家庭からの情報発信についてかいている。
https://rashita.net/blog/?p=29895
「梅棹は、発信局といった。」
というタイトルからわかるように、
梅棹忠夫さんの発言、
家庭を発信局とする情報創造が行われ、そのための装置がつぎつぎとつくられるだろう。
(『梅棹忠夫のことば』より)
が、なにを意味するのかをさぐったものだ。
「情報発信」ならブログのことだと すんなりよめるけど、
梅棹さんがあえて「発信局」としたのはなぜか。
映像の配信こそが、梅棹がイメージしていたものなのかもしれない。だとすれば、YouTubeの存在が、まさにその予言の精度の証左であろう。現代こそ、家庭が発信局となる時代なのだ。
ユーチューブ、そしてポッドキャストなどの出現を
梅棹さんはみとおしていた。
そして倉下さんは、いわゆるブログでなくても
「ブログ的」な なにかでいいと とらえはじめている。
(糸井重里さんの『インターネット的』というとらえかたにならえば)現代で必要なのは「ブログ的」なものだ。なにも、正真正銘の「ブログ」でなくてもいい。(中略)ただ、ネットにおける自分の「場所」を確立できればそれでいいのだ。そのためのメディアが、ポッドキャストであっても、Youtubeであってもいい。
ブログのもつ意味あいと存在感がかわりつつあるいま、
それでも倉下さんはブログへのおもいをすてきれない。
にもかかわらず。
私は心の奥底では、やっぱりブログを持ち、文章を書くことをお勧めしたい小さな子どもがうろちょろしている。なにしろ「読字」は特別な能力なのだ。
YouTube時代にブログの生死を気にかけるなど、時代遅れも甚だしいのかもしれない。でも、そういうことが書けるのが、やっぱりブログの魅力なのである。
ユーチューブもポッドキャストもやらないわたしは、
ほそぼそとブログをかくしかない。
いまさらブログなんて、みたいにいわれがちだけど、
発言の場をネットのなかにもてるのはありがたい。
倉下さんがブログの魅力をかたりつづけてくれるのも
わたしのささえになっている。