2020年01月11日

土曜日版beにのった「運動してますか」のアンケート 両極端ぶりがすごい

朝日新聞の土曜日版beに
「運動してますか」のアンケートについて
回答がまとめられていた。
これは、週に1回30分以上の運動を
しているか、していないかにより、
まず「はい」が58%、「いいえ」が42%とわけ、
その理由と、どんな運動をどれだけやったかまで
質問をふかめている。

回数についてのこたえで、週に4〜5回のひとが24%、
週に6〜7回のひとがおなじく24%もいるのにおどろいた。
わたしは かなりがんばっても、
週に4〜5回しかランやスイムにとりくめない。
週に4回以上ひとは、ウォーキングをふくめての運動だとおもうけど、
それにしても、ほぼ毎日からだをうごかしているひとが、
48%もいるのはすごい。
やるひとは、やる。極端にやっている。

いっぽう、運動しない、にこたえたひとのなかには、
「まったくしない」というひとが53%もいる。
すごいなーと、ここでまたおどろいたのだけど、
よく数字をみると、「運動をしない」にこたえたひとの、
運動にとりくんだ回数をみると、月に1回とか1年に1回とかがおおい。
けっきょくは、ほとんど「してない」にひとしい実績でしかない。
ひとが4人いたら、そのうち1人は、ほぼまいちにからだをうごかし、
のこりのうち2人は ほとんど運動をしない。
やるひと・やらないひとの両極端ぶりがすごい。
運動をしないひとは、徹底的にからだをうごかしたくないようだ。
そうした生活を、もう何十年もおくっておられ、
それでなんとかなっているのだから、
これからきゅうに 運動への距離感はかわらないだろう。

「運動をしない」理由なんて、いくらでもひねりだせる。
けっきょくは、自分がやりたいかどうかでしかなく、
まわりがどうこういってもしかたない。
それに、運動すればすべてがうまくいくわけでもなく、
そのひとにあったライフスタイルを
ながい時間かけてつくってこられたのだから、
運動をしないひとは、それはそれでありなのだとおもう。

Beのページをめくると、
「中高年の完走、夢ではない」として、
フルマラソンにむけた10ヶ条がのっている。
「シニアにも走れる42.195q」なのだそうだ。
「決意すれば必ず達成する」とある。
シューズえらびでは、日本人トップレベルの選手がはく、
厚底タイプがすすめてある。
これまでは、トップと初心者がはくシューズは別もの、
が常識だったのに、いまはどちらも厚底という時代らしい。
トップレベルがはくシューズというと、ずいぶんたかそうだけど、
「ナイキ 厚底 ランニング」で検索すると、
5000円ぐらいからある(たかいものは4万円以上)。

気になったのは、何歳から「シニア」というシニア問題だ。
わたしのフルマラソンは50歳のときで、
あれはシニアだったのか、中年だったのか。
シニアはジュニアでない、という意味らしく、
厳密な定義はされてないようだ。
40以上をシニア、みたいに、中高年をひとくくりにして
シニアとよぶ場合が日本ではよくみかける。
シニアとよばれるには、なんだか抵抗をかんじがちな
むつかしい年頃の ただなかに いまわたしはいる。

posted by カルピス at 18:20 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月10日

『戦場のピアニスト』

『戦場のピアニスト』
(ロマン=ポランスキー:監督・2002年)

(以下、ネタバレあり)
ポーランドのワルシャワが舞台で、
ユダヤ人を弾圧するドイツ軍は、
ユダヤ人だけの居住地としてゲットーをつくり、
彼らを強制的におしこめる。
主人公は、ポーランドでいちばんというピアニスト、シュピルマンで、
彼はしだいに演奏する場をうしない、強制労働につかされる。
状況はしだいに悪化してゆき、強制労働はきびしさをまし、
かえる便のない列車にそせられて、
どこかへつれていかれるひとたちが続出する。
ソビエト軍が東からせまってくるにつれ、
ドイツ軍はワルシャワの町を徹底的に破壊する。

ポーランドのゲットーが舞台なのは、
『シンドラーのリスト』とかさなっている。
シンドラーは、ユダヤ人をすくおうと、
彼らが貴重な労働力であるとドイツ軍にかけあい、
おおくのひとに人間らしいくらしを保証した。
『戦場のピアニスト』には、すくいがない。
当時のユダヤ人がおかれた状況を、
正確にあらわしているのだろうけど、みていてつらくなる一方だ。

『戦場のピアニスト』は、
カンヌ映画祭でパルムドールを受賞している。
どうもわたしはこの賞と相性がわるく、
これまでに何本もとちゅうでなげだした
(『パルプ・フィクション』など、例外もある)。
このまえも、『スケアクロウ』についていけず、
半分ほどみて あきらめた。
もういいかげんこりて、パルムドール作品はさけたほうがよさそうだ。

ナチスの高級将校といえば、
音楽への造詣がふかいことになっているようで、
この作品でもかくれていたシュピルマンをみつけたドイツ軍の大尉が、
彼に職業をたずね、ピアニストとこたえるシュピルマンに、
なにか演奏するようもとめる。
シュピルマンの演奏をみとめた大尉は、
彼のもとに食料をはこぶようになる。

こまかいことをいわせてもらえば、
『戦場のピアニスト』ではなく、
『戦火のピアニスト』ではないだろうか。

posted by カルピス at 17:58 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月09日

インフルエンザにかかる

きのうから体調がよくないので病院へ。
熱は37度しかなく、のどもいたくない。
でも、関節がいたい。
インフルエンザだといけないので
はっきりさせたかった。

インフルエンザだった。
検査の結果、インフルエンザだとわかると、
お医者さんの態度ががらっとかわる。
マスクをしなくちゃ、ひとにうつらないようにしてください、
玄関にマスクの自動販売機があるので、すぐにつけてくださいと、
うわごとみたいにマスク、マスクと連呼する。
わたしのからだよりも、やっかいな保菌者としてあつかいはじめる。
調剤薬局によっては、インフルエンザのひとがくるのを
制限しているところがあるので、電話で確認してください、
と看護婦さんがいう。
インフルエンザなのだから、しかたないかもしれないけど、
ずいぶんつめたい対応なのでしょんぼりしてしまう。
もっと患者によりそうことばがけがほしかった。

病院のとなりにある調剤薬局へ。
あらかじめ電話で確認したら、
ふつうにきてもらってかまわない、といわれた。
わたしに薬をわたしてくれた女性がすばらしかった。
マスクをつけずに、ふつうのお客さんとして
わたしをあつかってくれる。
「インフルエンザですか、いけんかったね。
 年末からはやっていましたからね」
と、にっこりわらってわたしの気もちをほぐしてくれる。
インフルエンザの治療薬は、粉薬をすいこむやり方にかわっており、
けっこうややこしいそのやり方を ていねんに説明してくれた。
いい対応をうけ、効果のありそうな薬をすいこみ、
なんだかすっかり病気がなおった気がしてきた。
もし薬局で、病院でうけたようなつめたい対応をされたら、
そうとうがっかりしたとおもう。
わたしにできることはすべておえたので、
あとはゆっくりやすむだけだ。
7ヶ月以上、まいにちつづけていた筋肉体操が、
とうとうとぎれてしまった。
ブログだけは こうして細々とつづける。
1月13日からの沖縄旅行までに、なんとしてもなおしたい。

posted by カルピス at 19:44 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月08日

『旅人の表現術』(角幡唯介)にでてきた本多さんと梅棹さん

『旅人の表現術』(角幡唯介・集英社)

角幡さんの『旅人の表現術』をひろいよみしていたら、
本多勝一さんと梅棹忠夫さんが、
べつべつの章でとりあげられていた。
おふたりとも、わたしにおおきな影響をあたえた人物であり、
ここに宮崎駿さんをくわえてかきまぜると、わたしができあがる。
3人とも有名なひとで、実績もすばらしいから、
影響をうけたのならもうすこしましな人間になるはずだけど、
とにかくわたしは「影響をうけた」と かってにおもっている。

本多勝一さんの章では、
角幡さんが大学の探検部にいたころ影響された
「『創造的な登山』とは何か」がでてくる。
わたしも大学生のとき、この冒険論をよんだ。
登山家がエベレストをめざすのは、
これまでにだれものぼったことがないからであり、
いちばんをめざすためにはどんな道具でも、
たとえばヘリコプターをつかってもかまわない、
みたいなことがかかれていて、たいへんに刺激的だった。
当時エベレストのたかさまでとべるヘリコプターはなく、
しかたなく人間があるいてのぼったにすぎない。
機械のちからをかりても ぜんぜんかまわない、
ヘリコプターがわるいのなら、酸素ボンベをなぜつかうのか、
あるいは、自動車をつかっての荷はこびは、
なぜゆるされるのか、という論理にしびれた。

本多さんがかいたどの本を はじめによんだのかはおぼえていない
(小学生のころによんだ『カナダ・エスキモー』をのぞく)。
22歳だったわたしは、本多さんのすべてにいかれ、
芋づる式に本多さんの本をあさり、
本多さんが紹介する本をよもうとした。
『殺される側の論理』
『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』
『中国の旅』
単行本のあとは、エッセイ集『貧困なる精神』にうつる。
とにかく本多さんの本ならどれでもよかった。

梅棹さんの章では、
「自分は本格的な登山をしていない」
というコンプレックスを
梅棹さんがかんじていたと紹介されている。
梅棹さんは亡くなる二年前に、自分の後輩にあたる京都大学学士山岳会の三人の会員と対談を行ったのだが、その対談の後で精神的にひどく落ち込み、ウツに近いような状態になってしまったという。(中略)
「三人と話した後、自分は何度も遠征したけど、本格的な登山をしていないと。それでウツになってしまった」

あれだけの業績をあげてきた梅棹さんでさえ、
ひとに対してコンプレックスをかんじるものなのか。
梅棹さんなら、そこらへんは決着づみなのかとおもっていたのに、
亡くなる2年前、まだウツになるほど おちこむだけの情熱を
登山や探検にむけていたのだからすごい。
わたしには、コンプレックスをかんじるだけの情熱がない。
梅棹さんによるべつの本の影響で、「人生をおりる」生き方を
はやばやと、20代のころからえらぶようになっていた。
それもまたひとつの生き方だと、後悔はしていない。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月07日

大北栄人さんがダンボールでつくった裸婦像に はげしくこころをゆさぶられる

デイリーポータルZは、まえに掲載した記事を、
「再放送記事」として ふたたび陽の目をあてている。
なんねんたっても、おもしろいものはいつまでも色あせない。
きょうは、大北栄人さんによる
「ダンボールで裸婦像をつくると泣けてきました」がのっていた。
https://dailyportalz.jp/kiji/150825194381
デイリーポータルZの記事は、
それぞれライターの特徴がよくあらわれていて、
わたしがしらないジャンルのはなしでも、
たくみに興味をかきたてられていく。
大北さんはわたしのツボをおしまくるライターだ。
この裸婦像づくりの記事もまた、
わたしのこころをはげしくゆさぶった。
わたしはこんなにもトホホな記事がすきだったとは。

そもそも大北さんはなぜ裸婦像を、
しかもダンボールでつくろうとおもったのか。
よくわかんないけどダンボールでいいかな…

このかるいノリが、すべてのまちがいをスタートさせてしまった。
なにもダンボールで裸婦像をつくらなくてもよさそうなのに。
すべてを順序だてて、
裸婦像制作の過程をこまかく紹介しようとおもったけど、
じっさいに記事をよみ、写真をみてもらったほうが
てっとりばやいにきまっている。
裸婦像がしだいに姿をあらわしていく不気味さや、
幼稚園からかえってきたむすめさんが、
つくりかけの裸婦像をみて、かたまっている写真がおかしい。
ダンボールを貼りながら女性の体の正解を探してるのだ。いけないことをしているような気持ちになる。未だ経験したことのないようなものすごい時間である。(中略)
そして女性の記憶がよみがえっては何度も叫ぶ。後悔とはずかしさと懺悔の念がすごい。今、手元に宗教のパンフレットがあったら3つくらい入信していたし、怪しい快眠ふとんなら18枚くらい買っていただろう。

裸婦像をつくるのは、ふだんどこかにしまいこんでいる自分の女性観を
正面からみつめなおすシビアな体験にほかならない。

記事をよくよんでみると、
大北さんがダンボールでなにかをつくるのは
これがはじめてではない。
これまでにもリカちゃん人形づくりをこころみて
最大級のトホホをうみだしたのは、3年まえの大北さん自身なのに。
https://dailyportalz.jp/kiji/121120158417
それでもこりずに裸婦像づくりをおもいたった大北さん。
裸婦像づくりの記事とあわせ、リカちゃんのほうも ぜひよんでほしい。

しあがった裸婦像を、大北さんは しりあいの小野さんにもみせる。
「さわってもいいですよ」と大北さんが声をかけると、
小野さんは胸をさわろうとし、そこで手がとまった。
「こんなものでも……胸をさわろうとするとドキドキするものですね」
小野さんが裸婦像を女性としてみとめてくれた瞬間に
おもわずわたしまで胸をあつくする。
タグ:大北栄人

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月06日

「前畑がんばれ」は、「前畑がんばれ」しかないよなーとおもった。

いまさらながらだけど、『いだてん』をみている。
正月に再放送された総集編だ。
ただでさえテンポがはやいと評判の作品なので、
総集編なると、ますますわけがわからない。
あらすじをおっかける紙芝居みたいだ。

ベルリンオリンピックでは、有名な「前畑がんばれ」がでてきた。
女子200メートル平およぎ。ラストのデッドヒートで、
アナウンサーがなんどもなんども「前畑がんばれ」を絶叫する。
わたしは「がんばれ」がすきではないけど、
あの場面は もう「がんばれ」しかないよな、と納得する。
前畑秀子選手をえんじた上白石さんもよかったけど、
彼女とラストをあらそったドイツ人選手がすばらしかった。
自分は2着だったのに、こころからの笑顔で
「またいっしょにおよぎましょう」と前畑選手にはなしかける。
彼女としても納得のいくレースだったのだろう。

ネットをみると、このときに前畑選手がだした記録は3分3秒6。
その56年後におこなわれたバルセロナオリンピックで
当時中学2年生だった岩崎恭子選手が
おなじく200メートル平およぎで金メダルを獲得している。
タイムは2分26秒65。
中学2年生なのに、おもわずくちをついてでた、
「今まで生きてきたなかで 一番しあわせです」
というコメントが話題になった。

調子よさそうで恐縮だけど、事実なのでおひろめすると、
わたしもまた平およぎを専門とする水泳選手だった。
200メートルのベストタイムは2分46秒4。
100メートルは短距離で、センスとちからの世界だけど、
200メートルとなれば中距離の要素がでてくる。
才能だけでなく、がんばればなんとかなる種目で、
だからわたしは200メートルが専門だった。
女子と男子のかきねをとりはらい、突然ながら、
わたしと前畑選手・岩崎選手の3人で、記録をくらべてみたい。
わたしのタイムは、ちょうどおふたりの記録の
まんなかあたりに顔をだしている。
日本水泳界にのこるふたりの記録と、
なにやら関係がありそうな気が しないこともない。
これもなにかの縁にちがいない。

『いだてん』では、上白石さんのほかにも
俳優さんが水泳選手をえんじている。
ほとんどおよげないひとが、みじかい期間で
クロールをマスターしたはなしもきく。
じょうずに撮影されているせいか、画面をみるかぎり、
それなりの迫力をかんじるおよぎで、
まさか まったくの初心者とはおもえない。

わたしはいまも週1回はプールへかよう。
まえに選手だったとはおもえないフォームとタイムで
ヨロヨロと2000メートルほどおよぐ。
短期間に上達するひともいれば、なだらかに、
でもちゃくじつにおそくなっていく元選手もいる。
水泳はドラマだ。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月05日

『バッド・ジーニアス』タイの秀才による 組織的なカンニングビジネス

『バッド・ジーニアス』
(ナタウット=プーンピリヤ:監督・2017年・タイ)

(以下、ネタバレあり)
タイの高校で、カンニングによる
組織的なビジネスがおこなわれた。
主人公の超秀才少女リンは、あるテストのとき、
こたえをみせて、とたのんできた同級生に、
まよいながらも解答をおしえる。
このはなしがほかの生徒たちにもひろがり、
金をはらうから、自分たちにもカンニングさせてくれとたのまれる。
リンは、ピアノの指つかいでこたえをつたえる方法をあみだし、
おおくの生徒が恩恵にあずかり いい点数をとる。

カンニングビジネスをとりしきるのは、
親が金もちのバカ男子生徒パットと、
彼のガールフレンドである女子生徒グレースで、
彼らはアメリカへの留学基準となるSTICテストにむけ
組織的なカンニングをおもいつく。
リンも自分から時差を利用するアイデアをだし、
彼女と、もうひとりの秀才生徒、バンクのふたりが、
オーストラリアのシドニーでSTICテストをうける。

ピアノの指つかいや、鉛筆にバーコードを印刷してのカンニングは、
みていてけっこう複雑で、わたしには無理なワザばかりだ。
これだけカンニングにかたむけるエネルギーがあるのなら、
自分で勉強すればいいのに、なんてすごく常識的な感想をもった。
なにしろ、リンとバンクには、
STICテストをまず自分のちからでとき、その解答を暗記して、
トイレからスマホで タイにいるパットたちへおくるという、
超人的な能力がもとめられる。
リスクがおおきく、あまりにも危険なつなわたりだ。
ふたりは、金もちたちのことはほっておき、自分の能力によって
奨学金をえたり、留学生になればいいではないかとおもう。

シドニーでのカンニングがばれて、
バンクは留学する権利をうしない、学校も退学する。
しかし彼は、もっともうかる方法をかんがえたからと、
リンをもういちどカンニングにさそう。
なんてこりないやつだというおどろきと、
タイの進学校で、どれだけカンニングが
ふつうにおこなわれているかをおもった。
パットだけではなく、上流階級の生徒たちもぜんぜんこりない。
徹底的にあまやかされてそだった彼らは、
自分のちからでなにかをなしとげようとはおもわない。

映画にえがかれるのは、上流社会でいきるものたちが、
金と地位をたよりに、いつまでも恩恵にあずかるいっぽう、
うまれのまずしいものたちが上流にあがろうとすると、
金もちたちに利用されてしまう タイの社会構造だ。
いい学校にはいるのは金がかかるし、
家での生活を維持するのにも、親のかせぎだけではたりない。
リンは、自分たちを利用する上流階級の生徒たちにたいし、
はじめは自分こそが利用していると納得させてきた。
しかし、カンニングにより バンクがつかまったにもかかわらず、
金もちたちはあいかわらず将来が保証され、無邪気にうかれている。
リンは、いつまでもこりない金もちの生徒たちに愛想をつかし、
最終的には カンニングへのかかわりを社会に告白し、復讐をはたす。

この作品は、中国でのカンニング事件がモデルだという。
でも、試験により将来がおおきくかわる社会では、
おおかれすくなかれ、にたような問題がおきるだろう。
階級社会のタイでも、上流社会でいきぬくために
おそらく日本よりもずっと いい点をとるのが必要で、
そのためにお金をはらい、カンニングという不正がはびこる。

カンニングは、おもてむき、というか
社会的にも ばれたらぜったいにゆるされない犯罪で、
学校や社会は、カンニングをするものにきびしく対処する。
日本の政治家や官僚たちは、
カンニングはしないかもしれないけど、
ちからずくで不正を「なかったこと」にしてしまう。
日本のおとなたちの ひらきなおった態度にみなれると、
タイのカンニングなんて たいしたことにおもえない。
あのひとたちは、自分たちがのあやまちを しらばっくれる。
それでなんとかなるとおもっている 彼らの不道徳なふるまいが、
どれだけひろくふかく社会をきずつけたか はかりしれない。

posted by カルピス at 20:52 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月04日

年賀状にどう対応するか

いつも林雄司さんのことばかりとりあげて恐縮だけど、
ツイッターに林さんの
「『10年使える年賀状素材』がつかえなくなる日が来た」
というのがのっていた。
正確には、上記のツイートに、
「これ描いたのおれ〜」と
林さんがリツイートしたものだ。
https://twitter.com/yaginome/status/1211916838143053824
エトや近況のリストにチェックをいれるやり方で、
(ひっこしました・こどもがうまれました、など)
りっぱに年賀状の役割をはたしている。
印刷されているけど、もともとは手がきなので
あたたかみをかんじるしあがりだ。
西暦のひとけたが空欄になっており、
そこに数字をかきこむだけで10年つかえる。

わたしにとどく年賀状のすべてが印刷されたもので、
「今年もよろしくおねがいします」
くらいが手がきでかきこまれているにすぎない。
なかには、直筆ではなにもたされていないものもある。
だったら、林さんによる「10年使える」年賀状のほうが、
おおまかに近況をつたえるだけ ましかもしれない。

きょねんわたしは年賀状をださなかった。
いつもだと、自分からはかかないものの、
とどいた年賀状には返事をだしていた。
正月をずれると、ごまかすために、
賀状を寒中みまいへと形をかえ、とにかくだした。
それをいっさいやめたのは、なんでだったか、
もう理由をわすれてしまった。
めんどくさかったのだろう。

きょねん返事をださなかったひとからは、
もうことしは年賀状がこないかとおもったら、
あいかわらず義理がたくおくられてきた。
印刷だけの賀状には、返事をやめ、
ひとことでも気もちをかんじられるコメントがあれば
そのうちコピペまみれの寒中みまいをかこう。

posted by カルピス at 20:20 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月03日

自転車で宍道湖を一周する

自転車で宍道湖を一周する。
自転車の番組「チャリダー」がすきで、
なかでもきびしい坂道をこのんでのぼる
「坂バカ」たちのガッツをみならいたいとおもっているのに、
えらんだのは ほぼ坂のないコースだ。
初詣の渋滞をさけると、あまりはしりたいコースがなく、
だったらシンプルにと、宍道湖一周をおもいついた。
screenshot.png
わたしの自転車は、シクロクロスというタイプで、
ドロップハンドルではあるけどロードレーサーでなく、
タイヤの幅は35ミリとふとい。
オフロードをはしるための自転車だ。
でも、わたしはパンクもなおせないヘタレの自転車のりで、
技術も脚力もなく、散歩みたいなスピードでゆっくりすすむ。
出発してすぐに、水筒をわすれたのに気づく。
ひきかえしたくないので、ちかくのセブンイレブンにより、
ジャスミン茶とおやつのカロリーメイトをかう。

宍道湖は、北側も南側も国道がはしっており、
自転車にとって、あまりたのしいコースではない。
自転車専用の道はほとんどなく、
車道にもうけられたわずかなスペースを
車に気をつけながらおそるおそるはしる。
自転車がとおるせまいスペースは、
右側にあったかとおうと、きまぐれに左側にうつったり、
ひどいときは とつぜんうちきりになったりして、
テキトーな道路づくりをうらみたくなる。
せっかく湖のまわりをはしるのに、
水辺をはしるたのしさを ほとんどあじわえない。
qfz-wRNpl9HRqdX9zqZUXaqugRVKZ17aV3UoYuUY82LRvnx-69UJv3hGsdD5VZJi-9br3AdBLShwv4Y9aqcKB8P68VzDBwV41nqURnn6jVhyyllC4CvhvKgtin4AittfOGCq68L1vID054PLyp2B2WXyGFYcPWo3V7NbPylFlYtelmj91buOL1dzBWzI9U3uwuLVNkuarg7Vi1RFdzCAXFKu.jpg
自転車にのりなれていないので、
出発してから2時間たつと、腰がいたくなってきた。
ときどきからだをのばし、だましだましこぎつづける。
そのうち肩もこわばってきた。
けっきょく、宍道湖一周49キロを、3時間半ではしる。
坂がなく、とくにとばしてもいないので、
汗をほとんどかかなかった。
達成感というより、なんとかぶじにかえれたという
やれやれ感がつよい。
きょうみたいに車がおおいコースは、はしっていてこわかった。
わたしは スピードをたのしむタイプではないので、
まわりの景色をながめつつ、のんびりはしりたい。

posted by カルピス at 14:38 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月02日

『極夜行』(角幡唯介)うまくいかなかったから成功した奇跡的な探検

『極夜行』(角幡唯介・文藝春秋)

極地にちかい場所では、白夜といって、
いちにちじゅう太陽がしずまない時期がある。
そして反対に、極夜といって、
いちにちじゅう太陽がのぼらない時期もある。
角幡さんがおこなったこの探検は、到着点をきめ、
そこへむけて旅をするスタイルではない。
極夜の時期に北極圏をさまよい、
ながいあいだ暗黒のもとですごしたのち、
太陽がでたらどんな感想をもつのかを、
角幡さんは体験したかった。

探検本でありながら、病院での出産シーンからはじまる。
角幡さんの奥さんが、はげしい陣痛にたえ
ようやく赤ちゃんがうまれたときのよろこびがつづられている。
探検記でありながら、出産シーンからはじまるって、
いったいなんなのだ、とはじめはしっくりこなかった。
角幡さんは、ただたんに 家族愛をえがくため、
出産を冒頭にもってきたのではもちろんない。
この出産シーンは、のちに重要な気づきをひきだして
最後の章でみごとに回収される。

角幡さんは、ながい旅にひつような食料などの物資を、
何年もかけて3カ所にデポ(貯蔵)してきた。
極夜では、いったん探検をスタートさせると、
暗黒のため、たどるべき方向を正確にはつかめなくなる。
出発した村へもどるためには、数週間を極地ですごし、
太陽がのぼる日がくるのをまつ必要があった。
それまでの期間を生きぬくために、デポしておいた物資は
どうしてもかかせない条件として用意されている。
しかし、あてにしていたそれらのデポが、
ひとやシロクマによって ことごとくあらされていた。
探検は、いっきに危機をむかえ、
もう旅をつづけられないと、角幡さんは、いちどは絶望する。
しかし、それからが ほんとうの意味で、探検のはじまりとなった。
角幡さんは気をとりなおして、北へむけた旅をつづける。
北へ移動し、ジャコウウシをしとめれば、
デポした食料がなくても なんとかうえ死にせず、
数週間をたえしのげるかもしれない。

しかし、ジャコウウシがいるはずの土地をおとずれても、
おもったようには獲物をしとめられない。
食料はしだいにへり、角幡さんと犬の体力が急速におちてゆく。
これまでいっしょにソリをひいてくれた犬を、
ころしてたべることまで角幡さんは計算にいれはじめる。
よみすすめながら、犬の命が気になってしかたがない。
本が出版されているから、角幡さんは生きてかえっている。
でも、犬はどうなんだ。
はやく新鮮な獲物を腹いっぱいたべさせてやりたい、
とおもいつつ、では、獲物の命はうばわれてもいいのかと、
生きぬくうえでさけられない 生命倫理の問題までかかえてしまう。

ようやく太陽のうすあかりをみる日がおとずれる。
もう大丈夫、とおもったのに、
極夜の神さまは、そうかんたんに旅をおわらせてくれない。
天気予報を無視した最大級のブリザードがおそい、
村までもうすこしのところまでたどりつきながらも、
さいごの行程にむけて、スタートがきれない。
犬はうごけなくなり、
テントがふきとばされる寸前までおいこまれる。
ありえないほどのくるしみにまみれながら、
ようやくむかえたラストは感動的だ。

これまで角幡さんによる何冊かの本をよんできた。
しかし、『空白の5マイル』をのぞき、
文章のうまさでごまかしながらも、探検ごっこの印象がつよかった。
なんだかんだいいながら、探検していないとおもっていた。
しかし、この『極夜行』はすばらしい。
デポした資材があらされていたこと、
スタートした直後に六分儀をうしなったことなど、
うまくいかなかったことが、
あとからふりかえると、探検そのものを充実させた。
デポは無駄になったけど、デポにおとずれた旅行や、
食料をたくわえる過程で身につけた さまざまな技術はいきている。
デポにかかわる体験がなければ、角幡さんは、
極夜の地で無残な姿をさらし、探検は失敗していたはずだ。
なによりも、「探検」としてかんがえたときに、
もしデポが無事にのこっていたとしたら、
どれほどインパクトにかけた探検だったろう。
うまくいかなかったことすべてが、探検ぜんたいをみると
奇跡的な成功につながっている。
それらをアレンジしたのは、極夜の神さまにちがいない。
角幡さんは全力で探検にたちむかい、
くるしみぬきながらも 最大限の手ごたえをえる。
すばらしい探検本の誕生だ。

(追記)
「謝辞」に、ウヤミリック(犬)の名前があがっていない。
まずお礼をいうべきは、命の危険をおかし
(たべられるかもしれない、という意味もふくめ)、
極夜での探検に尽力してくれた犬ではないか。
ペットとしての犬ではない、という日本とのちがいを理解しつつ、
ウヤミリックの健闘をたたえたい。

posted by カルピス at 16:04 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月01日

おめでとう ヴィッセル神戸、天皇杯で初優勝

新年のごあいさつを、すらすらいえるような
きちんとした人間ではないので、
ことしもよろしく、ぐらいでゴニョゴニョとごまかし、
なんとなくあたらしい年をスタートさせたい。

元旦といえばサッカーファンにとって天皇杯の日となる。
新国立競技場でおこなわれるはじめての試合でもある。
決勝にのこったのはヴィッセル神戸と鹿島アントラーズ。
神戸はチーム史上はじめてのタイトルにむけ、
そしてビジャのラストゲームでもあり、
いきおいはあきらかに神戸にある。
鹿島は準決勝の長崎戦での苦戦が気になるところ。

試合がはじまると、神戸がボールを支配し
鹿島はフリーキックだけでしかチャンスをつくれない。
前半のうちに、どちらも藤本がらみで神戸が2点をあげる。
1点目はオウンゴールへと記録が訂正されたけど、
2点目も手品をみてるような、不思議な得点だった。
ゴールまえにいた藤本のところにちょうどボールがきて、
シュートというより たまたま足にあたったかんじ。
それがスルスルっとゴールへすいこまれる。
とはいえ、こうやって ゴールまえにいることが
藤本のもちあじでもあり、彼らしい得点ともいえる。
試合のあとでのインタビューで、本人がいったように、
ほんとにラッキーボーイらしい存在だったし、
献身的なハイプレスの守備もみごとだった。

後半にはいると鹿島もシステムをかえてきて
しだいに神戸ゴールへせまってくる。
試合巧者の鹿島だけに、あきらめずにボールをつなぎだすと、
おわれる神戸としては気もちがわるい。
後半の神戸はほぼ防戦いっぽうとなる。
ビジャのプレーをいつみられるかに注目があつまるけど、
神戸のフィンク監督は、圧力をかけつづける鹿島のまえに、
ビジャをピッチにおくりだすタイミングに慎重だ。
アディショナルタイム4分がすすんだころ、
ようやくビジャがピッチにたつ。
かたちがととのったところで 2−0のまま試合がおわる。
鹿島の猛攻を、神戸はよくしのいだ。
神戸にとってはじめてのタイトルであり、
表彰式ではどの選手もさすがにうれしそうだ。
わたしにとっても みごたえのある試合であり、
いちねんのはじまりを、いい気分でスタートできた。

posted by カルピス at 17:01 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする