2020年07月11日

うごけなくなるまでたべる 朝倉かすみさんの食習慣がすごい

朝日新聞土曜日版beに、「作家の口福」というコラムがあり、
先週から朝倉かすみさんがうけもっている。
わたしがぜんぜんしらなかった小説家だけど、
ずいぶんかわったひととなりがすごくおかしい。
前回は、還暦をむかえるにあたり、快適にくらせるよう、
習慣をみなおす、というはなしだった。
・オンラインゲームをやめ、
・自宅での飲酒をやめ、
・たばこまでやめたのだという。
オンラインゲームには、そうとうなお金と時間をつぎこんだというし、
酒もすごい。
好きでも強くもないお酒をただ酔っ払うために毎日一生懸命飲み、しばしば嘔吐していた。いつも頭の中がボンヤリしていて、だのに飲み始めると一瞬クリアになるあたりが一番怖かった。やめられて本当によかった。

ほんとうに、やめてよかった酒だ。

これまでの習慣を3つやめたのだから、
くつろぎかたがわからなくなり、
このごろは、あまいものをたべるようになったという。
具体的にはあんバターサンドに夢中になった。それぞれお豆腐四分の一丁程度の量のあんことバターをパンケーキに挟み、1日に一度といわず食べていた。

ものすごい量のあんことバターだ。
それでふとらないわけがなく、じっさい7キロも体重がふえてしまい、
「食習慣の見直しを迫られている」、
というのが前回のはなしだった。

今週は、4つめの習慣のみなおしとして、
食習慣を改善したようすが紹介されている。
朝倉さんは、ルールを3つきめている。

1 「満腹かな?」と一瞬でも感じたら箸を置く
2 食べてすぐ横にならない
3 オヤツ(甘いもの)は親指と人差し指で作ったマルの大きさまで

朝倉さんには、このうちの「1」がいちばんむつかしいらしい。
なぜなら、わたしは一般的に「満腹」と呼ばれる状態が、どの程度のお腹いっぱいさ加減なのか分からないのだ。
 わたしの「満腹」の測り方は体が動くかどうかなのだった。「もう動けなくなるまで食べること」=「夕食」の血糖値上がり放題、肥満一直線の方程式がいつしか出来上がっていた。

完全にうごけなくなる、すこし手前でたべるのをやめても、
ベッドでやすんでるうちにお腹にすきまができる。
そうすると、「今夜のオヤツ」としてかっていたあまいもの、
それに例の「あんバターサンド」をたべてしまい、
けっきょく「正真正銘『動けなく』」してしまう。
毎晩「もう動けなくなるまで食べ」たら、
さすがにからだにわるそうだ。
次回がすごくたのしみとなる。

朝倉さんがどんなひとなのか気になり、
「Web本の雑誌」の「作家の読書道」をみると、
ここでもそうとうな かわりっぷりがはなされている。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi096_asakura/index.html
朝倉さんの作品をよんでみたくなった。

posted by カルピス at 15:35 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月10日

切実な「あと ひといぬ」問題

今週の「オトナになった女子たちへ」(朝日新聞)は、
伊藤理佐さんが担当だ。
タイトルは、「あと ひといぬ」。

「あと、ひといぬ」は、伊藤さんが実家の両親に
「犬、飼えば?」と提案しているところだ。
まえはかっていたのに、もう7、8年 犬がいないという。
動物といっしょのほうが、くらしにメリハリがつくのでは、
と伊藤さんはおもっている。
でも、父76、母77のふたりは、
「ここから13年は無理っ」
と伊藤さんの提案をうけいれない。
13年は、これまでかっていた犬の平均寿命だ。
ご両親が ためらってしまう気もちもわかる。

それにしても、「ひと いぬ」という単位がうまい。
わかいころなら、かんがえもしなかった切実なくぎり。
義理の母には
「ひとねこ、どうですか」
「ひとねこ、いけますって」
と、・・・言えない。

まえにかっていたネコが、24年も生きたからで、
84歳の母に「ひと ねこ」はとてもきりだせない。

自分たちのネコについても伊藤さんはかんがえる。
伊藤さんの家の「ひと ねこ」は18年だ。
配偶者のヨシダサンが70のとき、
いまかっているネコが死んだとして、
そこから18年をたすと88歳。
これならいけそうと、伊藤さんはほっとしている。
「おーい、もうふたねこ(今のを含む)で!」

わたしの家はどうだろうか。
いま家にいるココはまだ2歳で、
まえのネコであるピピが死んだのは18歳のときだった。
もうすぐ59歳のわたしが、75歳のときに、ココは18歳となる。
たまたまだけど、75歳は、わたしがそれぐらいで死ぬのでは、
となんとなくおもっている年齢だ。
そこから「もう ひとねこ」は、さすがにむりだ。
わたしにとって、ココがさいごのネコである可能性がたかい。
というか、ココをみとるのさえ むつかしいかもしれない。

「ひと いぬ」、そして「ひと ねこ」は、
動物がすきなものにとって、おおきな問題だ。
「ひと ねこ」の単位が意味するおもさを、
ちゃんとわかってないと、おたがいが不幸になる。
自分がいなくなったときのことをかんがえおかないと、
のこされた動物が路頭にまよう。
そうはいっても、ネコのいない生活はさみしい。
こころがよわいわたしは、これも縁だから、とかいって、
子ネコを家につれてかえりそうだ。
「あと ひとねこ」は、老人だけの世帯ではむつかしい。
ペットとのくらしをかんがえると、
核家族よりも二世帯、三世帯が正解かもしれない。
家族の人数がへり、ペットがふえるのは、
「ひと ねこ」問題からいうと、よくないながれだ。
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posted by カルピス at 20:37 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月09日

クッキー工房「KUKO」の開店から3週間

「KUKO」がオーブンして3週間がすぎた。
これまでクッキーをつくっていた部屋は、
ふえてきた利用者には つかいにくくなったので、
あるいて200メートルのところに
あたらしくひらいたお店が「KUKO」だ。
改修工事がおわり、いつでもお店をあけられたけど、
ちょうど新型コロナウイルによる自粛期間となったため、
営業開始がおくれてしまった。
そのあいだ、お店のまえをとおるひとは、
いったいここはなんのお店なのだろうと
気になっていたようだ。
とくに開店をしらせる看板はだしていないのに、
いちにちに、なんにんかのひとがお店をのぞき、
クッキーやプリンをかっていかれる。
かくれがみたいなお店もかっこいいね、と、
情報誌には開店をおしらせしていないし、
SNSによる積極的な宣伝もしていない。
なによりも、営業時間が10時から16時と、
会社つとめをしているひとにはたずねにくいい時間設定だ
(土日、祝日は休業)。
名実ともにまぼろしのお店として、ひっそり、そっけなく営業したい。
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店内には、AMラジオの番組がながれている。
気のきいたオーディオなどではなく、
棚のしたにおいてある、レトロなラジカセなのに、
音響効果をかんがえつくした装置のように、クリアな音だ。
ふるいのか、あたらしいのかわからない空間となり、
いかにも「KUKO」らしい、それらしい雰囲気をだしている。

駐車場もないので、「KUKO」にこようとおもったら、
どこかはなれた場所に車をとめ、
いくらか あるかなければならない。
でも、都会では、駐車場がないお店なんてあたりまえだろう。
しばらくやってみて、駐車場がないことは
「KUKO」のつよみかも、という気がしてきた。

コロナの影響で、いまはクッキーとプリンだけの販売だけど、
もうすこしおちついたら、コーヒーメーカーでいれた
ドリップ式のコーヒーをやすく提供し(寄付ていど)、
お店のなかでクッキーやプリンとともに
くつろいでもらえたら、とおもっている。

みためがおちついていて、かつ そこそこおしゃれなので、
こんなお店ではたらきたいと、就労継続B型事業所として、
これから「KUKO」は人気がでるにちがいない。
いまはいちにち平均6人の方が利用されているけど、
すぐにまた手ぜまになりそうだ。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月08日

「一汁一菜で良し」というかんがえ方

きょうの朝日新聞に、「一汁一菜で良し」という記事がのっていた。
料理研究家の土井善晴さんが提案するかんがえ方なのだそうだ。
「一汁」は具がたくさんはいったみそ汁、というのはわかるけど、
「一菜」は つけものなのだという。
おかずは一品でいい、というのかとおもったら、
メインディッシュがあるのではなく、
つけものなのだから、「一汁」がよほど充実してないと
からだがもたないような気がする。
土井さんは、だれでも台所にたてるよう、
料理のしきいをおもいきってひくくしたいのだろう。

自分だけの食事を用意するのはたいして手間ではないけど、
人数がふえるほど、負担になってくる。
コロナの自粛で子どもたちが家にいて、
配偶者まで在宅勤務になれば、主婦はたいへんらしい。
もっとも、子どもがちいさくて、
保育園にいってる時期も、お母さんはめちゃくちゃいそがしい。
子どもをおこし、朝ごはんをたべさせ、おでかけの準備をして
保育園におくりとどける。
どうかんがえても、お父さんが家事にかかわらないと
お母さんの負担がおもすぎる。少子化がすすむわけだ。
男が料理をすればいいとおもうけど、
料理をしないひとは、ほんとうになにもしないようだ。
「一汁一菜で良し」とすることで
みそ汁ならつくれると、自信がつき、
つぎの段階へすすめるかもしれない。
いわば、スタートにたつための「一汁一菜」であり、
スタートとしては、それで良し、なのだろう。

ずいぶんまえに、「一汁一菜」で子そだてをしてきた
女性の記事をきりとったことがある。
このひとは、つけものではなく、
メインディッシュのほうの「一菜」だ。
おかずが一品だけでも、むすこはりっぱにそだったとはなしている。
この場合の「りっぱに」は、人格のことではなく、
ふつうの体格におおきくなった、という意味だ。
一品しかつくらないから、時間とお金があまりかからない。
料理をしなければ、というプレッシャーもすくなく、
いいことずくめのようにかいてあった気がする。
「一汁」とつけものだけでは、
ながくつづけたときに、ものたりなくなりそうだけど、
このひとのような「一汁一菜」だったら、
むすこさんがぶじにそだつくらい、じゅうぶんな食事なのだろう。
おかずを5品も6品もつくろうとするからたいへんなのであり、
日常の食事は一汁一菜でいいとわたしもおもう。

わたしの女子力を自慢するわけではないけど、
きょうは梅雨のはれまにめぐまれ、
洗濯物がかわいて ほんとうにうれしかった。
かわいた洗濯物のここちよさは、
しあわせなくらしの かなり上位にランクされる。
一汁一菜がつくれて洗濯物をほせたら、
それでもうじゅうぶんひとりでくらしていける。
ということは、だれかと同居できるスキルとは、
一汁一菜と洗濯物といえるかもしれない。

posted by カルピス at 21:07 | Comment(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月07日

『梅棹忠夫の「日本人の宗教」』神さまの格づけと小型洗濯機

『梅棹忠夫の「日本人の宗教」』
(梅棹忠夫:著・中牧弘充:編著・淡交社)

この本は、もちろん「日本人の宗教」についてかかれたものだけど、
なかには わたしでもすんなりわかる、やわらかいはなしものっている。
「神さまの格づけと小型電気洗濯機について」はそのなかのひとつだ。

梅棹さんの奥さんが、台所でつかうふきんの洗濯に追われる、
とこぼすのだという。洗濯機をつかえばいい、と梅棹さんがいうと、
洗濯機は泥だらけのズボンやくつした、下着などをあらうもので、
そんなところでふきんはあらえないらしい。
洗濯機のなかをきれいにあらっておけばいい、
と梅棹さんは反論しながらも、
こころのなかでは奥さんの感覚がよくわかっている。
ものにはすべて神さまがやどっている、というかんがえ方にたち、
その神さまのあいだには、格のちがいが存在する、というおもい。
よごれたズボンをあらう洗濯機と、
ふきんをあらうたらいとでは、格のちがいがある、
というのは、わたしにも なんとなくわかる。
そこで梅棹さんは、ふきん用の小型洗濯機を提案する。
ちいさな洗濯機でふきんをあらえたら、
主婦の仕事はずいぶんらくになる。
ネットをみると、じっさいに小型洗濯機は販売されている。
梅棹さんのいう「神さまの格づけ」がおおくのひとのこころに存在し、
格がうえの神さま用として、小型洗濯機のニーズがあるようだ。

洗濯機でおもいおこすのは、適当な洗濯機をえらぶのと、
適当な結婚相手をえらぶのはおなじ、と喝破した小倉千加子さんだ。
小倉千加子さんは『結婚の条件』のなかで
ひとはなぜ、「適当な洗濯機」は探せるのに、「適当な結婚相手」を探せないのか。

と、問題をなげかけている。
未婚女性が結婚しない理由のいちばんは、
「適当な相手にめぐり合えない」からであり、
なぜ適当な洗濯機をえらぶように、
適当な結婚相手をえらべないのか、とといかける。
 しかし、そもそも結婚相手と洗濯機を同列に論じてよいものなのかという批判が出てくるかもしれない。結論から言おう。洗濯機と結婚相手は今や同列のものである。結婚は恋愛よりもはるかに洗濯機に近い。

「結婚は恋愛よりもはるかに洗濯機に近い」かもしれないけど、
洗濯機の格づけという問題がある。
どんな洗濯機でもいいわけではなく、じぶんがのぞむ洗濯機、
じぶんとつりあう洗濯機でなければほしくない。
洗濯機がないと洗濯ができなくてこまるけど、
結婚しなくてもたいしてこまらないから結婚しない。
ここでいう格づけは、神さまの格づけではなく、
自分がきめる格づけである。
さらにいえば、結婚は、自分だけでなく、
あいてが自分をどうみるかも 重要な要件だ。
洗濯機の購入は財布との相談で決まる。いや、それで決めるしかない。一方、結婚相手の購入は、自分の市場価格で決まる。

あいてにえらばれなければ結婚できない。
自分とつりあっている、とおもうのは自分だけで、
はたからみると、むりなねがいである場合がおおい。
自分の収入と部屋のひろさから、すんなりきめられる洗濯機とちがい、
結婚における自分の市場価格は、たかよみしがちなのだろう。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月06日

『#名画で学ぶ主婦業』

『#名画で学ぶ主婦業』(田中久美子・宝島社)

名画は、たいへんにありがたいものらしいけど、
やたらと敷居がたかくかんじられ、
わたしにはさっぱりわからない芸術だ。
わかいころ、オルセー美術館・プラド美術館
・ナショナルギャラリーをおとずれ、
たくさんの作品を「みた」経験があるのに、
ほとんどなにもおぼえていない。
いったいこの絵はなにをいいたいのかがわからなくて、
ありがたいはずの名画鑑賞が、たいくつな時間になる。
わたしだけでなく、おおくのひとも
にたような感想をもつのではないか。
そうしたタイプのわたしたちに、
この本はぐっと名画の敷居をさげてくれ、
そんなふうなみかたでいいのなら、
わたしにも名画をたのしめるかも、という気にさせてくれる。

この本は、「#名画で学ぶ主婦業」
とハッシュタグをつけ、
主婦業を実践ちゅうの女性たちが
名画にツイートしたものをまとめたという。
表紙にもとりあげてあるのが、
「来週月曜日は給食はありませんのでお弁当をもたせてください。」
という学校からの手紙を当日朝息子のランドセルから発見。

「我輩はたぶん猫」さんが名画「マラーの死」をみたときに、
そんなインスピレーションがわいてきたのだという。
いちどそんなつぶやきをよむと、
それ以外のなげきをおもいつかなくなる。

「見知らぬ女」(イワン=クラムスコイ)につけられた
私もう去年 役員やったから

もおかしい。
きょねんやったから、ことしはぜったいにわたしじゃない、
と確信にみちたドヤ顔は、ほんとうに
きょねんに役員をやった女性におもえてくる。
名画とわたしとの距離が、いっきょにちぢまった。

名画へのツイートとリプライ、
そして、その名画についての解説から本書はなっており、
名画にふれ、主婦業から名画をみて共感しながら、
解説をよむと教養まで身につけらえるという構成だ。
主婦業という、おなじ境遇にある女性たちが、
たのしみながら名画にかくされた「さけび」をあぶりだしている。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月05日

4ヶ月ぶりにJ1リーグが再開する

7月4日からJ1リーグが再開した。
4ヶ月の中止期間をはさみ、第2節がおこなわれる。
観客のいないリモートマッチとしての再スタートだ。
きのうはNHK-BSで、川崎フロンターレと
鹿島アントラーズの試合を放送していた。
試合まえのインタビューで、フロンターレの鬼木監督が、
試合を実現するために、協力してくれたすべてのひとたち、
また医療関係者への感謝をまず口にした。
イタリヤやフランスのリーグが、今季の中断をきめたなか、
こうしてふたたびJリーグのサッカーをみられるのは、
ほんとうにうれしい。
視聴者からNHKにおくられてくるメッセージに、
「どちらのチームもがんばれ」というのがあった。
ほんとうに、どちらにもがんばってほしい。
と、いいながら、わたしはフロンターレを応援しながら観戦する。

開催期間がみぢかくなり、きびしいスケジュールがくまれれている。
選手交代はこれまでの3人から5人へ(交代は3どだけ)。
前後半に、それぞれ1分間の給水時間がとられる。
これは、背番号べつに給水ボトルがわかれており、
試合ちゅう、かんたんには自分のボトルをさがせないためだという。
また、レフェリーを確保するのがたいへんということで、
VARはとりやめとなっている。
きのうの試合では、なんどもきわどいプレーがあり、
ふつうだったらVARにかけられていたはずだ。
試合のながれがとまるのはいやなので、
わたしはVARのみおくりをよろこんでいる。

観客のいないスタンドは、選手やベンチの声がよくきこえる。
どこかでみた光景だ。
わたしがジョギングする運動公園には、サッカー用のグランドがあり、
練習や試合がよくおこなわれている。
そこでおこなわれるサッカーは、まさしく無観客試合だ。
プロの試合に観客がいないのは、異例の風景だけど、
アマチュアレベルのサッカーでは、ごく普通のことだ。
観客がいないサッカーにも、あんがいすぐなれるのではないか。
Jリーグの試合は、さすがにすさまじい迫力だ。
ボールをける音も、選手同士がぶつかる音もなまなましい。
ズドン、ガキン。ボールというより金属がたてる音にきこえる。

試合は、フロンターレがかんたんに2点を先取したものの、
ミスがらみで1点をかえされる。
それまでうまくボールにからめなかった鹿島が、
この1点でげんきづき、鹿島の猛攻がつづく。
昨シーズンのフロンターレはひきわけがおおく、
優勝あらそいにからめなかった。
同点にされると、ファンとしてはいやなかんじだ。
後半終了間際は、圧倒的に鹿島がせめつづける。
フロンターレはボールをけりだすのが精一杯だ。
アディショナルタイムは5分。
それでもなんとか2-1のまましのぎきり、
フロンターレが1勝目をあげる。

関東地方を中心に、感染者がふえており、
Jリーグの関係者からも、
あらたな感染者があらわれる可能性はたかい。
観客がはいるようになれば、観客のなかからも感染者がでるだろう。
これからは、そうした状況を前提として、
Jリーグがおこなわれることとなる。
なんとかうごきだしたJリーグが、リスクをおかしながらも、
なんとかこのまま最終節までたどりついてほしい。

posted by カルピス at 21:02 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月04日

ペットといっしょに入所できる特老「さくらの里山科」

きょうの「ラジオマンジャック」(NHK-FM)のテーマは「定番」。
土曜日の夕方4時になると、この番組をききながら、
ブログをかくのがわたしの定番になってきた。
そのまえに、ひるねをするのも土曜日の定番だ。
ひとの生活は、定番でできているといってもいいのではないか。

朝日新聞土曜日版beも、あたりまえだけど
土曜日だけにきょうの定番だ。
コラム「それぞれの最終楽章」は
特老の施設長、若山さんが「ペットとともに」をかいている。
この特老は、ペットといっしょにはいれるというからすごい。

特別養護老人ホーム「さくらの里山科」では、
犬10匹、猫9匹が、約40人の入居者と住んでいます。入居者が連れてくる以外に、殺処分されそうな犬や猫も引き取っています。大好きなペットと一緒に最後までー。そんな思いを支えるために、「山科」を立ち上げました。

(入所者のひとり山口さんは)「喫茶店イベント」には、亡くなる半月ほど前まで、毎回来ていました。職員とボランティアが運営する喫茶スペースで、本格的な機械でいれるコーヒーを150円で飲めます。入居して2ヶ月目には車いす生活になりましたが、ひざの上にチロを乗せて、喫茶店イベントに参加していました。

山口さんが亡くなるときには、チロが枕元にいて、
チロにみとられながら、山口さんは旅だったそうだ。

「さくらの里山科」のブログをみると、
ネコたちがソファでねむっている。
https://ameblo.jp/sakuranosato-yamashina/entry-12608580293.html
動物たちといっしょにくらすには、
衛生面への配慮や、動物の病気・ケガへの対応、
動物どうしの相性など、たくさんの仕事がでてくるだろうけど、
こんな特老にはいられたらしあわせだ。
わたしは、いまいっしょにいるココを家にむかえるとき、
さいごまで世話ができるかどうかをかんがえた。
わたしのほうがさきにいってしまい、
ココが途方にくれてはたいへんだから。
特老にははいりたくないけど、「山科」だったらお世話になりたい。

10年以上まえ、歯がすごくいたくて、
わたしはつらい夜をすごしたことがある。
家にいたネコのピピがわたしによりそってくれ、
その存在がどれだけありがたいかに感謝した。
死ぬときは、家族でなくても、
なかよしの動物がいっしょだったら、おだやかにいけるだろう。
わたしはいま、障害者介護の仕事についているけど、
動物を施設のなかにとりいれようとしたら、
さまざまな問題がでてくる。
「大好きなペットと一緒に最後まで」を実現させた、
「さくらの里山科」のすばらしいこころみに、あつい拍手をおくる。
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きょうから、もうひとつの土曜日の定番、
Jリーグの実況放送が再開される。

posted by カルピス at 17:12 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月03日

『クロールー凶暴領域ー』

『クロールー凶暴領域ー』
(アレクサンドル=アジャ:監督・2019・アメリカ)

フロリダの町にハリケーンがちかづいてきた。
はげしい雨に町は水びたしとなる。
連絡がとれない父親を心配し、
女子大学生のヘイリーは、家のようすをみにいく。
地下室で、ようやく父親をみつけたけど、
地下室にはワニが何匹もはいりこんでいた。
地下室だけでなく、池みたいになったとおりにも、
ワニがうじゃうじゃいる。

ストーリーはかんたんだけど、家のなかやまわりを、
ワニがうようよおよいでいる、という設定がおっかない。
まえに『ワニの町へ来たスパイ』というミステリーをよんだ。
こちらはルイジアナ州が舞台で、ストーリーにワニがからんでいる。
アメリカ南部の町は、そんなふうに、
ワニが身ぢかな存在なのだろうか。

ヘイリーは、やっとみつけたお父さんを、
地下室からたすけだそうとするけど、
ワニが何匹もいるので、うっかりうごけない。
おれが排水管をたたいてワニの気をひくから、
おまえはおよいで階段までいけ、なんて
お父さんが提案していたけど、
ちょっとあぶないんじゃないかとおもう。
そのすこしあとでは、ワニは水しぶきに反応するので、
水しぶきをたてなければ大丈夫だ、といいながら、
とおりのむこうにうかんでいるボートを、
ヘイリーにとりにいかせたりする。
はじめはぬき足さし足でヘイリーはすすんでいたのに、
とちゅうから「いそいでおよげ!」に方針がかわる。
けっこうテキトーな指示をだすおとうさんだ。

そもそも、いくら水泳選手でも、
服をきたかっこうで、ワニよりはやくはおよげない。
ただ、作品の冒頭に、ヘイリーが水泳大会でおよぐ場面があり、
あれぐらいはやくおよげるひとなら ひょっとして、
とおもわせるから、わかい水泳選手をヒロインにすえたのはうまい。
はじめのころヘイリーは、半分水につかりながらワニからにげていた。
それが終盤になると、ワニとおよいで勝負、にかわってくる。
あいてがサメだと、およいでにげるのはぜったい無理だけど、
ワニだったらなんとかなるような気がする。
何匹のワニにおわれながら、必死でにげるヘイリーがリアルだ。
もと水泳選手だったわたしだけど、
いまではきわめてゆっくりしかおよげない。
冒頭の水泳大会で、選手たちがみせたおよぎはほんものだった。
きれいで迫力のあるクロールをみて、
この映画への評価があまくなったみたいだ。

posted by カルピス at 20:43 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月02日

レジ袋有料化がどんな影響をあたえていくか

きのうからレジ袋が有料となった。
きょうは仕事でクッキーをうりにでかける。
レジ袋が有料化になって、はじめての販売だ。
これまでだとたくさん(5袋ぐらいを)かってくれたお客さんには、
「袋はごいりようですか?」とたずねていたけど、
そんな気づかいがいらなくなった。
だれもがビニール袋をたのむとお金がかかるとしっているので、
袋をもとめるひとはいない。すごくスムーズに販売できた。

よくいわれているように、レジ袋が生態系にあたえる影響は、
全体からみると、ほんのわずかなものだろう。
ストローよりは意味がありそうだけど。
それでも、プラスチック製品が、環境によくないと
意識するきっかけにはなる。
ものをかわなければ、袋はいらないので、
これまでよりもかいものする量がへるのではないか。
新型コロナウイルスにより、自粛生活をやってみると、
どうしても必要なおでかけは、そんなにないのがわかる。
世の中は、やらなくていいことがおおいし、
かわなくていいものもまたおおい。
そうやって、ひとがうごかなくなり、
かいものしなくなると、経済的にはよくないのだろうけど、
環境からみれば、そうした生活のほうが、地球のためだ。

ただ、やらなくていいことこそ やってたのしいことで、
それを追求しているのが「デイリーポータルZ」だ。
このサイトのおもしろさは、やらなくてもいいことをやり、
いかけなくてもいいところへ でかけることにある。
コロナがひろがり、不要不急がさけばれているときでも、
「デイリーポータルZ」はどうでもいいことをやりつづけた。
必要なことしかできなくなったら、どれだけつまらないかを
コロナが気づかせてくれた。

環境についてかんがえ、徹底しようとするとかなりやっかいだ。
省エネルギーがいいにきまっているので、
電力をおおくつかう生活はよくない。
テレビ・エアコン・冷蔵庫はどれも電力をくう。
自動車をうごかすのもやめたほうがいい。
自動車をつくるのに、膨大なエネルギーがつかわれるし、
うごかすのにガソリンや電気が必要だ。
でも、あまりラジカルにはしると、生活にうるおいがなくなる。
環境保護について、自分に無理なくできることを
ながくつづけていくしかない。
その第一歩がストローだったりレジ袋なのだろう。
環境への意識が、より具体的になる。
ただしくても、できないことはあるし、
無理にもとめられると、気もちよくない。
どの線におちつかせるのかは、自分がきめる。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月01日

配偶者が白内障の手術をうける

配偶者が白内障の手術をうける。
飛蚊症が気になって眼科へいくと、白内障だといわれたそうだ。
彼女はいま60歳で、白内障には はやいようにおもえる。
お医者さんがいうには、40歳以上のひとの9割は、
気づいているか、いないかのちがいだけで、
すでに白内障にかかっているらしい。
いずれ手術をしなければならないのなら、
はやめにきれいにみえたほうがいいですよ、
みたいなころし文句をお医者さんにいわれ、
配偶者は手術をきめた。

手術はきのうだった。
白内障の手術なんて、かんたんなものだろうと、
たかをくくっていたのに、お医者さん・スタッフ全員で
10人ぐらいのチームによって とりおこなわれている。
もっとも、手術をうけたのは、配偶者だけでなく、
5人がつぎつぎに手術室によばれている。
手術じたいは20分で、ぜんぜんいたくなかったそうだ。

白内障の手術は、片方ずつすすめるので、
きのうの夜は、左目に眼帯をして家にもどってきた。
みためには、けっこうたいへんそうだ。
本人も、もっとかるい術後だとおもっていたのに、
こんなにおおごとなら、もう片方の目はどうしようかな、
とまよっていた。それほどたいへんだったのだ。

でも、きょうまた病院へゆき、眼帯をとられたら、
これまでとまったくちがう世界がひろがっていたという。
白内障の手術のあと、劇的によくみえるようになった、
というはなしをよんだことがあるけど、
彼女にも、その圧倒的な変化がおとずれたのだ。
自分がその体験をしてないと、どんな世界がひらけたのか
まったく想像できない。
とにかく、配偶者はものすごく感激していた。
子どもはこんな世界をみているのか、なんていう。
それまでは、みえるものに、白いモヤがかかっていたそうだ。
それがふつうの状態だから、みえにくいとおもわない。
手術をして、どれだけみえてなかったのかに 気づいたという。
シワや、皮膚のおとろえがよくみえてこまる、ともいっている。
ブラウン管テレビから、液晶テレビにかえた、
ひとむかしまえの消費者、みたいなものだろうか。

気づいてないだけで、わたしも白内障がすすんでいる口にちがいない。
配偶者をみならって、はやめに手術をうけたほうがいいだろうか。
ただ、どの患者さんも、配偶者のように
うまくみえるようになるとはかぎらないらしい。
ほとんどの場合うまくいくけど、
ときにはそうならないこともある。リスクはつねにある。
そんなはなしをきくと、とくにこまっていないいま、
わざわざリスクをおかさなくてもいいようにおもう。
わたしはまちがいないく飛蚊症で、
あちこちに黒い糸くずがみえる。
蚊だとおもって、たたこうとすることもよくある。
年をとってから冬の夕方は、ものすごくくらくかんじる。
みえにくいので、運転をしているとあぶなくてしょうがない。
自覚症状としては、そのふたつが目についてのわたしの老化だ。
老化だから、ま、いいか、とおもっている。
配偶者はあかるい顔で、よくみえるようになった目のことをはなす。
めでたし、めでたし。
無事に手術がうまくいき、彼女の配偶者であるわたしもよろこんだ。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする