(梅棹忠夫:著・中牧弘充:編著・淡交社)
この本は、もちろん「日本人の宗教」についてかかれたものだけど、
なかには わたしでもすんなりわかる、やわらかいはなしものっている。
「神さまの格づけと小型電気洗濯機について」はそのなかのひとつだ。
梅棹さんの奥さんが、台所でつかうふきんの洗濯に追われる、
とこぼすのだという。洗濯機をつかえばいい、と梅棹さんがいうと、
洗濯機は泥だらけのズボンやくつした、下着などをあらうもので、
そんなところでふきんはあらえないらしい。
洗濯機のなかをきれいにあらっておけばいい、
と梅棹さんは反論しながらも、
こころのなかでは奥さんの感覚がよくわかっている。
ものにはすべて神さまがやどっている、というかんがえ方にたち、
その神さまのあいだには、格のちがいが存在する、というおもい。
よごれたズボンをあらう洗濯機と、
ふきんをあらうたらいとでは、格のちがいがある、
というのは、わたしにも なんとなくわかる。
そこで梅棹さんは、ふきん用の小型洗濯機を提案する。
ちいさな洗濯機でふきんをあらえたら、
主婦の仕事はずいぶんらくになる。
ネットをみると、じっさいに小型洗濯機は販売されている。
梅棹さんのいう「神さまの格づけ」がおおくのひとのこころに存在し、
格がうえの神さま用として、小型洗濯機のニーズがあるようだ。
洗濯機でおもいおこすのは、適当な洗濯機をえらぶのと、
適当な結婚相手をえらぶのはおなじ、と喝破した小倉千加子さんだ。
小倉千加子さんは『結婚の条件』のなかで
ひとはなぜ、「適当な洗濯機」は探せるのに、「適当な結婚相手」を探せないのか。
と、問題をなげかけている。
未婚女性が結婚しない理由のいちばんは、
「適当な相手にめぐり合えない」からであり、
なぜ適当な洗濯機をえらぶように、
適当な結婚相手をえらべないのか、とといかける。
しかし、そもそも結婚相手と洗濯機を同列に論じてよいものなのかという批判が出てくるかもしれない。結論から言おう。洗濯機と結婚相手は今や同列のものである。結婚は恋愛よりもはるかに洗濯機に近い。
「結婚は恋愛よりもはるかに洗濯機に近い」かもしれないけど、
洗濯機の格づけという問題がある。
どんな洗濯機でもいいわけではなく、じぶんがのぞむ洗濯機、
じぶんとつりあう洗濯機でなければほしくない。
洗濯機がないと洗濯ができなくてこまるけど、
結婚しなくてもたいしてこまらないから結婚しない。
ここでいう格づけは、神さまの格づけではなく、
自分がきめる格づけである。
さらにいえば、結婚は、自分だけでなく、
あいてが自分をどうみるかも 重要な要件だ。
洗濯機の購入は財布との相談で決まる。いや、それで決めるしかない。一方、結婚相手の購入は、自分の市場価格で決まる。
あいてにえらばれなければ結婚できない。
自分とつりあっている、とおもうのは自分だけで、
はたからみると、むりなねがいである場合がおおい。
自分の収入と部屋のひろさから、すんなりきめられる洗濯機とちがい、
結婚における自分の市場価格は、たかよみしがちなのだろう。