしは、
ひとりの自由さとともに、さみしさもまた味わっている。
こんかいは2人で旅行する気らくさをたのしめた。
いきさきが東南アジアの国々だった場合、
配偶者が、どれだけ不便にたえられるかなどはわからないけど、
「おことわり」されたらひとりでいけばいいわけだし。
つぎの旅行では、どこか外国を提案したい。

沖縄でたべた料理は、どれもおいしかった。
沖縄そばもなんどかたべた。
ラーメンとはべつものだとおもえば すんなりたべられる。
おおめにはいっている肉に迫力があった。
空港で大阪への飛行機をまつあいだ、
なんにんものひとが待合室の売店で
沖縄そばをたべているのが目についた。
コーレーグス(トウガラシの泡盛づけ)をたくさんふりかけ、
まよいなく大量のメンを口にはこぶ姿が
板についており、かっこよかった。
沖縄そばがいかにソウルフードなのかをかんじた。

1月でもあたたかく、たべものがやすくておいしい。
たった4日間とはいえ、いごこちのいい場所として
沖縄はいい印象ばかりがのこる。
「沖縄」「那覇」が、漢字でかけるよう練習した。
沖縄のよさに、はじめてふれる、たのしい旅行だった。

posted by カルピス at 21:22 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月15日

沖縄旅行3日目 首里城と国際どおり

朝ごはんをたべると、国頭村にあるホテルから
那覇への移動をはじめる。
きょうまわりたい場所は首里城と国際どおり。
カーナビを首里城にあわせると、2時間ほどでついた。
10月にあった火事で、被害がおおきかったのはしっていたけど、
屋根の瓦がやけてる写真をみていたためか、
まだいくらかの建物はのこっているとおもっていた。
でも、正殿と北殿はすっかりやけて、姿をうしなっている。
おおきな火事だったのを、あらためてしる。
とくに入園料はとられない。30分ほどゆっくりまわる。
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ホテルにはいってからすこしやすみ、国際どおりをめざした。
ホテルから15分ほどあるくとついた。
おみやげ店がのきをつらね、すごくにぎやかだ。
わたしがイメージしていた国際どおりは、
おおきな市場があり、1階のお店でかった材料を
2階でたべられるとおもっていた。
でも、おみやげ店ばかりで、それらしい市場はない。
しばらくあるいていると、
国際どおりを一本はいったところに旧公設市場があり、
そこから150メートルで あたらしくできた市場があった。
アジアのマーケットほどではないけど、
魚や肉がどっさりならんでいる。
さしみのもりあわせを注文し、お店の横でたべた。650円。
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そのあと、ごちゃごちゃいりくんだ
たのしいとおりがあり、せんべろ店がいくつもある。
そのうちのひとつ、「天国酒場」にはいった。
せんべろのシステムが、わたしはよくわからない。
お酒3杯と、つまみで1000円だという。
お酒を3杯なんて、とてものめないとおもっていたけど、
追加のつまみをいくつか注文すると、
ごくふつうにのみきれた。ふたり分で3260円。
沖縄にきてから、炭水化物のおおい食事になっていたため、
ちょうどいい内容の食事で、胃がやすまった。
沖縄でやりたかったことをすべてこなし、
あとはあすの最終日をのこすのみとなった。
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2020年01月14日

沖縄旅行2日目 ヤンバルの森へ

恩納村にあるホテルから、沖縄島北部にある
「ヤンバル学びの森」へむかう。
沖縄島北部は、ヤンバルエリアともよばれ、
ふかい森のひろがる植生になっている。
記録映画「標的の村」では、
米軍機のオスプレーに反対する高江村のひとたちが、
すわりこみをする場面があった。
島根県出身の安次嶺雪音さんも この運動に参加しており、
映画を宣伝するために、松江市にこられていた。
ヤンバルが、どんな森なのかみたくなり、
この旅行でたずねたいとおもっていた。

「ヤンバル学びの森」では、
ほんの700メートルほどの初心者むけ散歩コースをあるく。
これだけでは、ヤンバルのことなどわかるわけがない。
いいホテルにとまってうかれるのではなく、
安次嶺雪音さんが経営する宿泊施設にとまれば、
ヤンバルの森をすこしは体験できるだろう。
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国頭村にもどり、道の駅で昼ごはんをたべていると、
「歓迎FC東京」の のぼりがたくさんたっていた。
FC東京が、この地方でキャンプをはっているらしい。
あとでホテルにはいり、大浴場へいくと
FC東京の選手たちもお風呂にきていた。
この地方は、まわりにあそぶ施設がないため、
選手がサッカーづけになるには いい環境なのだろう。
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とくにすることがないので、午後からは
1時間のドライブで古宇利大橋へでかける。
海のなかを一直線にのびる姿がうつくしく、
ガイドブックではかならず紹介されている。
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【ガイドブックではうつくしい橋だけど】
ただ、自分たちで橋をわたっている最中は、
まったく印象がかわる。
とくになんということのないふつうの橋にしかおもえない。
橋のむこう側につき、すこし角度をつけて橋をみると、
なかなか説得力のある橋へと また姿をかえる。
自分で橋をわたるより、写真でみるほうがうつくしいという
観光地にありがちな橋だった。
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【自分でとおおればただの橋】
夕ごはんは、ホテルのちかくにある海鮮食堂へ。
ちらし丼、にぎり、白魚のバターいためなど、
お腹いっぱいたべて5000円弱だった。
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2020年01月13日

沖縄旅行1日目。恩納村のホテルへ

無事に沖縄旅行がスタートする。
わたしは体調がもとにもどりつつあるし、
配偶者はインフルエンザにかからず朝をむかえた。
飛行機は、予定時刻にとび、出雲空港から伊丹まで30分、
1時間のまちあわせのあと、2時間半の飛行で那覇空港へ。
伊丹空港では、出発ロビーがわからずウロウロしたし、
那覇について 飛行機をおりるとき、
配偶者のカバンと べつのひとのカバンを、
まちがえて もっておりてしまい、
もうすこしでおおごとになるところだった。
旅なれているはずなのに、いつもながら
おちつきのないうごきだ。

那覇空港で、レンタカー事務所へのシャトルバスにのる。
わたしたちには トヨタ・アクアが用意されていた。
ハイブリッドもカーナビも、わたしは はじめてだ。
すべてネットで予約されており、
旅行者にすると すごく便利でうごきやすい。
カーナビにみちびかれ、高速道路を39キロはしって、
きょうの宿泊先であるホテル・モントレ沖縄スパ&リゾートへ。
わたし個人では絶対にとまらないだろう
金のかかったゴージャスなホテルにすこしひるむ。
部屋へ案内してくれた女性に チップをわたそうとすると
にっこりわらってことわられた。

夕ごはんには、ホテルのちかくにある「恩納そば」へ。
ホテルのひとに「沖縄食堂らしいお店」をたずねたら
このお店をおしえてくれた。
わたしは「アグー豚焼肉定食」を、
配偶者は「豆腐チャンプルー定食」を注文する。
どちらも沖縄そばがつき、ご飯はおおもりで1300円ほど。
おいしかったけど、ご飯がおおくてたべきれなかった。
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お店をでたあと、道路ぞいを散歩する。
ほかのお店は観光客相手のはでな店ばかりで、
「恩納そば」でたべられたしあわせに感謝する。
ホテルの部屋にもどり、窓から外をみると、
ばっちり海が目にはいった。
わるくない旅行の1日目となった。

posted by カルピス at 21:00 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月12日

インフルエンザその後

倉下忠憲さんが「シゴタノ!」に
「メモ習慣を始めよう」をかかれていた。
メモが習慣にまで、すぐにはなりにくいので、
なんでもいいから、まずメモしてみませんか、
とさそってくれる。
たとえばダジャレでも。
https://cyblog.jp/38881
そういえば、きのうダジャレをメモしたぞ、
とおもいだす。

「インフルエンザなら、マスクをつけてください!」
「大丈夫です。ネコにはうつりませんから」

わかりにくいとこが気にいってるのだけど、
ダジャレとはいえないかもしれない。

なんでこんなのをおもいついかというと、
病院での対応が、ほんとに不愉快だったから。
インフルエンザだとわかったとたん、
あなたとはおなじ空間にいたくないと、
医者は態度を露骨にかえ、
やっかいな、ひとりの「感染者」にされてしまった。
こういううらみは、なかなかきえないだろう。

インフルエンザは、さいわい3日でよくなり、
なんとか あすからの沖縄旅行にギリギリまにあいそうだ。
インフルエンザにかかっておきながら
「すべて順調だ」なんて、
トランプ大統領みたいなことはいたくないけど、
旅行までの日数をかぞえると、似たような表現になる。
3日でなおして1日のリハビリ。
2日で峠はこえたけど、けして楽な2日間ではなかった。
関節がいたみ、頭はボーッとしたままで
なかなか時計がすすまない。
薬局では、あすには楽になりますから、とわれたのに、
いつまでもあまりにつらいので、
これはべつのタイプのインフルエンザなのでは、
とうたがったりした。
薬を吸引してから1日半たった夜おそく、
からだがすっとむこうの世界から、
こちら側にかえってきた瞬間があった。
生まれかわるというか、膜をスルッとぬけるというか、
これまでに体験したことのない感覚だった。

3日ぶりのお風呂にはいる。
ウェルター級のボクサーがライト級におとそうとして
減量に失敗し、やつれたからだみたいだ(イメージです)。
顔つきも、これが自分とはおもいたくないほどひどい。
3日間でこんなにかわりはてるとは、
インフルエンザがおそろしい病気なのをおもいしる。

posted by カルピス at 19:20 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする