「駅ピアノ」という番組がすきで、
録画したものをときどきみる。
だれでも自由につかえるピアノが駅においてあり、
演奏したいひとがピアノによってきて、
このみの曲をひく。それだけ。
「空港ピアノ」もあるけど、駅のほうが
気らくにひいてるかんじがする。
このまえみたのは、神戸のなんとかという駅においてある
グランドピアノの「駅ピアノ」だった。
子どものころにピアノをならっていた、というひとや、
これから予備校へいく、という浪人生だったり、
たまたまその駅でまちあわせをした大学生だったり、
3歳の子どもをつれたお父さんだったり、
経理の仕事をしている女性だったり、
娘さんと連弾するお母さんだったり。
ひとまえでひくのは、それなりに緊張しそうだけど、
ひとがきいている、という状況がだいじみたいだ。
拍手してくれたり、そこでしりあえたり。
仕事のまえにときどきよる、というひとは、
ここで演奏するのをたのしみにしている、とはなしていた。
外国の「駅ピアノ」をみていると、
いろんな国のひとがピアノのまえにすわる。
その土地のひとばかりではなく、
外国人だったり、移民としてその国にきたひともいる。
ピアノをひくことは、特別なちからをもつようで、
演奏したひとたちはみな、はれやかな顔でピアノをあとにしていた。
番組をみていると、駅をいくひとの
ほとんどすべてが ピアノをひけるようにおもえてくる。
わたしもあんなふうに、ピアノがひきたい。
ピアノの演奏をきくのはすきだけど、
残念ながらわたしはまったくピアノをひけない。
自分がすきな曲を演奏できたらすてきだろう。
映画『ボヘミアン・ラプソディー』に感動し、
絶対にひけるようになろうと、本をかって練習した女性が
「ボヘミアン・ラプソディー」をひいていた。
そういうはいりかたもあるのだ。
べつに矢野顕子さんみたいに、
自由自在な演奏ができるようにならなくてもいい。
両手をつかい、そこそこメロディをおっかけられたら。
『もしもピアノが弾けたなら』という曲があり、
何十年もまえに西田敏行さんがうたっていた。
おもいいれいっぱいなうたいかただけど、
「だけどわたしはピアノがない」
のを理由に「あなたにきかせられない」というのは
どうなんだ、とむかしからおもっていた。
そんなに「あなた」にきかせたいのなら、
ピアノをなんとかすればいいじゃないか。
ピアノがひけるようになろうと、
電子キーボードをかったことがある。
1万円ほどの「ピアノ」だった。
病気のため仕事をやめたときのことだ。
しばらく時間があったので、
ピアノぐらいなんとかなるのでは、とおもった。
ちゃんとテキストをかい、
まいにち「ピアノ」とむきあうつもりだったのに、
けっきょくほとんどさわることなく ひとにあげた。