『バッド・ジーニアス』
(ナタウット=プーンピリヤ:監督・2017年・タイ)
(以下、ネタバレあり)
タイの高校で、カンニングによる
組織的なビジネスがおこなわれた。
主人公の超秀才少女リンは、あるテストのとき、
こたえをみせて、とたのんできた同級生に、
まよいながらも解答をおしえる。
このはなしがほかの生徒たちにもひろがり、
金をはらうから、自分たちにもカンニングさせてくれとたのまれる。
リンは、ピアノの指つかいでこたえをつたえる方法をあみだし、
おおくの生徒が恩恵にあずかり いい点数をとる。
カンニングビジネスをとりしきるのは、
親が金もちのバカ男子生徒パットと、
彼のガールフレンドである女子生徒グレースで、
彼らはアメリカへの留学基準となるSTICテストにむけ
組織的なカンニングをおもいつく。
リンも自分から時差を利用するアイデアをだし、
彼女と、もうひとりの秀才生徒、バンクのふたりが、
オーストラリアのシドニーでSTICテストをうける。
ピアノの指つかいや、鉛筆にバーコードを印刷してのカンニングは、
みていてけっこう複雑で、わたしには無理なワザばかりだ。
これだけカンニングにかたむけるエネルギーがあるのなら、
自分で勉強すればいいのに、なんてすごく常識的な感想をもった。
なにしろ、リンとバンクには、
STICテストをまず自分のちからでとき、その解答を暗記して、
トイレからスマホで タイにいるパットたちへおくるという、
超人的な能力がもとめられる。
リスクがおおきく、あまりにも危険なつなわたりだ。
ふたりは、金もちたちのことはほっておき、自分の能力によって
奨学金をえたり、留学生になればいいではないかとおもう。
シドニーでのカンニングがばれて、
バンクは留学する権利をうしない、学校も退学する。
しかし彼は、もっともうかる方法をかんがえたからと、
リンをもういちどカンニングにさそう。
なんてこりないやつだというおどろきと、
タイの進学校で、どれだけカンニングが
ふつうにおこなわれているかをおもった。
パットだけではなく、上流階級の生徒たちもぜんぜんこりない。
徹底的にあまやかされてそだった彼らは、
自分のちからでなにかをなしとげようとはおもわない。
映画にえがかれるのは、上流社会でいきるものたちが、
金と地位をたよりに、いつまでも恩恵にあずかるいっぽう、
うまれのまずしいものたちが上流にあがろうとすると、
金もちたちに利用されてしまう タイの社会構造だ。
いい学校にはいるのは金がかかるし、
家での生活を維持するのにも、親のかせぎだけではたりない。
リンは、自分たちを利用する上流階級の生徒たちにたいし、
はじめは自分こそが利用していると納得させてきた。
しかし、カンニングにより バンクがつかまったにもかかわらず、
金もちたちはあいかわらず将来が保証され、無邪気にうかれている。
リンは、いつまでもこりない金もちの生徒たちに愛想をつかし、
最終的には カンニングへのかかわりを社会に告白し、復讐をはたす。
この作品は、中国でのカンニング事件がモデルだという。
でも、試験により将来がおおきくかわる社会では、
おおかれすくなかれ、にたような問題がおきるだろう。
階級社会のタイでも、上流社会でいきぬくために
おそらく日本よりもずっと いい点をとるのが必要で、
そのためにお金をはらい、カンニングという不正がはびこる。
カンニングは、おもてむき、というか
社会的にも ばれたらぜったいにゆるされない犯罪で、
学校や社会は、カンニングをするものにきびしく対処する。
日本の政治家や官僚たちは、
カンニングはしないかもしれないけど、
ちからずくで不正を「なかったこと」にしてしまう。
日本のおとなたちの ひらきなおった態度にみなれると、
タイのカンニングなんて たいしたことにおもえない。
あのひとたちは、自分たちがのあやまちを しらばっくれる。
それでなんとかなるとおもっている 彼らの不道徳なふるまいが、
どれだけひろくふかく社会をきずつけたか はかりしれない。