2020年01月08日

『旅人の表現術』(角幡唯介)にでてきた本多さんと梅棹さん

『旅人の表現術』(角幡唯介・集英社)

角幡さんの『旅人の表現術』をひろいよみしていたら、
本多勝一さんと梅棹忠夫さんが、
べつべつの章でとりあげられていた。
おふたりとも、わたしにおおきな影響をあたえた人物であり、
ここに宮崎駿さんをくわえてかきまぜると、わたしができあがる。
3人とも有名なひとで、実績もすばらしいから、
影響をうけたのならもうすこしましな人間になるはずだけど、
とにかくわたしは「影響をうけた」と かってにおもっている。

本多勝一さんの章では、
角幡さんが大学の探検部にいたころ影響された
「『創造的な登山』とは何か」がでてくる。
わたしも大学生のとき、この冒険論をよんだ。
登山家がエベレストをめざすのは、
これまでにだれものぼったことがないからであり、
いちばんをめざすためにはどんな道具でも、
たとえばヘリコプターをつかってもかまわない、
みたいなことがかかれていて、たいへんに刺激的だった。
当時エベレストのたかさまでとべるヘリコプターはなく、
しかたなく人間があるいてのぼったにすぎない。
機械のちからをかりても ぜんぜんかまわない、
ヘリコプターがわるいのなら、酸素ボンベをなぜつかうのか、
あるいは、自動車をつかっての荷はこびは、
なぜゆるされるのか、という論理にしびれた。

本多さんがかいたどの本を はじめによんだのかはおぼえていない
(小学生のころによんだ『カナダ・エスキモー』をのぞく)。
22歳だったわたしは、本多さんのすべてにいかれ、
芋づる式に本多さんの本をあさり、
本多さんが紹介する本をよもうとした。
『殺される側の論理』
『戦場の村 ベトナムー戦争と民衆』
『中国の旅』
単行本のあとは、エッセイ集『貧困なる精神』にうつる。
とにかく本多さんの本ならどれでもよかった。

梅棹さんの章では、
「自分は本格的な登山をしていない」
というコンプレックスを
梅棹さんがかんじていたと紹介されている。
梅棹さんは亡くなる二年前に、自分の後輩にあたる京都大学学士山岳会の三人の会員と対談を行ったのだが、その対談の後で精神的にひどく落ち込み、ウツに近いような状態になってしまったという。(中略)
「三人と話した後、自分は何度も遠征したけど、本格的な登山をしていないと。それでウツになってしまった」

あれだけの業績をあげてきた梅棹さんでさえ、
ひとに対してコンプレックスをかんじるものなのか。
梅棹さんなら、そこらへんは決着づみなのかとおもっていたのに、
亡くなる2年前、まだウツになるほど おちこむだけの情熱を
登山や探検にむけていたのだからすごい。
わたしには、コンプレックスをかんじるだけの情熱がない。
梅棹さんによるべつの本の影響で、「人生をおりる」生き方を
はやばやと、20代のころからえらぶようになっていた。
それもまたひとつの生き方だと、後悔はしていない。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする