2020年06月30日

おとまりの仕事をキャンプごっこの気分でのりきる

このまえの土曜日は、仕事で職場にとまった。
仕事といっても、事務やなにかの準備ではなく、
ショートステイの利用者とのおとまりだ。
仕事だとおもうとたのしくないので、
キャンプごっこで気をまぎらすことにする。
もちろん職員用のふとんもあるけど、
キャンプだとかんちがいしたいので、
2ミリのうすいアルミマットをひろげ、
そのうえにデコボコのついたサーマレストのマットをしく。
まえにかっていたネコがつめとぎにつかったので、
マットとよぶのがかわいそうなほど 虫くい状態になっている。

野宿するのに、なによりも大切なのは、
寝袋ではなくマット、というのを
野宿伝道師のかとうちあきさんが
なんどもくりかえして強調している。
さむい時期の野宿では、したからのひえがなによりつらい。
いくらあたたかい寝袋にくるまっても、
マットに手をぬくと残念ないちやをすごすはめになる。
たとえ部屋でねるキャンプごっこといえども、
たたみのうえにじきにねたら、
つぎの朝はつかれがたまっているだろう。
かとうさんのおしえを忠実にまもり、マットをつかった。
といいながら、うえにかけるのは
寝袋ではなく、家からもっていった夏がけだ。
いまの時期、さむさよりもあつさのほうが問題で、
土曜日の夜もむしあつかったのでエアコンをつけた。
キャンプといいながら、エアコンをつけるなんて、
まったくどうかしてるけど、
もともと中途半端なこころみなのだ。
ご飯はコンビニでかったものだし、
お風呂だってふつうにはいる。
読書用のスタンドまでもっていったし、
パソコンだってある。
ようするに、マットをしいてねただけのはなしなのに、
気もちをあそび方向にもっていきたいために、
自分でキャンプ気分を演出したかった。
ヒロシさんのひとりキャンプの影響もあっただろう。

利用者さんは、夕ごはんのあとお風呂にはいり、
8時になるとふとんにもぐりこんだ。
そして、そのまま朝の6時すぎまでしずかにすごしてくれる。
そのあとは、わたしが自由につかえる時間だ。
わたしは、いちおう仕事として夜をつきそうので、
ひさしぶりにお酒なしの夜をすごした。
すこしぐらい、とちょっとまよったものの、
自分がアルコール依存症でないことを確認するために、
ひとばんだけでも自分の意思でのまずにのりきる。
さいわいに、お酒がほしいとはすこしもおもわなかった。
本をよみだしたものの、10時すぎにはねむけがやってきた。
家では12時をすぎないとねないのに、
この夜は10時15分にふとんにはいる。

とまりあけの日は、9時に勤務時間がおわる。
家にもどったわたしは、ずいぶんほっとしたのかがわかった。
ひさしぶりのおとまりで気づいたのは、
わたしは自分の家がだいすきという事実だ。
キャンプごっこするよりも、なれた自分の家、
自分の部屋でぬくぬくとすごしたい。
こんな性格の人間は、いくら野宿にむいた季節になったとしても、
外よりは家ですごすのをえらぶにきまっている。
わたしに必要なのは、ひとりキャンプにつきあってくれる仲間だ。
ヒロシさんはもとより、かとうちあきさんだって、
グループで夜をすごすものの、ねるのはひとりだ。
なかまとでかけるひとりキャンプのカテゴリーにはいる。
まえは、ひとりでなければ軟弱だとおもっていたけど、
そんなところで片意地をはらないで、
ひとといっしょにすごしたほうがここちいいときもある。
依存しなければ、自立もできない。

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2020年06月29日

「死生観への郷愁」(佐伯啓思)にひかれる

27日の朝日新聞にのった
「死生観への郷愁」(佐伯啓思)にひかれた。
 今日、死生観などということは誰もいわない。だが、私には、どこか、古人のあの、人間の死という必然への諦念を含んだ「無常観」がなつかしく感じられる。少なくとも、古人は、その前で人間が頭を垂れなければならない、人間を超えた何ものかに対する恐れも畏れももっていた。そこに死生観がでてきたのである。

新型コロナウイルスがはやろうが、ガンにかかろうが、
ひとはいつかかならず死ぬ。
なにかおおきな病気をわずらったとして、
かんたんにあきらめなくてもいいけど、
こころのどこかに、ま、いつかは死ぬんだし、
というあきらめをもっていたほうが
おだやかなこころもちでいられるような気がする。
そして、ジタバタせずに さいごをむかえられるのでは。

『わすれられないおくりもの』(スーザン=バーレイ)
にでてきたアナグマの死をおもいだす。
http://www.suzuya-k.co.jp/okurimono.html
アナグマは、自分の年だと、死ぬのが、そう遠くはないことも、知っていました。
 アナグマは、死ぬことを恐れてはいません。死んで体が無くなっても、心は残ることを、知っていたからです。だから前のように、体がいうことをきかなくなっても、くよくよしたりしませんでした。ただ後に残していく友達のことが、余り悲しまないようにと、言っていました。

年をとれば、だんだんからだがうごかなくなる。
そしてある夜、アナグマは、自分がげんきにはしっている夢をみる。
すっかり自由になった気がしているうちに、
やがてトンネルのむこう側へといってしまったアナグマ。
年をとって死をむかえるのではなく、
病気になり、不本意ながら死んでいくのは、
またべつのつらさがあるだろう。
でも、アナグマは、人生のとちゅうでやってきた「死」にたいしても、
きっとこわがらずに病と死をむかえられるのではないか。

まちなかで、ひとごみにもまれているよりも、
自然にちかいところで動物とくらしていたら、
やがてくる死をうけいれやすいのではないか。
自分に死がちかづいたときに、
諦念をもってむかえられたかどうか、ぜひ記事にかきたい。

posted by カルピス at 22:10 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月28日

日記をつけるということ

「シゴタノ!」の大橋さんが、
日記をかいたほうがいい、とすすめている。
https://cyblog.jp/40942
大橋さんが、日記についてのポッドキャストをきき、
共感した内容について 紹介された記事だ。
「日記を書いた方がいい人と書かないほうがいい人がいる」
そうで、
「書かないほうがいいのはヒマな人」
その理由がいくつもならべてあり、
ヒマなひとは、けっきょく、
日記を書こうとしても、特に何もやってないので過去をほじくり返し始める

のがおもな理由のようだ。そうかもしれない。

もうひとつ感心したのは、
「日記は、事実2割:感想8割」という方針だ。
日記は事実だけを書いても面白くないので続かない
・日記というと何時に起きて何を食べて何をした、という出来事を時系列に書きがち
・こういう日記はあとで読み返しても面白くない
・読み返しても面白くない日記を書く=無意味な作業をすることになるので絶対やめたほうがいい

自分が何を思ったのか、どう感じたのかを書く
・主観的な感想
・偏見
・誰かに対する怒り
・すごくうれしかったこと

「時系列に書きがち」は、まさしくわたしのことで、
時系列に、なにをしたかだけをかき、
感想にはほとんどふれていない。
こうしているのは、梅棹忠夫さんからの影響で、
『知的生産の技術』に、
日記というのは、要するに日づけ順の経験の記録のことであって、その経験が内的なものであろうと外的なものであろうと、それは問題ではない。日記に、心のこと、魂のことをかかねばならないという理由は、なにもないのである。

とかかれていたのにすっかり感心したからだ。
そして、業務日誌のような記録ばかりをつけるようになる。
業務日誌のような日記にするか、「事実2割:感想8割」にするかは、
なにを目的として日記をつけるのか、によるちがいだ。
大橋さんが紹介しているのは、
日記をかくのがすきでたまらないひとのやり方だ。
このような日記は、あとからよみかえして、成長を確認したり、
おもったことをすべてかくことで、
こころの整理をするためにつけられている。
日記は自分の内面を見つめる重要な作業 、
というかんがえが、基本にある。

わたしは「ほぼ日手帳」に日記をつけており、
デジタルとしてはscrapboxをつかっている。
ほぼ日手帳のほうには、業務日誌的な内容が中心で、
多少の感想と、おもいつきをかいている。
scrapboxには時系列になにをしたかだけをかく。
もうひとつ、まいにち更新しているこのブログも、
ひとにみせるため、というよりも、
自分のためにかいてる日記みたいなものだ。
感想をここにかいているから、
ほかのところにかく必要をかんじないのかもしれない。
日記をつける目的を、どこにおくかで、
日記はずいぶんちがうものになる。
無意識のように毎日つけているだけで、
その効用についてかんがえたことがなかった。
毎日かくぐらいだから、なにか意味をかんじているのだろう、
なんだかんだいって、わたしも日記をかくのがすきなのかもしれない。

posted by カルピス at 17:52 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月27日

『梅棹忠夫の「日本人の宗教」』

『梅棹忠夫の「日本人の宗教」』
(梅棹忠夫:著・中牧弘充:編著・淡交社)

『梅棹忠夫の「日本人の宗教」』がとどく。
「梅棹忠夫生誕100年記念出版」なのだそうだ。
梅棹さんがなくなって10年がたつのに、
いまもなおポツリポツリと、
梅棹さんの本をよめるのはありがたい。

内容は、
第1章 幻の著書『日本人の宗教』を追跡する(中牧弘充)
第2章 宗教の比較文明論(梅棹忠夫)
第3章 民俗学者の発想「宗教について」(梅棹と中牧との対談)
となっている。

第1章の「幻の著書『日本人の宗教』」というのは、
「幻の著書」とは、もともと梅棹さんが淡交社から
『日本人の宗教』として依頼された本だったからだ。
これは『世界の宗教』(全12巻)の最終巻に位置づけられていた。
梅棹さんはさまざまな理由からこの本をかきあげらなかったものの、
準備としてかかれた「こざね」が、梅棹資料室にのこされていた。
そのこざねをもとに、梅棹さんがかきたかったであろう内容を、
中牧弘充さんが「追跡し、推理」してまとめ、本書となった。
淡交社の方々は、まさか企画の50年後に、
このような形で もとのタイトルどおりの本が
発行できるとはおもわなかっただろう。
おそろしく気のながい仕事をやりとげられた。

それにしても、「こざね」がのこされていてよかった。
完全にならべおえたこざねでなくても、こざねさえあれば、
あるていど梅棹さんがかきたかった内容を推察できる。
こざねは、執筆内容を整理するだけでなく、
本人にかわり、原稿のラフスケッチも しめしてもくれる。

「まえがき」のさいごには、
本書の姉妹編ともいうべき
『梅棹忠夫の「人類の未来」』が紹介されている。
この本は、1970年ごろに、
河出書房が企画した『世界の歴史』(全25巻)の
最終巻に予定されていたものの、
『日本人の宗教』とおなじように、実現する日はこなかった。
のちに小長谷有紀さんが「こざね」を資料としてまとめたものが、
『梅棹忠夫の「人類の未来」』として発行された。

どちらもの本も、シリーズの最終巻として期待されていたのに、
梅棹さん本人の著作とならなかったのがくやまれる。
ただ、梅棹さんが亡くなってからも、
こうして1冊の本としてよめるのだから、
中牧弘充さんほか、たずさわった方々、また淡交社に感謝したい。
ひさしぶりに手にした梅棹さんの本がたのしみだ。

posted by カルピス at 15:47 | Comment(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月26日

映画『風と共に去りぬ』にひそむ人種差別

映画『風と共に去りぬ』が、黒人差別的だという理由から、
アメリカの動画配信サービス
「HBO Max」のラインナップからはずされた、
ときょうの朝日新聞にのっていた。
脚本家のジョン=リドリー氏による批判がきっかけだという。
映画は南北戦争前の南部を美化し、有色人種の最も痛ましいステレオタイプを永続させている

わたしが高校生のころ『風と共に去りぬ』をみたとき、
「奴隷制って、そんなにわるくなさそうじゃない?」
という感想をもった。
スカーレットにつく めしつかいの黒人女性は、
お屋敷のすべてをしきってるようだったし、
男性の使用人も、やりがいをもってはたらいていた。
黒人と白人が、おたがいにたすけあって生きているようにみえた。
うっかり そうおもわせてしまうつくりだから
この作品が問題にされるのだろう。
奴隷制や人種差別についての知識がないと、
映画をみたとおりにしんじてしまう。
「HBO Max」は、本編のまえに歴史の解説をつけたうえで、
ふたたび『風と共に去りぬ』の配信をはじめたという。

アメリカのミネアポリスで、黒人のフロイド氏が
警官にころされた事件から1ヶ月以上すぎた。
アメリカだけでなく、世界じゅうで抗議のうごきがつづいている。
アメリカはなんてひどい国だろう、と批判するのはかんたんだけど、
日本にだって外国人にたいする差別があるし、
女性差別、障害者差別と、あらゆるところに差別がはびこっている。
フロイド氏の事件がきっかけで、
アメリカの黒人だけでなく、白人も参加して、
人種差別に抗議するうごきがたかまっているという。
白人にとっても、いまのアメリカにのこる差別問題は、
けして他人事でなくなっているのだろう。
そんなふうにして、目のまえにおきていることに、
声をだしていくしかない。
『風と共に去りぬ』のあつかいはそのひとつであり、
かつては『ちびくろサンボ』が問題視されたし、
色えんぴつからは「はだいろ」がなくなった。
フロイド氏の事件をおもくうけとめ、
人種差別がなくなる方向へ 世界がかわるよう ねがっている。

posted by カルピス at 21:40 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月25日

ヒロシさんのひとりキャンプがたのしそうだった

ステイホームのとき、
キャンプ用のコンロで料理したら
キャンプした気になって たのしかった、
とネットにのっていた。
「キャンプ」の用意をするのも、
あとかたづけも楽なので、いいあそびかもしれない。

ヒロシさんのひとりキャンプをテレビでみた。
キャンプ場へゆき、たき火をして、
その火をつかって料理している。
食材は、キャンプ場にいくとちゅうのスーパーで、
気にいったものをかっていた。
家でのキャンプごっこより、ずっとほんものっぽいけど、
ひとりでキャンプして、
なにがおもしろいのだろうとはじめはおもった。
わたしもひとりキャンプをしたことがあるし、
ともだちとふたりだったときもある。
ひとりのときは、つきあってくれるひとがいなかったからで、
だれかつれがあったほうがわたしはたのしい。
ひとりキャンプは、ご飯をたべるとあとはすることがなく、
酒をのみ、はやばやとテントにはいって
ヘッドライトのあかりで本をよむぐらいだ。

ヒロシさんは、だれかといっしょだと
自分のすきなスタイルをじゃまされてたのしくないし、
気をつかうのもいやだとはなしていた。
ヒロシさんはお酒をのまないので、
ご飯をたべるとハンモックにあがり、
まわりの景色をみながらねむりにつく。
じっさいは、なんにんかでキャンプ場にでかけ、
むこうでは、ひとりひとりが自分で料理する、という
グループでのひとりキャンプのことがおおいらしい。
さみしくないし、おしゃべりはできるし、
自分がやりたいことをじゃまするひともいないし、
ひとりキャンプのよさと、グループキャンプのよさの
両方をたのしめそうだ。
恋人以外とおなじテントですごしても、いいことはないので、
なんにんかでいくひとりキャンプはいい方法だとおもう。

ヒロシさんはテントはつかわない主義のようで、
テレビでみたときは、ハンモックとタープをくみあわせていた。
テントをはるのはそうめんどくさくないけど、
テントのなかはりっぱな部屋ともいえ、
外でねる気分をあじわいたいのなら、
テントをつかわないほうがいい。
わたしは かとうちひろさんの『野宿入門』をよみ、
かとうさんの自由さにあこがれた。
でも、行動がともなわない。
野宿をしたいといいながら、夏のあつさ、
冬のさむさが我慢できないし、蚊になやまされたくもない。
なんだかんだいっても、快適さによわいわたしは、
家でのキャンプがおにあいかもしれない。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月24日

安倍首相とトランプ大統領をスルーする提案

ネットや新聞には、日本では安倍首相(および自民党)、
世界ではアメリカのトランプ大統領についての
あれやこれやがたくさんのっている。
よむにあたいする記事はすくないので、
いつからか このふたつについての記事を
完全に黙殺するようにした。
いい気分でいられるし、時間の節約につながる。
よんでも、まずまちがいなくろく でもない内容であり、
だったらはじめからよまないほうが精神衛生のためだ。
トランプ大統領は、自分に注目してほしいから、
ショッキングな発言をくりかえすのであり、
そこらへんは金正恩氏とよくにている。
いまは自分の再選しかあたまにない。
そんなのにつきあうのは、トランプ氏のおもうつぼだ。

いまのご時世で、コロナから目をそらすのはむつかしいけど、
コロナ記事のおおくはゴシップでしかない。
記事はよまないで、感染者数のうつりかわりだけに目をとおせば、
おおかたの状況がわかる。
わたしはもともとツイッターとフェイスブック、
そしてインスタグラムに関心がないので、
安倍首相(および自民党)・トランプ大統領
・新型コロナウイルスさえやりすごせば、
時間のロスをまぬがれ、やすらかな気もちですごせる。

安倍首相やトランプ大統領が、どうかなったとしても
わたしの感情に影響はおよぼさないけど、
コロナがおちつけば、ささやかなおいわいをしたい。
わたしは温泉の とくに熱心なファンではなく、
冬でもひとりでいくことはない。
でも、コロナがおちついた記念に日がえり温泉、というのは
ささやかなイベントとなり、なんだかたのしそうだ。
温泉でなくても、コロナの名前をだせば、ぜんぶイベントとなる。
コロナあけだから、と外食にでれば たのしそうだし、
コロナあけの旅行はいまからまちどおしい。
コロナによる中断があったからこそ、ありがたさが身にしみるだろう。

posted by カルピス at 20:58 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月23日

『サラバ!』(西加奈子)「ものがたり」を堪能する

『サラバ!』(西加奈子・小学館文庫)

上・中・下の3冊にわかれている。
単行本のときは、さぞあつい本だったのだろう。
父親の派遣さきである、イランのテヘランでうまれた「僕」が、
37歳になるまでのものがたりだ。
つよい個性をもつ母親と姉をみてそだった「僕」(歩)は、
つねにうけみで、波かぜをたたせないよう生きてきた。
イラン革命がおき、いったんは日本へもどった「僕」の家族は、
5年後にエジプトのカイロへむかう。
父親が海外勤務のおおい会社にいるためであり、
こうした外国での体験が、歩の家族におおきな影響をあたえた。
ものがたりが本格的にうごきはじめるのは、
一家がエジプトから日本にもどってからだ。
10歳になっていた「僕」は、これまでの経験をいかし、
ますますあたりさわりのない立場でいるよう配慮し、
中学・高校と、うまくきりぬけ、にげるように東京の大学へとすすむ。
自分とむきあわなかったツケは、30歳をすぎてからやってくる。

歩は、大学生活をたのしんだのち、フリーライターになる。
いちじは各方面から注目され、
確固たるポジションをきずいたようにみえたけど、
薄毛になったのをきっかけに、自信をうしない、
ゴロゴロと坂道をころがりおちていく。
ひっこみじあんになり、姿勢は猫背で、
恋人からみはなされ、家からでない生活からふとりはじめた。
なんとか歩くんをたすけてやってくれと、
作者におねがいしたくなるほどのおちぶれ方だ。
どん底をみた歩くんが、ラストでは自分でたちなおっていく。
かつて自分がすごしたカイロ、さらにテヘランをたずね、
自分をしんじるちからに気づいていく。

それにしても、家族のそれぞれに、
こんなにもいろんなことが人生でおきるものだろうか。
お姉さんは、幼稚園のころから問題児で、
ひきこもったり、教祖みたいな存在になったりと、
つねに「僕」の人生をおちつかなくしてしまう。
それが、ながい旅にでたのがきっかけで、
さまざまな体験から、ようやく自分がしんじるものにであえた。
お母さんは、日本にかえると
すぐにお父さんと離婚し、のちに再婚。
お父さんは、つねにやさしいひとで、
こまったひとには金銭的な援助をおしまない。
お母さんが再婚したのをみて、こころやすらかに出家する。
海外勤務とか、出家とかいうと、ハデな人生にみえるけど、
どの家にもおこりがちな山や谷のひとつでしかないともいえる。
歩は、お母さんの再婚や、お父さんの出家を、
おおげさにさわぎたてたけど、
わたしにはごく自然なながれにみえた。
どの家族にも、それぞれに栄枯盛衰があり、
どこに焦点をあて、どうかくかのちがいだけだ。

歩が高校生のとき、同級生が『ホテル・ニューハンプシャー』
をよんでいたのがきっかけで親友となった。
ジョン=アービングのこの小説は、
家族小説であること以外、まるでちがうはなしだけど、
「ものがたり」のちからをかんじさせる点では
『サラバ!』と にたところがある。

又吉直樹さんの解説がうまい。
ながい小説をよみおえた読者の興奮によりそい、
おおくのできごとをじょうずに整理してみせる。
『サラバ!』はちからにあふれた小説であり、
本をよむたのしさをぞんぶんにあじわった。

posted by カルピス at 22:09 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月22日

「KUKO(クーコ)」が開店しました

わたしが仕事をしているクッキー班に、
あたらしい工房がくわわった。
名前は「KUKO(クーコ)」。
英語やフランス語をお店の名前にしたくなかったので、
エスペラント語に適当なことばがないか ネットでしらべた。
クーコがよさそうだ。クーコにしよう。
エスペラント語で、ケーキや やき菓子のことらしい。
エスペラント語には、クッキーとしてべつの単語があったけど、
つづりがややこしいし、発音になじみがなかった。
かんたんにかけて、口にだしやすいクーコにする。
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クーコは、お店の部分と、クッキーをつくる部屋にわかれている。
お客さんがお店にはいると、いろんなクッキーがえらべるし、
クッキー工房のメンバーが、
仕事をしている場面が目にはいるつくりになっている。
きょうとあすが 開店記念日と、保護者にはチラシをくばった。
まったくクーコをしらない とおりすがりのひとも
なんにんか店にはいり、クッキーをかってくれた。
いりぐちに、「KUKO」とかかれているけど、
いったいなんのお店だろうと、気になっていたひとがいたようだ。
KUKOはクッキーをつくり、その場でうるお店です。
お店でコーヒーをのみながら、クッキーをたべることもできます。
ご来店をおまちしています。
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2020年06月21日

いまさらながら『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
(タランティーノ:監督・2019年・アメリカ)

むだなおしゃべりがやたらにおおく、
いったいなにがいいたいのかよくわからないまま
ずるずるとストーリーがすすんでいく。
ラストは、ディカプリオの家におしいってきたヒッピーたちを、
プラピとディカプリオがめちゃくちゃな暴力でやっつけて、
おとなりさんから「たいへんだったね」と家に招待される。
そこでエンディングとなるのだけど、
わたしは、いままでがながすぎたオープンングで、
本編がここからはじまるのかとおもった。
タランティーノ作品らしい、いかれた映画だ。
わるくないけど、え、これでおわり?とずっこけた。
まあ、ディカプリオとブラピが主役で、
タランティーノ作品なのだから、いいじゃないの、というかんじ。

ディカプリオは、おちめの役者リック=ダルトンをえんじ、
ブラピはクリフ=ブース役で彼のスタントマンをつとめる。
ブラピは過去になにかと問題をおこし、
いまではスタントマンの仕事がまわってこない。
ディカプリオは、酒をのみすぎて、
セリフをおぼえられなくなった、おちめの役者だ。
むかしは主演をつとめてきたキャリアがありながら、
いまでは自信をなくし、2番目のポジションで満足している。
8歳の子役に演技をほめられてなみだぐんだり、
なんとかぶじに演技をおえると、緊張がほぐれてぐったりとなる。
ディカプリオがよくこの役をひきうけたとおもう。
自宅ちかくにまぎれこんだヒッピーにわめきちらしたり、
プールにゴムボートをうかべて酒をのむのが習慣だったりと、
いいとこなしのディカプリオにくらべ、
ブラピは自分をうしなわず、なにをやってもかっこいい男だ。

おちめのディカプリオに、これからイタリアへいって
マカロニウエスタンにでろとすすめるプロデューサーが
アルパチーノだったとは、わからなかった。
映画『大脱走』の撮影現場で
ディカプリオがオーディションをうけていたり、
プラピがブルース=リーとカンフーでたたかったりと、
いろんとあそんであり、ゴージャスな作品にしあがっている。

ネットには「シャロン=テート事件」が背景と、
さかんにかかれているけど、そんなのしらなくても
この作品をみるぶんにはぜんぜんかまわない。
シャロン=テート役のマーゴット=ロビーが
ミニスカートをひらひらさせてあるくのが かわいい。
60年代のハリウッドの雰囲気を、
タランティーノがお金をたっぷりかけて再現した作品だ。

posted by カルピス at 21:02 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月20日

プロ野球開幕と妖精さんと「ブラック・ライブズ・マター」

きのうからプロ野球がはじまり、無観客で試合がおこなわれた。
そしてけさの新聞に、スタンドは球団マスコットだけ、
という写真がのっていた。
なんとか開幕にこぎつけたプロ野球おめでとう、だけど、
無観客のスタンドが異様だ。
会場は京セラドームなので、試合をみまもるマスコットは
バファローブルくん。
着ぐるみではなく、頭だけおおきなかぶりものをしている
(球団によっては着ぐるみのところもある)。
あんなのを頭にかぶっていたら、マスクどころじゃなく
息ぐるしいだろうなー、というのをまずおもった。
すずしくなるような工夫がある程度はしてあるのだろうけど、
それでもあのでかい頭はジャマそうだ。
ちなみに、バファローブルくんは、マスクをしていなかった。

デイリーポータルZにトルーさんの
「マックのファインダーのアイコンみたいな顔
 してるくせになんにもできない人」
がのっていた。
https://dailyportalz.jp/kiji/doyo-otayori2020-06-20
「アルファベットが大文字しか打てなくなっちゃんったんだけど、
 どうしたらいいの?」
と部下(同僚かも)にたずねている。
ほとんど仕事をしないのに、
なんとなく会社にいる「妖精さん」のとことをおもった。
https://news.yahoo.co.jp/byline/torusaito/20191128-00152422/
でも、このひとは、仕事ができなくても
ぜんぜんうしろめたくなさそうなので、
ただのこまったおじさんかもしれない。

ほぼ日の「今日のダーリン」に、
パンの耳やピザのまわりの部分がすき、
というはなしがのっていた。
糸井さんは、パンの耳がすきだけど、
そればっかりでは、「少し怒る」そうだ。
よんでいて、これは
「ブラック・ライブズ・マター」のことかとおもった。
でも、よくよめば、ぜんぜんちがっていた。
「ブラック・ライブズ・マター」って、
どう訳せばいいのだろう。

posted by カルピス at 17:35 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月19日

花澤香菜さんがうたう「Qunka!」は「インドの音楽の10分の10」らしい

いまわたしがいちばんすきな曲は、
花澤香菜さんがうたう「Qunka!」(クンカ)なので、
ときどきユーチューブできいている。
https://www.youtube.com/watch?v=TvEPpl19joI
「Qunka!」とは
「アニメ『てーきゅう』第5期のオープニングテーマ」なのだそうだ。
はじめてきいたときに、すっかりおどろいてしまい、
興奮のまま記事をかいたことがある。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/461627888.html
インドっぽいメロディで、
ズンドコズンドコすごい迫力にのせられて、
フライドパンツをつくるところがとくにすごい。
ユーチューブには、
インドから来ました... そして、私は本当に混乱しています。これは本当に正確なインドの音楽の10分の10です。NANI KORE WA ?!
というコメントがよせられている。
インドのひとがほんものとみとめるぐらい すごい曲だったのだ。
もっとも、このコメントをかいたひとが、
ほんとに「インドから来」たひとかどうか、わからない。
わからないけど、
「本当に正確なインドの音楽の10分の10です」
なんていわれるとすごくうれしい。
これだけ怒涛のもりあがりをうみだすには、
レコーディングに1ヶ月くらいかけて、
演奏と歌とをぴったりあわせたにちがいない。
あれだけの歌詞をおぼえるだけでたいへんだろうし。
いやいや、花澤さんが、そんなありふれた努力を
ひとつの曲にかたむけるわけがない。
きっと花澤さんは、これぐらいの曲だったら、
ほんのちょっと歌詞とメロディにふれただけで、
楽々と自分のものにしたにちがいない。
それぐらいとんでもない才能を、
クンカをうたう花澤さんからかんじる。
この曲によって、インドの伝統文化と、日本のアニメがかみあわさり、
あたらしい地平線のひろがりがみえた。
タグ:花澤香菜

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月18日

あんまりつかわないのに、iPhoneがいいとおもえるのが iPhoneのよさ

iPhoneSEがとどいてから1ヶ月になる。
あまりスマホをつかわないわたしなので、
iPhoneだろうがアンドロイドだろうが、
たいしてちがいはないのでは、とおもっていた。
でも、さわってみると ぜんぜんちがう。
パソコンはずっとアップルをつかっているわたしにとって、
ものごとがあるべきところおちついたかんじだ。

iPhoneにしてよかったのは、あんまりつかわないので、
3日にいちどしか充電しなくてもいい。
わたしに用があるひとはきわめてすくないので、
こわれているのかとおもうぐらい、着信音がしない。
逆説的にいうと、こんなにつかわないのに、
それでもiPhoneがいいとおもえるのが
iPhoneのよさなのだろう。

高野秀行さんのブログをよんでいたら、
「電話不携帯のやめられない快適さ」
のはなしがおかしかった。
https://aisa.ne.jp/mbembe/archives/3508
携帯電話が壊れたままだ。でもあまり積極的に修理する気にならない。
というのは、二ヵ月のタイ旅行で、誰とも電話をしない生活に慣れきってしまい、必要性を感じなくなってしまったからだ。(中略)
 必要なことはメールで十分である。iPhoneがあるから、急ぎの話もメールでほぼ解決する。

(註:これを読んだ人はきっと「iPhoneで電話すりゃいいじゃん!」と突っ込むだろうが、私はいろいろな間違った事情からiPhone電話を使用していない。使い方もよくわからないし、友人知人の電話番号も登録されていない。名刺にもメールにもその番号は載せていないから(私自身、昨日まで自分の番号を知らなかった)、誰もかけてきようがない−-という体たらくなのです)

iPhoneをもっているのに、電話としてのつかい方がわからないし、
自分の番号もしらないという「間違い方」がさすがに高野さんだ。
たしかに、かかってきてうれしい電話なんて、まずない。
たいてい仕事がらみで、業務連絡にすぎない。
iPhoneにしただけでうかれてしまった自分がはずかしい。

posted by カルピス at 22:13 | Comment(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月17日

「新しい生活様式」およびコロナ全般へのうらみ・つらみがたのしい向谷実さん

「らじるらじる」のききのがし配信で、
「音楽遊覧飛行・ミュージックエキスプレス」をきく。
担当は向谷実さん。

向谷実さんは、6月に計画していたコンサートが、
新型コロナウイルスの影響で延期となり、
かなりコロナに不満およびうらみがたまっているようだ。
きょうは、コロナへのグチをたくさんきけた。
あかるい声ではなされるので、くらい気分にはならないけど、
向谷さんは、そうとうコロナにくしの心境とみた。

番組がはじまるときのあいさつでは、
「新型コロナウイルスの影響でたいへんなことになってる」を
ふつかつづけてはなしていた
(ためとりしてるので、あたりまえかも)。
ほかにも、ことばのはしばしに、
コロナウイルスのやつめ、という感情をのぞかせる。

そのうち、「新しい生活様式」って、
ほんとにそこまでやらなければいけないんですかね、
がポロっとこぼれた。
さすがにそんなことをいってはまずかも、と
あわてて発言を撤回し、
みんなで「新しい生活様式」をがんばりましょう、
なんて いいつくろっていた。
向谷さんは、自粛期間中、ずっと家にいて、
このまえやっと会社にいけたのだという。
業務内容は、「命をまもること」。
コロナに文句をいってみても、
だいじなのは命であるとちゃんとわかっているからこそ
こんな業務内容がでてくるのだろう。

火曜日は、雨をテーマにした曲がかかる。
うっとおしい梅雨にはいったけど、じめじめをふきとばしましょうと、
月曜は「気分盛り上げ系のジャズ・フュージョン」だったのに、
つぎの日は一転して 雨には雨、なのだそうだ。
といっておきながら、番組の後半には、
かまやつひろしの「どうにかなるさ」がかかる。
この曲、雨とぜんぜん関係ないんですけどね、
と向谷さんは自分でつっこんでいる。
もともと鉄道とはまったく関係ない曲をながしながら、
「鉄道と音楽をテーマに」する番組といってるのだから、
雨と関係ない曲がかかっても、どうってことない。

「どうにかなるさ」がはやっていたころ、
鉄道オタクの向谷さんは、
鉄道の写真をとりながら「どうにかなるさ」を
うたっていたのだそうだ。
うー、いいおもいでだなー、といっておいて、
「新しい生活様式」でがんばりますけどね、
とまだいってる。
きょうは、なんども関係ないところで
「新しい生活様式」をがんばります、をきく。
冒頭の失言をおぎなうというより、
コロナに因縁をつけたがる向谷さん。おもしろいおじさんだ。
たいていの番組が、まじめな顔をして
コロナとのつきあいかたなんかをとりあげるのにたいし、
向谷さんはずっとコロナへのグチをこぼしている。
影響のすくないラジオだからできるのかもしれないけど、
向谷さんみたいに本音をいってくれたほうが信用できる。
これだけコロナへのうらみ・つらみを、
かくさずに口にしてくれる番組はめずらしい。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月16日

tofubeatsさんに便乗して、私が選んだデイリーポータルZベスト盤(2020年)

「私が選んだデイリーポータルZベスト盤:tofubeatsさん」
がデイリーポータルZファンのわたしをよろこばせた。
https://dailyportalz.jp/kiji/my-best-tofubeats
これは、読者をたずね
「デイリーポータルZの好きな記事」
をおしえてもらう企画で、
デイリーポータルZをたかく評価している著名人が、
すきな記事についてはなしている。
今回の読者ゲストはtofubeatsさん。
2007年くらいから読み始め、今も毎日チェックしています。
だから今回のオファーはとても光栄でしたが、インタビュー実施まで少し時間をくださいとお願いしたんです。生半可な態度で受けるのは嫌だったので、もう一度しっかり読み返そうと。

オファーをうけたtofubeatsさんは本気だった。
tofubeatsさんは大北さんの記事がすきだそうで、
わたしとこのみがあってるのもうれしい。

記事のおわりに「tofubeatsさんオススメ記事」
のリストがのっている。
わたしは2012年からのファンなので、
みのがしてきた記事もおおい。なかでも、
「iPhoneがバリバリの人を映画化したやつ公開」
https://dailyportalz.jp/kiji/171228201595
は、非常によくとれた映画だ。

わたしがこれまでエバーノートにとりこんだ
デイリーポータルZの記事が640ある。
気にいった、という意味にくわえ、
これだけばかばかしいことによくとりくんだ、
という意味もあるし、
後世にのこせる資料として とっておきたかったものもある。
tofubeatsさんみたいに、
わたしのベスト盤をリストアップしようとおもったけど、
640に目をとおすのはあまりにもたいへんだ。
いっきょに規模をちいさくして、
2020年にかぎってのベストをあげてみる。
とおもってたら、2019年の12月にすきな記事があったので、
12月からも3つくわえた。

・ナンバープレートの地名の文字を愛でる会
https://dailyportalz.jp/kiji/love_number_plate_font
・東京アラートって何!?私たちも東京アラートになりたい!
https://dailyportalz.jp/kiji/i-am-tokyo_alert
・「※〇月〇日に撮影したものです。」を自動表示させてみた
https://dailyportalz.jp/kiji/satsueibi-jidou-hyouji
・家に眠る40年前のお酒を開ける
https://dailyportalz.jp/kiji/open-old-liquor
・家の調味料お湯で割って全部飲む大作戦
https://dailyportalz.jp/kiji/choumiryo-oyu-de-waru
・蚊取り線香をまっすぐにする
https://dailyportalz.jp/kiji/katoru_senko-massugu
・喫茶 デイリーポータルZ
https://dailyportalz.jp/special/cafe/#023
・ボスニア・ヘルツェゴビナの地図帳を読む
https://dailyportalz.jp/kiji/atlas_of_Bosnia-and-Herzegovina
・片道1万円で極夜の北極圏に行く
https://dailyportalz.jp/kiji/tromso-kyokuya
・雪の宿をなめると聴こえる雪の宿の音
https://dailyportalz.jp/kiji/hear-the-yukinoyado-sing
・逃げ切れるか!めんつゆバターごま油のうまさから
https://dailyportalz.jp/kiji/run-away-from-mentsuyu-butter-sesame_oil
・飲み会に代わるなにかを見つけ出す
https://dailyportalz.jp/kiji/alternative-to-drinking
・あのとき母は21秒でお弁当を作った
https://dailyportalz.jp/kiji/21_seconds-lunch
・牛乳は、牛乳1:水2で薄めて使うとちょうどいい
https://dailyportalz.jp/kiji/milk-usumete-tukau

毎日4本のあたらしい記事をよめるは、とてもありがたい。
コロナの感染で社会がかわっても、デイリーポータルZは
あいかわらずどうでもいい記事をのせつづけてくれる。

posted by カルピス at 22:09 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月15日

「村上RADIO」をききのがしてしまった

ゆうべ放送された「村上RADIO」をききのがしてしまった。
夜7時からなので、いつもなら夕ごはんをつくっている時間だ。
わすれないようほぼ日手帳にかきこんでおいたし、
料理しながらきけるよう、ブルートゥーススピーカーを用意して、と
準備万端にこの時間をむかえるはずだったのに。
ききのがし放送がないかしらべたけど、どうも対象外みたいだ。
残念だし、くやしい。

「村上RADIO」のサイトをひらき、
村上さんのおしゃべりをよみ、
かけられた曲のいくつかをきく。

今回は「(あくまで個人的な)特選オールディーズ」だったらしい。
村上さんが時代と音楽をきれいに整理している。
よく「激動の1960年代」みたいなことが言われますが、それはあくまで60年代後半の話であって、前半は文化的にはかなりのんびりした時代でした。(中略)ビートルズやらサイケデリック、アートロックみたいなのが登場してくるまでの五年間は、まさにお気楽ポップスの全盛期でした。

能天気で、すごくたのしそうだ。
ビートルズが出てきて間もなく、音楽シーンががらっとスリリングに変わっちゃうんだけど、それより前のポップ・ミュージックには「お気楽」っていうか、蛇が出てくる前の「エデンの園」みたいなのどかな雰囲気が漂っていました。でもその中ではElvis Presleyは別格でした。

村上さんがプレスリーのファンだとはしらなかった。
「蛇が出てくる前の『エデンの園』みたいなのどかな雰囲気」
なんて、村上さんらしい比喩がおかしい。
ヘビがでてくるまえの「エデンの園」。いってみたい。

サム=クックの“Wonderful World”のはなしは、
村上さんのエッセイでよんだことがある。
村上さんが更衣室で
“Don't know much about history”(歴史は苦手だ)と口ずさんだら、
だれかが“Don't know much about biology”(生物も苦手だ)と
つづきをうたった、というから、よくできている。
わたしだってこの曲をなんどもききかえし、
口にだしてもみたけど さっぱりうまくいかない。
サム=クックはさらっとうたっているのに、
わたしの口のうごきでは、とてもあの歌詞は はいりきらない。

「今日の言葉」にはマドンナがえらばれた。
実際の私はナイス・ガールなの。でもね、とことんビッチになることもできる。私は完全主義者で、いつもプレッシャーを感じ続けている。そしてそれを乗り切るには、時としてビッチにならざるを得ないのよ

もいいなー。
「とことんビッチになることもできる」
すばらしい。ナイス・ガールはそうでなくっちゃ。
ネットでよむのではなく、
村上さんのおしゃべりでききたかった。

posted by カルピス at 21:22 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月14日

『戦争は女の顔をしていない』(小梅けいと)独ソ戦でのソビエト従軍女性

『戦争は女の顔をしていない』(小梅けいと・KADOKAWA)

原作は、500人以上のソビエト従軍女性を取材したもので、
本書は小梅けいとさんによる、その漫画版だ。
漫画版のちかくに、原作もおいてあったけど、
第二次世界大戦におけるソビエト人女性兵のはなしを、
いきなり文章でよんでもわたしには想像しにくいかもしれない。
まず、漫画版のほうをよんでみよう。

第二次世界大戦におけるソビエトの被害者数は、
2000万人とも3000万人ともいわれている。
本書のおわりにあるコラム「大祖国戦争」を
監修の速水さんがかいており、
それによると軍人と民間人をあわせ、2700万人がなくなったという。
当時のソビエトの人口が1億9000万人なので、
人口の14%をうしなったことになる。
ドイツは800万人、日本は300万人なので、
ソビエトはけたちがいの犠牲をだしている。
独ソ戦は、歴史的にも類をみない戦争だったのだ。

女性の兵士が、軍隊においてどれだけ一般的かはしらなけど、
ソビエトでは、はやくから女性を戦場におくりこんでいる。
本書をよんでいると、映画『ロシアンスナイパー』をおもいだした。
狙撃兵として、300人以上のドイツ兵をうちころした女性が主人公だ。
ソビエト側からえがかれた戦争映画はみたことがないので、
おおくの犠牲者をだした対ドイツ戦につよい印象をうけた。
なによりも、ソビエトでは、
女性兵がそれほど特別な存在ではなさそうだった。
味方の男性兵士からも差別の目をむけられながら、
過酷な戦場で、主人公の彼女は 自分がするべき任務をはたす。

本書の第一話は、洗濯部隊のはなしだ。
女性だけからなるこの部隊は、
戦場にでかけ、ひたすら洗濯する。
まともな石鹸がないので、手があれて、爪がはがれたりする。
これまでみた映画に、洗濯部隊がでてきたものはない。
そういえば、ほかの国の兵士たちは、
よごれた軍服をどうやってあらっていたのだろう。

第三話では、ソビエト兵が「ロシア兵魂」を発揮して、
捕虜にあたたかい食事をわける場面がでてくるけど、
独ソ戦ではありえないような気がする。
映画にでてくるソビエト兵は、
あたたかみのないひとばかりだから、
そんなふうにおもいこまされているのだろうか。

ぜんたいとしては本書をおもしろくよんだけれど、
絵はそんなにうまくなく、なによりも、
ソビエト人をかくのになれていないかんじで、
少女漫画的な人物がえがかれている。
それでも、女性たちの愛国心と、
女性兵ならではのたいへんさがよくつたわってくる。
本書により、ソビエトの従軍女性をすこしはしることができた。
つづきは原作でよんでみたい。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月13日

ラジオマンジャックの生放送再開と、サンチャゴ巡礼

「ラジオマンジャック」(NHK-FM)は、先週から
「スタジオからの生放送」になっている。
まだレギュラー全員はあつまれず、
赤坂さん・時東さん・門司さん、3人による放送として再開された。
3人はそれぞれ距離をおき、マスクをつけ、
スタジオのドアもあけはなっているそうだ。
内容は、生放送と、名作選の両方をまじえている。
番組におくられてくるメールからは、
こういう無駄な番組があるすばらしさ、みたいなニュアンスで、
ひさしぶりの生放送をよろこぶ声がきこえてくる。
いつもの時間に、いつもの番組を、みんなもとめている。
それが日常の象徴だから。
あんまりもちあげられると赤坂さんはてれくさいようで、
「あっ!いたの」ぐらいのあつかいでちょうどいい、
なんていってる。気もちはよくわかる。
あまりひなたに位置づけられ、いいこになってしまったら
おもしろみがなくなる番組だろう。
きょうは「除菌モード全開」でとどけてくれるという。
誤字脱字番組なので、こまかいことはほっといて、ともいわれた。
「ラデツキー行進曲」にあわせた赤坂さんの歌がおかしかった。
生放送は、やっぱ、いいなー、とおもったら、以前の企画だった。
けっきょくどっちでもよかったりして。

新型コロナウイルス対策がととのってくると、
状況にあわせたマニュアルができて、コロナがあるのを前提とした、
コロナとつきあいながらの生活があたりまえになってくる。
感染が完全にはおさまらなくても、ラジオマンジャックのように、
スタッフの人数を制限し、スタジオでの収録がつづけられる。
せんじつの記事でかいたように、
わたしがいくプールも「新しい利用方法」をとりいれて、
利用できるようになった。
更衣室はリスクがたかいということで、
ジムを利用するひとは、更衣室、そしてシャワーがつかえない。
プールを利用するには、会議室が更衣室になり、
いちどに7人まで、という制限がかかっている。
施設にはいるにはマスクをつけなければならないし、
はいるとき・でるときは、消毒がもとめられている。
映画では、県民会館が、500席あるホールの定員を100人にして、
おためしの上映会をこころみだした。
ホールや映画館は、こんな形でつかうようになるのだろう。
わたしがにがてなマスクとソーシャルディスタンスは、
あと何年か つきあわないといけないのかも。

NHKーBSでサンチャゴ=デ=コンポステーラの巡礼をとりあげていた。
わたしも、いつかあるいてみたい、とおもっている巡礼コースだ。
番組によると、宗教への関心はひくくなっているのに、
ながい距離をあるく「旅」として、だんだん人気がでているという。
コロナの影響で、いまは巡礼旅はできないだろう。
65歳に実行しようとおもっていたので、
そのときまでには、自由に国境をいききし、
旅行ができるようになっているだろう。
わたしにとっては6年さき ぐらいがちょうどいい。

番組としてとりあげるから当然とはいえ、
巡礼をしているひとは、それぞれなやみをかかえている。
まじめに仕事をしすぎて、つかれはてたひとや、
ちいさいころからゆっくりものごとをすすめられず、
ついセカセカとうごいてしまうひと。
もっと楽に生きられたらいいのに、とおもった。
巡礼路をあるいていると、まわりにたすけられて、
やさしい気もちになれた、みたいなことをみんないう。
わたしは、もし1600キロをあるきとおしても、
きっとなにもかわらないとおもう。
ひとにやさしくなんて、なれそうにない。
それでもサンチャゴへの道をあるくときめている。

posted by カルピス at 20:23 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月12日

伊藤理佐さんの「あるのか?わたし」がおかしかった

伊藤理佐さんの「あるのか?わたし」がおかしかった
(朝日新聞に隔週で連載される「オトナになった女子たちへ)。
タイトルは、「わたしは、ジュリアナ東京へいったことあるか?」。
もうひとつ問題があって、それは
「わたしは、マクドナルドの
 フィレオフィッシュバーガーを食べたことあるか?」。
いったのか、たべたのか、自信がないそうだ。
そして、おわりのほうで、
富士山をみる目が、この問題にむかうときの ヒントをおしえてくれる。
 ところで。
富士山は圧倒的に富士山なのだそうだ。
「あの山は富士山?」
と、「?」がついたら、もうその山は、富士山じゃないんだそーだ。富士山はただ、ただ、
「あ、富士山・・・!」
となる、のだそうだ。

富士山でおもいだしたのは ダニのはなしだ。
ダニにかまれてかゆいような気がするけど、
これはほんとにダニなのだろうか、とまよったら、
ダニではない、というのをきいたことがある。
もしダニだったとしたら、まよわないぐらい
強烈にかゆいのだそうだ。
おなじように、50肩かな?とおもったら、それは50肩ではない。
もし50肩だったら、「かな?」ぐらいのいたみではすまないから。
名づけて、「まよったら、ちがう」の法則。
世界はシンプルにできていて、「はい・いいえ」のふたつしかない。
中間はない。どっちかなー、とかんがえたら、
それだけですでにこたえがでている。いいえ、なのだ。

といいつつ、優柔不断にまようのはあんがいすきだ。
たとえばお酒をかいにイオンへいったとき、
ジンをかうか、ウィスキーにするか、
1本にするか、2本のほうがいいか、
ビールはどの銘柄にするか、白ワインの値段は、など
たいしたことないことについて、いちいちまよう。
とくにおおきなかいものでないときでも、ちゃんとためらう。
不毛な時間であり、もったいないだけなのに、
ああでもない、こうでもないとかんがえる。
そんなふうにまようのが人生、という気がしている。
ごくささいなことにまよっていると、
自分の人生をいきている手ごたえがある。

posted by カルピス at 20:19 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月11日

映画『タイタニック』のおもいで

車のなかでラジオ番組の「音楽遊覧船」をきいていたら
映画『タイタニック』の主題歌がリクエストされた。
1997年に公開されたというから、もう23年もまえの作品だ。
『タイタニック』みたいな超大作は、
どうしてもななめにかまえてしまい、
公開したときには みずにすませることがおおい。

『タイタニック』がもうすぐ公開されるというころ、
わたしがつとめていた介護事業所に、
見学と体験をかねて中学生のひとクラスがきていた。
牛乳パックをつかった紙すきをいっしょにしていたら、
ひとりのおしゃべりでげんきのいい男の子が、
こんどくる『タイタニック』についてはなしだした。
主演のディカプリオの魅力、
監督のジェームズ=キャメロンが
これまでにつくってきた作品のおもしろさ。
新作の『タイタニック』が、どれだけすごい作品か。
あまりにも熱のはいったおしゃべりなので、
大作映画にはいかない主義のわたしも、
では、みてみようか、という気になった。

23年たったいま、内容については断片しかおぼえていない。
さむさによわいわたしは、
つめたい海にしずんでいくディカプリオをみて、
ああいう死に方はいやだとおもった。
船がしずむとわかっていながら、
最後まで演奏をつづけた音楽家も印象にのこる。
じょうずにつくられた作品で、映像の迫力と、
主演のふたりがむすばれずにわかれた場面など、
ふかく満足して映画館をでたようにおもう。

はなしをもとにもどすと、
車のなかに『タイタニック』の主題歌がながれ、
いっしょにのっていたひとが、「ポーランド」といった。
ポーランドから出航したはなし、と記憶していたらしい。
「いや、ポーランドではなくアイルランドでしょ」
とわたしはわかったようなことをいった。
家にかえってしらべると、イギリスのサウサンプトンを出発し、
ニューヨークをめざした航海ではないか。
よくしっているひとがきいてなくてよかった。

わたしに『タイタニック』をみるようすすめてくれた
男の子は、どんなおとなに成長しただろう。
いまは30代後半になっているはずだ。
自分が興味をもっているものについて、
初対面のおとなにも、熱心にかたる素直さを
いまもたもっていてくれたらうれしい。
『タイタニック』というと、ディカプリオよりも、
あの中学生のことがあたまにうかぶ。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする