校閲センターの丹羽のり子さんが担当されており(「受け身」だ)、
きのうは、
「受け身 やめられない?」のタイトルだった。
「受け身」とは、
「高齢化という課題がつきつけられている」
「今後の成り行きが注目される」
など、「れる・られる」をつかった文章のことをいう。
「誰が」や「誰に」が具体的に想像できず、何かひとごとのような、自然の成り行きに任せるような印象を受けないでしょうか。
つい「受け身」でかいてしまうのは、
「受け身の形を使った『私』を消す表現(自然構文)が好まれる文化があるからだと思います」と静岡大学の原沢伊都夫教授(日本語学)は説明します。「『私は富士山を見た』より、主語の隠れた『富士山が見えた』の方がしっくりする。人間中心ではなく、自然の中で影響を受けて生かされているという世界観の反映です。
ということで、そういわれると、「受け身」だからといって
かならずしもわるい表現ばかりではない気がしてきた。
「受け身」(受動態)でかくと、
外国語を直訳したような文章になる、
みたいなことをどこかでききかじり、
わたしは受動態をなるべくつかわないようにしている。
とはいえ、「できるだけ」ていどの こころがまえにすぎず、
どれだけ原則をまもっているかの自信はない。
ブログにさいきんかいた記事をよみなおし、
「れる・られる」についてチェックしてみたところ、
そうおおくないので安心した。
ぜんぶの文に主語をたてるのはくるしいけど、
できるだけ「富士山が見えた」とならないように気をつけたい。