2020年02月29日

2月29日は「よけいなこと」をする日

デイリーポータルZで、すこしまえから、
「よけいなこと」の投稿を募集していた。
2月29日を「よけいな日」と位置づけ、
「よけいなこと特集」をくむ。
そうだ。わたしもなにかよけいなことをしなければ。

前回の2月29日、ほぼ日は「さぼる日」を提案していた。
平日だと、さぼる、でいいけど、
今回のうるう年は土曜日、やすみの日だ。
さぼるよりも、「よけいなこと」が きょうにふさわしい。

ふつうだったら、「よけいなことをしない」が
大切だと もてはやされるけど、
あえて「よけいなこと」をするのは気がきいている。
だらだらとテレビをみない、ネットサーフィンをしない、
どうでもいいものをかわない、などが
「よけいなこと」といわれるけど、
2月29日は、それこそがもとめられる おこないとなる。

パッとおもいつたのは、
やすみの日なのに仕事がある日とおなじ時間におき、
お弁当をもって家をでる、というやつ。
すごくよけいだ。
でも、やりたくないことはいやなので、
実行にうつす気にはなれない。
かんがえはじめると、なにがよけいで
なにがよけいでないか、わからなくなってくる。

なかなか候補がさだまらないないまま、
まえの晩、いつもより1時間半はやくねたら、
けさは1時間半はやい5時すぎに目がさめた。
めざまし時計にたよらない自然な目ざめで、
「よけいなこと」をするのに絶好の機会となる。
いや、はやおき自体がすでに「よけい」だ。
そのままベッドをぬけだし、朝ごはんをとる。
けっきょく、はじめにおもいついた
「やすみの日にはやくおきる」におちつきそうだ。
目玉やきとみそ汁をつくり、のこりもののおかずをあたためる。
いつもはつくらないみそ汁を用意する。
いいかんじに「よけいなこと」をしてる実感がある。

ジョギングからもどっても、まだ9時半にしかなっていない。
朝はやくうごくと、いちにちがながい。
レンタルDVDへいった。
『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』
『ボヘミアン・ラプソディ』
をかりる。
「ただくだらない」と絶賛される『ジョニー・イングリッシュ』と、
いまさらながらの『ボヘミアン・ラプソディ』は、
「よけいなこと」っぽい選択な気がする。

いつもはコンビニへいかないわたしだけど、
「よけいなこと」としてローソンにはいる。
「よけいなもの」をさがしながらひとまわり。
そういう目でみると、どれも「よけい」にみえる。
けっきょく鯖味噌缶を2つかった。
ローソンで鯖味噌缶。なかなか「よけい」だ。

NHK-FMの「ラジオマンジャック」をききながら、
こうやってブログをかくのも、すこし「よけい」っぽい。
番組で、このまえ土曜日がうるう日だったのは、
28年まえだった、といっていた。
そんな日に、よけいなことをするのはたしかにだいじだ。

「デイリーポータルZ」をみると、
さすがに気のきいた「よけいなこと」があがっている。
https://dailyportalz.jp/dpq/2020229
どれもそれぞれ いいかんじによけいだ。

posted by カルピス at 16:14 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月28日

1ヶ月まえの平凡な日常がいとおしい

あのころ世界はまだ平和だった。
新型肺炎の名前がまだ一般的でなく、
中国の武漢で かわった病気がひろがっているらしい、
程度の認識しかなかったあのころ。
「あのころ」は、ほんの1ヶ月まえだ。
そして、1ヶ月のあいだに 状況はどんどん深刻になり、
きのうは政府が小・中・高の休校を要請した。
事態がそこまですすんだことにおどろいている。
大規模な感染をふせぐための措置とはいえ
あきらかに異常な雰囲気で、日常がすこしずつとおざかっていく。

「まだ平和だった」は、無責任でよくない表現だ。
いまはもう平和ではないし、このさきもずっと異常事態がつづく、
世界はおわったと、あきらめがさきにたっている。
どんな状況になろうとも、これからも生きていくのだから、
わるい材料ばかりあつめずに、まえをむきたい。

きのうの「今日のダーリン」に、糸井重里さんが
新しく、どんな働き方ができるのでしょうか。
暗くならないように、ほんとの春をたのしみにしながら、
今日のじぶんたちにもちょっと期待してたいと思います。

とかいている。
「ほぼ日」は、予定していたイベントをとりやめている。
それでも、あえて「中止にしましょう」と決めました。
あえてそうしてでも、なんとかこの時期を乗り越えて、
あかるい未来につながりたいと思ったからです。

きのうの「今日のダーリン」には
いつもとちがった環境を、将来の働き方を考えるための
「開発期」と考えて、あかるく試しながらやってみます。
こんな時期も、希望につながる「トライ」にしたいです。

がのった。
この局面でなければできないこと。

わたしがすきな「デイリーポータルZ」は
新型肺炎をまったくスルーしている。
新型肺炎など気配もないパラレルワールド。
なんだかんだと深刻ぶるのではなく、
いつもの平和な日常をたのもしく演出してくれる。
これこそが いまとりたい ただしい態度だ。
なんとかこの時期をのりこえたい。

posted by カルピス at 19:11 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月27日

ウインドウズパソコンの設定に手間どる

職場のクッキー工房でノートパソコンをかう。
4月から食品の成分表示がかわるため、パソコンが必要になった。
わたしはウインドウズパソコンがよくわからないけど、
かいものをたのまれ、ちかくのお店へでかけた。
棚にならんでいるパソコンには、
「1週間まち」「2週間まち」「入荷未定」
などのフダがはられている。
ウインドウズ7からののりかえだけでなく、
中国で新型肺炎がひろがり、いろいろな生産に支障がでているらしい。
できるだけはやくパソコンが必要だったので、
その日のうちにかえるパソコンをえらぶ。
レノボのノートパソコンで、SSDではなく、ハードディスクのせいか、
8万8000円とあんがいやすい。

アカウントなどの初期設定と、
マクロソフトオフィスのインストールに手間どった。
マイクロソフトのアカウントをつくるのに
わたしのメールアドレスをつかおうとしたら、
もうつかわれているのでダメです、とつれない。
ほかの職員の、ドコモのメールアドレスをいれてみたけど、
これもうまくいかない。
なんだかんだで数時間かかり、やっとできたかとおもったら、
こんどはオフィスのプロダクトキーをうけつけてくれない。
ちがうバージョンのオフィスの可能性があります、
なんて表示がでる。
アカウントとパスワードがいくつもできあがり、
メモした紙がゴチャゴチャになってくる。
けっきょく、かったお店にパソコンをもっていった。
パソコンをつかいはじめるのが、
こんなにたいへんだとはおもわなかった。

わたしのパソコンはアップル製のため、
あつかいなれないウインドウズにいらいらした。
ほんとうに、ちょっとしたこと、たとえば
生年月日を入力することさえうまくいかない。
ウインドウズのトラックパッドにもふなれなため、
おす場所によって、右クリックと左クリックの機能があるのにも、
ずいぶんあとになって気づいた。
家にもどり、自分のMacをひらくと、
いつものようになんのストレスもなくあつかえる。
こうしたあたりまえのことが、どれほどありがたいか。
自由とは、このことだったのだ。
わたしが快適に日常をすごせるのは、
かなりの部分、アップルのおかげだった。

そうやって、時間をかけて設定したパソコンなのに、
じっさいにつかうのは、クッキーなどの成分表示だけだ。
ソフトはエクセルだけ。
エバーノートもドロップボックスも関係ない。
そもそもネットにつながないのだから、
完全に事務処理機としてのあつかいで、25年まえにもどったみたいだ。
世間一般でパソコンをつかうといえば、
あんがいこういうやり方が主流なのかもしれない。

posted by カルピス at 22:04 | Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月26日

新型コロナウイルスを差別につなげない

新型コロナウイルスが日本でもはやってきたし、
もともと日本人と中国人のちがいなんて、
ほとんどのひとはみわけできないのだから、
海外にいる日本人が警戒されているらしい。
日本はリスクのたかい国とみられ、日本へいくことも、
日本人がおとずれることも、さけている国がある。
けさの「天声人語」(朝日新聞)では、
(駐在記者が)イスラエルの街を歩くと、「コロナ!」となんども指をさされる。すれ違いざま、さっと口を覆われることも。

というはなしが紹介されている。
日本でも、中国からかえってきたひとたちがいじめられるとか、
豪華客船にのっていたひとや、患者の治療にあたった
医療関係者が差別をうけているという。いやな雰囲気だ。
東日本大地震のとき、福島のひとが
差別されたのをおもいだす。
差別はよくないといいながらも、
おなじことが、なんどもくりかえされる。

フランスとモロッコを旅行したとき、
すれちがいざま「シノワ」と よくからかわれた。
子どもまでバカにした態度をとり、石をなげられたこともある。
それまで差別される経験のなかったわたしは、
からかわれるとすごく腹をたてた。
「シノワ」といわれると、おいかけたり、いいかえたりしたもので、
不愉快なおもいでとして いまでもおぼえている。

サッカーライターの西部謙司さんが、
スペインの「リーガエスパニョーラ」でおきた
久保選手への人種差別をとりあげている。
「悪意がなくても差別は発生する」
https://news.nicovideo.jp/watch/nw6614957
久保はエスパニョール戦の後半20分に交代出場しているが、その際にアップしている久保を呼ぶにあたって、フィジカルコーチが指で両目の端を引っ張って目を細める動作をしていたのだ。「交代出場は日本人だ」と、仲間に伝えるためのジェスチャーだった。

相手チームの選手を差別するのはもちろんよくないけど、
おなじチームの選手にたいし、
「両目の端を引っ張って目を細める動作」、なんてひどいはなしだ。
西部さんは、
これをやったのはマジョルカのフィジカルコーチなので、自分のチームの選手を差別するとは考えられない。リーガも「差別意識はなかった」として、特に罰則は与えなかった。
 しかし、これは人種差別そのものだ。そのつもりがあろうがなかろうが、行為自体がアウトである。むしろ差別意識がなく差別をしているという点で、問題はより根深いのかもしれない。

自民党の議員が、むじゃきに失言をくりかえすのといっしょだ。
「差別意識がなく差別をしている」。

インフルエンザは まいとしのように流行し、おおくの患者がでる。
ひとにうつされるのはいやなので、
セキやくしゃみをするひとは、マスクをつけるのがエチケットだ。
ただ、自分がインフルエンザになったからといって、
だれか特定のひとからうつされたと、非難したりはしない。
おたがいさま、という感覚が、あるていどそだっているからで、
露骨な差別にはつながらない。
新型コロナウイルスは、まだそこまでなじみのある病気ではない。
よくわからないから おそれられるわけで、
これからいろんなことがあきらかになれば、
だんだんと 合理的でおだやかな対応がとられるようになるだろう。
差別や排除ではなく、団結につながるうごきをつくれないものか。

posted by カルピス at 21:40 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月25日

「弁当を3年間作って」うまくなった安藤昌教さんと、うまくならないわたしとのちがい

デイリーポータルZに、安藤昌教さんの
「弁当を3年間作ってわかったこと」がのった。
https://dailyportalz.jp/kiji/my-three-year-history-of-bento
安藤さんのお子さんが中学生になり、
その学校は給食がなかったので、
どうしても お弁当をもたせる必要がでてきた。
それ以来、3年ちかくお弁当をつくっているという。
奥さんも安藤さんも料理をするので、
どちらがお弁当をつくってもよかったけど、
なんとなく安藤さんがなのりでたそうだ。

安藤さんがつくったお弁当の写真が何枚ものっている。
お子さんもたべる弁当なので、量・みばえ・栄養のバランスが
よくかんがえられていて、どれもすごくおいしそうだ。
安藤さんによると、半年まではなかなかたいへんだったけど、
それからはお弁当づくりのスキルがあがったのか、
まったく苦労せずにつくれるようになったという。

わたしも自分のお弁当を、なんねんもつくっているけど、
まいにちおなじようなおかずがならんでいる。
なにもかんがえずにつくると、なんねんたっても進歩はない。
たまごやきと、鶏モモのグリル、
それとスペースをうめるための野菜いため。
ぶあついチーズはかかさない。ご飯のうえに梅ぼしをすこしちらす。
参考までに、写真をのせようともおもったけど、
あまりにもみすぼらしいのでやめた。
もしこのお弁当を、むすこにまいにちもたせたら、
きっと苦情があがってくるだろう。
自分がたべる弁当だから、たのしみがなくても平気だ。
よりおいしく、とか、よりみばえよく、なんておもわない。
料理をするたのしみとか、お弁当をつくりあげた達成感はない。
あるていど満腹感があじわえ、昼ごはんとしてのカロリーを、
確実にとりこめたらそれでいいという弁当だ。

デイリーポータルZのべつの記事で、
編集担当の古賀及子さんが
わたしの作る弁当はいつも手抜きだ。

とことわったうえで、自分のお弁当づくりをあきらかにしている。
https://dailyportalz.jp/kiji/180424202693
・炊けたご飯を弁当箱につめて塩昆布をふる
・冷凍庫にあるなんらかのおかずをレンジで解凍して弁当箱につめる
・冷蔵庫にある昨晩ののこりを弁当箱につめる
・プチトマトを詰める
これが私の弁当作りの全貌である(大声)。
こんなにも明らかになって意味のない「全貌」がかつてあっただろうかという全貌だが、事実なので胸をはって大声で言った。

わたしのお弁当づくりも、こころがまえは古賀さんといっしょだ。
みばえのためにプチトマト、という発想はないので、
ぜんたいに黄色っぽい、地味なお弁当をまいにちもっていく。
手間をかけるつもりはないし、まいにちおなじメニューでもいい。
お弁当箱が、なにかでうまっていればだいたいOKだ。

安藤さんとわたしのお弁当は、なんでこんなにちがうのか。
ひとにたべさすかどうかが、ひとつのポイントだろう。
わたしも、もしむすこがたべるお弁当なら、
もうすこしなんとか工夫したとおもう。
そのつみかさねで、しだいにうでをあげ、
3年たてばそれなりのテクニックを身につけたのでは。
ただ、わたしはひと手間かけるのがきらいで、
そのうえ料理のレシピをまもれないから、
おのずと限界がすぐにおとずれ、
けっきょくはいまとたいしてちがわない
トホホ弁当においついていたと予想する。
お弁当なんて、それでじゅうぶんだとわたしはおもう。
タグ:お弁当

posted by カルピス at 20:38 | Comment(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月24日

『わが母なるロージー』カミーユ三部作の番外編 みじかめだけど傑作

『わが母なるロージー』
(ピエール=ルメートル・文春文庫)

カミーユ警部の三部作
『悲しみのイレーヌ』『その女アレックス』『傷だらけのカミーユ』
はどれも第1級の作品だった。
『わが母なるロージー』は、
作者がいちどだけカミーユを復活させた番外編だ。
カミーユ警部シリーズを4冊にするつもりはなく、
3冊半、とルメートル自身が序文にかいている。
本文は212ページとうすく、
ミステリーの世界にどっぷりつかるたのしみはないものの、
ルメートルのうまさに 気もちよくのせられる。
ルメートルには、よみ手をおもうままにあやつるちからがある。
細部までコントロールのきいたストーリーを堪能した。
ものがたりは、時間の経過をおって、一直線にすすんでいく。
シンプルでわかりやすく、それなのに、
よみおえたときのおどろきは格別だ。

パリで爆破事件がおこる。さいわい死者はでなかった。
犯人とおもわれる男を目撃した女性がいて、
彼女はありえないほどひとの特徴を記憶する能力がたかかった。
ひとめみただけの男を、このひとにまちがいないと証言し、
警察が確認したところ、本当に犯人を識別していた。
ものごとがこれほどスムーズに進むことはめったにない。

えらくかんたんに犯人がみつかり、なんだか拍子ぬけだ。
でも、もちろんそんなにうまくいくわけがない。

警察に、爆弾をしかけたのは自分だと、男がたずねてくる。
こういう場合、たいていはでたらめで、
ひとさわがせがめあてにきまっている。
でも、この男の場合はほんとうに犯人だった。
彼はジャンとなのる。
さきほどのべた女性が「あの人です!」といった男だった。
ジャンは、カミーユとしかはなさない、といい、
交渉の相手にカミーユを指名する。
彼は、爆弾を7つしかけたという。
そして、これからまいにちひとつずつ爆破する。
彼の要求は、刑務所にはいっている母親、ロージーの釈放と、
ふたりのあたらしいID、そして500万ユーロだ。

爆破とひきかえに大金を要求する。
よくあるはなしであり、もちろん国も警察も同意しない。
男をなんとかおもいとどまらせるしかない。
しかし、カミーユが理屈でおしても、テロ対策班がしめあげても、
ジャンは爆弾をしかけた場所をあかさない。

 部屋に不気味な緊迫感が漂いはじめた。
 ジョゼフ=メルラン通りについての供述が真実だとれば、それ以外の話も真実味を帯びてくる。つまりこれからまだ六つの爆破事件が起こりうる。

それまでにおきた爆発をしらべるうちに、
ジャンは被害者がでない時間をねらったか、
爆発するまえに発見されるよう、計算しているのにカミーユは気づく。
カミーユは、ジャンがみずしらずの人間を
金のためにころすとはおもえなくなる。
ジャンと母親の関係に、なにかがまだかくされている。

カミーユは、なにかがおかしいと、とまどっている。
自分たちは、なにかをみおとしている。
カミーユは、ジャンとロージーの釈放を提案し、
ふたりが空港へむかえるよう手配しながら、
まだなにか予想外のことがおきると予感している。
そうしてむかえたラストには、まったくおどろかされた。
ジョンは、金めあてとおもわすことで、
犯行の目的をさいごまでかくしとおしていた。
気がよわく、頭もにぶいときめつけていたジャンなのに、
けっきょくは さいごまでカミーユのうごきをよんでいた。

みじかめの本なので、これまでのシリーズでいい味をだしていた
ケチなアルマン刑事はでてこないのがすこし残念だ。
本書では、できすぎな部下ルイだけがカミーユをささえる。
ネコのドゥドゥーシュは、いつものように気むずかしい性格だ。
夜おそくカミーユが家にもどると、
自分をほったらかしたカミーユに腹をたて、しばらく無視する。
「まあいい、好きにしろ」
カミーユもようやくひと息つき、自分のためにウイスキーを注いだ。

なじみのメンバーが、それっぽいうごきをとるのが、
ファンはすごくうれしい。
みじかいながらも、洗練されたミステリーを堪能した。
みごとな傑作として、おおくのひとにすすめたい。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月23日

「チャリダー」星さん・ふるやさんのはしりに胸をあつくする

「チャリダー」(NHK-BS)で
「坂バカ女子部」の一年をふりかえっていた(再放送)。
8月の乗鞍ヒルクライムにむけ、「坂バカ女子部」の3人が、
半年のあいだ自転車とどうむきあったか。

番組でいちばん印象にのこったのは、
ふるやいなやさんが自分の部屋で
汗をボタボタこぼしながら自転車をこぐ姿だ。
おわらいの世界では、なかなか芽をだせず、
それにくらべて自転車は、
練習にとりくんだ成果が すぐにレースであらわれる。
ふるやさんは だんだんと自転車に魅力をかんじるようになり、
仕事とバイトでいそがしいなか、
自分むけにつくられた練習メニューにそって
まいにち部屋で自転車をこいでいる。
あかるさだけがうりの芸人さん、とおもっていたふるやさんが
メニューをみつめ、ひたすら自転車をこぐ姿はかっこよかった。
レースのまえに右膝をいため、自転車にのれなかったときは、
精神的に不安定な日々をすごしている。
自転車にかわる練習として プールでおよぐようアドバイスをうけ、
ひさしぶりに乗鞍にむけた練習ができたといい表情をみせた。
結果的には、この期間がいい休憩となり、
レースの本番では、去年のタイムを10分以上ちぢめて
215人中の20位にはいっている。
努力して、その結果がついてきたのだから、
ゴールしたときのふるやさんは とてもうれしそうだった。
「真剣ならではのたのしさを味わっている」
と、充実感いっぱいの笑顔だ。

女子部のエース、星恵莉奈さんは、
素質にめぐまれているものの、まじめな性格がわざわいし、
乗鞍ヒルクライムのまえに練習をやりすぎた。
レースのまえに試走したら、去年よりもタイムがわるく、
それが不安な気もちをあおり、練習量をおとせなかった。
つかれがたまったからだはゆうことをきかず、
トップとの差がひらくいっぽうで、去年よりもタイムがわるい。
結果は8位で、目標にしていた3位以内にとどかなかった。
結果がともなわなかったくやしさで、
ゴールのあと星さんはなきくずれている。
負けん気のつよさが星さんのつよみであり、
ふがいない自分をゆるせなかった。
おでん屋さんでのうちあげでは、一年をふりかえり、
とてもたのしかった、修正点をおしえてもらったので、
次のレースにつなげたい、とはなす。
ほほえみをうかべながらも、目はわらっておらず、
乗鞍で結果をだせなかったくやしさがつたわってくる。
この経験をいかし、きっと来年はおおきく成長するだろう。

ふるやさんと星さん。
ふたりに共通するのは、真剣な表情で自転車にうちこむ姿だ。
青春ということばがピッタリなふたり。
目標にむけて ひたすらエネルギーをかたむける。
自分ひとりではなく、仲間がいる。
理由はなく、ただつよくなりたい。
これからの彼女たちの活躍に期待したい。

posted by カルピス at 21:03 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月22日

日本のいい面とわるい面は表裏一体(クールジャパン)

このまえみた「クールジャパン」(NHK)で
外国人からみた「日本人あるある」をとりあげていた。
トイレでスリッパをはく、とか、
「日本人っぽい」とよくいわれる、
などは まあどうでもいいけど、
・テーブルのうえをきれいにする
・無言の圧
・注意喚起がおおい
にはかんがえさせられた。

「テーブルのうえをきれいにする」は、居酒屋などのお店で、
日本人は自分たちのテーブルをきれいにすること。
なにかがこぼれたらふきとるし、
たべおわればお皿やハシをまとめる。

「無言の圧」は、ちょくせつ「〜して」と言葉でいわず、
たとえばおそくかえってきたダンナを、妻は笑顔でむかえたのに、
つぎの日、朝ごはんがつくってなかった、など。

「注意喚起」は、エレベーターや横断歩道で、
「〜しないで」「〜に注意して」と、
エンドレスのアナウンスをながすこと。
歩道のあちこちに「禁煙」とかかれていたり。
公園やジムも、「〜して」「〜しないで」のはりがみだらけだ。

なぜ日本は注意喚起がおおいのか、司会の鴻上さんがたずねると、
ゲストの外国人が自分のかいたパネル(無言の圧)をさして、
「無言の圧と表裏一体だ」といっていた。
日本社会は安全で、ゆきとどいたサービスをたのしめるけど、
それらはみな「そうしなければならない」と
同調をもとめる空気の裏表なのだ。

「表裏一体」といわれたら、おおくの現象に説明がつく。
サッカーの日本代表が、試合のあとロッカー室をきれいにするのも、
電車が1分のくるいもなく運営されるのも、
そのうらに、日本的な抑圧がかくされている。
どこのお店にはいっても笑顔でむかえられて快適だし、
コンビニが24時間営業し、雨がふればカサをさす。
新型コロナウイルスがはやれば だれもがマスクをつける。
そのいっぽうで、ゴミの分別をまもらないとうるさいし、
町じゅうが注意がきばかりでうっとおしいし、
電車にのればどうでもいいアナウンスがやかましい。
これらはぜんぶ日本の快適さと表裏一体の関係にある。
まあ、ものごとにはいい面とわるい面があるのは、
なにごとにおいて あたりまえなのだけど。

それにしても、テーブルのうえをきれいにするが、
日本だけでおおなわれているとはしらなかった。
飛行機が韓国の仁川空港につき、おりようとしたら、
座席のまわりがメチャクチャちらかってるのにおどろいた。
韓国には、かたづける文化がないのだろうか。
中国では、そうじをするとは、目のまえにあるゴミを、
どこかみえないところへ移動させるだけで、
根本的なそうじになってない、と星野博子さんの本にかいてあった。
そんなのは、中国のひとにかぎられた習慣かとおもっていたら、
どうやらまわりをととのえるのは、日本人だけだったとは。
安全で快適にくらせる日本は、
外国人にとって すごく居心地がよさそうだ。

posted by カルピス at 17:50 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月21日

ワープロ専用機がなつかしい 北村ヂンさんの記事

デイリーポータルZにのった
「90年代のワープロ専用機、文字打ちだけなら
 今でも十分使えるんじゃないの?」(北村ヂン)
https://dailyportalz.jp/kiji/word_processor-vs-macbookair
をよんで むかしをおもいだした。
わたしも30年以上まえ、ワープロ専用機のお世話になっている。
はじめてパソコンをかったのは、たしか1995年で、
アップル パフォーマという初心者むけのシリーズだった。
それまでの5年間はワープロ専用機をつかっており、
きれいに印刷された日本語がでてくるのに感激したものだ。
文章をかくだけに機能をしぼったのがワープロ専用機だったのに、
さいごのころは、インターネットにもつなげます、
チラシのレイアウトもできますと、多機能をうりものにしていた。
でも、多機能ならパソコンにかなうはずがなく、
ワープロ専用機は、やがてその歴史的な使命をおえ、
しずかにきえていった。

しずかにきえたはずなのに、
一部のひとは、ワープロ専用機が生産をとりやめても
まだつかいつづけていたくらいだから、
たしかにつかいやすい機械だったのだろう。
酒井順子さんは、かなりのちまでワープロをつかっていたし、
目黒考二さんもまた、ワープロを手ばなさなかったひとだ。
ワープロ専用機は、製造されるメーカーにより、
入力や変換の方法が微妙にちがっており、記事のように、
「範囲指定」して、「実行」「消去」をすすめていた。
そんなワープロ専用機が、メルカリでまだ手にはいるとはすごい。

ワープロ専用機がでるまえはどうしていたか。
わたしは梅棹忠夫さんの影響をうけ、
英文タイプライターによりローマ字をうっていた。
タイプライターは、タイプのミスがゆるされないのにくらべ、
ワープロは入力をまちがえても、すぐになおせるし、
文章の編集ができるのだから、めちゃくちゃらくだった。
北村さんがかいているように、
いまもしワープロ専用機みたいな機械があれば
あんがい機能性がみとめられ、人気がでるかもしれない。

北村さんは、さいごにご自分がおつかいの
MacBook Airとワープロ専用機(書院)のスペックを比較している。
ハードディスクやメモリーの容量ではなく、
重さ・プリンター・ペンなど、
ワープロ専用機に有利な材料をあげており、
「あれ?ワープロの方が・・・・!?」
と一瞬おもってしまうのがおかしかった。
スペックを比較するといっても、
ハードディスクとかメモリーのないワープロ専用機は、
パソコンとくらべるのさえ簡単でないほど、
おたがいの距離がはなれている。
日本語をあつかう用途はいっしょでも、
それ以外の点において、まるでべつものの機械へと
パソコンは進化した。
screenshot.png

posted by カルピス at 20:41 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月20日

「ヒロシの迷宮グルメ」がたのしみ

「ヒロシの迷宮グルメ 異郷の駅前食堂」(BS朝日)

なんとなくみてるうちに、すきな番組になってきた。
芸人のヒロシさんが、外国を旅しながら、
とくに目標をきめずにテキトーな駅でおり、
ちかくをぶらつきながら土地の料理をたべる。
その土地のことばがはなせないヒロシさんは、
かなりあやしい英語だけで町のひととはなし、
なにを注文したかわからないまま でてくる料理をまつ。

食堂(レストラン)をさがすとき、ヒロシさんはかならずそこが
「トラディショナルフード」をだす店であるかをたずねる。
外国へいってまで、日本食をたべたりしない。
英語ができなくても、ヒロシさんはぜんぜんはずかしがらずに
おもいつきのカタカナ英語ではなしかける。
英語へのコンプレックスが まったくかんじられず、気もちいい。
ヒロシさんといっしょにうごいている(はずの)スタッフは、
通訳したり、土地の事情をいれ知恵したりせず、
ヒロシさんの解釈をそのままにして撮影をつづける。
このまえみた回では、電車にのっているヒロシさんが、
ラトビアからエストニアへ国境をこえたことに気づかず、
かなり番組がすすむまで、
自分はいまラトビアにいるとおもいこんでいた。
そんなこともぜんぜんOKで、というよりも、
そのうかつさが、この番組のうりでもある。
画期的な旅番組であり、料理番組だ。
気がむいたものをたべるだけで、観光はいっさいしない。

土地の料理を いきあたりばったりでたべる番組なのに、
なんでわたしは気にいったのだろう。
わたしが外国を旅行するときも、
ヒロシさんと にたようなことをしているけど、
ヒロシさんのほうが もっと自由にうごきまわっている。
ろくにコトバをはなせず、でもその地方らしい料理がたべたいのは、
わたしもヒロシさんもおなじなので したしみがわく。
土地のひとは、親切だったり、めんどくさがったりで、
ほかの番組みたいに、つごうのいい「であい」なんかない。
屋台でもレストランでも、ヒロシさんは
おおげさに味をほめたりしない。
自分にあわなければ、へんな味とはっきりいうし、
おいしいときも わざとらしく表情をくずしたりせず、
愛想のない顔で「おいしい」というだけ。

このまえ「クールジャパン」をみていたら、
「外国人からみた日本人あるある」のなかで、
日本人はたべものにこだわりすぎ、というのがあった。
ひるごはんをまいにちちがうお店でたべるサラリーマンなど、
外国人からみると、不思議な行動にうつるらしい。
旅行でも、その土地の名物をたべるために、
わざわざとおくへでかけるなんて、外国ではありえないそうだ。
日本の旅行ガイドブックには、かならず名物料理がのっており、
わたしもまた、日本では味わえないものをたべるのが
旅行へでかける つよい動機になっている。
さきほど「画期的な旅番組」とかいたけど、
ヒロシさんの「迷宮グルメ」は、たべるだけが目的なので、
画期的とはいえ、きわめて日本的な内容かもしれない。

ヒロシさんは、ヨーロッパとアジアへでかけている。
どちらかというと、アジアの町をまわるときのほうが、
ヒロシさんのちからがぬけているようにみえる。
ヒロシさんは、からだがそんなにおおきくなく、
威圧感もないせいか、土地のひとに うけいれられやすい。
しらない町をテキトーにうろつくヒロシさんをみていると、
わたしもまた、どこか異国へでかけたくなる。

posted by カルピス at 21:28 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月19日

いま「しらふ」がはやり

きょうの朝日新聞で、飲酒習慣の変化をとりあげていた。
酒をのむひとは、調査した1996年から2017年にかけて
いっかんして へりつづけている。
酒をのめる体質でも、あえてのまないひとがふえているし、
健康意識のたかまりや、節約志向など、
世のなかのながれは 酒をのまないほうへとすすんでいる。

記事では、作家の町田康さんがかいた
エッセイ『しらふで生きる』(幻冬社)をとりあげている。
20年間ほぼまいにち酒をのんでいた町田さんが、
酒をやめるとき たいへんだったこと、
やめてよかったことをかいている本だという。
3万6000部もうれているというから、
酒をやめたいひとはたくさんいるようだ。
ストレス発散などで酒をのみたいとき、
どう我慢したらいいかについて、町田さんは
「自分を普通以下のアホ」と捉え直す認識改造」
を提案しているのがおもしろい。
酒を飲む理由の一つに「このえらいオレがなんで報われないのか」という不満の解消があるため、最初から「自分は普通以下のアホ」と考えることで不満を持たないようにできる、というのだ。

「しらふ」へとうごく ひとの例をしると、
なんだか酒をのまないのがおしゃれにおもえてくる。
デイリーポータルZの林雄司さんも、
すこしまえのブログに、1ヶ月以上つづいた断酒体験をかいている。
http://yaginome.jp/?p=2499
完全に酒をやめたのではなく、
つきあいでときどきのんでいるとはいえ、
あの林さんが酒をやめるとはおもわなかった。
いま、「しらふ」がはやりみたいだ。

わたしも、1ヶ月とか1週間とかの、
みじかい断酒はなんどか経験したことがある。
きっかけのおおくは、二日よいで 気もちがわるくなったときなので、
二日よいがおさまれば、またふらふらと酒をのみだしてしまう。
それでも、いちばんながい断酒は半年つづいた。
このときは、せっかくながいあいだのまなかったので、
またはじめるのはもったいない、という気もちだった。
コーヒーは、1年4ヶ月のあいだ のんでいないので、
おなじように酒もやめるのも、そうむつかしくない気がする。
まあ、ゼロか100か、とおおげさにかまえなくても、
林さんのように、なにかのおいわいのときだけの酒にすれば、
頭とからだがすごく楽にくらせそうだ。

わたしが酒をのむのは、寝酒が習慣になっているからで、
ストレス発散の意味はあまりない。
自分がおもんじられないという不満もなく、
「このえらいオレがなんで報われないのか」
とは、まったくおもわない。
酒の害はいろいろあるけど、いい点だっておおい。
単純においしいし、のめば気もちがらくになる。
あつさ・さむさにくるしむ時期はとくに、
酒があったほうがしのぎやすい。
とくに生活や人間関係に支障をきたしているわけではないので、
まわりが酒をやめるのなら、わたしは反対にのみつづけよう。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月18日

あたらしい局面をむかえた新型コロナウイルス

新型コロナウイルスをめぐるうごきが
あたらしい局面をむかえたと ニュースがつたえている。
感染者が日本にはいらないようにするよりも、
どうすれば日本国内で感染がひろがらないか、
が焦点となってきた、という意味だ。
けさの新聞では、中国の感染者数や死者数は
もはやおおきくほうじられず、「よそごと」の中国よりも
日本国内での感染に関心があつまっているのがわかる。
客観的にみれば、日本国内の感染者は、
そのほとんどがクルーズ船、
ダイヤモンド・プリンセス号に関係したひとであり、
おおさわぎする状況ではないとおもうけど、
すでに国内で数万人が感染しているともいわると おちつかない。
病院の医師が感染したとか、感染経路が不明とかをほうじられると、
インフルエンザなみ、といわれる新コロナウイルスの感染力は、
じつはとてもつよいのでは、とうたがいたくなる。
中国の武漢市に関係したひとと、すこしでも接触があると、
たちまち感染してしまうような印象がある。
そして、かるい症状でおさまるひとがおおい、という説明も
にわかにはしんじがたい。

先日ひらかれた熊本城マラソンでは、
マスクをつけたランナーが目をひいた。
大会事務局が2万枚のマスクを用意し、
ランナーとスタッフの全員にくばったそうで、
スタート地点では、ほとんどのランナーがマスクをつけている。
マスクをつけて呼吸を制限するトレーニング法があるくらいだから、
マスク姿でフルマラソンをはしるのは、とてもくるしそうだ。
さいごまでマスクをつけたまま
はしったランナーばかりではないとおもうけど、
それにしてもマラソンとマスクはなじみにくく、
大会のようすをつたえる 異様な写真におどろいた。
3月1日にひらかれる東京マラソンは、
一般参加ランナーの出場をみあわせるときめている。
これからは いろいろなイベントが自粛されるだろう。

・ひとがあつまること
・移動すること

により感染をひろげるのだから、
おでかけしないのが いちばんの予防となる。
1ヶ月まえは、ほとんど話題にのぼらなかった新型コロナウイルスが
わずかな日数で7万人をこえる感染者と、
死者は2000人をこえるまでにひろがった。
これからの1ヶ月でどう状況がかわるのか、予断をゆるさない。

posted by カルピス at 21:51 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月17日

「輝き続けるキヨシロー」

「輝き続けるキヨシロー」(BSフジ)をみた。
キヨシローがなくなって10年たつけれど、
いまもおおくのひとがキヨシローをしたいつづけている。
武田真治・泉谷しげる・木村拓也
・いとうせいこう・大竹しのぶと、
あまり接点のなさそうな5人があつまって
キヨシローとのかかわりをそれぞれはなす。

キムタクは、アイドルであることにくさりかけていたとき、
糸井重里さんにすすめられて
「君が僕を知ってる」をきいたのが
キヨシローとのであいだという。
わたしもこの曲がだいすきなので、
いっぺんにキムタクをみなおしてしまった。
武田真治さんは、こころがおれたとき
(おれかけた、ではなく)、竹中直人さんに
ロックンロール研究所へつれていかれたのがきっかけだ。
挙動不審なわかものだった武田さんは、
その日からキヨシローの家にでいりするようになり、
いっしょにツアーにでかけ、コンサートでうたう。
「お元気ですか、マーコさん」で
「ところで武田くん、このさきどーする?」
とキヨシローがうたっているよこで、
武田さんが一心にサックスをふいている。
おもいっきり楽器をふきまくり、
頭とからだがすっからかんになったいい顔をしている。
これだけひつつのことにうちこめたら、
そりゃ再スタートをきれるというものだ。

番組のところどころで、
「完全復活」のライブ風景がながれる。
おおくのファンがキヨシローの「復活」を
こころからよろこび、うれしくてたまらない顔をしている。
「完全復活」って、いったじゃないか。
キヨシローがうたう曲もいくつかながれた。
「エンジェル」って、こんなにいい曲だったっけ。
ひとことひとことに気もちをこめ、
ていねいにうたったときのキヨシローはすごい。

泉谷しげるさんは、「カバーズ」みたいなのは
つくってほしくなかった、という。賛成。
わたしがすきなキヨシローも、
RCでうたっていたころにかたよっている。
ほかのゲストが「カバーズ」とタイマーズを評価するなかで、
泉谷さんだけが、キヨシローにしかつくれない曲をもとめていた。
またまた賛成。

泉谷さんによると、コンサートのあとでキヨシローは、
かならずビデオをみかえしていたという。
うちあげはなし。そのかわりにビデオでステージをふりかえる。
RCのころから、コンサートでうたう曲を、
そのまえになんかいも、しかも全力で、
くりかえし練習していたという。
これまでしらなかったキヨシローの姿だ。
うたうのが、ほんとうにすきだったキヨシロー。

雨と雪がふり、2日つづけてからだをうごかせず、
感染のひろがる新コロナウイルスのうっとおしさもあり、
こころのバランスをとりにくくなっていたとき、
キヨシローの存在は特効薬となる。
ぜんぜん大丈夫。問題ない。きっとうまくいく。
タグ:キヨシロー

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月16日

「受け身 やめられない?」をよみ、あわてて「れる・られる」をチェックする

毎週土曜日の「ことばサプリ」(朝日新聞)をたのしみにしている。
校閲センターの丹羽のり子さんが担当されており(「受け身」だ)、
きのうは、
「受け身 やめられない?」のタイトルだった。
「受け身」とは、
「高齢化という課題がつきつけられている」
「今後の成り行きが注目される」
など、「れる・られる」をつかった文章のことをいう。
「誰が」や「誰に」が具体的に想像できず、何かひとごとのような、自然の成り行きに任せるような印象を受けないでしょうか。

つい「受け身」でかいてしまうのは、
「受け身の形を使った『私』を消す表現(自然構文)が好まれる文化があるからだと思います」と静岡大学の原沢伊都夫教授(日本語学)は説明します。「『私は富士山を見た』より、主語の隠れた『富士山が見えた』の方がしっくりする。人間中心ではなく、自然の中で影響を受けて生かされているという世界観の反映です。

ということで、そういわれると、「受け身」だからといって
かならずしもわるい表現ばかりではない気がしてきた。

「受け身」(受動態)でかくと、
外国語を直訳したような文章になる、
みたいなことをどこかでききかじり、
わたしは受動態をなるべくつかわないようにしている。
とはいえ、「できるだけ」ていどの こころがまえにすぎず、
どれだけ原則をまもっているかの自信はない。
ブログにさいきんかいた記事をよみなおし、
「れる・られる」についてチェックしてみたところ、
そうおおくないので安心した。
ぜんぶの文に主語をたてるのはくるしいけど、
できるだけ「富士山が見えた」とならないように気をつけたい。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月15日

『草むらにハイヒール』(小倉千加子)ー「依存」というのは人を混乱させる概念であるー

小倉千加子さんの『草むらにハイヒール』に
「依存」についてのエッセイがのっている
(「恋人を殺さなかったDV殺人犯の思い」)。

「依存」というのは人を混乱させる概念である。
「人は一人で生きていくことはできない」という言葉と「一人になれない人は二人にもなれない」という言葉とではどちらが共感できるだろうか。
アメリカでは、親密な関係の96%が「共依存」であるという説もある。96%が過度に親密で、適正な距離を保つことができない。しかし、96%が「共依存」なら、もはや異常と呼ぶことはできない。日本でも、金婚式を迎えるような夫婦は「共依存」だと指摘する人もいる。(中略)サラリーマンが定年まで会社にいるのも同じである。日本人は会社と過度に親密なため「過労死」するまで働く人も出てくる。もともと日本は「依存型」社会なのである。

障害者福祉に関する法律は、
それまで「障害者自立支援法」だったのが、
2013年から「障害者総合福祉法」へとかわった。
「自立支援法」では
自立した生活を営む事ができるように支援を行う

「総合福祉法」の基本理念は、
基本的人権を持つ個人として尊厳を尊重され、共に生きる社会を実現すること

自立というと、どうしても就労とむすびつけてかんがえられがち、
という説明をテキストでよんだことがある。
依存とおなじように、自立もまた
「人を混乱させる概念」である。

東畑開人さんの『居るのはつらいよ』をよみ、
自立と依存についてのとらえ方がかわった。
「大佛次郎論壇賞を受賞して」のなかで東畑さんが
誰かに依存していることを忘れるほどに依存できている状態が自立である

とかいている。
自分は自立できており、依存などしていない、
とおもいがちだけど、
だれもがおおかれすくなかれ依存しながら自立している。
わたしはネコのココに依存している自覚がある。
わたしのために ずっといっしょにいてくれと いいきかせている。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月14日

「節約は効率悪いぞ」にあらがいたい

デイリーポータルZの「今さら知った大発見」
がすきで、ときどきよみかえす。
https://dailyportalz.jp/kiji/140406163759
・腕時計をすると腕で時間が分かって便利
・ペンはペンケースにちゃんと戻すと、なくならなくて便利です!
 はだかで持っているとなくなります。

みたいに、だれもがおそらくもうしってるけど、
自分だけはしらなかった「大発見」読者からよせられている。
そのなかに、
家にこもって倹約するより、外で労働したほうがはやく儲かる

という投稿があり、
編集部が「節約は効率悪いぞ」とコメントしていた。
わたしははたらくのがあまりすきではなく、
できるだけ家にこもり、お金をつかわないで生きたいひとだ。
とはいえ、節約するといっても、お金はどうしても
あるていどはでていくもので、
仕事をしなければ、たくわえはすぐに底をついてしまう。
節約だけではくるしいし、限度がある。
そして、たのしみとしての節約でなければ、かなしくもなる。
家にこもって倹約するより、外で労働したほうがはやく儲かる

を発見したひとは、意外な現実におどろいたのではないか。
わたしもまた、「外で労働したほうがはやく儲かる」法則に、
このごろ気づきつつあった。

「節約は効率が悪いぞ」といいながら、
デイリーポータルZは
「私の節約術」を読者からつのったことがある。
https://backnumber.dailyportalz.jp/cs/head01/detail/070828020159/1.htm
MVPにえらばれたのが
・はみがき粉を水で薄めて体に塗る(暑子 さん)
暑い夏、家ではこうやってしのいでいます。
すごいスースーします。

ほかにも
・スポーツジムに行く(あすやん さん)
大抵のスポーツジムは月額1万円ちょっと。
銭湯一回が大阪だと400円ちょっとなので、25日行けば元が取れる。

・開封しない。(さり さん)
お酒もお菓子も、開けない。
買ってしまっても、開けなければ減りません。
そして、減らなければ買わないんです。

そんな節約術がよせられるなかで、意外な方法に、
・バイトをする(なおちゃん さん)
主婦ですが、バイトをしてます。バイトに行けば家での光熱費がかからないし、定期券も支給してもらえるし、娯楽をする時間もないので娯楽費もかからなくて一石三鳥です。

があった。
編集部からのコメントは、
結局は働くのが一番効率的ですね。これで家計も安泰。あとはいかに働いてる振りしてサボるかを考えるだけです。

けっきょくここでも節約は効率がわるい、におちついている。
効率がわるい、のはわかるけど、
どこかに労働と節約のバランスがとれる地点があるはずで、
わたしはそのポイントをめざしたい。
とくに老後はそのみきわめが重要だろう。
わたしのようにたくわえがなく、年金もあてにならなず、
でも老後はのんびりくらしたいものにとって、
労働と節約のバランスは最重要課題かもしれない。

posted by カルピス at 21:13 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

『その雪と血を』最高にうつくしくてかなしい ノルウェーのハードボイルド

『その雪と血を』(ジョー=ネスボ・ハヤカワ文庫)

『おすすめ文庫王国2020』の4位にランクいりしていた。
パルプなノワールに見せかけておいて幻想譚みたいな感じになっていく。血と暴力であふれかえっているのに、ものすごくきれいなんですよ。

というのが「編A」氏による推薦の弁だ。
「ダメな殺し屋の話」ともある。
よみおえると、まさにそのとおりなのだけど、
はじめはうつくしさよりも、
「ダメな殺し屋」にひかれてよみはじめる。
(以下、ネタバレあり)

本書はノルウェーのオスロを舞台にしたハードボイルドで、
本文はみじかく、200ページにみたない。
ジョークでかためた軽ハードボイルドなでだしだけど、
すぐに主人公のオーラヴに好感をもつ。
オーラヴは計算ができず(文字どおりの意味で)、
女にほれっぽくて、でも、さいごまで責任をはたす「始末屋」だ。
自分が「始末」した男の奥さんに、
子どもの養育費をおくりつづけたりする。

訳がこなれていてよみやすい。わたしごのみのかたりだ。
国境は双方によって厳重に警備されている。だがスピッツベルゲンなら、警備をしているのは北極熊とマイナス四十度という気温だけだから、なんの問題もなかった。
そんなわけで、ダニエル・ホフマンがスピッツベルゲンの商売を再開してみると、競争相手が登場していた。ホフマンはそれがまったく気にいらなかった。

オーラヴは、ボスの奥さんであるコリナを始末するよう
ボス本人から指示される。
仕事をうまくすすめようと、コリナをみはっているうちに、
オーラヴは彼女がすきになってしまい、
彼女のもとにおとずれ、乱暴する男を始末する。
ボスに男を始末したとつたえると、その男はボスのむすこだった。
オーラヴは、ボスからおわれる身となり、
コリナといっしょにオスロの町でかくれてすごす。
コリナをまっすぐに愛するオーラヴなのに、
コリナはうらでオーラヴの敵方とつうじており・・・。
「金と力を手に入れるためなら、裏切る必要のある相手は平気で裏切る女ってわけか?」
コリナはぷいとたちあがって窓辺へ行った。通りを見おろし、煙草に火をつけた。
「平気というところをのぞけば、だいたい合ってるかな」

まるで峰不二子みたいな女だ。

本書には、もうひとりキーをにぎる女性が登場する。
オーラヴがむかしたすけた女性マリアで、
彼女がジャンキーのボーイフレンドの借金を
からだでかえそうとしていたのを
オーラヴがすくいだしている。
それ以来、オーラヴはときどきマリアのようすをみにいって、
なんとかくらしているかどうか たしかめている。
マリアに彼の存在がしられないよう、
はなれたところから しずかにみまもるだけだ。
仕事のためには、ためらいなく相手を「始末」するオーラヴなのに、
女性にたいしてはとてもプラトニックにせっしている。
ラストでは、敵方にうたれ重症をおうオーラヴだけど、
いたみにたえて車にもたれかかっていると、
マリアが偶然とおりかかり、オーラヴのキズを手あてし、
しりあいの医者へつれていく。
おれはもう死んでもいいよ、母さん。そう思った。もう物語をこしらえる必要はないんだ。この物語はもうこれ以上すばらしくできない。

よかったよかったと、よみすすめると、
次の章では、車にもたれ、雪をかぶっている男にマリアが気づく。
オーラヴだ。まえの章で、マリアにすくわれたとおもったのは、
オーラヴがつくりあげた物語だった。
オーラヴだけでなく、彼のお母さんも物語をつくっていたし、
おおかれすくなかれ、だれもが自分でつくる物語に生きている。
わたしもまた、気づいていないだけで、
きっと自分の物語に生きているのだろう。
不器用に、誠実に生きるオーラヴ。
ストーリーのうつくしさと、雪におちる血のうつくしさ。
あまりに白く、あまりに赤く、不思議なほどに美しかった。

posted by カルピス at 22:28 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月12日

『小説家を見つけたら』

『小説家を見つけたら』
(ガス=バン=サント:監督・2000年・アメリカ)

広場でバスケットボールをしている少年たちが、
むかいのたてものの、いちばんうえの部屋を気にしている。
自分たちを観察しているようだけど、姿はみせない。
ある日の夜、仲間たちがあつまって、
部屋へしのびこもうとするものの、
やっぱり気がひけて、けっきょく階段をのぼったのは
16歳の黒人少年、ジャマールひとりだった。
彼がしのびこんだ部屋には、
ふるい家具やテレビ、そして本がたくさんあった。
部屋のもちぬしがきゅうにあらわれ、
ジャマールをおどかしたため、
彼はあわててリュックをのこしたままにげだした。

つぎの日の夕方、たてものの下をあるいていたジャマールに
彼のリュックがなげかえされる。
荷物をしらべてみると、彼の創作ノートに
たくさんかきこみがしてあった。
おおくの批判にまじり、ところどころは
ジャマールのアイデアをほめてある。
部屋のもちぬしが気になったジャマールは、
こんどはドアをノックして、正式にたずねていった。

部屋にはひとりの老人がすんでいた。
あとからあきらかになるけど、
彼はむかし一冊の本をだしたきり、
世間から背をむけて生きる小説家、フォレスターだった。
彼は、はじめジャマールをじゃけんにあつかい、
もうここにくるなとおいかえすものの、
ジャマールがしつこくたずねるうちに
すこしずつふたりの会話がふえていく。
うつくしい文章をうみだすコツを
フォレスターはジャマールにつたえ、
彼のアドバイスのもと、ジャマールは文学の才能をのばしていく。

フォレスターにであうまえから、ジャマールには、
文学にかんするすぐれた才能があった。
学力テストで文学の才能をみとめられたジャマールは、
有名な私立高校へ学費免除でひきぬかれる。
この学校でもジャマールは、
バスケットと文学に非凡なちからをみせる。
ただ、この高校には、
自分のかたよった価値観で生徒たちをしばりつける
文学の教師、クロフォードがいた。
彼は、ジャマールがあまりにも完成度のたかい文章をかくので、
盗作にちがいないと頭からきめつける。
生徒の才能をはばたかせようとするのではなく、
逆にふみにじろうとするクロフォードがみごとに にくらしい。
彼はジャマールを学校からおいだそうとワナをはり、
もうすこしでジャマールは、
無実の罪をかぶり、退学するところまでおいつめられる。
作文の発表会の日、とつぜんフォレスターが学校にあらわれ、
きれいにジャマールへのうたがいをはらし、
クロフォードの俗物性が、おおくのひとのまえであきらかになる。

数学にたかい才能をしめす少年のはなし、
『グッド・ウィル・ハンティング』みたいだなー、
とおもってみていたら、おなじ監督だった。
『小説家を見つけたら』は、数学から文学に舞台をうつした
『グッド・ウィル・ハンティング』にもみえる。
クロフォード教授が自分の博識をひけらかそうと、
古典文学から有名なフレーズを引用すると、
ジャマールがことごとく出典をいいあてる。
『グッド・ウィル・ハンティング』では、
マット=デイモンが圧倒的な知識量により、
エリート校の少年を論破した場面をおもいだす。

フォレスター役のショーン=コネリーがしぶい。
いろいろと、立派なことをいいながらも、
フォレスターは、そとの世界へでられないまま
50年がたってしまった ひきこもり老人だ。
彼のちぢこまった頭とからだをほぐしたのがジャマールで、
年ははなれているものの、ふたりはおたがいに友情をかんじていた。
盗作ではないかという、ジャマールへのうたがいをはらしたのち、
フォレスターはふるさとスコットランドへ旅にでる。
これでめでたし めでたしかとおもっていたら、まだつづきがあった。
しばらくして、ジャマールのもとに弁護士があらわれ、
フォレスターが旅さきでなくなったとつげる。
そのさきは、ここにかかないほうがいいだろう。
余韻にみちたラストが印象的な作品だ。
弁護士役で でてきた かっこいいおにいさんが、
あとでしらべるとマット=デイモンだった。
ますます『グッド・ウィル・ハンティング』なのがうまい。

posted by カルピス at 22:29 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月11日

ラジオ番組「”アリーサ・フランクリン”三昧」と、小倉千加子さんの新刊と、ココとのひるね

NHK-FMで「今日は一日”アリーサ・フランクリン”三昧」をきく。
(一般的には「アレサ=フランクリン」とよくいわれるけど、
この番組では「アリーサ」でとおしており、
わたしもきょうの表記は「アリーサ・フランクリン」とする)。
司会はピーター=バラカンさんで、
ゲストにアリーサすきなひとがまねかれている。
あるすきな対象があり、そのひとについて、
すきなひとがあつくかたると、たいてい興味ぶかいはなしになる。
さほどアリーサ・フランクリをしらないわたしでも
この番組はたのしかった。

わたしがアリーサ・フランクリとはじめてであったのは
映画『ブルース・ブラザース』だった。
ソウル食堂の主人として でてきたアリーサ・フランクリは、
バンドメンバーにもどろうとするダンナに腹をたて、
「シンク」をうたい、そしておどる。
あれだけ奥さんにキレられて、なおかつ店をでていった
マット=マーフィは根性がある。
きょうの番組でもこの場面にふれていた。
おおくのひとが『ブルース・ブラザース』をきっかけに
アリーサ・フランクリをしったようだ。

そもそもきょうは朝からじゅうじつしていた。
9キロはしったあと本屋さんにいくと、
小倉千加子さんの『草むらにハイヒール』があった。
週刊朝日に連載されたエッセイをあつめたもので、
7年ぶりとなる小倉さんの新刊だ。
わたしはながく小倉千加子さんの本をまっていたので、
ひさしぶりに手にする新刊はうれしかった。
すこしよみだしてみると、ひとつの事件、ひとりの人を、
小倉さんがふかく分析し、それがまた、
ほかのひとの視点とはまったくちがうのがすばらしい。
しばらくのあいだ、確実にたのしませてくれそうだ。

もうひとつよかったのは、
ネコのココといっしょにひるねをしたこと。
昼ごはんをおえ、ひるねをしにベッドへいくと、
わたしのうごきをよんでいたココがさきにきていた。
生活のなかでときたまおとずれるしあわせな時間だ。
きょうはいちにちお天気で、洗濯物もよくかわいた。
たまの祝日を このようにいいことばかりですごせ、
ただ生きているだけのわたしだけど、
こういう日があると、人生もあんがいわるくない。
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2020年02月10日

みごたえがあった富士ゼロックススーパー杯

日曜におこなわれた富士ゼロックススーパー杯をみる。
昨シーズン Jリーグ1位の横浜・F・マリノスと、
天皇杯優勝のヴィッセル神戸との試合で、
今年度最初の公式戦という位置づけだ。

先制したのはヴィッセルで、すぐにマリノスがおいつく。
これを3どくりかえし、3−3で90分をおえる。
攻守のきりかえが両チームともはやく、
迫力のある攻撃が90分をとおしてつづけられた。
点をいれてもすぐにおいつかれるので、
ヴィッセルは いやなかんじがしていたのではないか。
マリノスは、先制されてもあわてずに
自分たちのサッカーをつづけ、得点へとむすびつける。
両チームとも、選手たちが自分のもち味をよくだしていた。
イニエスタはいつもながらのうまさを発揮し、
何本もいいパスをとおす。
マリノスの中川は点こそうばえなかったものの、
両サイドからおしい攻撃をつづけていた。
どちらのチームも、自分たちのスタイルをやりとおし、
みごたえのある試合となった。
Jリーグの開幕まえから、コンディションをととのえ
この試合にのぞんだ両チームの選手たちに拍手をおくりたい。
もうすぐはじまるリーグ戦がまちどおしい。

90分では決着がつかず、さいごはPK戦へ。
ここで、9人連続失敗という珍事がおきた。
両チーム、2人ずつがきっちりきめたあと、
9人のPKがことごとくはいらない。
キーパーにとめられたり、おおきくうかせたり。
こんなにもPKは はいらないものかとおかしかった。
解説の城さんが「なんだこれは」とおもわずもらし、
実況アナウンサーも、「なんということだ」
「こんなことがあるでしょうか」とおどろいていた。
ヴィッセルのゴールキーパー、飯倉選手は、
ながくマリノスでプレーしていたといい、
マリノスの選手はやりにくかったのかもしれない。
いかに失敗は連鎖する、といっても、
9人連続失敗なんて、ふつうではかんがえられない。
14人目の山口選手がきめて、ヴィッセル神戸の優勝がきまる。

posted by カルピス at 22:04 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする