イシグロ氏の本は、『わたしを離さないで』につづいて2冊目だ。
わたしにこんなむつかしそうな本がよめるだろうか、
おずおずと手にとると、めちゃくちゃおもしろかった。
由緒あるお屋敷、ダーリントン・ホールが舞台で、
執事のスティーブンスのかたりではなしがすすんでいく。
執事だけあって、とてもていねいなことばえらびがここちよく、
土屋政雄氏の訳にもたすけられ、
執事が名家にかかせなかった時代をぞんぶんにたのしんだ。
スティーブンスのきまじめな人柄は、
じつに執事むきではありながら、現代社会ではいささか大時代だ。
執事は、大英帝国がかがやいていた時代の遺産ともいえ、
いまとなっては、スティーブンスのかたるすべてが
冗談におもえるほど 現実とにずれがある。
スティーブンスのあたらしい主人であるファラディ氏が、
自分のるすのあいだ 自動車旅行にでるよう
スティーブンスにもちかけるところからはなしがはじまる。
スティーブンスは、はじめはためらいながらも、
旅行にでることで、お屋敷の人手不足を解消できるかもしれないと、
ファラディ氏からの提案をうける。
スティーブンスは、旅行でおとずれる場所として、
まえに女中頭だった ミス・ケントンのすむ町をかんがえていた。
彼女がやめたのはもう20年もむかしのことだけど、
仕事がよくできただけに、ふたりはよく衝突しながらも、
おたがいの能力をみとめあい、お屋敷のためにつくしていた。
彼女がふたたびお屋敷ではたらくようになれば、
さまざまな問題はいっぺんに解決するだろう。
スティーブンスは、執事としてすばらしい仕事ぶりをみせるのに、
頭にあるのは主人とお屋敷のことばかりで、
ミス・ケントンが、自分に好意をよせていたのさえ気づかなかった。
ミス・ケントンは、結婚してお屋敷をはなれてからも
スティーブンスに何通か手紙をよこしている。
最近の手紙には、彼女がいまおかれている状況が
けして良好ではないとにおわせていた
(とスティーブンスはうけとめた)。
スティーブンスは、車での旅行をすすめながら、
おなじく執事としてはたらいていた父親のこと、
さきの主人であるダーリントン卿のこと、
その時代のお屋敷が、どれだけたかいレベルにたもたれていたか、
自分がお屋敷のやりくりに、どれだけ貢献できたかをおもいかえす。
偉大な執事とは。
執事における品格とは。
スティーブンスはむかしをおもいかえし、
執事にはなにがもとめられるかをかんがえつづける。
ことばづかいがていねいなものだから、
まともにうけとめると地味でおもしろみのない小説だけど、
慇懃なふるまいのうらに おかしさがみえかくれしている。
そもそも、執事として、すぐれたうでをもちながら、
女ごころにまったくうといのがしんじられないほどだし、
主人のファラディがくりだす冗談に、
自分がどうきりかえしたら適切な対応といえるかを
どこまでも真剣にかんがえたりする。
まじめさが、わらえるレベルにたっしているのがスティーブンスだ。
とはいえ、スティーブンスだって、自分がうでをふるえた時代はさり、
いまはもう、おとろえていくばかりの仕事ぶりだとわかっている。
よみすすめるうちに、スティーブンスがふかくしたっていた
まえの主人であるダーリントン卿は、
第二次世界大戦前後のはたらきぶりが批判をうけ、
残念なさいごをむかえたことがわかってくる。
お屋敷の維持・管理につくしてきた自分の人生とはなんであったか。
私生活においても、ミス・ケントンの気もちにさえ気づけなかった。
スティーブンスは、人生のおわりごろになって
ふかいかなしみと後悔におそわれる。
でも、ものがたりのおわりは意外とさばさばしている。
スティーブンスは、きゅうにジョークの大切さに気づく。
もちろん、私はジョークの技術を開発するために、これまでにも相当な時間を費やしてきておりますが、心のどこかで、もうひとつ熱意が欠けていたのかもしれません。明日ダーリントン・ホールに帰り着きましたら、私は決意を新たにしてジョークの練習に取り組んでみることにいたしましょう。ファラディ様は、まだ一週間はもどられません。まだ多少の練習時間がございます。
どこまでも、まじめなひとなのだ、スティーブンスは。