コロナの影響で、子どもたちの夏やすみが ことしはみじかいらしい。
夏やすみがのこりすくなくなったときのとらえ方として、
津村記久子さんのエッセイが紹介されていた。
あと1週間になっても、冬休みの元日あたりと同じだと思えば余裕ができる。残り4日のなったら「これからゴールデンウィークだと考えよう」
夏やすみがいつまでもながもちする、すてきなかんがえ方だ。
いかにも津村さんらしく、調子がいい。
もしのこり2日になれば、いつもの週末を
まるごと これからむかえる、とおもえばいいし、
のこり1日なら、あそぶために有給をとったことにして、
おまけとしての1日にしてしまう。
半分の水がはいったコップをみて、
まだ半分ある、とおもうか、もう半分しかない、とおもうかが、
性格のちがいをあらわす例として、よくたとえられる。
津村さんは、のこり1/10でも、まだちゃんと水がある、
と断言するタイプだろう。
子どものころ、夏やすみがあと1週間になったとき、
友だちのだれかが「これからゴールデンウィークだと考えよう」
といいだしたら、わたしはほいほいそのアイデアにのっかって、
31日の夜に後悔するのをくりかえしただろう。
こらえ性のないわたしは、あつい夏がにがてだけど、
子どものころは、もちろん夏やすみがだいすきだった。
勉強とか自由研究なんかはほっといて、
ただあそぶだけのすばらしい40日。
宿題の影が、まったくないとはいえなかったけれど、
いま記憶にあるのは、虫とりやプールで
友だちとあそびまっくっていた小学生のころの夏やすみだ。
塾なんてだれもいってなかったし、家庭教師も もちろんついてない。
夏やすみは、かたまりとしてやすめるから意味があるのであり、
みじかい夏やすみとなる子どもたちは、ほんとに無念だろう。
天声人語によると、わずか9日しかやすめない地域もあるという。
そんなのは、夏やすみといえない。
夏やすみでおもいだすのは、
アーサー=ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』だ。
夏やすみなると、田舎にある別荘へ家族じゅうででかけ、
兄弟たちは湖でボートをはしらせ、無人島を探検し、
海賊(にみたてた同年代の子どもたち)を
やっつけるはなしに夢中になる。
宿題なんてひとこともかたられていない(はず)。
夏目漱石の小説をよむと、
大学生はやたらとながい夏やすみをすごしている。
海辺の旅館でながらくすごしたり、避暑地ですずんだり。
どうかんがえても、夏やすみはながくなければならない。
7月23日は海の日、24日はスポーツの日で、おやすみ。
土日とあわせ、4日連休となるらしい。
わたしは金曜と土曜が休日のシフトではたらいており、
もともとの休日が祝日にあたった場合、いちにちソンをした形となる。
4連休なら「ゴールデンウィークだと考えよう」があてはまるけど、
3日だけでは「めでたさも中くらいなり」みたいなかんじだ
(ほんとうの意味はちがうかもしれない)。
1ヶ月のかたまりを、夏やすみとしてすごしたい。