なんどかこのブログにかいてきたけど、
「筋肉はうらぎらない」で有名になった
「みんなで筋肉体操」を、ほぼ毎日つづけている。
きょねんの6月から、きょうまで14ヶ月
(1月にインフルエンザのため8日やすんだのをのぞく)。
いちにちのうちで、いつやってもいい、というルールなので、
たいていはお風呂にはいるまえ、
夜のみ会があるときには、あらかじめそのまえにすます。
夏のあつい日、夕方になっったらビールでくつろぎたいけど、
あんまりのむと、夜の筋肉体操にひびくので、
自然と量をおさえるようになる。
なにか制約があると、日常のリズムをつくりやすい。
まいにちとりくむのは、うでたてふせとスクワットの2種目だけ。
腹筋と背筋は、おもしろみがないのでやらない。
腹筋なんて、腹筋だけのトレーニングをわざわざしなくても
ほかのうごきで自然ときたえられる。
どの種目も3パターンあるので、マンネリがふせがれるはずなのに、
いちばんきつい「腕立て伏せ1」がすぐにくるような気がする。
つづけた効果としては、「腕立て伏せ2」
(60秒、ひたすらうでたてふせをやりつづける)、
という種目を例にとると、できた回数が、47から58にふえている。
「腕立て伏せ1」、30秒できるだけはやくうでたてふせをして、
10秒休憩のあと、こんどは20秒できるだけはやく、
という種目(全種目のなかで、これがいちばんきつい)では、
合計したうでたてふせの数が、半年で5回ふえた
(それよりまえは、記録をとっていない)。
筋肉体操のまえは、椎名誠さんの影響で、うでたてふせ100回と、
ヒンズースクワット300回がわたしの筋トレだった。
ただ、このときは、日課というより、
できるだけとりくむ、くらいのゆるいとりきめでしかなかった。
ヒンズースクワット300回は7分以上かかるし、
うでたてふせをただ100回するのは おもしろみがない。
筋肉体操にであえてよかったとおもう。
「みんなで筋肉体操」がすぐれているのは、
たった5分だけで、筋肉を限界までおいこめる点だ。
からだにいいとか、腹筋をきたえる、
プロポーションがよくなる、などの体操が、
いろいろネットでも紹介されている。
でも、ある程度のきつさがなければたのしくないし、
かといって、きつすぎたら 気もちがつづかない。
適度の「限界においこんだ感」をわたしはもとめている。
「みんなで筋肉体操」は毎回がたたかいであり、
だからこそやりおえたときの達成感がたかい。
わたしとの相性もよかったとおもう。
運動時間が、あと5秒ながかったら、わたしにはきつすぎる、
という種目がいくつもある。
わたしの能力の、ギリギリをついてくるから、
全力でいどまざるをえない。
ハードルが、ちょうどいいたかさなので、
おもいがけず ながつづきしているのだろう。
今夜は「腕立て伏せ3」と「スクワット3」の日で、
このメニューはいちばん負担がすくない。
3日にいちどは楽だとかんじられるのも、
ながくつづけられた要因かもしれない。
2020年08月31日
2020年08月30日
スペシャル版のラジオマンジャックをたのしむ
きのうのラジオマンジャックはスペシャル版で、
午後2時から6時までと、いつもの倍の時間をたのしめた。
先週は、「アニソンアカデミー」がスペシャル版となり、
そのかわりに、ラジオマンジャックはおやすみだった。
今週はその逆で、ラジオマンジャックがスペシャル版となる。
いつもの2時間が みじかくかんじられるように、
スペシャル版も、あっという間の4時間だった。
ネットの「デイリーポータルZ」の無意味さがすきなように、
ラジオマンジャックのどうでもよさが わたしはたまらない。
ラジオならではのテキトーさが貴重だ。
4時から6時までの2時間は、わたしの土曜日にかかせなくなった。
新型コロナウイルスの感染がひろがりつつあった今年の春、
2回ほど再放送でしのいだあと、
赤坂さんがパーソナルブースで録音したものと、
時東さんが過去の名作をえらんだもので、
「なんちゃって新作」のラジオマンジャックが放送された。
これまでとはちがう形であれ、
とにかくまたラジオマンジャックをきけるようになり、
「日常」のありがあさが身にしみたものだ。
6月からは、レギュラーを3人(赤坂さん・時藤さん・門司さん)
にしぼり、生放送を再開している。
赤坂さんによると、スタジオ内でおたがいの距離をとり、
マスクをつけ、ビニールのついたてをおいた 金魚鉢状態なのだという。
これまでのレギュラーである石山昭子さんと堂免さんは、
電話での参加にとどまっている。
そしてきのうのスペシャル版。
ラジオマンジャックが2時間番組になったのは、
2010年だそうで、それから10年もつづいている。
この10年間に企画されたなかから、
スタジオでライブ演奏されたものが いくつもとりあげられた。
斉藤由貴さんの「卒業」、根本要さんの「木蓮の涙」、
熊倉一雄さんの「ゲゲゲの鬼太郎」など。
いずれも門司さんがピアノをひいている。
赤坂さんもいっていたけど、この番組に
門司肇さんという一流のピアノマンがいる意味はおおきい。
ゲストが安心して自分の歌・演奏に集中でき、
それでいてまわりに気をつかわせない。
一流なのに腰がひくく、いじられキャラの門司さんへ、
きのうは「門司派です」というメールが2つきていた。
かくれ門司派は、あんがいおおいのではないか。
赤坂さんの存在も、もちろんこの番組にかかせない。
わたしは「とことん暑苦しい音楽」という
あつくるしい曲をながす番組で赤坂さんをしった。
番組ではあつくるしく声をかえていたけど、
ネットに、あのDJは 赤坂さんでは、と名前があがっていた。
コントのおもしろさだけではなく、
赤坂さんの 音楽とラジオ界にまつわる豊富な知識と体験が、
ラジオマンジャックがラジオマンジャックであるために
どうしてもかかせない。
4月4日の放送をおえるとき、赤坂さんは
「どうかみなさん、お元気でいてください」としめくくった。
新型コロナウイルスで、このさきどうなるかわからないとき、
とにかくみなさんご無事で、という
気もちのこもったメッセージはわたしの胸をうった。
そして、どんな形であれ番組をつづけようと、
あの手この手で人畜無害な放送をとどけてくれる。
この世界にラジオマンジャックがあって、ほんとうによかった。
午後2時から6時までと、いつもの倍の時間をたのしめた。
先週は、「アニソンアカデミー」がスペシャル版となり、
そのかわりに、ラジオマンジャックはおやすみだった。
今週はその逆で、ラジオマンジャックがスペシャル版となる。
いつもの2時間が みじかくかんじられるように、
スペシャル版も、あっという間の4時間だった。
ネットの「デイリーポータルZ」の無意味さがすきなように、
ラジオマンジャックのどうでもよさが わたしはたまらない。
ラジオならではのテキトーさが貴重だ。
4時から6時までの2時間は、わたしの土曜日にかかせなくなった。
新型コロナウイルスの感染がひろがりつつあった今年の春、
2回ほど再放送でしのいだあと、
赤坂さんがパーソナルブースで録音したものと、
時東さんが過去の名作をえらんだもので、
「なんちゃって新作」のラジオマンジャックが放送された。
これまでとはちがう形であれ、
とにかくまたラジオマンジャックをきけるようになり、
「日常」のありがあさが身にしみたものだ。
6月からは、レギュラーを3人(赤坂さん・時藤さん・門司さん)
にしぼり、生放送を再開している。
赤坂さんによると、スタジオ内でおたがいの距離をとり、
マスクをつけ、ビニールのついたてをおいた 金魚鉢状態なのだという。
これまでのレギュラーである石山昭子さんと堂免さんは、
電話での参加にとどまっている。
そしてきのうのスペシャル版。
ラジオマンジャックが2時間番組になったのは、
2010年だそうで、それから10年もつづいている。
この10年間に企画されたなかから、
スタジオでライブ演奏されたものが いくつもとりあげられた。
斉藤由貴さんの「卒業」、根本要さんの「木蓮の涙」、
熊倉一雄さんの「ゲゲゲの鬼太郎」など。
いずれも門司さんがピアノをひいている。
赤坂さんもいっていたけど、この番組に
門司肇さんという一流のピアノマンがいる意味はおおきい。
ゲストが安心して自分の歌・演奏に集中でき、
それでいてまわりに気をつかわせない。
一流なのに腰がひくく、いじられキャラの門司さんへ、
きのうは「門司派です」というメールが2つきていた。
かくれ門司派は、あんがいおおいのではないか。
赤坂さんの存在も、もちろんこの番組にかかせない。
わたしは「とことん暑苦しい音楽」という
あつくるしい曲をながす番組で赤坂さんをしった。
番組ではあつくるしく声をかえていたけど、
ネットに、あのDJは 赤坂さんでは、と名前があがっていた。
コントのおもしろさだけではなく、
赤坂さんの 音楽とラジオ界にまつわる豊富な知識と体験が、
ラジオマンジャックがラジオマンジャックであるために
どうしてもかかせない。
4月4日の放送をおえるとき、赤坂さんは
「どうかみなさん、お元気でいてください」としめくくった。
新型コロナウイルスで、このさきどうなるかわからないとき、
とにかくみなさんご無事で、という
気もちのこもったメッセージはわたしの胸をうった。
そして、どんな形であれ番組をつづけようと、
あの手この手で人畜無害な放送をとどけてくれる。
この世界にラジオマンジャックがあって、ほんとうによかった。
2020年08月29日
「こわいものみたさ」で、酷暑のなかをはしってみる
35℃以上という猛暑の日がつづき、
無理しないでからだをやすめているわたしだけど、
こんなときに外をはしったら どうなるだろう?と、
こわいものみたさの好奇心がわいてきた。
レース仲間がジョギングにさそってきたので、
ことわらずに うけてたつことにする。
これまでに35℃以上の日にはしった経験は もちろんある。
ただ、ことしはからだをあまやかしてきたし、
最高気温が32.7℃の日でさえ、あまりにもくるしくて、
もうあつい日は はしるのをやめよう、と
「ことしの決心」につながった。
いまのわたしに猛暑をはしるちからはあるだろうか。
きょうはしるにあたり、当然ながら 水分の補給に気をつけた。
熱中症になると、水をのもうとおもっても
からだがうけつけなくなるそうで、
そんなことになったらたいへんだ。
はしるまえにもたくさんのんだし、
ペットボトルを片手に、はしっているとちゅうでも
合計1.5リットルの水をのんだ。
からだの水分がきれてくると、てきめんにくるしくなる。
とちゅうに水を補充した公園では、
頭から水をかぶる。
はしりはじめた午前10時、
道路わきにある温度計は34℃をしめしていた。
いつもゆっくりなはしりだけど、きょうはとりわけおそい。
9キロに67分もかかった。
ヒザからしたをちょこちょこうごかすだけで、
上半身と下半身がぜんぜん連動しないはしりだ。
それでもくるしくて、とちゅうであるこうかとなんどもおもった。
パートナーがいたからなんとかはしりつづけたけど、
ひとりではとても完走できなかっただろう。
家にもどるとポッカレモンをいれた氷水をたてつづけに4杯のむ。
水風呂に10分くらいつかって熱をさます。
「こわいものみたさ」のイベントは成功し、
じゅうぶん猛暑のこわさを肌でかんじた。
どうかんがえても これはからだにわるい。
ことしの夏をしめくくるのにふさわしい
いちどやればじゅうぶんな酷暑ラン体験だった。
無理しないでからだをやすめているわたしだけど、
こんなときに外をはしったら どうなるだろう?と、
こわいものみたさの好奇心がわいてきた。
レース仲間がジョギングにさそってきたので、
ことわらずに うけてたつことにする。
これまでに35℃以上の日にはしった経験は もちろんある。
ただ、ことしはからだをあまやかしてきたし、
最高気温が32.7℃の日でさえ、あまりにもくるしくて、
もうあつい日は はしるのをやめよう、と
「ことしの決心」につながった。
いまのわたしに猛暑をはしるちからはあるだろうか。
きょうはしるにあたり、当然ながら 水分の補給に気をつけた。
熱中症になると、水をのもうとおもっても
からだがうけつけなくなるそうで、
そんなことになったらたいへんだ。
はしるまえにもたくさんのんだし、
ペットボトルを片手に、はしっているとちゅうでも
合計1.5リットルの水をのんだ。
からだの水分がきれてくると、てきめんにくるしくなる。
とちゅうに水を補充した公園では、
頭から水をかぶる。
はしりはじめた午前10時、
道路わきにある温度計は34℃をしめしていた。
いつもゆっくりなはしりだけど、きょうはとりわけおそい。
9キロに67分もかかった。
ヒザからしたをちょこちょこうごかすだけで、
上半身と下半身がぜんぜん連動しないはしりだ。
それでもくるしくて、とちゅうであるこうかとなんどもおもった。
パートナーがいたからなんとかはしりつづけたけど、
ひとりではとても完走できなかっただろう。
家にもどるとポッカレモンをいれた氷水をたてつづけに4杯のむ。
水風呂に10分くらいつかって熱をさます。
「こわいものみたさ」のイベントは成功し、
じゅうぶん猛暑のこわさを肌でかんじた。
どうかんがえても これはからだにわるい。
ことしの夏をしめくくるのにふさわしい
いちどやればじゅうぶんな酷暑ラン体験だった。
2020年08月28日
レジ袋の有料化により、本屋さんでのかいものがすっきりした
本屋さんで本をかうと、袋がいるかどうかたずねられるようになった。
もちろんレジ袋の有料化からだけど、
まえは、袋にいれるのがデフォルトだったのにたいし、
いまでは袋にいれないほうがふつうになった。
レジでの対応が、ガラッとかわったのがおもしろい。
もともと袋なんていらなかったのだ。
レジ袋の有料化により、本屋さんでのかいものがすっきりした。
わたしは有料になるまえから袋をことわっていた。
文庫本にもカバーはつけない。
袋はゴミになるし、カバーはじゃまだから。
袋にいれないと、かった本かどうかわからないので、
「店内をでるまでは、レシートをはさんでください」といわれる。
スーパーやコンビニでのレジ袋は、
商品をいれるのに便利だからだけど、
本屋さんで袋にいれるのは、便利さだけでなく、
かった商品かどうかわかるようにする意味がつよいのかもしれない。
本にテープはなじまないので、かわりにレシートを、
ということだろう。
スーパーでも、レシートをもっていたらいいわけで、
テープなんてはらなくてもいいのに、
わたしがデイパックにかった商品をいれようとすると、
ひとつひとつにテープをはる店もあった。
いまは、スーパーのカゴをべつの台にもっていき、
そこで商品をエコバックにいれるので、
シールをはられなくなり、よろこんでいる。
本屋さんだけでなく、
スーパーやコンビニでのかいものもすっきりした。
ただ、ほんらいの目的である、プラスチック製品をつかわない、
という意味では、わたしの生活はかわっていない。
あいかわらずゴミの日には、はいりきれないほどの
ビニールやプラスチック製品が袋にたまっている。
サランラップもよくつかうし、
スーパーで肉や魚をかうと、お店の小袋をつかいがちだ。
「自由ポータルZ」に
「レジ袋をつかわないでも片手でもてる」
という記事がのっていた。
http://www.mizuhebi.com/entry/2018/09/07/140505
1食ぶんのかいものぐらい、片手でなんとかなる、という実践だ。
ちなみに、この記事は レジ袋が有料になるまえにかかれている。
脱プラスチック運動とは関係なく、
「完全に趣味の世界」という ちからのぬけたところがいい。
強制ではなく趣味でやるほうが、
エコ運動へのとりくみとして うまくいくのかもしれない。
もちろんレジ袋の有料化からだけど、
まえは、袋にいれるのがデフォルトだったのにたいし、
いまでは袋にいれないほうがふつうになった。
レジでの対応が、ガラッとかわったのがおもしろい。
もともと袋なんていらなかったのだ。
レジ袋の有料化により、本屋さんでのかいものがすっきりした。
わたしは有料になるまえから袋をことわっていた。
文庫本にもカバーはつけない。
袋はゴミになるし、カバーはじゃまだから。
袋にいれないと、かった本かどうかわからないので、
「店内をでるまでは、レシートをはさんでください」といわれる。
スーパーやコンビニでのレジ袋は、
商品をいれるのに便利だからだけど、
本屋さんで袋にいれるのは、便利さだけでなく、
かった商品かどうかわかるようにする意味がつよいのかもしれない。
本にテープはなじまないので、かわりにレシートを、
ということだろう。
スーパーでも、レシートをもっていたらいいわけで、
テープなんてはらなくてもいいのに、
わたしがデイパックにかった商品をいれようとすると、
ひとつひとつにテープをはる店もあった。
いまは、スーパーのカゴをべつの台にもっていき、
そこで商品をエコバックにいれるので、
シールをはられなくなり、よろこんでいる。
本屋さんだけでなく、
スーパーやコンビニでのかいものもすっきりした。
ただ、ほんらいの目的である、プラスチック製品をつかわない、
という意味では、わたしの生活はかわっていない。
あいかわらずゴミの日には、はいりきれないほどの
ビニールやプラスチック製品が袋にたまっている。
サランラップもよくつかうし、
スーパーで肉や魚をかうと、お店の小袋をつかいがちだ。
「自由ポータルZ」に
「レジ袋をつかわないでも片手でもてる」
という記事がのっていた。
http://www.mizuhebi.com/entry/2018/09/07/140505
1食ぶんのかいものぐらい、片手でなんとかなる、という実践だ。
ちなみに、この記事は レジ袋が有料になるまえにかかれている。
脱プラスチック運動とは関係なく、
「完全に趣味の世界」という ちからのぬけたところがいい。
という訳で俺は完全にコンビニのレジ袋不要の生活を送っている。あくまで好きで不自由を楽しんでいる、完全に趣味の世界である、というのがお分かりいただけたかと思う。
強制ではなく趣味でやるほうが、
エコ運動へのとりくみとして うまくいくのかもしれない。
2020年08月27日
ネコたちの熱中症が心配で家にもどる
午後の仕事にでかけると、道路わきにある温度計が38℃となっていた。
気象庁が発表する温度ではなく、
参考にしかならないとはいえ危険な温度だ。
家にいるネコたちが心配になり、仕事のとちゅうで家による。
同居している母が、エアコンをつけていたらいいけど、
母は昭和ひとけたの人間らしく、
エアコンはからだにわるいとしんじこんでいて、
自分からはぜったいにスイッチをいれない。
NHKのニュースをいちにちになんどみるひとだから、
室内にいながら熱中症でなくなるひとが
何人もでていることくらいしってるはずなのに。
フーフー息をつきながら、うちわであつさにたえている。
家にもどると、案の定、エアコンはついてなかった。
ネコたちのためにスイッチをいれ、すぐに仕事にもどる。
夕方わたしが家にかえると、
エアコンをつけてない部屋は35℃もあった。
エアコンですずしくしたお礼か、
わたしがもどるとココがでむかえてくれた
(ほんとは、ただブラシを催促してるだけ)。
まいとしのようにあつい夏がつづくので、
どの年があつかったのかごちゃまぜの記憶になりがちだ。
そのなかでも、2018年の夏はたしか格別のあつさだったはずだ。
でも、日記をひっぱりだすと、たしかにあつい日がおおいけど、
そのかわり30℃をしたまわる日もちらほらあった。
きょねんは、9月になってからもあつい日がおおく、
もう夏をやりすごしたつもりになっていたのに
(ウイニングランみたいなものだ、なんてブログにかいている)、
いつまでもつづく 33℃や34℃にくるしんだ。
ことしは梅雨があけた7月30日から
ずっと30℃以上の日がつづいている。
上空をおおっているあつい空気が、はやくどこかへいかないものか。
あつい あついといいながらも、
そのあつさにわたしのからだがなれたのか、
今週にはいると、あんまりつらくかんじないようになった。
8月の下旬になって、やっとあつさになれるのではおそすぎるけど、
熱風がふく酷暑の日に、平気で外をあるいていると、
スーパーマン(ふるい!)になったようで気分がいい。
ただ、水分をしっかりとってないと、
頭がいたくなってくるので、からだはギリギリのところで
あつさをこらえているのかもしれない。
仕事をおえると家でのビールをたのしみに、
あるいてスーパーでへむかい、きつい坂をのぼって汗をかく。
いまごろになってあつさになれたのは、
ことしは からだをやすめるにの成功したのかもしれない。
夜はまよわずエアコンをつけるし、
あつい日のジョギングはからだによくないのでやめた。
夕ごはんをつくりながらビールをのみ、
ねるまえも、お風呂で汗をたっぷりながしてから
ひえた白ワインとジン・トニックでよっぱらうころには、
あつさは ほとんど気にならない。
仕事はそこそこに、なんとかいちにちをやりすごしたら、
それだけでもうけもものと、ハードルをさげたのもよかったかも。
あつい日を生きのびて夕方をむかえたら、ひとつの仕事の達成だ。
もうわかくはなく、夏はからだをいたわるときなのだろう。
気象庁が発表する温度ではなく、
参考にしかならないとはいえ危険な温度だ。
家にいるネコたちが心配になり、仕事のとちゅうで家による。
同居している母が、エアコンをつけていたらいいけど、
母は昭和ひとけたの人間らしく、
エアコンはからだにわるいとしんじこんでいて、
自分からはぜったいにスイッチをいれない。
NHKのニュースをいちにちになんどみるひとだから、
室内にいながら熱中症でなくなるひとが
何人もでていることくらいしってるはずなのに。
フーフー息をつきながら、うちわであつさにたえている。
家にもどると、案の定、エアコンはついてなかった。
ネコたちのためにスイッチをいれ、すぐに仕事にもどる。
夕方わたしが家にかえると、
エアコンをつけてない部屋は35℃もあった。
エアコンですずしくしたお礼か、
わたしがもどるとココがでむかえてくれた
(ほんとは、ただブラシを催促してるだけ)。
まいとしのようにあつい夏がつづくので、
どの年があつかったのかごちゃまぜの記憶になりがちだ。
そのなかでも、2018年の夏はたしか格別のあつさだったはずだ。
でも、日記をひっぱりだすと、たしかにあつい日がおおいけど、
そのかわり30℃をしたまわる日もちらほらあった。
きょねんは、9月になってからもあつい日がおおく、
もう夏をやりすごしたつもりになっていたのに
(ウイニングランみたいなものだ、なんてブログにかいている)、
いつまでもつづく 33℃や34℃にくるしんだ。
ことしは梅雨があけた7月30日から
ずっと30℃以上の日がつづいている。
上空をおおっているあつい空気が、はやくどこかへいかないものか。
あつい あついといいながらも、
そのあつさにわたしのからだがなれたのか、
今週にはいると、あんまりつらくかんじないようになった。
8月の下旬になって、やっとあつさになれるのではおそすぎるけど、
熱風がふく酷暑の日に、平気で外をあるいていると、
スーパーマン(ふるい!)になったようで気分がいい。
ただ、水分をしっかりとってないと、
頭がいたくなってくるので、からだはギリギリのところで
あつさをこらえているのかもしれない。
仕事をおえると家でのビールをたのしみに、
あるいてスーパーでへむかい、きつい坂をのぼって汗をかく。
いまごろになってあつさになれたのは、
ことしは からだをやすめるにの成功したのかもしれない。
夜はまよわずエアコンをつけるし、
あつい日のジョギングはからだによくないのでやめた。
夕ごはんをつくりながらビールをのみ、
ねるまえも、お風呂で汗をたっぷりながしてから
ひえた白ワインとジン・トニックでよっぱらうころには、
あつさは ほとんど気にならない。
仕事はそこそこに、なんとかいちにちをやりすごしたら、
それだけでもうけもものと、ハードルをさげたのもよかったかも。
あつい日を生きのびて夕方をむかえたら、ひとつの仕事の達成だ。
もうわかくはなく、夏はからだをいたわるときなのだろう。
2020年08月26日
『平畠啓史 Jリーグ56クラブ巡礼2020』
『平畠啓史 Jリーグ56クラブ巡礼2020』
(平畠啓史・ヨシモトブックス)
タイトルどおり、Jリーグの全56クラブについて、
平畠さんが1本ずつ記事をかいている。
北海道コンサドーレ札幌からはじまり、
日本列島を縦断してFC琉球にたどりつく。
おなじ著者による『今日も、Jリーグ日和。』と
どうちがうかといえば、「Jリーグ日和」のほうは、
Jリーグサッカーについて、平畠さんが
かんじたことをそのままかいたエッセーなのにたいし、
「56クラブ巡礼2020」は、2020年のシーズンを対象に、
Jリーグに加盟している全クラブについて、
そのクラブの設立や現在の位置づけ、
そして地域でどのように愛されているかを、
平畠さんがインタビューでききだしている。
取材にえらぶのは 選手ばかりではなく、
平畠さんがキーパーソンとかんがえる、
場内アナウンサーだったり、サポーターだったり、
チアガールだったりするからとてもリアルだ。
川崎フロンターレの回は、
選手がのるバスの運転手さんがとりあげられている。
有名選手を全面にだせば、本はうれるだろうけど、
平畠さんがねがっているのは、それぞれの土地に根をおろし、
愛するチームをもりたてているひとたちから
チームにたいするおもいをききだすところにある。
よんでいると、どのチームのはなしも
ひとりひとりの人生がからんでくるだけにおもしろい。
わたしがすむ島根には Jリーグのクラブがなく、
JFLの「松江シティFC」が J3いりをめざしている段階だ。
Jリーグで地理的にいちばんなじみがあるのは、
おとなりの鳥取県にある「ガイナーレ鳥取」となる。
本書で紹介されているのは、島根県松江市にすむ
フリライターの石倉利英さんだ。
中国5県のサッカー(Jリーグから高校性まで)を取材し、
メディアに提供しているそうだけど、
島根にすんでいながら、わたしは石倉さんの存在をしらなかった。
平畠さんのすばらしさは、日本サッカーをささえる
そうしたひとたちの熱意をすくいあげ、紹介するところにある。
本書は、取材というよりも、
たのしんではなしをききだしたら、自然にできあがった、
みたいな印象をうける。平畠さんならではの いい仕事だ。
登場するすべてのひとたちは、応援しているチームなくして
自分の人生はない、というほど おおくのエネルギーをささげている。
そうした熱意はなかなかおもてにはでてこずに、
地元でうずもれたままになりやすい。
ふだんはかくれた存在であるひとに光をあて、
興味ぶかい一冊としてまとめた平畠さんに 拍手をおくりたい。
おそらく本書は、サッカーがすきなすべてのひとにささげられている。
(平畠啓史・ヨシモトブックス)
タイトルどおり、Jリーグの全56クラブについて、
平畠さんが1本ずつ記事をかいている。
北海道コンサドーレ札幌からはじまり、
日本列島を縦断してFC琉球にたどりつく。
おなじ著者による『今日も、Jリーグ日和。』と
どうちがうかといえば、「Jリーグ日和」のほうは、
Jリーグサッカーについて、平畠さんが
かんじたことをそのままかいたエッセーなのにたいし、
「56クラブ巡礼2020」は、2020年のシーズンを対象に、
Jリーグに加盟している全クラブについて、
そのクラブの設立や現在の位置づけ、
そして地域でどのように愛されているかを、
平畠さんがインタビューでききだしている。
取材にえらぶのは 選手ばかりではなく、
平畠さんがキーパーソンとかんがえる、
場内アナウンサーだったり、サポーターだったり、
チアガールだったりするからとてもリアルだ。
川崎フロンターレの回は、
選手がのるバスの運転手さんがとりあげられている。
有名選手を全面にだせば、本はうれるだろうけど、
平畠さんがねがっているのは、それぞれの土地に根をおろし、
愛するチームをもりたてているひとたちから
チームにたいするおもいをききだすところにある。
よんでいると、どのチームのはなしも
ひとりひとりの人生がからんでくるだけにおもしろい。
現在もピッチに立ち、スコアを動かせる選手、過去にスコアを動かしていた選手、自らはサッカーに関わっているつもりがなくても、関わってしまっているうどん屋のおばちゃん、それぞれのドラマにそれぞれの主役が存在し、Jリーグには無数の物語がある。
わたしがすむ島根には Jリーグのクラブがなく、
JFLの「松江シティFC」が J3いりをめざしている段階だ。
Jリーグで地理的にいちばんなじみがあるのは、
おとなりの鳥取県にある「ガイナーレ鳥取」となる。
本書で紹介されているのは、島根県松江市にすむ
フリライターの石倉利英さんだ。
中国5県のサッカー(Jリーグから高校性まで)を取材し、
メディアに提供しているそうだけど、
島根にすんでいながら、わたしは石倉さんの存在をしらなかった。
平畠さんのすばらしさは、日本サッカーをささえる
そうしたひとたちの熱意をすくいあげ、紹介するところにある。
本書は、取材というよりも、
たのしんではなしをききだしたら、自然にできあがった、
みたいな印象をうける。平畠さんならではの いい仕事だ。
登場するすべてのひとたちは、応援しているチームなくして
自分の人生はない、というほど おおくのエネルギーをささげている。
そうした熱意はなかなかおもてにはでてこずに、
地元でうずもれたままになりやすい。
ふだんはかくれた存在であるひとに光をあて、
興味ぶかい一冊としてまとめた平畠さんに 拍手をおくりたい。
おそらく本書は、サッカーがすきなすべてのひとにささげられている。
2020年08月25日
マスクにくるしんだ今年の夏
梅雨にはいったころ、いまでもマスクをしているとくるしいのに、
これが夏になったら、どんなにたいへんだろう、とはなしていた。
気温がたかくなくても、マスクをして散歩したら息ぐるしくなる。
夏のあつさの中、マスクなんてできるのだろうか、
という心配どおり、くるしみながら8月の下旬をむかえている。
夏というだけでたいへんなのに、そのうえマスクでさらにあつくなる。
マスクになれたのではなく、ひとの目がないところ、
ひととの距離をとれるところではマスクをはずしてすごした。
冷房のきいた部屋のなかならまだしも、
外でのマスクは、熱がこもってとても不快だ。
新型コロナウイルスの感染は、
7月にはいると第二波というべき状況になってきて、
マスクはますます手ばなせない。
ウイルスを予防するという本来の意味よりも、
マスクをしてます、という、メッセージをおくるための、
なんちゃってマスクだけど、
まわりとあわせてしまいがちな日本人は、
あつくなってもマスクをつけつづけるひとがおおい。
とはいえ、あつさのなかでは熱中症の心配もでてくるので、
夏は積極的にマスクをはずす場面をかんがえたほうがいいのでは。
まわりとの距離がとれるのであれば、マスクをはずしましょうと、
信頼できるひとがいってくれたら、どれだけ楽になるだろう。
車ですれちがうひとをみていて いちばんかっこわるいのは、
マスクをアゴまでひきさげたつけ方だとおもっている。
男だけでなく、女性でもそうやっているひとをみかけるけど、
これをやると、いっきょにおっさん度がたかまる。
いちいちマスクをはずすより、アゴまでさげるほうが
めんどくさくないので ついやりがちだけど、
だれがやってもかっこわるくみえるので注意したほうがいい。
片方の耳だけのゴムをのこし、
耳にマスクをひっかけるやり方のひともおおい。
片方だけからマスクがたれさがっているのだから、
おかしそうだけど、あんがいまともにみえる。
アゴマスクより、こちらのほうが、はるかに知的な印象をうける。
マスクを顔からはずすより、清潔にたもてるので、
衛生を気にしながら楽な姿勢をとるのにむいている。
ジョギングのときにもマスクがもとめられる雰囲気があり、
はしっていて ひととすれちがうときには気をつかう。
プールではマスクをつけなくていいので、
ことしの夏は、ジョギングをやめて水泳だけにした。
なんだかんだいって、わたしがマスクをつけてる時間は、
客観的にみれば そんなにながくない。
ひとりであるくときはマスクをつけない。
マスクをとりだすのは、お店にはいるときだけだ。
新型コロナウイルスとマスクの関係があきらかになり、
本来的な意味をはなれたマスクの使用がなくなれば、
息ぐるしさはずいぶんすくなくなるのに。
予想していたとおり、あつさとマスクの両方にくるしむ夏となった。
これが夏になったら、どんなにたいへんだろう、とはなしていた。
気温がたかくなくても、マスクをして散歩したら息ぐるしくなる。
夏のあつさの中、マスクなんてできるのだろうか、
という心配どおり、くるしみながら8月の下旬をむかえている。
夏というだけでたいへんなのに、そのうえマスクでさらにあつくなる。
マスクになれたのではなく、ひとの目がないところ、
ひととの距離をとれるところではマスクをはずしてすごした。
冷房のきいた部屋のなかならまだしも、
外でのマスクは、熱がこもってとても不快だ。
新型コロナウイルスの感染は、
7月にはいると第二波というべき状況になってきて、
マスクはますます手ばなせない。
ウイルスを予防するという本来の意味よりも、
マスクをしてます、という、メッセージをおくるための、
なんちゃってマスクだけど、
まわりとあわせてしまいがちな日本人は、
あつくなってもマスクをつけつづけるひとがおおい。
とはいえ、あつさのなかでは熱中症の心配もでてくるので、
夏は積極的にマスクをはずす場面をかんがえたほうがいいのでは。
まわりとの距離がとれるのであれば、マスクをはずしましょうと、
信頼できるひとがいってくれたら、どれだけ楽になるだろう。
車ですれちがうひとをみていて いちばんかっこわるいのは、
マスクをアゴまでひきさげたつけ方だとおもっている。
男だけでなく、女性でもそうやっているひとをみかけるけど、
これをやると、いっきょにおっさん度がたかまる。
いちいちマスクをはずすより、アゴまでさげるほうが
めんどくさくないので ついやりがちだけど、
だれがやってもかっこわるくみえるので注意したほうがいい。
片方の耳だけのゴムをのこし、
耳にマスクをひっかけるやり方のひともおおい。
片方だけからマスクがたれさがっているのだから、
おかしそうだけど、あんがいまともにみえる。
アゴマスクより、こちらのほうが、はるかに知的な印象をうける。
マスクを顔からはずすより、清潔にたもてるので、
衛生を気にしながら楽な姿勢をとるのにむいている。
ジョギングのときにもマスクがもとめられる雰囲気があり、
はしっていて ひととすれちがうときには気をつかう。
プールではマスクをつけなくていいので、
ことしの夏は、ジョギングをやめて水泳だけにした。
なんだかんだいって、わたしがマスクをつけてる時間は、
客観的にみれば そんなにながくない。
ひとりであるくときはマスクをつけない。
マスクをとりだすのは、お店にはいるときだけだ。
新型コロナウイルスとマスクの関係があきらかになり、
本来的な意味をはなれたマスクの使用がなくなれば、
息ぐるしさはずいぶんすくなくなるのに。
予想していたとおり、あつさとマスクの両方にくるしむ夏となった。
2020年08月24日
『取り扱い注意』(佐藤正午)うっとりするほどおもしろい
『取り扱い注意』(佐藤正午・角川文庫)
よみおえたとき、うっとりするほどおもしろかった。
こんなすごい小説を、なぜわたしはしらなかったのだろう。
たしょうややこしいはなしの展開でも、
佐藤正午なのだから、とよみすすめるうちに、
作品の世界にどっぷりつかっていた。
本をよみおえると、じょうずにあそばせてもらったたのしさが
からだぜんたいをつつんでいる。
ほかの小説とは、ひと味ちがう満足感にひたる。
小説家をこころざすひとがこの小説をよんだら、
あまりのたくみさに絶望するのではないか。
でだしは、いつもながらなんのことだかわからない。
筋をおっているうちに、おもしろさからのがれられなくなっていた。
佐藤正午的な会話がたのしい。
無駄話が、ぜんぶあとで回収される。
作者のこまかなコントロールのもとに、
登場人物はすきかってをする。
佐藤正午以外にこんな作品はかけない。
ちりばめられた小道具がじょうずにいかされ、
あちこちで「事件」をちらつかせながら、
さいごまでよまないとわからないしかけになっている。
この本では、英語の慣用句と、
スクラブル(英単語づくりのゲーム)が効果的につかわれていた。
日本語にしろ英語にしろ、ことばあそびが佐藤さんはじょうずだ。
会話のなかになにげなくとりこんであり、
とぼけた雰囲気が自然にでてくる。
ひとつだけ会話を引用しておく。
主人公の鮎川英雄は女性にもてまくるタイプの男で、
なにもしなくても、むこうからかってにちかづいてくる。
もてるからといって、うぬぼれるいやみな男ではなく、
自分なりに方針をさだめ、その線にそって忠実に生きようとしている。
女をだまそうとか、みつがせようとかのダメ男ではない。
ダメ男なのは、鮎川のおじさんのほうで、
まともに仕事をする人間ではなく、
わかいころから一貫してあそびつづけている。
あろうことか、このおじさんが鮎川に、銀行強盗をもちかける。
ちょっとかんがえただけでも実現不可能なので、
鮎川は相手にしなかったけど、
だんだんと強盗する対象がさがり、
パチンコ店のうりあげをねらうことになった。
鮎川にちかづいてくる女性、
おじさんと、そのあいての中学生。
おちついてはじまった小説が、
まんなかへんからは、ドタバタ劇に一直線だ。
ありえないはなしなのにリアリティがある。
まさかこんなてんこもりの喜劇になるとは。
ドラマにしたらきっとあたるとおもうけど。
よみおえたとき、うっとりするほどおもしろかった。
こんなすごい小説を、なぜわたしはしらなかったのだろう。
たしょうややこしいはなしの展開でも、
佐藤正午なのだから、とよみすすめるうちに、
作品の世界にどっぷりつかっていた。
本をよみおえると、じょうずにあそばせてもらったたのしさが
からだぜんたいをつつんでいる。
ほかの小説とは、ひと味ちがう満足感にひたる。
小説家をこころざすひとがこの小説をよんだら、
あまりのたくみさに絶望するのではないか。
でだしは、いつもながらなんのことだかわからない。
筋をおっているうちに、おもしろさからのがれられなくなっていた。
佐藤正午的な会話がたのしい。
無駄話が、ぜんぶあとで回収される。
作者のこまかなコントロールのもとに、
登場人物はすきかってをする。
佐藤正午以外にこんな作品はかけない。
ちりばめられた小道具がじょうずにいかされ、
あちこちで「事件」をちらつかせながら、
さいごまでよまないとわからないしかけになっている。
この本では、英語の慣用句と、
スクラブル(英単語づくりのゲーム)が効果的につかわれていた。
日本語にしろ英語にしろ、ことばあそびが佐藤さんはじょうずだ。
会話のなかになにげなくとりこんであり、
とぼけた雰囲気が自然にでてくる。
ひとつだけ会話を引用しておく。
「ごめんなさい」
とテレジアは謝った。それから彼の手を自分の手から引きはがすようにして、言い訳をした。
「今夜はうちにいとこが泊まりに来てるの、帰って夜食をつくってあげないと」
ほんの一秒ほど車内が静まりかえった。前で運転手が身じろぎをした。見るからに居心地が悪そうだった。
「夜食って?」往生際の悪い男が尋ねた。「そのいとこは受験生なの?」
「そうよ」
「ふうん。でもいまは夏休みだろ」
「夏休みだから泊まりに来てるんじゃない」
「どんないとこ?」
「いとこはいとこよ、何を言ってるの」彼女は堂々と、正統的な言い訳をつらぬいた。
主人公の鮎川英雄は女性にもてまくるタイプの男で、
なにもしなくても、むこうからかってにちかづいてくる。
もてるからといって、うぬぼれるいやみな男ではなく、
自分なりに方針をさだめ、その線にそって忠実に生きようとしている。
女をだまそうとか、みつがせようとかのダメ男ではない。
ダメ男なのは、鮎川のおじさんのほうで、
まともに仕事をする人間ではなく、
わかいころから一貫してあそびつづけている。
あろうことか、このおじさんが鮎川に、銀行強盗をもちかける。
ちょっとかんがえただけでも実現不可能なので、
鮎川は相手にしなかったけど、
だんだんと強盗する対象がさがり、
パチンコ店のうりあげをねらうことになった。
鮎川にちかづいてくる女性、
おじさんと、そのあいての中学生。
おちついてはじまった小説が、
まんなかへんからは、ドタバタ劇に一直線だ。
ありえないはなしなのにリアリティがある。
まさかこんなてんこもりの喜劇になるとは。
ドラマにしたらきっとあたるとおもうけど。
タグ:佐藤正午
2020年08月23日
古賀及子さんによる大発見「そのまま麺」がおいしい
デイリーポータルZに古賀及子さんの
「何もつけずに食べる麺はとてもおいしい」がのった。
https://dailyportalz.jp/kiji/noodles-is-delicious-without-adding-anything
古賀さんは、8種類の麺をすこしずつ用意し、
その全部をいっしょにゆでている。
もちろん、ゆでる時間はそれぞれの麺にあわせている。
おいしいお米は、なにもおかずがなくてもたべられるというけど、
麺もまたそうだったとは。
炭水化物はもともとあまみをもっていて、
そのあまみがうまさでもあるので、
かんがえてみたら、そう不思議なはなしではないかもしれない。
シンプルはどんなときでもものごとの本質をあらわしてしまう。
究極のラーメンをめざし、材料にこだわって
チャーシューやスープをつくるお店がよく紹介されるけど、
もしかしたらぜんぜん必要ない苦労なのかもしれない。
とおもって記事をよんでいくと、
おいしいけど、でも・・・、という結果が報告されている。
つまみぐいする麺はたしかにおいしいので、
すこしずつ、でもぜんたいとしては
けっこうな量の「そのまま麺」をたべれば、
いろいろな麺のおいしさを、たっぷり味わえる、とおもったけど、
結果はすこしちがっていた。
やってみなければわからない、いい実験だ。
「そのまま麺」から連想したのは、
野生動物たちは、みんな食材を「そのまま」たべている、ということ。
かっている牛や馬には塩をあたえるそうなので、
すべての動物、ではなく、野生動物が対象だ。
ミミズにちょっと塩をつけてたべる鳥は たぶんいないし、
肉食動物は、ころした動物の内臓から塩分をとるらしく、
それだったら、麺をつくるときにいれる塩みたいなもので、
麺をたべたらしぜんと塩分もとりこむことになる。
人間だけが、食材に味をくわえているわけだから、
料理を究極にシンプルにすると、食材をそのまま、
なんのソースもくわえず たべることになる。
古賀さんの実験では、「そのまま麺」では頭が満足しないそうだけど、
なれの問題にすぎないかもしれない。
「そのまま麺」を1週間つづけてたべたら、
もうこれまでの麺はたべられなくなった、という
古賀さんによる つづきの報告をまちたい。
「何もつけずに食べる麺はとてもおいしい」がのった。
https://dailyportalz.jp/kiji/noodles-is-delicious-without-adding-anything
何もつけずに食べる麺が好き。ずっと言い出せずに心にしまっていた。
うどんも、スパゲティも、そうめんも、そばも、そのまま食べるとおいしい。今までずっと、こっそりソースをかける前のスパゲティをつまみ、つゆにつけるふりをしてそうめんをそのまますすったりしていた。
何もつけない麺、名づけて「そのまま麺」。
古賀さんは、8種類の麺をすこしずつ用意し、
その全部をいっしょにゆでている。
もちろん、ゆでる時間はそれぞれの麺にあわせている。
8種類、食べた。おいしかった。「何もつけなくても十分おいしい」というより「何もつけない麺が、おいしい」。
おいしいお米は、なにもおかずがなくてもたべられるというけど、
麺もまたそうだったとは。
炭水化物はもともとあまみをもっていて、
そのあまみがうまさでもあるので、
かんがえてみたら、そう不思議なはなしではないかもしれない。
シンプルはどんなときでもものごとの本質をあらわしてしまう。
究極のラーメンをめざし、材料にこだわって
チャーシューやスープをつくるお店がよく紹介されるけど、
もしかしたらぜんぜん必要ない苦労なのかもしれない。
とおもって記事をよんでいくと、
おいしいけど、でも・・・、という結果が報告されている。
が、ひとつ重大なことが分かったのだ。なんと、
そのまま麺を食べても、一向に食欲が満たされない
のだ。驚きだったので太字にしてお知らせした。満腹にはなる。お腹がいっぱいという体感はあるのだが、脳が満足しない。
つまみぐいする麺はたしかにおいしいので、
すこしずつ、でもぜんたいとしては
けっこうな量の「そのまま麺」をたべれば、
いろいろな麺のおいしさを、たっぷり味わえる、とおもったけど、
結果はすこしちがっていた。
やってみなければわからない、いい実験だ。
「そのまま麺」から連想したのは、
野生動物たちは、みんな食材を「そのまま」たべている、ということ。
かっている牛や馬には塩をあたえるそうなので、
すべての動物、ではなく、野生動物が対象だ。
ミミズにちょっと塩をつけてたべる鳥は たぶんいないし、
肉食動物は、ころした動物の内臓から塩分をとるらしく、
それだったら、麺をつくるときにいれる塩みたいなもので、
麺をたべたらしぜんと塩分もとりこむことになる。
人間だけが、食材に味をくわえているわけだから、
料理を究極にシンプルにすると、食材をそのまま、
なんのソースもくわえず たべることになる。
古賀さんの実験では、「そのまま麺」では頭が満足しないそうだけど、
なれの問題にすぎないかもしれない。
「そのまま麺」を1週間つづけてたべたら、
もうこれまでの麺はたべられなくなった、という
古賀さんによる つづきの報告をまちたい。
2020年08月22日
「悩みのるつぼ」上野さんのアドバイスにひっかかる
朝日新聞土曜日版beに連載されている「悩みのるつぼ」。
こんかいは、父親へのにくしみを、母親にうえつけられた、
という20代の女性が、名ざしで上野千鶴子さんに回答をもとめている。
上野さんは、
という方向でアドバイスをすすめている。
気になったのは、むすびのことばだ。
そうはいっても、「せいいっぱい愛」せないひとは
どう子どもとせっしたらいいのか。
自分の子どもを愛せない親はたくさんいる。
どうしても子どもを愛せない、とさっした父親は、
愛するふりをして、子どもにかかわるほうがいいのだろうか。
子どもを愛せないような人間が、父親なんかになるな、
というのは正論かもしれないけど、
なってしまったものはしょうがないだろう。
いまさらそのひとのそだちをかえられるわけではない。
愛するのは、愛そうとおもってできることではない。
自分の意思ではどうしようもない感情が愛であり、
「見捨てられないように」するため、
「せいいっぱい愛する」なんてできっこない。
彼女は父親に かわいがられた記憶がある。
父親は、彼女のほしいものをかってくれたり、
写真をとってくれたりした。
妻にたいしてはひどい夫だったようだけど、
むすめにたいしてはそれなりにかわいがっていたようだ。
相談者の父親は、彼女を愛していただろうか。
「子どもたちに見捨てられないように」するために、
「まず子どもたちをせいいっぱい愛すること」
がわたしにはすんなりつながらない。
このふたつをいっしょにするとき、それは愛といえるのだろうか。
こんかいは、父親へのにくしみを、母親にうえつけられた、
という20代の女性が、名ざしで上野千鶴子さんに回答をもとめている。
今の私は、母に同調して父を憎むという、自分に関係のない憎しみを抱いている状態だと思います。
その憎しみを手放したちと思いつつも、父親に歩み寄る気持ちも持てません。私はどのように気持ちの整理をつけたらいいのでしょうか。
上野さんは、
夫と父を分離し、母とあなたを分離しましょう。あなたに同調を強いる母の支配から、そろそろ自立してもよい年齢です。
という方向でアドバイスをすすめている。
気になったのは、むすびのことばだ。
世の父親諸君、このお悩み相談から教訓を汲み取ってくださいね。いずれ自分が弱者になったとき・・・因果は廻ります。子どもたちに見捨てられないようにしたければ、まず子どもたちをせいいっぱい愛することですね。
そうはいっても、「せいいっぱい愛」せないひとは
どう子どもとせっしたらいいのか。
自分の子どもを愛せない親はたくさんいる。
どうしても子どもを愛せない、とさっした父親は、
愛するふりをして、子どもにかかわるほうがいいのだろうか。
子どもを愛せないような人間が、父親なんかになるな、
というのは正論かもしれないけど、
なってしまったものはしょうがないだろう。
いまさらそのひとのそだちをかえられるわけではない。
愛するのは、愛そうとおもってできることではない。
自分の意思ではどうしようもない感情が愛であり、
「見捨てられないように」するため、
「せいいっぱい愛する」なんてできっこない。
彼女は父親に かわいがられた記憶がある。
父親は、彼女のほしいものをかってくれたり、
写真をとってくれたりした。
そうしたことが良い思い出として残っているせいで、父親を憎むことに罪悪感を覚えてしまいます。
妻にたいしてはひどい夫だったようだけど、
むすめにたいしてはそれなりにかわいがっていたようだ。
相談者の父親は、彼女を愛していただろうか。
「子どもたちに見捨てられないように」するために、
「まず子どもたちをせいいっぱい愛すること」
がわたしにはすんなりつながらない。
このふたつをいっしょにするとき、それは愛といえるのだろうか。
2020年08月21日
『未来少年コナン』第16話、胸にせまるコナンのプロポーズ
デジタルリマスター版の『未来少年コナン』が
第16話「二人の小屋」まですすんでいる。
コナンとジムシーが、自分たちの家をつくるはなしだ。
コナンはラナに自分たちの家をみせ、
ゆくゆくはのこされ島にもどろうとおもう、とはなす。
インダストリアからたくさんのひとがハイハーバーにやってきたら、
島はすぐにひとでいっぱいになってしまうだろう。
そのために、のこされ島でも麦をそだて、
ひとがくらす島にしようという、さきをみこした計画だ。
コナンは「そのときは、ラナにもいっしょにきてほしい」と、
プロポーズとしかいえないセリフがある。
ラナはもちろん「いく」とこたえ、
「コナンにまけないように、いっぱいはたらく」という。
いっしょにきてほしい。はい。わたしもいっぱいはたらく。
これだけストレートで、気もちのこもったプロポーズ、
そして、こころからの同意があるだろうか。
おたがいが、おたがいをこころから必要とし、
ふたりがちからをあわせたら なんでもできる。
あたらしい世界をきずいていこうとする、
フロンティアスピリッツにあふれていた時代にこそ、
プロポーズのことばは胸にせまる。
すきだから。いっしょにいたいから。しあわせにしたいから。
そんなふやけたセリフしかいえない現代人には、
コナンのようなプロポーズはできない。
「西暦2008年7月、地球は絶滅の危機に直面していた・・・」。
くらいナレーションとともにはじまるコナンのオープニングは、
主題歌のメロディがながれると、一転してあかるい世界にかわる。
コナンとラナがのっている船が海をすすんでいく。
波にのり、ときには水中からのアングルとなる。
つぎは、のこされ島をかけていくコナンとラナ。
ふたりの世界がみごとにオープニングにあらわれている。
躍動感にみち、なんどみてもあきない。
ふたりがはしりまわる原っぱはすごくひろい。
よくかんがえたら、のこされ島ではない、
と気づかなければならないけど、
さいごにうつるのはまちがいなくロケット小屋なので、
やっぱりそこは のこされ島のはず。
こたえは、地殻変動で島がもちあがり、
ちいさかったのこされ島が、はるかにおおきくなった姿だった。
ただ、そのことは、最終話である26話をみてようやくわかる。
演出をした宮崎駿さんは、
さきのことはわからずに絵コンテをかいた、といっているけど、
さいごは、おおきくなったのこされ島にかえると、
宮崎さんのあたまにあったのだろう。
とにかくすばらしいオープニングであり、
あのたのしそうなうごきをみれば、
作品にこめられたエネルギーがどれだけおおきいかがわかる。
「トトロ」の10年まえに、これだけの作品がつくられていた。
ぜひおおくのひとにみてもらいたい。
第16話「二人の小屋」まですすんでいる。
コナンとジムシーが、自分たちの家をつくるはなしだ。
コナンはラナに自分たちの家をみせ、
ゆくゆくはのこされ島にもどろうとおもう、とはなす。
インダストリアからたくさんのひとがハイハーバーにやってきたら、
島はすぐにひとでいっぱいになってしまうだろう。
そのために、のこされ島でも麦をそだて、
ひとがくらす島にしようという、さきをみこした計画だ。
コナンは「そのときは、ラナにもいっしょにきてほしい」と、
プロポーズとしかいえないセリフがある。
ラナはもちろん「いく」とこたえ、
「コナンにまけないように、いっぱいはたらく」という。
いっしょにきてほしい。はい。わたしもいっぱいはたらく。
これだけストレートで、気もちのこもったプロポーズ、
そして、こころからの同意があるだろうか。
おたがいが、おたがいをこころから必要とし、
ふたりがちからをあわせたら なんでもできる。
あたらしい世界をきずいていこうとする、
フロンティアスピリッツにあふれていた時代にこそ、
プロポーズのことばは胸にせまる。
すきだから。いっしょにいたいから。しあわせにしたいから。
そんなふやけたセリフしかいえない現代人には、
コナンのようなプロポーズはできない。
「西暦2008年7月、地球は絶滅の危機に直面していた・・・」。
くらいナレーションとともにはじまるコナンのオープニングは、
主題歌のメロディがながれると、一転してあかるい世界にかわる。
コナンとラナがのっている船が海をすすんでいく。
波にのり、ときには水中からのアングルとなる。
つぎは、のこされ島をかけていくコナンとラナ。
ふたりの世界がみごとにオープニングにあらわれている。
躍動感にみち、なんどみてもあきない。
ふたりがはしりまわる原っぱはすごくひろい。
よくかんがえたら、のこされ島ではない、
と気づかなければならないけど、
さいごにうつるのはまちがいなくロケット小屋なので、
やっぱりそこは のこされ島のはず。
こたえは、地殻変動で島がもちあがり、
ちいさかったのこされ島が、はるかにおおきくなった姿だった。
ただ、そのことは、最終話である26話をみてようやくわかる。
演出をした宮崎駿さんは、
さきのことはわからずに絵コンテをかいた、といっているけど、
さいごは、おおきくなったのこされ島にかえると、
宮崎さんのあたまにあったのだろう。
とにかくすばらしいオープニングであり、
あのたのしそうなうごきをみれば、
作品にこめられたエネルギーがどれだけおおきいかがわかる。
「トトロ」の10年まえに、これだけの作品がつくられていた。
ぜひおおくのひとにみてもらいたい。
2020年08月20日
圧倒的なつよさで川崎フロンターレが10連勝
きのうおこなわれたJ1リーグ第11節では、
川崎フロンターレがセレッソ大阪をあいてに
5-2と快勝し、連勝を10にのばした。
先制されてもあわてずにボールをつなぎ、
後半の選手交代でいきのいい選手がはいると得点をかさね、
さいごには相手をボコボコにしているフロンターレ。
ヤフーの記事をよんでいたら、
https://soccer.yahoo.co.jp/jleague/game/score/2020081917
とむすんであって 気にいった。
「首位の標高をさらに高めた」。
まったく、いまのフロンターレにふさわしい表現だ。
きょねんは、いい試合をしていてもかちきれず、
ひきわけが12もあって、波にのれないシーズンだった。
ことしはどこまで勝点をのばしていくだろう。
そのフロンターレが、まちがってよばれている選手の例をあげ、
ただしいよびかたがひろまるよう「お願い」している。
https://www.excite.co.jp/news/article/Gekisaka_307263-307263-fl/
また、うりだしちゅうの三苫(みとま)の「苫」は、
草かんむりではなく、竹かんむりだ。
もちろん中村憲剛は、「けんごう」ではなく「けんご」がただしい。
フロンターレが連勝をかさねるうちに、
だんだんとただしい名前が口にされるようになるだろう。
ジェジエウの場合は、発音と表記が
どれだけ一致しているかの問題でもあり、
なかなかむつかしいところだ。
W杯ロシア大会でうりだしたフランスのムバッペは、
よび方がいくつもあり、本人もどうでもいい、
みたいなことをいっていた。
フランス語だけでなく、出身国のカメルーンのよび方もからんできて、
どれがただしいかをきめられないらしい。
外国人選手は似たような名前がおおく、
レアンドロやドウグラス、なんとかジュニオールはよくきくし、
出身国がおなじだと、名前もよくにている場合があってややこしい
(ドウグラス=オリヴェイラとドウグラス=ヴィエイラなど)。
ジョーとジェイなんてのもあった(ジョーはいまはいない)。
韓国人選手の名前もなかなかおぼえらないし、
さらにいえば日本人選手だって名字がおなじだとこまってしまう。
たくさん試合をみて、おぼえるしかないのだけど。
川崎フロンターレがセレッソ大阪をあいてに
5-2と快勝し、連勝を10にのばした。
先制されてもあわてずにボールをつなぎ、
後半の選手交代でいきのいい選手がはいると得点をかさね、
さいごには相手をボコボコにしているフロンターレ。
ヤフーの記事をよんでいたら、
前人未踏の10連勝を達成し、首位の標高をさらに高めた。
https://soccer.yahoo.co.jp/jleague/game/score/2020081917
とむすんであって 気にいった。
「首位の標高をさらに高めた」。
まったく、いまのフロンターレにふさわしい表現だ。
きょねんは、いい試合をしていてもかちきれず、
ひきわけが12もあって、波にのれないシーズンだった。
ことしはどこまで勝点をのばしていくだろう。
そのフロンターレが、まちがってよばれている選手の例をあげ、
ただしいよびかたがひろまるよう「お願い」している。
https://www.excite.co.jp/news/article/Gekisaka_307263-307263-fl/
間違いの対象となったのはDFジェジエウ。試合中継で「ジェジウ」と呼ばれる場面が続発し、SNSを中心にファンの間でも話題となっていたようだ。これを受けて川崎FはTwitterを通じ、ハッシュタグで「ジェジウでなくジェジェウでもなくエは大きくジェジエウ」と正しい表記を伝えている。
また、うりだしちゅうの三苫(みとま)の「苫」は、
草かんむりではなく、竹かんむりだ。
もちろん中村憲剛は、「けんごう」ではなく「けんご」がただしい。
フロンターレが連勝をかさねるうちに、
だんだんとただしい名前が口にされるようになるだろう。
ジェジエウの場合は、発音と表記が
どれだけ一致しているかの問題でもあり、
なかなかむつかしいところだ。
W杯ロシア大会でうりだしたフランスのムバッペは、
よび方がいくつもあり、本人もどうでもいい、
みたいなことをいっていた。
フランス語だけでなく、出身国のカメルーンのよび方もからんできて、
どれがただしいかをきめられないらしい。
外国人選手は似たような名前がおおく、
レアンドロやドウグラス、なんとかジュニオールはよくきくし、
出身国がおなじだと、名前もよくにている場合があってややこしい
(ドウグラス=オリヴェイラとドウグラス=ヴィエイラなど)。
ジョーとジェイなんてのもあった(ジョーはいまはいない)。
韓国人選手の名前もなかなかおぼえらないし、
さらにいえば日本人選手だって名字がおなじだとこまってしまう。
たくさん試合をみて、おぼえるしかないのだけど。
2020年08月19日
子ネコのプリンが家にきてから4週間
子ネコのプリンが家にきてから4週間がすぎた。
はじめはたべることにあまり興味がないようで、
ごはんにむかわないのが気になっていたけど、
それでも体重は900グラムから1600グラムへと、700グラムふえた。
みかけはあいかわらずやせっぽちで、
手足ばかりがひょろながいけど、確実に体重がふえているから、
もともとスマートな体型のネコなのだろう。
まえの記事にもかいたとおり、
先住ネコのココが、まるでお母さんのように、
ずっとちかくでみまもっている。
あそびにつきあったり、へんなところへいかないか目をくばる。
ふたりともトラネコなので、あそんでいるところをみたら、
だれでも親子だとおもうだろう。
プリンはココのおなかに顔をつっこんで、
おっぱいをさがしてチューチューいってるけど、
オスネコのココには もちろんおめあてのおっぱいはない。
ついこのまえまで、からだはおおきいものの、
性格はまるで赤ちゃんだったココが、
プリンの世話をするうちに、かんぜんなおとなのネコとなった。
わたしの手とたたかうことがだいすきだったのに、
もうそんなあそびにさそってくれず、プリンとばかりすごしている。
「トムとジェリー」のアニメをみてるみたいに、
ココがプリンをおいかけて、ドタドタとかけてゆき、
視界からきえたかとおもうと、
こんどはプリンがココをおいかけて、逆方向へはしっていく。
あんなに全力であそんだらたのしいだろーなーとおもう。
プリンは、ココがうけいれてくれた幸運をどうおもっているだろう。
まだ赤ちゃんネコなのだから、プリンが外にでるとあぶないのに、
ココのあとをついて、これまでなんども外にでてしまった。
ココがいるから大丈夫だとおもいつつ、
なにかの拍子でとおくへかけだしたらとおもうとこわい。
でも、猛暑となったことしの夏に、
網戸にしないわけにはいかず、
ココが穴をあけた網戸からプリンがでてしまう。
ゆうべは、2階のマドからでたプリンが、
下におりれなくておおさわぎした。
あわれげな声でたすけをもとめるので
ココも心配して声がするほうをいったりきたりしている。
けっきょくわたしが2階の屋根にあがり、プリンをたすけだす。
子ネコの成長は はやく、
生後6ヶ月になれば、もうおとなの体格になる。
かわいいさかりのプリンは、いま、好奇心にあふれ、
一歩そとにでれば危険がいっぱいだ。
プリンになにかおきたらとおもうと、胸があやうくなる。
全力であそび、全力でねむり、ごはんをたくさんたべ、
つつがなく、おとなのネコになりますように。
はじめはたべることにあまり興味がないようで、
ごはんにむかわないのが気になっていたけど、
それでも体重は900グラムから1600グラムへと、700グラムふえた。
みかけはあいかわらずやせっぽちで、
手足ばかりがひょろながいけど、確実に体重がふえているから、
もともとスマートな体型のネコなのだろう。
まえの記事にもかいたとおり、
先住ネコのココが、まるでお母さんのように、
ずっとちかくでみまもっている。
あそびにつきあったり、へんなところへいかないか目をくばる。
ふたりともトラネコなので、あそんでいるところをみたら、
だれでも親子だとおもうだろう。
プリンはココのおなかに顔をつっこんで、
おっぱいをさがしてチューチューいってるけど、
オスネコのココには もちろんおめあてのおっぱいはない。
ついこのまえまで、からだはおおきいものの、
性格はまるで赤ちゃんだったココが、
プリンの世話をするうちに、かんぜんなおとなのネコとなった。
わたしの手とたたかうことがだいすきだったのに、
もうそんなあそびにさそってくれず、プリンとばかりすごしている。
「トムとジェリー」のアニメをみてるみたいに、
ココがプリンをおいかけて、ドタドタとかけてゆき、
視界からきえたかとおもうと、
こんどはプリンがココをおいかけて、逆方向へはしっていく。
あんなに全力であそんだらたのしいだろーなーとおもう。
プリンは、ココがうけいれてくれた幸運をどうおもっているだろう。
まだ赤ちゃんネコなのだから、プリンが外にでるとあぶないのに、
ココのあとをついて、これまでなんども外にでてしまった。
ココがいるから大丈夫だとおもいつつ、
なにかの拍子でとおくへかけだしたらとおもうとこわい。
でも、猛暑となったことしの夏に、
網戸にしないわけにはいかず、
ココが穴をあけた網戸からプリンがでてしまう。
ゆうべは、2階のマドからでたプリンが、
下におりれなくておおさわぎした。
あわれげな声でたすけをもとめるので
ココも心配して声がするほうをいったりきたりしている。
けっきょくわたしが2階の屋根にあがり、プリンをたすけだす。
子ネコの成長は はやく、
生後6ヶ月になれば、もうおとなの体格になる。
かわいいさかりのプリンは、いま、好奇心にあふれ、
一歩そとにでれば危険がいっぱいだ。
プリンになにかおきたらとおもうと、胸があやうくなる。
全力であそび、全力でねむり、ごはんをたくさんたべ、
つつがなく、おとなのネコになりますように。
2020年08月18日
糸井重里さんがとなえる 人生の目的についての新説
なんにちかまえの「今日のダーリン」に、
糸井重里さんが人生の目的についての新説をうちだしている。
人生の目的は、うんこの製造にあったとは。
そうかんがえると、すごく気がらくになる。
ことしの夏も、いつもながら あつい日がつづく。
あついからと、はしるのをやめる理由にしていたら、
はしる日なんてなくなるので、あつくても だるくても、
とにかくはしりだそうと自分にいいきかせてきた。
なんとしても、月に20日はからだをうごかさなければ。
でも、うんこをうみだすのが大切なのだから、
あつさでヘロヘロになりながらはしるよりも
じゅうぶんにからだをやすめ、
コンディションをととのたほうがいいのでは。
糸井さんの新説をしってから、
こわばっていたわたしの脳みそからちからがぬけた。
「人生の目的は、U-COづくり」は、
ものすごくふにおちるかんがえ方だ。
うちにはネコ用のトイレがおいてあり、
まいにちちいさなスコップでそうじする。
わたしがゴソゴソうごいていると、
ネコたちがよってきて、おしっこやうんこをすることがある。
ネコは、うんこをすると、そのあとにしつこいぐらい砂をかける。
足でトイレをかきまわされるとそうじが大変なので、
わたしがいつのまにか身につけたのは、
ネコのおしりからおちてすぐのうんこをスコップでかすめとり、
ネコに仕事をさせないこととなった。
砂をかけたいネコとのきわどい競争になり、
なんだかいじわるしてるみたいでもある。
こんなところでネコとあらそってどうするのだと、
自分のやってることが、自分でもよくわからなかったけど、
「人生の目的は、U-COづくり」の説をしると謎がとける。
自分のうんこだけでなく、うんこにまつわるすべてに関心をもつのは、
きわめて自然なこころのもち方といえる。
糸井重里さんが人生の目的についての新説をうちだしている。
トイレでしゃがんで考えた。
幼い頃から、だいぶ、こういうことしてきたなぁ。
これを、排泄だと思うとなんだかめんどくさいけれど、
こっちの仕事のほうがメインだと考えたら、どうだろう。
わたしたちは、U-COを製造するために生きているのだ。
そのために食べて、さまざまな原材料を摂り入れている。
製造する器官を維持するために、運動もする。
健康なU-CO工場は健康な生活がつくるものだからね。
人間の根本的な生きる目的は、U-COをつくること、
だとしたら、それ以外のほとんどのことは趣味だ。
勉強ができるとかできないとか、
仕事をしたとかしないとか、恋をしたとかしないとか、
そんなものはU-COの製造の片手間にやることなので、
あんまり重きを置かないほうがいいというわけだ。
いまだって、こんな文章を書いているけれど、
こういうことをしていかないと、
U-CO製造の材料を買えないから、やっているのだ。
人生の目的は、U-COづくりなので、
それ以外の大事でないことに価値をおかないようにね。
人生の目的は、うんこの製造にあったとは。
そうかんがえると、すごく気がらくになる。
ことしの夏も、いつもながら あつい日がつづく。
あついからと、はしるのをやめる理由にしていたら、
はしる日なんてなくなるので、あつくても だるくても、
とにかくはしりだそうと自分にいいきかせてきた。
なんとしても、月に20日はからだをうごかさなければ。
でも、うんこをうみだすのが大切なのだから、
あつさでヘロヘロになりながらはしるよりも
じゅうぶんにからだをやすめ、
コンディションをととのたほうがいいのでは。
糸井さんの新説をしってから、
こわばっていたわたしの脳みそからちからがぬけた。
「人生の目的は、U-COづくり」は、
ものすごくふにおちるかんがえ方だ。
うちにはネコ用のトイレがおいてあり、
まいにちちいさなスコップでそうじする。
わたしがゴソゴソうごいていると、
ネコたちがよってきて、おしっこやうんこをすることがある。
ネコは、うんこをすると、そのあとにしつこいぐらい砂をかける。
足でトイレをかきまわされるとそうじが大変なので、
わたしがいつのまにか身につけたのは、
ネコのおしりからおちてすぐのうんこをスコップでかすめとり、
ネコに仕事をさせないこととなった。
砂をかけたいネコとのきわどい競争になり、
なんだかいじわるしてるみたいでもある。
こんなところでネコとあらそってどうするのだと、
自分のやってることが、自分でもよくわからなかったけど、
「人生の目的は、U-COづくり」の説をしると謎がとける。
自分のうんこだけでなく、うんこにまつわるすべてに関心をもつのは、
きわめて自然なこころのもち方といえる。
2020年08月17日
配偶者のことをどうよぶか
すこしまえの朝日新聞で、配偶者のよび方をとりあげていた。
というはなしが紹介されている。
女性が配偶者のことを「主人」とよぶのは、
絶句するのがただしい反応だとわたしもおもう。
犬がかいぬしのことを「主人」というのはありだろうか。
たとえ犬でも、わたしは「主人」とはいってほしくない。
うちの同居人、でいいし、
ネコはきっと人間のことを「主人」などとはおもっておらず、
「わたしの家にいるひと」ぐらいの意識なのではないか。
なんで人間の女性があいてを
「主人」なんていってしまうのだろう。
記事には、年代によるよびかたのちがいがのっている。
「親しい人の前で」女性が配偶者をどうよぶか、について、
20代では67%が「旦那」、「主人」は17.5%であり、
これが60代になると、よびかたは逆転し、
49.6%が「主人」というのだからすさまじい。
本来の意味で「主人」といっているわけではないのだろうけど、
それでもあいてのことを「主人」とよぶ心理がわたしにはわからない。
わからない、といえば、「旦那」だってそうとうひどい。
「主人」に「旦那」。なぜこんなよび方がひろまっているのだろう。
わたしは、「妻」がいちばん適切なよびかたとおもいつつ、
じっさいには「配偶者」といっている。
「わたしの配偶者は・・・」というつかい方だ。
「妻」というのがはずかしい心理がはたらいているようにおもう。
記事によると、配偶者のことを、そのままストレートに
「配偶者」とよぶひとは、アンケートにのっていなかった。
職場の同僚に、妻のことをきっぱり「嫁」とよぶひと(44歳)がいて、
よばれる側はどうおもっているのか いつも気になっている。
いかにも自分の「家」にむかいいれた、
という意識がはたらいているようで、
ひとむかしまえの家制度をかんじてしまう。
気のよわいわたしにはとてもいえないよび方だ。
わたしが配偶者を直接よびかけるときは、
相手の名前に「さん」をつけている。
配偶者がわたしより2つ年上だから、というだけでなく、
名前をよびすてにするのは、わたしの美意識にあわない。
作者の趙南桂さんが来日して作家の川上未映子さんと対談したとき、「日本では夫を主人と呼ぶ」と聞き、絶句していました。
というはなしが紹介されている。
女性が配偶者のことを「主人」とよぶのは、
絶句するのがただしい反応だとわたしもおもう。
犬がかいぬしのことを「主人」というのはありだろうか。
たとえ犬でも、わたしは「主人」とはいってほしくない。
うちの同居人、でいいし、
ネコはきっと人間のことを「主人」などとはおもっておらず、
「わたしの家にいるひと」ぐらいの意識なのではないか。
なんで人間の女性があいてを
「主人」なんていってしまうのだろう。
記事には、年代によるよびかたのちがいがのっている。
「親しい人の前で」女性が配偶者をどうよぶか、について、
20代では67%が「旦那」、「主人」は17.5%であり、
これが60代になると、よびかたは逆転し、
49.6%が「主人」というのだからすさまじい。
本来の意味で「主人」といっているわけではないのだろうけど、
それでもあいてのことを「主人」とよぶ心理がわたしにはわからない。
わからない、といえば、「旦那」だってそうとうひどい。
「主人」に「旦那」。なぜこんなよび方がひろまっているのだろう。
わたしは、「妻」がいちばん適切なよびかたとおもいつつ、
じっさいには「配偶者」といっている。
「わたしの配偶者は・・・」というつかい方だ。
「妻」というのがはずかしい心理がはたらいているようにおもう。
記事によると、配偶者のことを、そのままストレートに
「配偶者」とよぶひとは、アンケートにのっていなかった。
職場の同僚に、妻のことをきっぱり「嫁」とよぶひと(44歳)がいて、
よばれる側はどうおもっているのか いつも気になっている。
いかにも自分の「家」にむかいいれた、
という意識がはたらいているようで、
ひとむかしまえの家制度をかんじてしまう。
気のよわいわたしにはとてもいえないよび方だ。
わたしが配偶者を直接よびかけるときは、
相手の名前に「さん」をつけている。
配偶者がわたしより2つ年上だから、というだけでなく、
名前をよびすてにするのは、わたしの美意識にあわない。
2020年08月16日
『リボルバー』(佐藤正午)
『リボルバー』(佐藤正午・集英社文庫)
プロローグは、動植物園でねそべっている男ふたりが、
ああだこうだと、どうでもいいことをはなしている。
タランティーノの映画よりも、もっとくだらないはなしだ。
だんだんわかってくるけど、わかいほうの男はあんがいまともで、
年をくってるほうは、はたらく気なんてまるでない。
ダメ男のにおいがからだじゅうからプンプンする。
ふたりは競輪場でしりあい、たまたまかせげたものだから、
つきがおちるまではコンビをつづけようとしている。
はなしをもとにもどすと、この動植物園で、
ふたりはデートちゅうの高校生ふたりをみかける。
(以下ネタバレ)
ここで男ふたりと、高校生のふたりの接点がうまれるわけだけど、
けっきょくさいごまで、この2組は、からむようでいながら、
このままなんのかかわりも もたずにおわる。
どうでもいいふたりを、まるで主人公のように、
冒頭にもってくるのが佐藤正午さんのうまさだ。
いかにも事件の鍵をにぎっているようにみせ、
じつはさいごまで事件とはなんのかかわりももたず、
ただそばをかすめるだけの存在にとどめておく。
「事件」とは、少年がたまたま手にいれた拳銃で、
ある男へのしかえしをはかろうとする未来の事件だ。
そしてあとふとつ、拳銃が警官からうばわれた事件と、
少年がたまたまでくわした暴行事件とがある。
女性をなぐり、レイプする男にたいし、
少年はただたちすくむだけだった。
とめることもできず、男にボコボコにやられてしまう。
その少年が、たまたま拳銃を手にいれたら、なにがおこるだろうか。
表題の「リボルバー」は、警官がうばわれた拳銃のことで、
この警官は、責任をとって辞職してしまう。
呆然とくらしているうちに、しりあいのホステスから、
拳銃についての情報をえる。その線をおっかけるうちに、
拳銃を手にいれた少年が、その銃をつかい、
過去におきた事件のしかえしをしようとしているのをしる。
少年がねらう相手は、札幌のススキノにいた。
拳銃をもっていては飛行機にのれないので、
少年は電車をのりついで札幌へとむかう。
この少年は、冒頭の場面でおとこふたりがみた
高校生のかたわれなのだけど、
その相方である女子高生のほうも、
はじめは少年をつきはなしておきながら、
だんだんと事件にかかわってくる。
少年が拳銃をつかうまえにとめようと、
元警官といっしょに札幌までの旅にでかける。
こうやってあらすじをおっかけていると、
偶然ばかりにたよる都合のいい小説にみえる。
たまたま少年が拳銃を手にいれるなんてありだろうか。
元警官が、拳銃についての情報をえるのもうまくいきすぎる。
でも、相手への復讐にもえる少年に妙なリアリティがあり、
九州から札幌までの旅をからめて、
スピード感のあるロードノベルにしあがっている。
17歳の少年が、いちどひどい目にあわされたからといって殺意をひめ、
拳銃をつかってしかえしをはかるなんて、日本ではありえない。
そうわかっていながら、いくつかのうごきが複雑にからみ、
そのうちのひとつは、ただちかくをかすめるだけなのがおかしくて、
生理的な快感にひたりつつページをめくる。
ラストは大団円といっていいだろうか。
おちつくべきところにすべてがおさまり、
これまでとおなじ日常がまたはじまるだろう。
冒頭にでてきた男2人のコンビは、
競輪だよりの生活を確信犯的にくりかえそうとする。
こりないダメ男小説が、わたしはすきだ。
プロローグは、動植物園でねそべっている男ふたりが、
ああだこうだと、どうでもいいことをはなしている。
タランティーノの映画よりも、もっとくだらないはなしだ。
だんだんわかってくるけど、わかいほうの男はあんがいまともで、
年をくってるほうは、はたらく気なんてまるでない。
ダメ男のにおいがからだじゅうからプンプンする。
ふたりは競輪場でしりあい、たまたまかせげたものだから、
つきがおちるまではコンビをつづけようとしている。
はなしをもとにもどすと、この動植物園で、
ふたりはデートちゅうの高校生ふたりをみかける。
(以下ネタバレ)
ここで男ふたりと、高校生のふたりの接点がうまれるわけだけど、
けっきょくさいごまで、この2組は、からむようでいながら、
このままなんのかかわりも もたずにおわる。
どうでもいいふたりを、まるで主人公のように、
冒頭にもってくるのが佐藤正午さんのうまさだ。
いかにも事件の鍵をにぎっているようにみせ、
じつはさいごまで事件とはなんのかかわりももたず、
ただそばをかすめるだけの存在にとどめておく。
「事件」とは、少年がたまたま手にいれた拳銃で、
ある男へのしかえしをはかろうとする未来の事件だ。
そしてあとふとつ、拳銃が警官からうばわれた事件と、
少年がたまたまでくわした暴行事件とがある。
女性をなぐり、レイプする男にたいし、
少年はただたちすくむだけだった。
とめることもできず、男にボコボコにやられてしまう。
その少年が、たまたま拳銃を手にいれたら、なにがおこるだろうか。
表題の「リボルバー」は、警官がうばわれた拳銃のことで、
この警官は、責任をとって辞職してしまう。
呆然とくらしているうちに、しりあいのホステスから、
拳銃についての情報をえる。その線をおっかけるうちに、
拳銃を手にいれた少年が、その銃をつかい、
過去におきた事件のしかえしをしようとしているのをしる。
少年がねらう相手は、札幌のススキノにいた。
拳銃をもっていては飛行機にのれないので、
少年は電車をのりついで札幌へとむかう。
この少年は、冒頭の場面でおとこふたりがみた
高校生のかたわれなのだけど、
その相方である女子高生のほうも、
はじめは少年をつきはなしておきながら、
だんだんと事件にかかわってくる。
少年が拳銃をつかうまえにとめようと、
元警官といっしょに札幌までの旅にでかける。
こうやってあらすじをおっかけていると、
偶然ばかりにたよる都合のいい小説にみえる。
たまたま少年が拳銃を手にいれるなんてありだろうか。
元警官が、拳銃についての情報をえるのもうまくいきすぎる。
でも、相手への復讐にもえる少年に妙なリアリティがあり、
九州から札幌までの旅をからめて、
スピード感のあるロードノベルにしあがっている。
17歳の少年が、いちどひどい目にあわされたからといって殺意をひめ、
拳銃をつかってしかえしをはかるなんて、日本ではありえない。
そうわかっていながら、いくつかのうごきが複雑にからみ、
そのうちのひとつは、ただちかくをかすめるだけなのがおかしくて、
生理的な快感にひたりつつページをめくる。
ラストは大団円といっていいだろうか。
おちつくべきところにすべてがおさまり、
これまでとおなじ日常がまたはじまるだろう。
冒頭にでてきた男2人のコンビは、
競輪だよりの生活を確信犯的にくりかえそうとする。
こりないダメ男小説が、わたしはすきだ。
タグ:佐藤正午
2020年08月15日
『「山奥ニート」やってます。』(石井あらた)
『「山奥ニート」やってます。』
(石井あらた・光文社)
和歌山県の山奥でくらす15人のニートたち。
ヒッピームーブメントのながれで、
日本各地にできたといわれる「共同体」は、
村から社会をかえよう、という運動だったけど、
この「山奥ニート」は、あまりはたらかず、
自分の時間をたいせつにしたい、というひとたちだ。
生活費としては、月に1万8000円ずつだしあうだけだ。
個人のたのしみでお酒をのむなら、それは別の出費になるけど、
月に2万円もかけずにすごせるのだから、
それ以上のお金をかせぐ必要はなくなる。
2万円くらいは、村でアルバイト(キャンプ場や梅の収穫など)
をすればなんとかかせげる。
貯金をきりくずしているひともいる。
ひきこもりの若者たちを支援するNPOが、
村でくらしてみませんか、とよびかけており、
著者の石井さんはそこの紹介で村にはいった。
そのうちに、町でのくらしにうまくなじめなかったひとが
だんだんあつまってきて、
いまでは15人が元校舎を改築した宿舎でくらしている。
生活費が2万円もかからないのは、家賃がタダだからだ。
そこでみんながなにをしているかというと、
朝おそくおきだしてきて、散歩をしたり畑仕事をしたり。
ゲームや本をよんですごすひともいる。
スケジュールがきまっているわけではなく、
なにをするのもそのひとの勝手だ。
食事も、とくに当番がきまっているわけではなく、
なんとなくつくりたいひとがつくる。
この本は、こんなくらしもありますよ、という記録であり、
いまのメンバーたちは、このまま「山奥ニート」をつづけてもいいし、
社会ではたらく気になれば、村をでてもいい。
「山奥ニート」のくらしで自信をつけ、
村にくるまえとはずいぶんかわった、というひともおおい。
価値観があわなければ、だれにでもできるくらいしではないけど、
都会で生きづらかったひとには、
村の自然や人間関係が いい環境となるようだ。
わかいころ、わたしも山奥の村で一年間くらしたことがある。
農業研修という形なので、あまりはたらかず、というわけにはいかず、
やすみは10日にいちどくらいしかなかった。
でも、村でのくらしはなかなかたのしく、
「山奥ニート」をよんでいると、
そんな村でのくらし あるあるがなつかしかった。
村のひとたちには、わかいというだけでかわいがってもらえるし、
山奥の村は、夏でも夜はすずしくて快適だった。
ひどいあつさにくるしまなくてもいいだけ、町よりもすごしやすい。
あの村で、ほとんどはたらかなくてもいい、といわれたら、
わたしはなにをしてすごすだろう。
本をよんで、散歩をして、すこしは畑もいじるだろうか。
けっきょく、いまでもできるくらしだけど、
それを山奥でやるからいごこちがいいのだろう。
ニートは山奥でやるにかぎる。
(石井あらた・光文社)
和歌山県の山奥でくらす15人のニートたち。
ヒッピームーブメントのながれで、
日本各地にできたといわれる「共同体」は、
村から社会をかえよう、という運動だったけど、
この「山奥ニート」は、あまりはたらかず、
自分の時間をたいせつにしたい、というひとたちだ。
生活費としては、月に1万8000円ずつだしあうだけだ。
個人のたのしみでお酒をのむなら、それは別の出費になるけど、
月に2万円もかけずにすごせるのだから、
それ以上のお金をかせぐ必要はなくなる。
2万円くらいは、村でアルバイト(キャンプ場や梅の収穫など)
をすればなんとかかせげる。
貯金をきりくずしているひともいる。
ひきこもりの若者たちを支援するNPOが、
村でくらしてみませんか、とよびかけており、
著者の石井さんはそこの紹介で村にはいった。
そのうちに、町でのくらしにうまくなじめなかったひとが
だんだんあつまってきて、
いまでは15人が元校舎を改築した宿舎でくらしている。
生活費が2万円もかからないのは、家賃がタダだからだ。
そこでみんながなにをしているかというと、
朝おそくおきだしてきて、散歩をしたり畑仕事をしたり。
ゲームや本をよんですごすひともいる。
スケジュールがきまっているわけではなく、
なにをするのもそのひとの勝手だ。
食事も、とくに当番がきまっているわけではなく、
なんとなくつくりたいひとがつくる。
この本は、こんなくらしもありますよ、という記録であり、
いまのメンバーたちは、このまま「山奥ニート」をつづけてもいいし、
社会ではたらく気になれば、村をでてもいい。
「山奥ニート」のくらしで自信をつけ、
村にくるまえとはずいぶんかわった、というひともおおい。
価値観があわなければ、だれにでもできるくらいしではないけど、
都会で生きづらかったひとには、
村の自然や人間関係が いい環境となるようだ。
わかいころ、わたしも山奥の村で一年間くらしたことがある。
農業研修という形なので、あまりはたらかず、というわけにはいかず、
やすみは10日にいちどくらいしかなかった。
でも、村でのくらしはなかなかたのしく、
「山奥ニート」をよんでいると、
そんな村でのくらし あるあるがなつかしかった。
村のひとたちには、わかいというだけでかわいがってもらえるし、
山奥の村は、夏でも夜はすずしくて快適だった。
ひどいあつさにくるしまなくてもいいだけ、町よりもすごしやすい。
あの村で、ほとんどはたらかなくてもいい、といわれたら、
わたしはなにをしてすごすだろう。
本をよんで、散歩をして、すこしは畑もいじるだろうか。
けっきょく、いまでもできるくらしだけど、
それを山奥でやるからいごこちがいいのだろう。
ニートは山奥でやるにかぎる。
2020年08月14日
海の底によこたわるクジラをみつけたとき、ホッキョクグマは幸福をかんじたか
業務用スーパーでブリのカマをかった。
家の魚やきグリルに なんとかはいるおおきさ(あつさ)のカマが、
2ついりで税込600円。
みかけはふとい骨だけど、骨のかげというか 内側には、
身がぎっしりつまっていて、肉のたべ放題となる。
もうたべつくした、とおもっていても、まだ身がかくれており、
それをはがしていくと、肉食ならではのだいごみをかんじる。
ブリのカマをほじくりながら、まえにみた番組をおもいだした。
それは北極海の自然を紹介する番組で、
ホッキョクグマの親子をとりあげていた。
お母さんが海底にしずんでいるクジラの死体をみつけ、
もぐってはおおきな肉のかたまりをかじりとって、
氷のうえでまつ子どもたちにあたえていた。
なにしろつめたい北極海だから、
クジラの肉は冷蔵庫にいれてあるようなもので、
とうぶんくさることなく保存される。
ホッキョクグマがいくらたくさんたべるといっても、
あいてはクジラなのだから、宝の山をみつけたようなものだ。
とかいていて、ホッキョクグマに
「宝の山」という概念があるのかどうかにまよった。
海底にしずんでいるクジラをみつけたとき、
お母さんクマはなにをおもっただろう。
人間だったら あまりの幸運におどりだすところだけど、
ホッキョクグマはどういう反応をみせたのか気になるところだ。
梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』をよんでいたら、
カバ2頭を手にいれたティンディガのひとたちがでてきた。
梅棹さんは、「幸福」とはなにかをかんがえる。
フィールドワークの基地に、どっさりもってきた
乾物をつかい、梅棹さんは「水たき」をつくる。
そのときは、ほんとうに「幸福だ」とおもい、
おいしくたべた水たきだけど、
日本にかえり、ほんものの水たきをたべたとき、
あまりのおいしさに、梅棹さんはおどろいている。
アフリカでかんじた感動はいったいなんだったのか。
あれが「幸福」だったのなら、「幸福」とはなんなのか。
ティンディガのひとたちが、腹いっぱいカバをたべたとき、
「幸福だ」とおもっただろう。
梅棹さんがかんじた「幸福」のなかには、
目のまえにある水たきのおいしさだけでなく、
あすも、あさっても、たべものがあるという安心感がふくまれる。
ティンディガのひとたちには、あすの食事は保証されていない。
腹いっぱいたべられるときもあるけど、
何日も獲物が手にはいらず、死んでしまうリスクもある生活だ。
海の底にクジラの死体をみつけたとき、
ホッキョクグマは「幸福」だとおもったのだろうか。
ブリのカマをほじくるわたしはどうだったか。
お腹がみたされることと「幸福」とは、
ふかいつながりがありそうだけど、
ホッキョクグマとひととは、どこまでおなじなのだろう。
家の魚やきグリルに なんとかはいるおおきさ(あつさ)のカマが、
2ついりで税込600円。
みかけはふとい骨だけど、骨のかげというか 内側には、
身がぎっしりつまっていて、肉のたべ放題となる。
もうたべつくした、とおもっていても、まだ身がかくれており、
それをはがしていくと、肉食ならではのだいごみをかんじる。
ブリのカマをほじくりながら、まえにみた番組をおもいだした。
それは北極海の自然を紹介する番組で、
ホッキョクグマの親子をとりあげていた。
お母さんが海底にしずんでいるクジラの死体をみつけ、
もぐってはおおきな肉のかたまりをかじりとって、
氷のうえでまつ子どもたちにあたえていた。
なにしろつめたい北極海だから、
クジラの肉は冷蔵庫にいれてあるようなもので、
とうぶんくさることなく保存される。
ホッキョクグマがいくらたくさんたべるといっても、
あいてはクジラなのだから、宝の山をみつけたようなものだ。
とかいていて、ホッキョクグマに
「宝の山」という概念があるのかどうかにまよった。
海底にしずんでいるクジラをみつけたとき、
お母さんクマはなにをおもっただろう。
人間だったら あまりの幸運におどりだすところだけど、
ホッキョクグマはどういう反応をみせたのか気になるところだ。
梅棹忠夫さんの『サバンナの記録』をよんでいたら、
カバ2頭を手にいれたティンディガのひとたちがでてきた。
ティンディガたちが、伝えきいてやってきた。カバのころがっているところまで、全家族をひきつれて移住してくるのだ。どうせ、家らしい家もないのである。おんなじことだ。
かれらは、カバのそばに腰をすえた。それから、食いにかかった。五家族ばかりが、集まってきていた。かれらは、休みなしに食った。それから、眠った。目がさめると、また食った。そして、また眠り、また食った。三日目に、とうとう二頭のカバは、大きな骨だけをのこして、何もなくなってしまった。ティンディガたちは、その骨をわって、中のズイまでたべてしまったのである。
梅棹さんは、「幸福」とはなにかをかんがえる。
フィールドワークの基地に、どっさりもってきた
乾物をつかい、梅棹さんは「水たき」をつくる。
そのときは、ほんとうに「幸福だ」とおもい、
おいしくたべた水たきだけど、
日本にかえり、ほんものの水たきをたべたとき、
あまりのおいしさに、梅棹さんはおどろいている。
アフリカでかんじた感動はいったいなんだったのか。
あれが「幸福」だったのなら、「幸福」とはなんなのか。
ティンディガのひとたちが、腹いっぱいカバをたべたとき、
「幸福だ」とおもっただろう。
梅棹さんがかんじた「幸福」のなかには、
目のまえにある水たきのおいしさだけでなく、
あすも、あさっても、たべものがあるという安心感がふくまれる。
ティンディガのひとたちには、あすの食事は保証されていない。
腹いっぱいたべられるときもあるけど、
何日も獲物が手にはいらず、死んでしまうリスクもある生活だ。
海の底にクジラの死体をみつけたとき、
ホッキョクグマは「幸福」だとおもったのだろうか。
ブリのカマをほじくるわたしはどうだったか。
お腹がみたされることと「幸福」とは、
ふかいつながりがありそうだけど、
ホッキョクグマとひととは、どこまでおなじなのだろう。
2020年08月13日
シュノーケリングへ
ちかくの海へシュノーケリングにでかける。
自動車を、30分ほどはしらせたら海にいけるのが島根のよさだ。
高速道路をとおるわけでもなく、
ふつうにはしって、なんとなくついている。
ことしは梅雨あけが7月31日と、平年より1週間おそく、
すぐにお盆がきたかんじだ。
子どものころ、お盆には海へいくものじゃない、といわれていた。
家でおとなしくすごいしなさい、という意味と、
そのころになるとクラゲがでるのを心配したのだろう。
きょうはもうお盆だけど、夏がずれこんだので、
ことしはじめてのシュノーケリングとなった。
浜のいりぐちには「公園の利用や、海水浴の自粛」
をもとめる看板や、はり紙があった。
更衣室をつかうわけでもなく、ひとりでおよぐのだから、
まあいいだろうと、すこしうしろめたくおもいながら
水中メガネと足ひれをもって岩場へ。
中高生らしいグループが10人ぐらいと、
親子づれがなん組か 水につかっていた。
完全にひとけがないと、さすがにはいりにくいけど、
ほかにもつれがいるのに安心しておよぎだす。
この日は猛烈なあつさというわけではなく、
といって水温がつめたくもなく、
シュノーケリングむきのお天気だった。
ひやけを心配せずにプカプカとただよってすごす。
さいわいクラゲはみかけなかった。
わたしは海のなかをのぞくのがすきなので、
ふかくもぐったり、貝をさがしたりしないで、
足もあまりうごかさず、ただういているだけ。
小魚がむれでおよいでいるのをみるのはたのしいし、
ときどき30センチくらいのおおきな魚にもであう。
つかれると、たいらな岩のうえにあがってやすむ。
足ひれをおしりの下にしき、
ほかの海水浴客のうごきをぼんやりながめる。
気のせいか、いまひとつもりあがっていないようにみえる。
無理してさわいでいるかんじ。
「自粛」のおしらせが、はしゃぎたい気もちに
ブレーキをかけるのではないか。
「自粛」なんていわれると、
あそんでやるぜー!と開放感にひたれない。
わたしもまた、さいごまでうかない気もちがきえなかった。
1時間ほどできりあげ、車につんできた
ポリタンクと洗面器で からだについた海水をながす。
更衣室がなくても、浜できがえられるのも島根のよさか。
自動車を、30分ほどはしらせたら海にいけるのが島根のよさだ。
高速道路をとおるわけでもなく、
ふつうにはしって、なんとなくついている。
ことしは梅雨あけが7月31日と、平年より1週間おそく、
すぐにお盆がきたかんじだ。
子どものころ、お盆には海へいくものじゃない、といわれていた。
家でおとなしくすごいしなさい、という意味と、
そのころになるとクラゲがでるのを心配したのだろう。
きょうはもうお盆だけど、夏がずれこんだので、
ことしはじめてのシュノーケリングとなった。
浜のいりぐちには「公園の利用や、海水浴の自粛」
をもとめる看板や、はり紙があった。
更衣室をつかうわけでもなく、ひとりでおよぐのだから、
まあいいだろうと、すこしうしろめたくおもいながら
水中メガネと足ひれをもって岩場へ。
中高生らしいグループが10人ぐらいと、
親子づれがなん組か 水につかっていた。
完全にひとけがないと、さすがにはいりにくいけど、
ほかにもつれがいるのに安心しておよぎだす。
この日は猛烈なあつさというわけではなく、
といって水温がつめたくもなく、
シュノーケリングむきのお天気だった。
ひやけを心配せずにプカプカとただよってすごす。
さいわいクラゲはみかけなかった。
わたしは海のなかをのぞくのがすきなので、
ふかくもぐったり、貝をさがしたりしないで、
足もあまりうごかさず、ただういているだけ。
小魚がむれでおよいでいるのをみるのはたのしいし、
ときどき30センチくらいのおおきな魚にもであう。
つかれると、たいらな岩のうえにあがってやすむ。
足ひれをおしりの下にしき、
ほかの海水浴客のうごきをぼんやりながめる。
気のせいか、いまひとつもりあがっていないようにみえる。
無理してさわいでいるかんじ。
「自粛」のおしらせが、はしゃぎたい気もちに
ブレーキをかけるのではないか。
「自粛」なんていわれると、
あそんでやるぜー!と開放感にひたれない。
わたしもまた、さいごまでうかない気もちがきえなかった。
1時間ほどできりあげ、車につんできた
ポリタンクと洗面器で からだについた海水をながす。
更衣室がなくても、浜できがえられるのも島根のよさか。
2020年08月12日
田舎の家をまもる責任感と、新型コロナウイルスへの対処法
配偶者の実家へ草かりにでかける。
年にいちど、はびこっている草を草刈機でかる。
ことしで3回目となり、恒例行事になったといってもいいだろう。
以前は義理の父が家まわりの管理をしていたけど、
いまはグループホームにはいり、
草かりは配偶者がときどき実家にもどってやっている。
なにも手だすけしないのは、もうしわけないので、
なんとなく お盆まえにとりくむ わたしの仕事となってきた。
午前に1時間、午後にまた1時間ほど草刈機をうごかす。
昼ごはん、そしてそのあとのひるねをはさんでも、
2時間の草かりはあんがいつかれる。
義理の父がわかくないように、わたしだってもう年なのだ。
いつまでこうやって草かりができるだろか。
配偶者は島根の田舎である掛合にうまれそだち
(鷹の爪団の吉田くんのふるさとのすぐちかくだ)、
ちいさいころから農作業の手つだいをやらされ、
近所に不幸があれば、なにがなんでも
おなじ「組」の家は、ひとりずつ手つだいをだす、
などのしきたりを たたきこまれてきた。
こうした「田舎」のしがらみを、
配偶者はとてもおもたくかんじているようなのに、
だれも手をいれなくなった実家にときどきもどり、
草をかったり(配偶者は電動式の草刈機をつかう)
お墓のまわりをきれいにしたり、
お盆やお彼岸には当然のようにお墓まいりにをかかさない。
家へのこうしたおもいいれというか、義務感は、
どのように配偶者に形づくられていったのだろう。
わたしは、親の葬式もできればはぶきたいとおもう、
だらしのない「あとつぎ」であり、
親戚づきあいも最小限におさえている。
おなじ島根そだちでも、わたしと配偶者では、
こころがまえにおおきなちがいがある。
配偶者は、家をまもらなければならないというあれこれを、
両親から具体的なことばで釘をさされたわけではないのに、
なぜこんなに自分の役割を粛々とこなせるのだろう。
田舎の家でそだつうちに、まわりの空気を自然とよみとり、
自分にもとめられる役割を、当然の任務としてうけいれるようになる。
同調圧力というとおもくるしいけど、
自分にかせられたあたりまえの役割と
あっさりうけとめられるのがすごい。
新型コロナウイルスの感染が島根でもひろがり、
わたしがつとめる事業所も影響をうけた。
わたしにもまた、いくらかは感染の可能性があると
冷徹な配偶者はみなしており、
それ以来、食卓にならぶおかずのすべてに、
きっちり「とりばし」がつけられるようになった。
わずかでも可能性があるときには、あっさりと合理的に対処する。
こうした冷静な対応と、田舎のしきたりを
きわめてすんなりうけいれる態度とが、
彼女のなかで矛盾していないのがおもしろい。
矛盾というよりも、おなじ価値観がはたらいているのだろう。
年にいちど、はびこっている草を草刈機でかる。
ことしで3回目となり、恒例行事になったといってもいいだろう。
以前は義理の父が家まわりの管理をしていたけど、
いまはグループホームにはいり、
草かりは配偶者がときどき実家にもどってやっている。
なにも手だすけしないのは、もうしわけないので、
なんとなく お盆まえにとりくむ わたしの仕事となってきた。
午前に1時間、午後にまた1時間ほど草刈機をうごかす。
昼ごはん、そしてそのあとのひるねをはさんでも、
2時間の草かりはあんがいつかれる。
義理の父がわかくないように、わたしだってもう年なのだ。
いつまでこうやって草かりができるだろか。
配偶者は島根の田舎である掛合にうまれそだち
(鷹の爪団の吉田くんのふるさとのすぐちかくだ)、
ちいさいころから農作業の手つだいをやらされ、
近所に不幸があれば、なにがなんでも
おなじ「組」の家は、ひとりずつ手つだいをだす、
などのしきたりを たたきこまれてきた。
こうした「田舎」のしがらみを、
配偶者はとてもおもたくかんじているようなのに、
だれも手をいれなくなった実家にときどきもどり、
草をかったり(配偶者は電動式の草刈機をつかう)
お墓のまわりをきれいにしたり、
お盆やお彼岸には当然のようにお墓まいりにをかかさない。
家へのこうしたおもいいれというか、義務感は、
どのように配偶者に形づくられていったのだろう。
わたしは、親の葬式もできればはぶきたいとおもう、
だらしのない「あとつぎ」であり、
親戚づきあいも最小限におさえている。
おなじ島根そだちでも、わたしと配偶者では、
こころがまえにおおきなちがいがある。
配偶者は、家をまもらなければならないというあれこれを、
両親から具体的なことばで釘をさされたわけではないのに、
なぜこんなに自分の役割を粛々とこなせるのだろう。
田舎の家でそだつうちに、まわりの空気を自然とよみとり、
自分にもとめられる役割を、当然の任務としてうけいれるようになる。
同調圧力というとおもくるしいけど、
自分にかせられたあたりまえの役割と
あっさりうけとめられるのがすごい。
新型コロナウイルスの感染が島根でもひろがり、
わたしがつとめる事業所も影響をうけた。
わたしにもまた、いくらかは感染の可能性があると
冷徹な配偶者はみなしており、
それ以来、食卓にならぶおかずのすべてに、
きっちり「とりばし」がつけられるようになった。
わずかでも可能性があるときには、あっさりと合理的に対処する。
こうした冷静な対応と、田舎のしきたりを
きわめてすんなりうけいれる態度とが、
彼女のなかで矛盾していないのがおもしろい。
矛盾というよりも、おなじ価値観がはたらいているのだろう。