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今回は、ラミーの様子を遠藤さんがみにいくはなしだ。
ラミーは、お姉ちゃんとお父さんが散歩にでかけてるすのとき、
お母さんが料理しているところにつきそうのだという。
お母さんは時々話しながらお料理する
ラミーは黙っている
安心で 楽しいから
そういうラミーのはなしを、
遠藤さんと重朗が「そうか そうか」ときいている。
ただそれだけ。
ストーリーはない。
でも、日常の一コマをじょうずにきりとっているので、
ラミーの幸福感にこちらまでうれしくなる。
なぜラミーがたのしくかんじるかの、こまかな説明はない。
よむ側が想像をふくらませ、
ラミーのしあわせに共感できるかどうか。
前回のはなしもまた、とくに「ものがたり」はなかった。
わかものが2匹の犬の散歩であるいている。
1匹の犬は、あつさにばててへたりこんでしまった。
でも、自分に関心をしめしてくれるひとがとおりがかると
「大好きです!大好きです!」
と げんきになってじゃれつく。
そのひとがいなくなると、またあつさでバテバテにもどり、
地面に四肢をなげだして へたれこむ。
かいぬしのわかい男性が、
「てめーら・・・ざけんなよ」
とおこりながらも、犬をだっこしてあるきだす。
つれの犬も、だかれた犬も、
「わーい わーい」
とよろこんでいる。
ほんとに、「ただそれだけ」だ。
「夜廻り猫」は、起承転結のはなしもあるけど、
このように ささやかなしあわせをあつかう回もおおい。
日常生活をおくるうえで、イベントやサプライズはとくに必要なく、
しあわせとかんじるのは、自分のこころのもちかただ。
毎日あたりまえにすごしている日常のなかにこそ、
しあわせの種があるのをおしえてくれる。
すべては気もちのもち方、なんていうと、
精神論的でいやなのだけど、
「夜廻り猫」は、「〜でなければいけない」
という、おしつけがましいところがない。
わたしが仕事の送迎でおとずれる家の玄関に
しあわせは
いつもじぶんのこころが
きめる
とかいたお習字がはってあった。家族の方にたずねると、
利用者の方が、じぶんでかいた「書」だといわれる。
いいことばだなー、とおもってメモしていたら、
こんかいとりあげた「夜廻り猫」のはなしは、
まさしく「しあわせは いつも じぶんのこころが きめる」
そのものだとおもった。
50代も後半となり、初老ともいえるわたしは、
こうしたささやかなしあわせが、
このごろとくに胸にしみるようになった。
仕事にあつくもえるでもなく、最善をつくしながらも
淡々と8時半から5時半までの仕事をおえ、
おつかれさまをつたえて家にもどる。
玄関にでむかえてくれたココにブラシをあて、
きょういちにちのすごし方をたずねる。
自分ひとりで完結するのではなく、
だれかがいてみたされる感覚が、しあわせだとかんじる。
夕ごはんをたべながら、録画しておいた
「迷宮グルメ」や「Jリーグタイム」をみて、
ポツリポツリとおしゃべりをする。
ささやかなこうした時間が、いまのわたしには
かけがえのないしあわせとなっている。
なにかをなしとげたわけではないけど、
こころおだやかにすごせる毎日がありがたい。