(角田光代・小学館)
角田さんは小学生のころから作家になりたかったのだそうで、
作文をかくのがたのしくてしかたなかったという。
おおきくなってからは、作文が小説にかわり、
おさないころから夢みてきた作家になれた。
作家になるまでのあゆみが、かなりセキララにあかされており、
そこまでかくのかと、おどろきがあった。
頭にあることを 自由自在に表現できるのだから
ちからのある作家なのだとおもう。
RCサクセション、というより、
忌野清志郎がだいすき、というはなし、
週末にランニングをしていること、
外国旅行ずき。
角田さんとわたしのこのみは かなりにかよっている。
ネコのはなしがおもしろかった。
おりこうね、かわいいね、とちいさなものを褒めるとき、本当にその利発さやかわいらしさを伝えたいわけではない。私は猫が用を足しただけで「えらいねえ」と褒めるが、本当にそれが偉大な行為だと思っているわけではない。言葉にならない膨大な思いがあって、それをえらいだね、かわいいだのに押しこめているだけだ。
そして猫も、言葉ではなくその膨大な思いのほうをキャッチするのだろう。そのようにしか成立しない会話というものが、世界にはきっとあるのだろう。
ほんとうに。
わたしも家のネコ(ココ)がなにかをするたびに、
おりこーだねー!
かわいいねー!
すてきなニャンコだねー!
だいすきー!
とほめちぎり、濃厚接触のかぎりをつくす。
それはほんとうにかしこいからではなく、
わたしがココをすきだというおもいを、
これらの言葉で代用しているのだろう。
ことばでは、つたえられないおもいがあるけど、
おおげさにほめたたえて 自分の感情をつたえる。
用をたしてるネコをほめても意味はない、
というのはまちがいで、
ひとからみとめられていると実感しているネコは、
かわいがり、声をかけると、まんざらではない表情をする。
その表情ができるネコは、愛されてそだったネコで、
表情ゆたかに自分の気もちをうったえてくる。
愛されて、まんざらではない顔をするネコがわたしはすきだ。