『極夜行』(角幡唯介・文藝春秋)
極地にちかい場所では、白夜といって、
いちにちじゅう太陽がしずまない時期がある。
そして反対に、極夜といって、
いちにちじゅう太陽がのぼらない時期もある。
角幡さんがおこなったこの探検は、到着点をきめ、
そこへむけて旅をするスタイルではない。
極夜の時期に北極圏をさまよい、
ながいあいだ暗黒のもとですごしたのち、
太陽がでたらどんな感想をもつのかを、
角幡さんは体験したかった。
探検本でありながら、病院での出産シーンからはじまる。
角幡さんの奥さんが、はげしい陣痛にたえ
ようやく赤ちゃんがうまれたときのよろこびがつづられている。
探検記でありながら、出産シーンからはじまるって、
いったいなんなのだ、とはじめはしっくりこなかった。
角幡さんは、ただたんに 家族愛をえがくため、
出産を冒頭にもってきたのではもちろんない。
この出産シーンは、のちに重要な気づきをひきだして
最後の章でみごとに回収される。
角幡さんは、ながい旅にひつような食料などの物資を、
何年もかけて3カ所にデポ(貯蔵)してきた。
極夜では、いったん探検をスタートさせると、
暗黒のため、たどるべき方向を正確にはつかめなくなる。
出発した村へもどるためには、数週間を極地ですごし、
太陽がのぼる日がくるのをまつ必要があった。
それまでの期間を生きぬくために、デポしておいた物資は
どうしてもかかせない条件として用意されている。
しかし、あてにしていたそれらのデポが、
ひとやシロクマによって ことごとくあらされていた。
探検は、いっきに危機をむかえ、
もう旅をつづけられないと、角幡さんは、いちどは絶望する。
しかし、それからが ほんとうの意味で、探検のはじまりとなった。
角幡さんは気をとりなおして、北へむけた旅をつづける。
北へ移動し、ジャコウウシをしとめれば、
デポした食料がなくても なんとかうえ死にせず、
数週間をたえしのげるかもしれない。
しかし、ジャコウウシがいるはずの土地をおとずれても、
おもったようには獲物をしとめられない。
食料はしだいにへり、角幡さんと犬の体力が急速におちてゆく。
これまでいっしょにソリをひいてくれた犬を、
ころしてたべることまで角幡さんは計算にいれはじめる。
よみすすめながら、犬の命が気になってしかたがない。
本が出版されているから、角幡さんは生きてかえっている。
でも、犬はどうなんだ。
はやく新鮮な獲物を腹いっぱいたべさせてやりたい、
とおもいつつ、では、獲物の命はうばわれてもいいのかと、
生きぬくうえでさけられない 生命倫理の問題までかかえてしまう。
ようやく太陽のうすあかりをみる日がおとずれる。
もう大丈夫、とおもったのに、
極夜の神さまは、そうかんたんに旅をおわらせてくれない。
天気予報を無視した最大級のブリザードがおそい、
村までもうすこしのところまでたどりつきながらも、
さいごの行程にむけて、スタートがきれない。
犬はうごけなくなり、
テントがふきとばされる寸前までおいこまれる。
ありえないほどのくるしみにまみれながら、
ようやくむかえたラストは感動的だ。
これまで角幡さんによる何冊かの本をよんできた。
しかし、『空白の5マイル』をのぞき、
文章のうまさでごまかしながらも、探検ごっこの印象がつよかった。
なんだかんだいいながら、探検していないとおもっていた。
しかし、この『極夜行』はすばらしい。
デポした資材があらされていたこと、
スタートした直後に六分儀をうしなったことなど、
うまくいかなかったことが、
あとからふりかえると、探検そのものを充実させた。
デポは無駄になったけど、デポにおとずれた旅行や、
食料をたくわえる過程で身につけた さまざまな技術はいきている。
デポにかかわる体験がなければ、角幡さんは、
極夜の地で無残な姿をさらし、探検は失敗していたはずだ。
なによりも、「探検」としてかんがえたときに、
もしデポが無事にのこっていたとしたら、
どれほどインパクトにかけた探検だったろう。
うまくいかなかったことすべてが、探検ぜんたいをみると
奇跡的な成功につながっている。
それらをアレンジしたのは、極夜の神さまにちがいない。
角幡さんは全力で探検にたちむかい、
くるしみぬきながらも 最大限の手ごたえをえる。
すばらしい探検本の誕生だ。
(追記)
「謝辞」に、ウヤミリック(犬)の名前があがっていない。
まずお礼をいうべきは、命の危険をおかし
(たべられるかもしれない、という意味もふくめ)、
極夜での探検に尽力してくれた犬ではないか。
ペットとしての犬ではない、という日本とのちがいを理解しつつ、
ウヤミリックの健闘をたたえたい。