10月31日は地味ハロウィンの日。
デイリーポータルZはことし、会場からのライブ配信と、
ツイッターでのリモート参加という形で、
感染防止に配慮しての地味ハロウィンをひらいている。
これまでだと、ハロウィンのメインは
はでな仮装(魔女やキョンシー)をしたひとたちだったけど、
ことしはデイリーだけがいきのこったかんじだ。
辺境にいたものが、なんとなく主流派となった。
アクリル板でしきられた壇上にひとりずつあがり、
なんの仮装かを発表して、ポイントを説明する。
会場をみていると、みんなふつうの服をきてるので、
いったいなんのあつまりなのかわからない。
・リモートちゅう、マイクがミュートなのに気づかず
しゃべりつづけるひと
・インスタで、鼻にタグづけされるひと
・レジ袋をかいそびれたサラリーマン
(スーツはきまってるのに、カバンから大根が顔をだしている)
・キオスクのガラスにむかい、履歴書をかいてる就活ちゅうの女子
・まつりでベビーカステラをやいてるひとと、
子どもにせかされてたくさんかってしまったひと
・米津玄師はこんなひとなんじゃないか、という
自分のイメージの米津玄師
・カメラをもってるのに、けっきょくスマホで写真をとるひと
地味だけに、説明されないとまずわからない仮装がおおい。
自分の仮装についてはなすのをきいていると、
まじめそうで、おもしろそうで、いいひとだなー、とおもう。
はずかしがりのひとがおおいのだろう、
自分の説明をおえると すぐにマイクからはなれてしまうので、
なんども「もうすこしマイクにちかづいて」とうながされていた。
まえへ、まえへ、という積極的な性格でないことがよくわかる。
わざわざ会場までやってきて、地味な自分をみてもらおうという
不思議なエネルギーはどこからくるのか。
リモートで参加したひとが、さいごに手をふっておわかれするとき、
わたしはおもわず拍手をしていた。
みなさんの善意に感謝したかったのだろう。
くらくなる話題になりがちな新型コロナウイルスだけど、
デイリーポータルZのおかげであかるい記憶もくわわった。
2020年10月31日
2020年10月30日
73歳の女性がリクエストする『フットルース』
紺野美沙子さんが担当する「映画音楽ワールドツアー」
(NHK-FM 音楽遊覧飛行)をきいていたら、
73歳の女性がフットルースをリクエストしていた。
料理をするときなどにこの曲をかけると
こころがかろやかになるそうだ。
ケニー=ロギンスがうたうテーマソング。
リクエストをよせられた方は、あのはげしい曲をききながら、
どんな料理をつくるのか 興味がわいた。
マヨネーズを手づくりするときはどうだろうか。
こまかいことはかんがえなくてもいいので、
あの曲をききながらまぜたら、いいマヨネーズになりそうだ。
村上春樹さんの短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」のはじまりは、
「僕」がFMラジオをききながらスパゲティーをゆでている場面だ。
ながれている曲は、ロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲で、
とある。
どんな曲かしらないのでユーチューブできいてみる。
おもっていたよりもにぎやかな曲だ。
スパゲティーをゆでるぐらいなら、なにをきいてもよさそうなのに、
「まず最適の音楽」と絶賛するからには、
イタリア人の血がさわぐなにかがこの曲からうかがえので、
スパゲティーとの相性がいいのかもしれない。
それにしても「音楽遊覧飛行」はきいてるひとの年齢がたかい。
リクエストしてくるのはたいてい50代以上だ。
ラジオがもはや人気のないメディア、というわけではなく、
担当者の年齢にちかいひとが、
メールをおくってくる傾向があるようにおもう。
向谷実さんが担当する週も、リクエストしてくるのは、
たいてい50歳以上で、70代、80代という方もときにはおられる。
番組をとりまく雰囲気が、担当者によってつくられるので、
きいているひとが、これは自分むけでない、とおもえば、
だんだんと年配むけの番組になっていく。
73歳でフットルースをリクエストする方もおられるので、
年齢がすべてではないのはもちろんだけど、
わかいひとのメールをたまにはききたい。
わたしがよくきく「ラジオマンジャック」(NHK-FM )は、
幅ひろい年代の方がメールをよせてくる。
番組のかるさが支持されているとともに、
30代の時東ぁみさんの存在がおおきいのではないか。
彼女が番組の敷居をひくくしてくれるので、
きくほうは、安心してどうでもいいはなしに気をゆるしていく。
年齢のことばかりかいたけど、
わたしもまた、平均年齢をあげているひとりなのだった。
(NHK-FM 音楽遊覧飛行)をきいていたら、
73歳の女性がフットルースをリクエストしていた。
料理をするときなどにこの曲をかけると
こころがかろやかになるそうだ。
ケニー=ロギンスがうたうテーマソング。
リクエストをよせられた方は、あのはげしい曲をききながら、
どんな料理をつくるのか 興味がわいた。
マヨネーズを手づくりするときはどうだろうか。
こまかいことはかんがえなくてもいいので、
あの曲をききながらまぜたら、いいマヨネーズになりそうだ。
村上春樹さんの短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」のはじまりは、
「僕」がFMラジオをききながらスパゲティーをゆでている場面だ。
ながれている曲は、ロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲で、
スパゲティーをゆであげるにはまず最適の音楽だった。
とある。
どんな曲かしらないのでユーチューブできいてみる。
おもっていたよりもにぎやかな曲だ。
スパゲティーをゆでるぐらいなら、なにをきいてもよさそうなのに、
「まず最適の音楽」と絶賛するからには、
イタリア人の血がさわぐなにかがこの曲からうかがえので、
スパゲティーとの相性がいいのかもしれない。
それにしても「音楽遊覧飛行」はきいてるひとの年齢がたかい。
リクエストしてくるのはたいてい50代以上だ。
ラジオがもはや人気のないメディア、というわけではなく、
担当者の年齢にちかいひとが、
メールをおくってくる傾向があるようにおもう。
向谷実さんが担当する週も、リクエストしてくるのは、
たいてい50歳以上で、70代、80代という方もときにはおられる。
番組をとりまく雰囲気が、担当者によってつくられるので、
きいているひとが、これは自分むけでない、とおもえば、
だんだんと年配むけの番組になっていく。
73歳でフットルースをリクエストする方もおられるので、
年齢がすべてではないのはもちろんだけど、
わかいひとのメールをたまにはききたい。
わたしがよくきく「ラジオマンジャック」(NHK-FM )は、
幅ひろい年代の方がメールをよせてくる。
番組のかるさが支持されているとともに、
30代の時東ぁみさんの存在がおおきいのではないか。
彼女が番組の敷居をひくくしてくれるので、
きくほうは、安心してどうでもいいはなしに気をゆるしていく。
年齢のことばかりかいたけど、
わたしもまた、平均年齢をあげているひとりなのだった。
2020年10月29日
がんばってチームに貢献した結果、チームに居場所がなくなる チームスポーツの不思議
J1最多出場記録を更新中(現在641試合に出場)の遠藤保仁選手が、
出場機会をもとめて ガンバ大阪から
J2のジュビロ磐田へ 期限つきで移籍した。
最多出場記録にこだわり、ガンバのベンチをあたためるよりも、
スタメンで試合にでつづける環境をえらんでのことだ。
サッカーにかぎらず、おおくのチームスポーツは、
試合のあとのインタビューをきいていると、
ゴールやホームランなど 個人の活躍よりも、
チームがかったことがうれしい、みたいな発言をする選手がおおい。
日本人だけでなく、外国人選手でも
おなじように「チームのため」を第一にかんがえているようだ。
チームのために、一生懸命がんばってはたらき、
その結果として チームがいい成績をおさめると、
チームは上のカテゴリーにあがったり、
優勝したら大型の補強をしてさらにつよくなろうとする。
それでどうなるかというと、選手間での競争がはげしくなり、
チームのためにがんばってきた選手の
出場機会がすくなくなったり、戦力外と判断されたり。
チームに貢献した結果、自分の居場所がなくなるという
残念な事態におちいるのがチームスポーツだ。
チームのためにはたらいた選手が、
貢献した結果として、そのチームにいられなくなる。
自分がつかわれなくなることを承知のうえで、
チームをつよくしたいという、選手の心理が不思議だ。
「ピーターの法則」の、創造的無能をおもいだす。
いまの段階で有能な会社員は、その能力をみとめられ、
ひとつうえのポジションへと昇進させられる。
そこでも有能ならば、さらにうえのポジションへ。
そうするうちに、だれもが どこかで、
力を発揮できず、無能となるポイントにたどりつく。
ひとつまえの段階では有能なのだから、
まわりは昇進させようとするけど、
その結果、組織も個人もふしあわせな状況となる。
そうならないために、創造的に無能を演出せよ、
というのがピーターの法則では提案されている。
わざとときどきミスをすれば、まわりはそのひとを
昇進させようとせず、ぬくぬくと、
有能な段階にとどまることができる。
とはいえ、スポーツでは、自分のチームがかたないように、
わざと手をぬくわけにはいかない。
八百長になるから、という理由ではなく、
そんなことをしたら、その競技の魅力をたのしめないからだ。
選手たちは、自分の能力を最大限にいかせる環境をもとめている。
手をぬいてまでチームにのこるのでは、
その競技の魅力をぞんぶんにたのしめない。
サッカーのように、ひろく世界中が市場となっていたら、
J1がだめならJ2、さらにしたのカテゴリーもある。
つよいチームをもとめるのならヨーロッパへ、
日本よりよわいリーグならアジアの国々に
たくさんのサッカークラブからえらぶ、あるいはえらばれる。
自分の能力におうじ、どこかのチームと おりあいをつける。
ちからをぬくのではなく、全力をふるえる環境をもとめるのだから、
サッカー選手は現実主義者であるとともに、
ロマンチストがおおいのではないか。
出場機会をもとめて ガンバ大阪から
J2のジュビロ磐田へ 期限つきで移籍した。
最多出場記録にこだわり、ガンバのベンチをあたためるよりも、
スタメンで試合にでつづける環境をえらんでのことだ。
サッカーにかぎらず、おおくのチームスポーツは、
試合のあとのインタビューをきいていると、
ゴールやホームランなど 個人の活躍よりも、
チームがかったことがうれしい、みたいな発言をする選手がおおい。
日本人だけでなく、外国人選手でも
おなじように「チームのため」を第一にかんがえているようだ。
チームのために、一生懸命がんばってはたらき、
その結果として チームがいい成績をおさめると、
チームは上のカテゴリーにあがったり、
優勝したら大型の補強をしてさらにつよくなろうとする。
それでどうなるかというと、選手間での競争がはげしくなり、
チームのためにがんばってきた選手の
出場機会がすくなくなったり、戦力外と判断されたり。
チームに貢献した結果、自分の居場所がなくなるという
残念な事態におちいるのがチームスポーツだ。
チームのためにはたらいた選手が、
貢献した結果として、そのチームにいられなくなる。
自分がつかわれなくなることを承知のうえで、
チームをつよくしたいという、選手の心理が不思議だ。
「ピーターの法則」の、創造的無能をおもいだす。
いまの段階で有能な会社員は、その能力をみとめられ、
ひとつうえのポジションへと昇進させられる。
そこでも有能ならば、さらにうえのポジションへ。
そうするうちに、だれもが どこかで、
力を発揮できず、無能となるポイントにたどりつく。
ひとつまえの段階では有能なのだから、
まわりは昇進させようとするけど、
その結果、組織も個人もふしあわせな状況となる。
そうならないために、創造的に無能を演出せよ、
というのがピーターの法則では提案されている。
わざとときどきミスをすれば、まわりはそのひとを
昇進させようとせず、ぬくぬくと、
有能な段階にとどまることができる。
とはいえ、スポーツでは、自分のチームがかたないように、
わざと手をぬくわけにはいかない。
八百長になるから、という理由ではなく、
そんなことをしたら、その競技の魅力をたのしめないからだ。
選手たちは、自分の能力を最大限にいかせる環境をもとめている。
手をぬいてまでチームにのこるのでは、
その競技の魅力をぞんぶんにたのしめない。
サッカーのように、ひろく世界中が市場となっていたら、
J1がだめならJ2、さらにしたのカテゴリーもある。
つよいチームをもとめるのならヨーロッパへ、
日本よりよわいリーグならアジアの国々に
たくさんのサッカークラブからえらぶ、あるいはえらばれる。
自分の能力におうじ、どこかのチームと おりあいをつける。
ちからをぬくのではなく、全力をふるえる環境をもとめるのだから、
サッカー選手は現実主義者であるとともに、
ロマンチストがおおいのではないか。
2020年10月28日
『「その日暮らし」の人類学』(小川さやか)どうかなったら、そのときに対処する
『「その日暮らし」の人類学』
(小川さやか・光文社新書)
日本では、きょうとおなじような日があすもやってくるし、
半年さき、1年後だって、そうかわらない日常をすごしているだろう。
そうした前提のもとにおおくのひとがくらしており、
計画にのっとった人生をおくるようもとめられる。
もちろん社会の変動はあるし、自分や家族の身に
なにがふりかかってくるかは予想できない。
とはいえ、日本社会は、ほんのわずかなあいだに、
まったくかわってしまうとはかんがえにくい安定のもとにある。
そうでない国、たとえば著者が調査したタンザニアでは、
公務員や大企業につとめるひとはほんのわずかな割合で、
大部分は、零細で小規模な会社ではたらいている。
そういう国では、ひとつの仕事に収入源をたよるのはリスキーなため、
おおくのひとは複数の収入源をもとうとする。
日本からみると、不安定なくらしも、
タンザニアでは理にかなったスタイルといえる。
そうして、いつか自分にむいた状況になったとき、
それまでに身につけた経験や人脈をいかして、
あたらしい仕事をはじめてみる。
うまくいかなかったらすぐやめて、つぎの機会がくるのをまつ。
わたしは、おなじリズムでくらすのになれ、
予定がきゅうにかわるとうごきづらくかんじる。
曜日ごとに おおまかなながれができあがっており、
そのながれに ただ身をまかせるほう がここちよくくらせる。
しかし、こうした融通のきかなさは、
どこか病的なよわさをかんじさせる。
生きてさえいればいい、というと、
なげやりで向上心のない生き方におもえるけど、
でも、それのどこがわるいのか。
「その日暮らし」は、それはそれで、
ひとつの生き方だと、本書をよむとわかる。
むしろ、日本のほうが余裕と自信のない社会なのだ。
(小川さやか・光文社新書)
日本では、きょうとおなじような日があすもやってくるし、
半年さき、1年後だって、そうかわらない日常をすごしているだろう。
そうした前提のもとにおおくのひとがくらしており、
計画にのっとった人生をおくるようもとめられる。
もちろん社会の変動はあるし、自分や家族の身に
なにがふりかかってくるかは予想できない。
とはいえ、日本社会は、ほんのわずかなあいだに、
まったくかわってしまうとはかんがえにくい安定のもとにある。
そうでない国、たとえば著者が調査したタンザニアでは、
公務員や大企業につとめるひとはほんのわずかな割合で、
大部分は、零細で小規模な会社ではたらいている。
そういう国では、ひとつの仕事に収入源をたよるのはリスキーなため、
おおくのひとは複数の収入源をもとうとする。
日本からみると、不安定なくらしも、
タンザニアでは理にかなったスタイルといえる。
そうして、いつか自分にむいた状況になったとき、
それまでに身につけた経験や人脈をいかして、
あたらしい仕事をはじめてみる。
うまくいかなかったらすぐやめて、つぎの機会がくるのをまつ。
わたしは、おなじリズムでくらすのになれ、
予定がきゅうにかわるとうごきづらくかんじる。
曜日ごとに おおまかなながれができあがっており、
そのながれに ただ身をまかせるほう がここちよくくらせる。
しかし、こうした融通のきかなさは、
どこか病的なよわさをかんじさせる。
不安定で不確実な生活は、人びとに筋道だった未来を企図することを難しくさせるが、代わりに好機を捉え、その時々に可能な行為には何でも挑戦する大胆さも生み出す。不確実性が不安でしかなく、チャンスとは捉えようがない社会は病的であるかもしれない。
究極のLiving for Today であるピダハンにも、タンザニアの人びとと同じく自信と余裕があった。生きているということだけを根拠としているような余裕と自信が。
生きてさえいればいい、というと、
なげやりで向上心のない生き方におもえるけど、
でも、それのどこがわるいのか。
サミュエル・ジョンソンは人間を「怠惰な動物」と規定し、怠けることは罪ではなく、自己修養や利益追求に邁進する人間こそ常軌を逸していると説いた。
かの有名なカール・マルクスの娘婿ポール・ラファルグは、『怠ける権利』を上梓し、「個人や社会のあらゆる悲惨さは、労働への情熱から生まれる」と結論づけた。
「その日暮らし」は、それはそれで、
ひとつの生き方だと、本書をよむとわかる。
むしろ、日本のほうが余裕と自信のない社会なのだ。
2020年10月27日
ことしも仮装によるボジョレー ヌーボーまつりがあるらしい
5時半に「おつかれさま」をいって 職場をでようとしたら、
行事部を担当する職員に声をかけらた。
ことしもまたボジョレーのとき仮装をするのでよろしく、
ということだ。
わたしのつとめる介護事業所では、
まいとしボジョレー ヌーボーの解禁日に、
利用者のご家庭と、お世話になっている方々へ、
ボジョレー ヌーボーと、ささやかなプレゼントをおくるのが
もう10年以上つづくイベントとなっている。
このとき、ただボジョレーをわたすのではなく、
なぜか職員が仮装して訪問するきまりになっている。
まいとしこの時期がくると、仮装のアイデアにくるしみ、
プレッシャーのなかで当日をむかえることとなる。
ことしは、これまではなしがでてなかったから、
コロナ騒動でおながれになったのだろうと 安心していた。
はでな仮装はにが手なので、デイリーポータルZの
「地味ハロウィン」をそのままパクって、
ふだんそこらへんにいるひとの仮装でわたしはごまかしてきた。
宅急便のおじさんや、回覧板をまわしにきた町内会のひとを
これまで仮装してきたけど、もうネタがつきた。
デイリーポータルZのサイトをみると、
新型コロナウイルスの感染をふせぐために、
ことしはいちだんと地味なハロウィンにとりくむようだ。
https://dailyportalz.jp/kiji/jimihalloween2020
リアル参加は、会場にはいる人数を制限しておこなわれる。
リモート参加やツイッターでの参加もうけつけているけど、
応募者がおおいときは、デイリー側がえらぶ
(偉そうでごめん、ということわりがある)。
コロナとハロウィンは、いかにもなじみそうにない。
これまでは、たくさんのひとが
どこかの会場にあつまっていたのだから、
まさしく3密の状況でおこなわれていた。
それをことしは、地味に、ひっそりと、
でもたのしんで、というのだから、かなりハードルがたかい。
デイリーポータルZらしく、地味ハロウィンをたのしめたらいいけど。
わたしは、なにもアイデアがでなければ、
林雄司さんの「ハトマスク」をかぶろうとおもう。
アマゾンをみると、いちばんやすいのは1290円なので、
かるい冗談としては、そんなにたかくない。
これまでの地味路線とはちがうけど、
堂々とした鳩の顔はあんがい迫力があるので、
インパクトのあるボジョレー配達になるかもしれない。
10人くらいがハトマスクをかぶって玄関にあらわれたら、
それはそれで、悪夢のような訪問者になりそうだ。
行事部を担当する職員に声をかけらた。
ことしもまたボジョレーのとき仮装をするのでよろしく、
ということだ。
わたしのつとめる介護事業所では、
まいとしボジョレー ヌーボーの解禁日に、
利用者のご家庭と、お世話になっている方々へ、
ボジョレー ヌーボーと、ささやかなプレゼントをおくるのが
もう10年以上つづくイベントとなっている。
このとき、ただボジョレーをわたすのではなく、
なぜか職員が仮装して訪問するきまりになっている。
まいとしこの時期がくると、仮装のアイデアにくるしみ、
プレッシャーのなかで当日をむかえることとなる。
ことしは、これまではなしがでてなかったから、
コロナ騒動でおながれになったのだろうと 安心していた。
はでな仮装はにが手なので、デイリーポータルZの
「地味ハロウィン」をそのままパクって、
ふだんそこらへんにいるひとの仮装でわたしはごまかしてきた。
派手な仮装やパーティーは恥ずかしい、でも仮装はちょっとやってみたい。そんなおもしろがりな地味ピープル(地味ピ)のためのハロウィンです。仮装は身近でとんちのきいたものばかり。毎年会場は互いのとんちを称え合う場となっています。(地味ハロウィンとは)ーデイリーポータルZよりー
宅急便のおじさんや、回覧板をまわしにきた町内会のひとを
これまで仮装してきたけど、もうネタがつきた。
デイリーポータルZのサイトをみると、
新型コロナウイルスの感染をふせぐために、
ことしはいちだんと地味なハロウィンにとりくむようだ。
https://dailyportalz.jp/kiji/jimihalloween2020
リアル参加は、会場にはいる人数を制限しておこなわれる。
会場は入場者を収容人数の半分に抑え、座席間のスペースを空け、会話も控えるなど、地味ハロウィンの名に恥じない地味な雰囲気作りを行います。地味ハロウィン史上、最高に地味に行います!
リモート参加やツイッターでの参加もうけつけているけど、
応募者がおおいときは、デイリー側がえらぶ
(偉そうでごめん、ということわりがある)。
コロナとハロウィンは、いかにもなじみそうにない。
これまでは、たくさんのひとが
どこかの会場にあつまっていたのだから、
まさしく3密の状況でおこなわれていた。
それをことしは、地味に、ひっそりと、
でもたのしんで、というのだから、かなりハードルがたかい。
デイリーポータルZらしく、地味ハロウィンをたのしめたらいいけど。
わたしは、なにもアイデアがでなければ、
林雄司さんの「ハトマスク」をかぶろうとおもう。
アマゾンをみると、いちばんやすいのは1290円なので、
かるい冗談としては、そんなにたかくない。
これまでの地味路線とはちがうけど、
堂々とした鳩の顔はあんがい迫力があるので、
インパクトのあるボジョレー配達になるかもしれない。
10人くらいがハトマスクをかぶって玄関にあらわれたら、
それはそれで、悪夢のような訪問者になりそうだ。
2020年10月26日
『キリン解剖記』(郡司芽久)
『キリン解剖記』(郡司芽久・ナツメ社)
キリンの研究をこころざしたわかものが、
キリンの解剖をとおして 研究者としてそだってゆく記録。
わかものならではの、情熱にみちた探究心が
よんでいてとてもすがすがしい。
そういえば、キリンって、不思議な動物だ。
なぜあんなに首がながくなったのだろう。
それでいて、首の骨の数は、哺乳類の原則どおり、
7つ(ほかの哺乳類とおなじ)だという。
その不思議をときあかそうと、著者は解剖をつづけ、
とうとう8つ目の頚椎とでもいうべき 胸椎のはたらきを発見する。
著者は、学部生だったころにはじめての解剖を経験し、
その後、国内で死亡したおおくのキリンを手がけている。
10年の研究生活で、30体のキリンを解剖してきたという。
亡くなるキリンが毎年のようにでるので、
日本にはずいぶんたくさんのキリンがいるものだと おどろいた。
本書によると、日本にはおよそ150頭のキリンがかわれており、
アメリカについで、世界で2番めのキリン大国らしい。
キリンの解剖なんて、ふつうのひとにとって、
ものすごくとおい世界のできごとだけど、
著者にとってはごくあたりまえな日常(研究生活)だ。
著者は、自分がよくわかっている世界を淡々とかく。
キリン、とくにキリンの解剖について、
なにもしらないわたしたちは、著者が日常おこなっている
そうした非日常的な研究のようすがとても興味ぶかい。
著者のユーモアなんだろうけど、この本は、
だれもがキリンの研究者になる可能性がある、
という前提でかかれている。
いいであい、そしてよいタイミングでの検体にめぐまれ、
なによりも、「キリンがすき」をそのまま自分の仕事とし、
著者は世界一しあわせな研究者におもえる。
もちろんこれらは、著者がきずきあげてきた人間関係と、
やる気にみちた研究心によるたまものだ。
解剖に協力してくれる、さまざまな関係者に
著者は感謝の気もちをわすれない。
そして、解剖させてくれたキリンたちにも、
つねに敬意をはらい、尊厳をもってむきあっている。
この本には、著者の誠実さがずいしょにあらわれている。
ねばりづよくとりくんできた研究が実をむすび、
著者は キリンの第一胸骨が うごくしくみをつきとめる。
これこそが、第8番目の頚椎とでもいうべき、
第1胸骨のやくわりであり、胸骨をうごかすことで、
キリンの首は可動域が50センチふえ、
「高いところにも低いところにも頭が届く」
からだを手にいれた。
著者のまっすぐな姿勢がとても気もちいい。
キリンにあいたくなってきた。
キリンの研究をこころざしたわかものが、
キリンの解剖をとおして 研究者としてそだってゆく記録。
わかものならではの、情熱にみちた探究心が
よんでいてとてもすがすがしい。
そういえば、キリンって、不思議な動物だ。
なぜあんなに首がながくなったのだろう。
それでいて、首の骨の数は、哺乳類の原則どおり、
7つ(ほかの哺乳類とおなじ)だという。
その不思議をときあかそうと、著者は解剖をつづけ、
とうとう8つ目の頚椎とでもいうべき 胸椎のはたらきを発見する。
著者は、学部生だったころにはじめての解剖を経験し、
その後、国内で死亡したおおくのキリンを手がけている。
10年の研究生活で、30体のキリンを解剖してきたという。
亡くなるキリンが毎年のようにでるので、
日本にはずいぶんたくさんのキリンがいるものだと おどろいた。
本書によると、日本にはおよそ150頭のキリンがかわれており、
アメリカについで、世界で2番めのキリン大国らしい。
キリンの解剖なんて、ふつうのひとにとって、
ものすごくとおい世界のできごとだけど、
著者にとってはごくあたりまえな日常(研究生活)だ。
著者は、自分がよくわかっている世界を淡々とかく。
キリン、とくにキリンの解剖について、
なにもしらないわたしたちは、著者が日常おこなっている
そうした非日常的な研究のようすがとても興味ぶかい。
著者のユーモアなんだろうけど、この本は、
だれもがキリンの研究者になる可能性がある、
という前提でかかれている。
ピンセットにもいろいろな種類があるが、初心者ならば、先端がかぎ状になっていて筋肉がつかみやすい「有鈎(ゆうこう)ピンセット」がおすすめだ。
骨格標本にはいくつかの作り方がある。一般的な家庭でもできる方法だと、地面に埋める、水に漬ける、鍋で煮るなど。虫に食べさせる、という作り方もある。
もしもキリンについて講演する機会があなたに訪れたなら、翌日の筋肉痛を避けるために、迷わずメスの頭骨をもって講演会場へ向かうべきだ。
いいであい、そしてよいタイミングでの検体にめぐまれ、
なによりも、「キリンがすき」をそのまま自分の仕事とし、
著者は世界一しあわせな研究者におもえる。
もちろんこれらは、著者がきずきあげてきた人間関係と、
やる気にみちた研究心によるたまものだ。
解剖に協力してくれる、さまざまな関係者に
著者は感謝の気もちをわすれない。
そして、解剖させてくれたキリンたちにも、
つねに敬意をはらい、尊厳をもってむきあっている。
この本には、著者の誠実さがずいしょにあらわれている。
「遺体損壊」でしかなかったニーナの”解剖”の記憶は、私にとって気持ちが暗くなるような苦しい思い出だ。筋肉の名前の特定もできず、知識の向上に至れなかったからこそ、せめて経験だけは活かしたい。(中略)
これは、シロがニーナのパートナーだったことも強く影響している。ニーナの経験を活かせなかったら、彼女だけでなく、目の前のシロにも申し訳が立たない。
ねばりづよくとりくんできた研究が実をむすび、
著者は キリンの第一胸骨が うごくしくみをつきとめる。
これこそが、第8番目の頚椎とでもいうべき、
第1胸骨のやくわりであり、胸骨をうごかすことで、
キリンの首は可動域が50センチふえ、
「高いところにも低いところにも頭が届く」
からだを手にいれた。
著者のまっすぐな姿勢がとても気もちいい。
キリンにあいたくなってきた。
2020年10月25日
「人生を変えなかった一言」に影響をうけてきたのかも
デイリーポータルZが「人生を変えなかった一言」
を募集している。
https://dailyportalz.jp/kiji/didnt-change-my-life
よくある企画が「人生を変えた一言」だけど、
「人生を変えなかった一言」つまり、
よけいなお世話にすぎないひとことだって
そうとうかたられている。
というか、先生や親のいうことは
たいていきかなくてもいいし、
むしろきかないほうが、ひととしてまともにそだつ(とおもう)。
それでも親や教師、それにふるくからいる職員は、なにかいいたがる。
いちいちまともにとりあっていたら
おかしくなってしまうので、まよわず無視したほうがいい。
デイリーポータルZがそこに目をつけたのは、さすがだ。
そういえば、10年なにかをつづけたら、
かならずものになる、という
吉本隆明さんのことばをはげみに
わたしはこのブログをつづけてきた。
これは、吉本さんが糸井重里さんにはなしたことで、
ときどきよみなおしては、
吉本さんが「おれの首をやるよ」というぐらいだから、
とにかく10年つづけたらいいんだ、とげんきづけられた。
そのブログが、いまでは9年と2ヶ月つづいており、
あと10ヶ月まいにちかいたところで、
とても「いっちょまえ」にはならない事態が現実味をおびてきた。
もしかしたらこのひとことは、
「人生を変えなかった一言」だったのではないか。
吉本さんはもう亡くなっているので、
いまさら首をいただくわけにはいかないし・・・。
を募集している。
https://dailyportalz.jp/kiji/didnt-change-my-life
大人になると(頼んでもないのに)年長者がアドバイスしてくるけど、聞かなくていいやつがけっこうあることを教えてあげたい!そういう趣旨です。(林雄司)
よくある企画が「人生を変えた一言」だけど、
「人生を変えなかった一言」つまり、
よけいなお世話にすぎないひとことだって
そうとうかたられている。
というか、先生や親のいうことは
たいていきかなくてもいいし、
むしろきかないほうが、ひととしてまともにそだつ(とおもう)。
それでも親や教師、それにふるくからいる職員は、なにかいいたがる。
いちいちまともにとりあっていたら
おかしくなってしまうので、まよわず無視したほうがいい。
デイリーポータルZがそこに目をつけたのは、さすがだ。
そういえば、10年なにかをつづけたら、
かならずものになる、という
吉本隆明さんのことばをはげみに
わたしはこのブログをつづけてきた。
「どんな仕事でも、10年間、毎日休まずに続けたら、
必ずいっちょまえになれる」
作家になりたいなら作家に、靴屋になりたいなら靴屋に、
という具合に、それでめしを食っていけるようになれる。
休んではいけない。
とにかく毎日、作家であるなら、机に向かって、
数文字でもいいから書くことが重要である、と。
実際に、これを実行して、
つまり10年間、休まずに毎日続けて、
いっちょまえになれないようだったら、
「おれの首をやるよ」というところまで、続いた。
これは、吉本さんが糸井重里さんにはなしたことで、
ときどきよみなおしては、
吉本さんが「おれの首をやるよ」というぐらいだから、
とにかく10年つづけたらいいんだ、とげんきづけられた。
そのブログが、いまでは9年と2ヶ月つづいており、
あと10ヶ月まいにちかいたところで、
とても「いっちょまえ」にはならない事態が現実味をおびてきた。
もしかしたらこのひとことは、
「人生を変えなかった一言」だったのではないか。
吉本さんはもう亡くなっているので、
いまさら首をいただくわけにはいかないし・・・。
2020年10月24日
「言い切る」が気になる
まえから「言い切る」という表現がきらいだ。
「力強く語った」もいやだ。
インタビューなどをまとめた文章で、
なんとか選手は「言い切った」、みたいにいわれると、
だからなんだというのか、とおもってしまう。
個人のこのみでしかないけど、
いつから「言い切る」が市民権をえたのか。
そんなふうに、自分ではこまかいこというくせに、
ひとの了見のせまさは気にさわることがある。
さいきん出版された
『その言い方は「失礼です!」』という本の広告に、
いくつか「失礼」ないいかたの例がのっていた。
それをよむと、そのほとんどが、
わたしにはたいして問題があるとはおもえない。
著者がそうおもってるだけではないのか。
でも、アマゾンのレビューをみると、
いまさらそんなあたりまえなことをいいだすな、
という内容がおおかった。わたしのかんじかたとぜんぜんちがう。
エバーノートで「言い切る」を検索すると、
「『形容詞+です』薄れる違和感」
というノートがひっかかった。
「おいしいです」「あぶないです」は、
明治時代にはみとめられていなかったのが、
だんだんとゆるいあつかいになってきた、
という新聞記事だ。
こういうのを「言い切り形」というのだという。
本多勝一さんの『日本語の作文技術』で、
「体言止めの下品さ」としてとりあげられており、
つかわないよう気をつけるようになった。
はなすときには「おいしいです」といわれても
あまりひっかからないのに、文章にすると子どもっぽくおもえる。
そんな体現どめが「薄れる違和感」になるというから
こどばづかいはいろいろとやっかいだ。
「力強く語った」もいやだ。
インタビューなどをまとめた文章で、
なんとか選手は「言い切った」、みたいにいわれると、
だからなんだというのか、とおもってしまう。
個人のこのみでしかないけど、
いつから「言い切る」が市民権をえたのか。
そんなふうに、自分ではこまかいこというくせに、
ひとの了見のせまさは気にさわることがある。
さいきん出版された
『その言い方は「失礼です!」』という本の広告に、
いくつか「失礼」ないいかたの例がのっていた。
それをよむと、そのほとんどが、
わたしにはたいして問題があるとはおもえない。
著者がそうおもってるだけではないのか。
でも、アマゾンのレビューをみると、
いまさらそんなあたりまえなことをいいだすな、
という内容がおおかった。わたしのかんじかたとぜんぜんちがう。
エバーノートで「言い切る」を検索すると、
「『形容詞+です』薄れる違和感」
というノートがひっかかった。
「おいしいです」「あぶないです」は、
明治時代にはみとめられていなかったのが、
だんだんとゆるいあつかいになってきた、
という新聞記事だ。
こういうのを「言い切り形」というのだという。
本多勝一さんの『日本語の作文技術』で、
「体言止めの下品さ」としてとりあげられており、
つかわないよう気をつけるようになった。
はなすときには「おいしいです」といわれても
あまりひっかからないのに、文章にすると子どもっぽくおもえる。
そんな体現どめが「薄れる違和感」になるというから
こどばづかいはいろいろとやっかいだ。
2020年10月23日
津野米咲さんの訃報におどろく
津野米咲さんが亡くなった。
「ゆうがたパラダイス」(NHK-FM)の
水曜日を担当していたのが津野さんで、
彼女の曲や、ゲストにくるひとの曲、
津野さんが紹介する曲のおおくはわたしにあわず、
どこがいいのかわからないままきいていた。
曲をきくよりも、津野さんのおしゃべりがすきだったから
番組がはじまると、つい耳をかたむけてしまう。
火曜日の「ゆうがたパラダイス」の冒頭で、
担当の三森すずこさんが「津野米咲さんが亡くなりました」
といったのでおどろいてしまった。
先週の番組では、いつもの声をきかせてくれたのに。
津野さんの番組でなければ、まずであわなかっただろう
「はじめてのチュウ」は、
3日間わたしの頭のなかでながれつづけた。
音楽界の最前線にいながら
「はじめてのチュウ」をもってくるなんて、
めくばりがいきとどいている。すてきだ。
明石家さんまさんと大竹しのぶさんのデュエット、
「キライナヒト」も津野さんがおしえてくれた。
「なんでこの曲や」
「きらいだから」
ふたりのかけあいがおかしい。
津野さんは、歌手と曲をはばひろくしっていて、
番組の特集にあわせてきかせてくれる。
有名人だろうが新人だろうが、もちろんアニソンやアイドルでも、
津野さんは「すきな曲」として おなじようにあつかう。
「オフィシャル髭ダンディズム」の魅力にもはやくから気づき、
なんども番組でかけていた。
わたしにとっての津野さんは、
しらない音楽をおしえてくれる はなしずきなおねえさんだった。
ごめいふくをおいのりいたします。
「ゆうがたパラダイス」(NHK-FM)の
水曜日を担当していたのが津野さんで、
彼女の曲や、ゲストにくるひとの曲、
津野さんが紹介する曲のおおくはわたしにあわず、
どこがいいのかわからないままきいていた。
曲をきくよりも、津野さんのおしゃべりがすきだったから
番組がはじまると、つい耳をかたむけてしまう。
火曜日の「ゆうがたパラダイス」の冒頭で、
担当の三森すずこさんが「津野米咲さんが亡くなりました」
といったのでおどろいてしまった。
先週の番組では、いつもの声をきかせてくれたのに。
津野さんの番組でなければ、まずであわなかっただろう
「はじめてのチュウ」は、
3日間わたしの頭のなかでながれつづけた。
音楽界の最前線にいながら
「はじめてのチュウ」をもってくるなんて、
めくばりがいきとどいている。すてきだ。
明石家さんまさんと大竹しのぶさんのデュエット、
「キライナヒト」も津野さんがおしえてくれた。
「なんでこの曲や」
「きらいだから」
ふたりのかけあいがおかしい。
津野さんは、歌手と曲をはばひろくしっていて、
番組の特集にあわせてきかせてくれる。
有名人だろうが新人だろうが、もちろんアニソンやアイドルでも、
津野さんは「すきな曲」として おなじようにあつかう。
「オフィシャル髭ダンディズム」の魅力にもはやくから気づき、
なんども番組でかけていた。
わたしにとっての津野さんは、
しらない音楽をおしえてくれる はなしずきなおねえさんだった。
ごめいふくをおいのりいたします。
2020年10月22日
『幻のアフリカ納豆を追え!』(高野秀行)納豆をめぐる探検記
『幻のアフリカ納豆を追え!そして現れた〈サピエンス納豆〉』
(高野秀行・新潮社)
納豆というと、日本独自のたべものとおもっているひとがおおいけど、
そうではなくて、東南アジアでもひろくたべられていることが
前作の『謎のアジア納豆』で紹介されている。
今回の高野さんは、さらにアフリカと韓国へ足をのばす。
アフリカと納豆なんていうと、とおくはなれた関係におもえるけど、
高野さんは西アフリカの3カ国
(セネガル・ブルキナファソ・ナイジェリア)をおとずれ、
ふるくから、そしていまもまた
納豆をたべている事実をあきらかにする。
納豆とはなにか。納豆菌により発酵した食品が納豆であり、
材料は大豆とはかぎらない。
西アフリカでは、バルキアという木にできる実をつかい
日本とおなじような納豆がつくられているし、
アフリカを象徴する木として有名なバオバブの実も材料になる。
そしてたべ方も、西アフリカは日本よりも多様性がある。
納豆をご飯にかけてたべるのが日本のやり方だけど、
もともとはダシとしてつかわれた、というのが高野さんの仮設であり、
アフリカでは納豆を料理のなかにいれ、
コクをだすうまみとしてつかわれている。
西アフリカでも大豆からつくった納豆がでまわっているけど、
バルキアによる納豆のほうがおいしい、と地元のひとはおもっており、
大豆はやすく手にはいるから、という代用品のあつかいだという。
日本人が自分たちのオリジナル食品とおもっている納豆は、
西アフリカでもっと多様なつくり方・つかわれ方がひろまっている。
高野さんは、その土地のやり方で材料の豆を発酵させ、
そうしてできた納豆をつかい、料理をつくってもらう。
本書には、高野さんがブルキナファソでたべた
「鯉と納豆の焼き浸し」の写真がのっている。
おなじテーブルに、ビールとパンもおかれていて、
納豆料理が充実した食事となっているのがわかる。
わたしもためしに鳥のモモ肉とトマトをにこんだ料理に、
納豆(もちろん日本のもの)を1パックいれてみた。
納豆の量がすくなかったのか、納豆の味はほとんどしない。
なにもしらずにたべた配偶者は、
納豆がはいっているとはおもわなかった。
納豆は、肉よりも魚との相性がいいそうで、
料理にふかみをうみだすソースとしてつかわれている。
白ごはんにぐるぐるまぜた納豆をのせるだけでなく、
日本でも むかしは 納豆といえば納豆汁だったそうだ。
いまでもタマゴやきや天ぷらにつかうのだから、
ご飯にだけでなく、もっと自由に納豆をつかいたくなった。
高野さんは、辺境作家としてのつよみをぞんぶんにいかせる、
あたらしい分野にであえてたのしそうだ。
前作からはじまった納豆をめぐる世界が、
まさかこんなひろがりをもっていたとはおもわなかった。
(高野秀行・新潮社)
納豆というと、日本独自のたべものとおもっているひとがおおいけど、
そうではなくて、東南アジアでもひろくたべられていることが
前作の『謎のアジア納豆』で紹介されている。
今回の高野さんは、さらにアフリカと韓国へ足をのばす。
アフリカと納豆なんていうと、とおくはなれた関係におもえるけど、
高野さんは西アフリカの3カ国
(セネガル・ブルキナファソ・ナイジェリア)をおとずれ、
ふるくから、そしていまもまた
納豆をたべている事実をあきらかにする。
納豆とはなにか。納豆菌により発酵した食品が納豆であり、
材料は大豆とはかぎらない。
西アフリカでは、バルキアという木にできる実をつかい
日本とおなじような納豆がつくられているし、
アフリカを象徴する木として有名なバオバブの実も材料になる。
そしてたべ方も、西アフリカは日本よりも多様性がある。
納豆をご飯にかけてたべるのが日本のやり方だけど、
もともとはダシとしてつかわれた、というのが高野さんの仮設であり、
アフリカでは納豆を料理のなかにいれ、
コクをだすうまみとしてつかわれている。
西アフリカでも大豆からつくった納豆がでまわっているけど、
バルキアによる納豆のほうがおいしい、と地元のひとはおもっており、
大豆はやすく手にはいるから、という代用品のあつかいだという。
日本人が自分たちのオリジナル食品とおもっている納豆は、
西アフリカでもっと多様なつくり方・つかわれ方がひろまっている。
高野さんは、その土地のやり方で材料の豆を発酵させ、
そうしてできた納豆をつかい、料理をつくってもらう。
本書には、高野さんがブルキナファソでたべた
「鯉と納豆の焼き浸し」の写真がのっている。
おなじテーブルに、ビールとパンもおかれていて、
納豆料理が充実した食事となっているのがわかる。
わたしもためしに鳥のモモ肉とトマトをにこんだ料理に、
納豆(もちろん日本のもの)を1パックいれてみた。
納豆の量がすくなかったのか、納豆の味はほとんどしない。
なにもしらずにたべた配偶者は、
納豆がはいっているとはおもわなかった。
納豆は、肉よりも魚との相性がいいそうで、
料理にふかみをうみだすソースとしてつかわれている。
白ごはんにぐるぐるまぜた納豆をのせるだけでなく、
日本でも むかしは 納豆といえば納豆汁だったそうだ。
いまでもタマゴやきや天ぷらにつかうのだから、
ご飯にだけでなく、もっと自由に納豆をつかいたくなった。
高野さんは、辺境作家としてのつよみをぞんぶんにいかせる、
あたらしい分野にであえてたのしそうだ。
前作からはじまった納豆をめぐる世界が、
まさかこんなひろがりをもっていたとはおもわなかった。
2020年10月21日
うでのだるさは「胸郭出口症候群」なのか?
5年以上まえから肩甲骨まわりのいたみになやまされている。
はしっているとき、だるさやいたさでうでをスムーズにふれない。
五十肩ではない。肩はよくまわり、
夜にいたさでねむれないなどの症状はない。
肩こりともちがうような気がする。
マッサージをうけると気もちがいいけど、
つぎの日にはまたもとにもどってしまう。
水曜日の朝日新聞では、医療を特集したページがくまれる。
きょうは、「胸郭出口症候群」についての相談がのっていた。
55歳の女性が、うでのだるさといたさから病院をたずねると、
「胸郭出口症候群」と診断されたのだそうだ。
おもな症状として「腕のしびれや痛み」があげられており、
よんでいくと、まさしくわたしの実感と一致する。
やはりただの肩こりではなくて ややこしい症候群だったのか。
どうりで原因がわかりにくく、いたみがつづくわけだ。
職場であるクッキー工房のとなりは 整体をおこなう事業所で、
マッサージも施術の対象にあげられている。
せっかくなにかの縁でおとなりさんになったのだから、
いつかいこうとおもっていたけど、きょうがその日となった。
職員会があり、はやく仕事をぬけられた。
4時半に治療院をたずねる。
40代とおもわれる男性がむかえてくれた。
「胸郭出口症候群」については、
記事の内容がしっかり頭にはいっていなかったので、
うけつけの段階では なにもふれず、
ただ長年の症状を説明するだけにとどめた。
うーん、とすこしこまったようすで、
マッサージでなおすのはむつかしそう、といわれる。
わたしもそうおもう。
これまでなんどもマッサージをためし、
タイを旅行したときなど、毎日のように
タイマッサージにかよったのになおらなかった。
ただ、このところとくにいたみがつよく、たのしくはしれない。
すこしでもかるくしてもらえたらありがたい、
くらいの気もちで この施術院をたずねている。
いちどでなおるとはおもわないので、
とにかくマッサージをしてください、とおねがいする。
すわった姿勢ですこしからだをさわられたあと、台にうつぶせになる。
いたみがつよいほうの左側からマッサージをされた。
おされて気もちのいい場所は、「そこ、気もちいいです」とつたえる。
肩甲骨の内側に指をいれたりしてほごしてくれる。
5年以上も症状がつづくので、筋膜にシワがよってるのでは、
と、テレビでききかじった わたしの「みたて」をはなすと、
そうかもしれないけど、それはさわっただけではわからない、
といわれる。くわしい検査が必要らしい。
おおくの施術者がそうであるように、
この方もおしゃべりがすきそうで、
マッサージについていろいろおはなししてくれる。
一方的にきめつけるいい方ではなく、
わからないことは、ちゃんとわからないといえるひとだ。
右側のマッサージにうつると、症状としては左のほうがわるいのに、
もまれると右のほうが気もちよかった。
わたしのからだは さわってみるかぎり、とくにかたくないそうで、
肩甲骨まわりも「ふつう」といわれた。
ツボをぐいぐいおされるわけではないのに、
肩と首が全体としていいかんじになる。
あまり期待してなかったのに、おもいがけない気もちのよさだ。
うちでは電気もやってますが、といわれたけど、
まずはマッサージだけでようすをることにした。
40分ほどの治療で1100円。健康保険がつかえる治療院だった。
からだがかるくなり、効果のほどをジョギングでためしたくなる
(きょうは夕ごはん当番なのではしれない)。
施術まえとあとでは、あきらかにからだがかるくなっている。
こんなによくなるのだから、胸郭出口症候群ではなさそうだ。
ひとばんねたあとは、からだがどうなっているだろうか。
つぎのジョギングがたのしみになってきた。
はしっているとき、だるさやいたさでうでをスムーズにふれない。
五十肩ではない。肩はよくまわり、
夜にいたさでねむれないなどの症状はない。
肩こりともちがうような気がする。
マッサージをうけると気もちがいいけど、
つぎの日にはまたもとにもどってしまう。
水曜日の朝日新聞では、医療を特集したページがくまれる。
きょうは、「胸郭出口症候群」についての相談がのっていた。
55歳の女性が、うでのだるさといたさから病院をたずねると、
「胸郭出口症候群」と診断されたのだそうだ。
おもな症状として「腕のしびれや痛み」があげられており、
よんでいくと、まさしくわたしの実感と一致する。
やはりただの肩こりではなくて ややこしい症候群だったのか。
どうりで原因がわかりにくく、いたみがつづくわけだ。
職場であるクッキー工房のとなりは 整体をおこなう事業所で、
マッサージも施術の対象にあげられている。
せっかくなにかの縁でおとなりさんになったのだから、
いつかいこうとおもっていたけど、きょうがその日となった。
職員会があり、はやく仕事をぬけられた。
4時半に治療院をたずねる。
40代とおもわれる男性がむかえてくれた。
「胸郭出口症候群」については、
記事の内容がしっかり頭にはいっていなかったので、
うけつけの段階では なにもふれず、
ただ長年の症状を説明するだけにとどめた。
うーん、とすこしこまったようすで、
マッサージでなおすのはむつかしそう、といわれる。
わたしもそうおもう。
これまでなんどもマッサージをためし、
タイを旅行したときなど、毎日のように
タイマッサージにかよったのになおらなかった。
ただ、このところとくにいたみがつよく、たのしくはしれない。
すこしでもかるくしてもらえたらありがたい、
くらいの気もちで この施術院をたずねている。
いちどでなおるとはおもわないので、
とにかくマッサージをしてください、とおねがいする。
すわった姿勢ですこしからだをさわられたあと、台にうつぶせになる。
いたみがつよいほうの左側からマッサージをされた。
おされて気もちのいい場所は、「そこ、気もちいいです」とつたえる。
肩甲骨の内側に指をいれたりしてほごしてくれる。
5年以上も症状がつづくので、筋膜にシワがよってるのでは、
と、テレビでききかじった わたしの「みたて」をはなすと、
そうかもしれないけど、それはさわっただけではわからない、
といわれる。くわしい検査が必要らしい。
おおくの施術者がそうであるように、
この方もおしゃべりがすきそうで、
マッサージについていろいろおはなししてくれる。
一方的にきめつけるいい方ではなく、
わからないことは、ちゃんとわからないといえるひとだ。
右側のマッサージにうつると、症状としては左のほうがわるいのに、
もまれると右のほうが気もちよかった。
わたしのからだは さわってみるかぎり、とくにかたくないそうで、
肩甲骨まわりも「ふつう」といわれた。
ツボをぐいぐいおされるわけではないのに、
肩と首が全体としていいかんじになる。
あまり期待してなかったのに、おもいがけない気もちのよさだ。
うちでは電気もやってますが、といわれたけど、
まずはマッサージだけでようすをることにした。
40分ほどの治療で1100円。健康保険がつかえる治療院だった。
からだがかるくなり、効果のほどをジョギングでためしたくなる
(きょうは夕ごはん当番なのではしれない)。
施術まえとあとでは、あきらかにからだがかるくなっている。
こんなによくなるのだから、胸郭出口症候群ではなさそうだ。
ひとばんねたあとは、からだがどうなっているだろうか。
つぎのジョギングがたのしみになってきた。
2020年10月20日
デイリーポータルZを象徴する記事「リンゴを罵倒する」
いまさらながらだけど、「デイリーポータルZ」のおもしろさは
ことばのあやつり方にある。
事実や現象の意外性というよりも、
それをどう表現するかでおもしろさがきまる。
Webマスターの林雄司さんはよく
「データーよりもエピソード」とかいている。
よんで興味をひかれるのは、
正確なデーターよりもエピソードのほうだから。
18周年記念として、「人生を変えた記事」を
読者につのったところ、おおくの回答がよせられた。
そのうちのひとつ、「リンゴを罵倒する」(大北栄人)をよむと、
https://dailyportalz.jp/kiji/141202165755
非常にデイリーポータルZ的な記事なのがわかる。
なにしろ、リンゴを罵倒するのだ。
リンゴにむかって「バーカ、バーカ」という。
「バーカ」とののしっているうちに、
リンゴに「バカ」はないな、という気になってきて、
ほかのわるぐちにきりかえる。
「遅いんだよ!」
「丸いんだよ!」
いずれもまちがいではないけど、どこかずれている。
そのあと
「親の顔が見てみたい」
「お家賃入れなさいよ!」
などボキャブラリーが進歩してゆく。
よんでいると、おかしくてたまらなくなるけど、
客観的にみると、リンゴを罵倒してもしょうがないことは
はじめからわかっている。
それをあえて記事にしてしまうのがデイリーポータルZだ。
リンゴを罵倒するなんて、大北さんでないとおもいつかないし、
おもしろい記事になどできない。
へたにかくと、ただの変人にしかおもえないところを、
ひとつのものがたりとしてまとめてしまう。
まさに、「データーよりもエピソード」だ。
デイリーポータルZの典型のような記事といえる。
あたらしさには、ほとんど価値がおかれていない。
だれも意識してこなかったような事実に
むりやり光をあてておもてにだす。
このときに大切になってくるのが文章力だ。
わかりやすく、胸にひびき、興味をひかれる表現で記事をかく。
数十名のライターが、デイリーポータルZのコードとでもいうべき
やわらかさとかたさの両方をきっちりまもっている。
編集部がそこらへんのコードを適切にコントロールしているから、
でてくる記事はものすごく多様でも、
そのどれもがデイリーポータルZの精神をたもっている。
人気のあった記事を月ごとにあきらかにして、
ライターのやる気をかきたててもいる。
まじめにあそび、軟派なようで硬派でもあり、
きびしい成果主義のサイトだ。
ことばのあやつり方にある。
事実や現象の意外性というよりも、
それをどう表現するかでおもしろさがきまる。
Webマスターの林雄司さんはよく
「データーよりもエピソード」とかいている。
よんで興味をひかれるのは、
正確なデーターよりもエピソードのほうだから。
18周年記念として、「人生を変えた記事」を
読者につのったところ、おおくの回答がよせられた。
そのうちのひとつ、「リンゴを罵倒する」(大北栄人)をよむと、
https://dailyportalz.jp/kiji/141202165755
非常にデイリーポータルZ的な記事なのがわかる。
なにしろ、リンゴを罵倒するのだ。
リンゴにむかって「バーカ、バーカ」という。
「バーカ」とののしっているうちに、
リンゴに「バカ」はないな、という気になってきて、
ほかのわるぐちにきりかえる。
「遅いんだよ!」
「丸いんだよ!」
いずれもまちがいではないけど、どこかずれている。
そのあと
「親の顔が見てみたい」
「お家賃入れなさいよ!」
などボキャブラリーが進歩してゆく。
よんでいると、おかしくてたまらなくなるけど、
客観的にみると、リンゴを罵倒してもしょうがないことは
はじめからわかっている。
それをあえて記事にしてしまうのがデイリーポータルZだ。
リンゴを罵倒するなんて、大北さんでないとおもいつかないし、
おもしろい記事になどできない。
へたにかくと、ただの変人にしかおもえないところを、
ひとつのものがたりとしてまとめてしまう。
まさに、「データーよりもエピソード」だ。
デイリーポータルZの典型のような記事といえる。
あたらしさには、ほとんど価値がおかれていない。
だれも意識してこなかったような事実に
むりやり光をあてておもてにだす。
このときに大切になってくるのが文章力だ。
わかりやすく、胸にひびき、興味をひかれる表現で記事をかく。
数十名のライターが、デイリーポータルZのコードとでもいうべき
やわらかさとかたさの両方をきっちりまもっている。
編集部がそこらへんのコードを適切にコントロールしているから、
でてくる記事はものすごく多様でも、
そのどれもがデイリーポータルZの精神をたもっている。
人気のあった記事を月ごとにあきらかにして、
ライターのやる気をかきたててもいる。
まじめにあそび、軟派なようで硬派でもあり、
きびしい成果主義のサイトだ。
2020年10月19日
『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』
『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』
(ジョナサン=レベン:監督・2019年・アメリカ)
タイトルどおり「僕と彼女のありえない恋」で、
はじめは「いかにも」のつくりが鼻について、
いまひとつはなしにのれない。
国務長官とスピーチライターの恋なんて、
「ありえない」にきまっている。
ライターのフレッドは、なにかにつけて
自分のかんがえをいいまくるのでうるさい。
ふとりぎみで、いつもおなじ服をきて(わたしもだけど)、
こんな男をあいてにアメリカの国務長官が
恋愛感情をもつのは「ありえない」。
(以下、ネタバレあり)
そうおもってみているうちに、だんだんひきこまれるのは、
シャーロット役をえんじるシャーリーズ=セロンの魅力がおおきい。
うつくしく、気品があり、国務長官なのにしたしみをおぼえる。
あちこにちしかけられた「わらい」もわたしのツボをおした。
ラブコメとして、クスクスわらえる場面がちりばめられている。
シャーロットとフレッドがかわす はじめてのセックスは、
世界いちみじかいラブシーンではないか。
「いれて」のすぐあとに「ぬくよ」がおかしかった。
おしりをぶってからかるく首をしめて、
なんて国務長官がいうのもすてきだ。
うすよごれた政界にうんざりしたシャーロットは、
うさばらしにフレッドと薬をきめこむ。
気もちよさから2つめの薬をのみ、まだラリっている最中に、
人質の釈放をもとめて対立国と交渉しなければならなくなる。
正面からの交渉はきわめてむつかしい局面だ。
軍の高官が心配そうにみつめるなかで、
シャーロットは、相手国の首相に直接かたりかける。
これはここだけのはなしよ。
周知のとおり、アメリカはテロリストとは交渉しない。
でも、お友だちとなら交渉する。
人質をかえしてくれるなら、おいしい援助を用意する。
わたし個人の判断だから、これは極秘よ。
ふたりで大勢の人命をすくっちゃう?
これってすっごくイケてるでしょ?
ゴロワーズをふかしながら、首相とのひそひそばなしが
シャーロットならではの魅力を演出している。
そのあとメディアからのインタビューをうけるとき、
シャーロットはまだすこしラリっている。
髪がみだれ、コートもよれよれなのは、薬のせいなのに、
きびしい交渉の結果にみえるのがおかしい。
「徹夜の交渉でテンション高めですね」
とインタビューアーが労をねぎらう。
映画史にのこる、とまではいわないけど、
最高にチャーミングな場面だ。
次期大統領候補として、いまの大統領に推薦してもらおうとすると、
自分が大切にしてきたことに妥協しなければならなくなる。
環境問題への関心がふかいシャーロットは、
100カ国から同意をえて、
環境保護の政策をまとめようとしていたのに、
あちこちから横やりがはいり、
オリジナルの政策はみるかげもなくなっていく。
シャーロットは、大統領候補へ名のりでるスピーチで、
おもっているすべてをあきらかにする。
この町でそだった少女時代のわたしが、
もしいまのわたしをみたら・・・、
とても・・・、きっと失望するでしょう。
現大統領とメディア界をしきる黒幕が不正をはたらき、
自分を脅迫しているとあきらなかにし、
脅迫の材料につかわれた自分の彼氏を
「彼がすきです」と告白する。
彼がしたみっともない事実だって、だれもがやってること。
「ガタガタいわないで!ここはアメリカよ」
シャーロットはマイクをすてて会場をあとにする。
堂々と事実をかたる彼女のつよさが、
おおくのひとのこころをとらえる。
「ありえない」恋なのに、さいごはきれいにきまり
100%の大団円におさまった。
シャーロットの勇気と決断に敬意をしょうしたい。
(ジョナサン=レベン:監督・2019年・アメリカ)
タイトルどおり「僕と彼女のありえない恋」で、
はじめは「いかにも」のつくりが鼻について、
いまひとつはなしにのれない。
国務長官とスピーチライターの恋なんて、
「ありえない」にきまっている。
ライターのフレッドは、なにかにつけて
自分のかんがえをいいまくるのでうるさい。
ふとりぎみで、いつもおなじ服をきて(わたしもだけど)、
こんな男をあいてにアメリカの国務長官が
恋愛感情をもつのは「ありえない」。
(以下、ネタバレあり)
そうおもってみているうちに、だんだんひきこまれるのは、
シャーロット役をえんじるシャーリーズ=セロンの魅力がおおきい。
うつくしく、気品があり、国務長官なのにしたしみをおぼえる。
あちこにちしかけられた「わらい」もわたしのツボをおした。
ラブコメとして、クスクスわらえる場面がちりばめられている。
シャーロットとフレッドがかわす はじめてのセックスは、
世界いちみじかいラブシーンではないか。
「いれて」のすぐあとに「ぬくよ」がおかしかった。
おしりをぶってからかるく首をしめて、
なんて国務長官がいうのもすてきだ。
うすよごれた政界にうんざりしたシャーロットは、
うさばらしにフレッドと薬をきめこむ。
気もちよさから2つめの薬をのみ、まだラリっている最中に、
人質の釈放をもとめて対立国と交渉しなければならなくなる。
正面からの交渉はきわめてむつかしい局面だ。
軍の高官が心配そうにみつめるなかで、
シャーロットは、相手国の首相に直接かたりかける。
これはここだけのはなしよ。
周知のとおり、アメリカはテロリストとは交渉しない。
でも、お友だちとなら交渉する。
人質をかえしてくれるなら、おいしい援助を用意する。
わたし個人の判断だから、これは極秘よ。
ふたりで大勢の人命をすくっちゃう?
これってすっごくイケてるでしょ?
ゴロワーズをふかしながら、首相とのひそひそばなしが
シャーロットならではの魅力を演出している。
そのあとメディアからのインタビューをうけるとき、
シャーロットはまだすこしラリっている。
髪がみだれ、コートもよれよれなのは、薬のせいなのに、
きびしい交渉の結果にみえるのがおかしい。
「徹夜の交渉でテンション高めですね」
とインタビューアーが労をねぎらう。
映画史にのこる、とまではいわないけど、
最高にチャーミングな場面だ。
次期大統領候補として、いまの大統領に推薦してもらおうとすると、
自分が大切にしてきたことに妥協しなければならなくなる。
環境問題への関心がふかいシャーロットは、
100カ国から同意をえて、
環境保護の政策をまとめようとしていたのに、
あちこちから横やりがはいり、
オリジナルの政策はみるかげもなくなっていく。
シャーロットは、大統領候補へ名のりでるスピーチで、
おもっているすべてをあきらかにする。
この町でそだった少女時代のわたしが、
もしいまのわたしをみたら・・・、
とても・・・、きっと失望するでしょう。
現大統領とメディア界をしきる黒幕が不正をはたらき、
自分を脅迫しているとあきらなかにし、
脅迫の材料につかわれた自分の彼氏を
「彼がすきです」と告白する。
彼がしたみっともない事実だって、だれもがやってること。
「ガタガタいわないで!ここはアメリカよ」
シャーロットはマイクをすてて会場をあとにする。
堂々と事実をかたる彼女のつよさが、
おおくのひとのこころをとらえる。
「ありえない」恋なのに、さいごはきれいにきまり
100%の大団円におさまった。
シャーロットの勇気と決断に敬意をしょうしたい。
2020年10月18日
川崎フロンターレがJ1リーグ新記録の11連勝
J1リーグ、第23節 川崎フロンターレ対名古屋グランパス
3-0でフロンターレ
はじまるまえから おもしろくなるにきまっていた試合だ。
10連勝しているフロンターレを8月23日にとめたのがグランパス。
それから2ヶ月たち、今回もまた、
10連勝ちゅうのフロンターレをあいてにする。
今シーズン、フロンターレにただひとつかっているのがグランパスで、
フロンターレとしては、2どつづけて
おなじ相手にまけるわけにはいかない。
11連勝をかけた試合のあいてがグランパスになると、
しばらくまえから鬼木監督は意識していたという。
グランパスをやぶり、新記録となる11連勝をあげたいフロンターレと、
上位にとどまりたいグランパスがどんな試合はこびをみせるか。
試合開始そうそうはフロンターレのペースだったのが、
だんだんとグランパスがせめこむようになり、
フロンターレはきわどいところでしのぐ。
グランパスの時間がつづいたあとの 前半終了まぎわ、
田中蒼のコーナーキックを谷口が頭でそらし、三苫がきめる。
後半は、12分と20分に、いずれも中村憲剛がからんで得点を演出する。
2点めはフリーキックから、3点めはショートコーナーから、
ふわりとあげたボールにジェジエウが頭であわせた。
そのあとグランパスは必死にゴールをめざすものの、
フロンターレの守備意識はたかく、
ボールをうばわれるとすぐに自陣へもどり、
からだをはってシュートブロックにつとめる。
フロンターレは、3点うばってもまだ、つぎの点をめざしている。
後半43分に交代で齋藤学がはいると、
すかさずドリブルできりこみクロスをあげる。
脇阪がワンタッチであわせるものの、おしくもはずれた。
アディショナルタイムになっても、鬼木監督は不機嫌そうな表情だ。
「まだまだ」と4点めをもとめるゲキをとばす。
おわってみれば、3-0でフロンターレの完勝となった。
グランパスはよくせめたものの、きめきれなかったのがひびいた。
というよりも、きめさせなかったフロンターレをほめるべきだろう。
フロンターレの連勝は、これでJ1新記録となる11となった。
1つのチームがおなじシーズンで2ども新記録をつくったことになる。
今シーズンのフロンターレは、ファンにとって
こたえられないつよさをみせてくれる。
3-0でフロンターレ
はじまるまえから おもしろくなるにきまっていた試合だ。
10連勝しているフロンターレを8月23日にとめたのがグランパス。
それから2ヶ月たち、今回もまた、
10連勝ちゅうのフロンターレをあいてにする。
今シーズン、フロンターレにただひとつかっているのがグランパスで、
フロンターレとしては、2どつづけて
おなじ相手にまけるわけにはいかない。
11連勝をかけた試合のあいてがグランパスになると、
しばらくまえから鬼木監督は意識していたという。
グランパスをやぶり、新記録となる11連勝をあげたいフロンターレと、
上位にとどまりたいグランパスがどんな試合はこびをみせるか。
試合開始そうそうはフロンターレのペースだったのが、
だんだんとグランパスがせめこむようになり、
フロンターレはきわどいところでしのぐ。
グランパスの時間がつづいたあとの 前半終了まぎわ、
田中蒼のコーナーキックを谷口が頭でそらし、三苫がきめる。
後半は、12分と20分に、いずれも中村憲剛がからんで得点を演出する。
2点めはフリーキックから、3点めはショートコーナーから、
ふわりとあげたボールにジェジエウが頭であわせた。
そのあとグランパスは必死にゴールをめざすものの、
フロンターレの守備意識はたかく、
ボールをうばわれるとすぐに自陣へもどり、
からだをはってシュートブロックにつとめる。
フロンターレは、3点うばってもまだ、つぎの点をめざしている。
後半43分に交代で齋藤学がはいると、
すかさずドリブルできりこみクロスをあげる。
脇阪がワンタッチであわせるものの、おしくもはずれた。
アディショナルタイムになっても、鬼木監督は不機嫌そうな表情だ。
「まだまだ」と4点めをもとめるゲキをとばす。
おわってみれば、3-0でフロンターレの完勝となった。
グランパスはよくせめたものの、きめきれなかったのがひびいた。
というよりも、きめさせなかったフロンターレをほめるべきだろう。
フロンターレの連勝は、これでJ1新記録となる11となった。
1つのチームがおなじシーズンで2ども新記録をつくったことになる。
今シーズンのフロンターレは、ファンにとって
こたえられないつよさをみせてくれる。
2020年10月17日
『福島のことなんて、誰もしらねぇじゃねえかよ!』(カンニング竹山)
『福島のことなんて、誰もしらねぇじゃねえかよ!』
(カンニング竹山・KKベストセラーズ)
タイトルどおりの本だ。
福島県の魅力を紹介したいという気もちから
いろんなところで福島県について発信している竹山さん。
でも、福島県について、なにもしらないのに
わるい評判をたてたり、へんなうわさをそのまましんじこんだり、
というひとがすくなくない。
福島でつくられた米や野菜は放射能であぶないと、
本気でおもいこんでいるひとがいる。
そういうひとたちの誤解をとくために、
ただしい情報と、福島県の「いま」を
おおくのひとにしってもらいたくて
竹山さんはこの本をつくろうとおもいたった。
単行本の形をしているけど、ガイドブックにもなっている。
「基礎知識」の章によると、福島県は、おおきくわけて、
「浜通り」「中通り」「会津」と、3つの地域からなるという。
北海道と岩手県についで、
3番めにひろい面積の県というのをはじめてしった。
「カンニング竹山と行く!福島社会科見学」では、
いくつもの観光名所が紹介されている。
ラーメン屋さんや食堂、ちいさな記念館に温泉と、
なんども福島県をたずねたくなる つくりだ。
しょぼい観光名所も、そのしょぼさゆえにたのしめる、
というのが竹山さんのスタンスで、
そういわれると、どこも それはそれでいいようにおもえてくる。
「UFOふれあい館」なんて、いかにもどうでもよさそうな展示館で、
そんなものをつくってどうするんだ?とおもえるけど、
竹山さんのいう
「しょーもないもんを笑って楽しむ。
”楽しみ方を自分たちで見つけよう”という」
典型的な場所だ。
第5章の「原発ってぶっちゃけ、今どうなってるの?」では、
竹山さんが「イチエフ」をたずね、廃炉作業が
どんなふうに おこなわれているかが かかれている。
いまは、防護服やマスクをつける必要がなくなり、
ヘルメットをかぶるだけではいれるそうだ。
東京にもどってからは、「イチエフ」の元所長と、対談もしている。
東京電力の宣伝につかわれるおそれもあるなか、
それでも竹山さんは「どうなってるの?」
といまの状況をききだそうとする。
おおくのひとに、だいすきな福島県へいってほしいと、
この本の出版をおもいたった竹山さん。
福島県へのほとばしる愛に好感をもった。
(カンニング竹山・KKベストセラーズ)
タイトルどおりの本だ。
福島県の魅力を紹介したいという気もちから
いろんなところで福島県について発信している竹山さん。
でも、福島県について、なにもしらないのに
わるい評判をたてたり、へんなうわさをそのまましんじこんだり、
というひとがすくなくない。
福島でつくられた米や野菜は放射能であぶないと、
本気でおもいこんでいるひとがいる。
そういうひとたちの誤解をとくために、
ただしい情報と、福島県の「いま」を
おおくのひとにしってもらいたくて
竹山さんはこの本をつくろうとおもいたった。
単行本の形をしているけど、ガイドブックにもなっている。
「基礎知識」の章によると、福島県は、おおきくわけて、
「浜通り」「中通り」「会津」と、3つの地域からなるという。
北海道と岩手県についで、
3番めにひろい面積の県というのをはじめてしった。
「カンニング竹山と行く!福島社会科見学」では、
いくつもの観光名所が紹介されている。
ラーメン屋さんや食堂、ちいさな記念館に温泉と、
なんども福島県をたずねたくなる つくりだ。
しょぼい観光名所も、そのしょぼさゆえにたのしめる、
というのが竹山さんのスタンスで、
そういわれると、どこも それはそれでいいようにおもえてくる。
「UFOふれあい館」なんて、いかにもどうでもよさそうな展示館で、
そんなものをつくってどうするんだ?とおもえるけど、
竹山さんのいう
「しょーもないもんを笑って楽しむ。
”楽しみ方を自分たちで見つけよう”という」
典型的な場所だ。
第5章の「原発ってぶっちゃけ、今どうなってるの?」では、
竹山さんが「イチエフ」をたずね、廃炉作業が
どんなふうに おこなわれているかが かかれている。
いまは、防護服やマスクをつける必要がなくなり、
ヘルメットをかぶるだけではいれるそうだ。
東京にもどってからは、「イチエフ」の元所長と、対談もしている。
東京電力の宣伝につかわれるおそれもあるなか、
それでも竹山さんは「どうなってるの?」
といまの状況をききだそうとする。
おおくのひとに、だいすきな福島県へいってほしいと、
この本の出版をおもいたった竹山さん。
福島県へのほとばしる愛に好感をもった。
2020年10月16日
自分をうけいれてくれる家がネコにはわかる
ひさしぶりに岩合さんの「世界ネコ歩き」をみる。
バスク地方のネコたちが何匹も登場した。
ものすごくあまえっこのネコがいて、
かいぬし(男性)との濃厚なひとときをみせてくれた。
もうながいつきあいなのだろうとおもっていたら、
ほんの4日まえ(撮影の)にきたばかりなのだという。
おとなのネコなのに、すっとなれたらしい。
ネコって、そういうところがある。
ここは気をゆるせる家だとおもったら、
すっかり安心して自分のねぐらにしてしまう。
反対に、人間がいかにいい環境とおもっていても、
ネコが気にいってくれなければ、ひきとめられない。
ククという名のそのネコは、
かいぬしの胸にあまえて頭をこすりつけている。
かいぬしは、頭とほほをやさしくなでる。
朝のかるいあいさつというよりも、
恋人どうしが性的なスキンシップをとっている雰囲気だ。
岩合さんにもネコたちは気をゆるす。
カメラをかまえる岩合さんの肩にのったり、だっこをせがんだり。
テレビからネコの声がするので、
子ネコがお母さんネコをさがしているのかとおもったら、
岩合さんがネコの声をまねているのだった。
その声をきいたネコは反応して、自分でもなき声をあげる。
興がのってきた岩合さんは、30分もそうしてなきあっていたらしい。
ネコがすきなひとを、ネコはわかるというけど、
あまりにもかんたんに手なずけてしまうので、
2匹のネコといっしょにくらしていながら、
わたしは岩合さんにシットしてしまった。
あんなふうにネコに気をゆるしてもらえるのがうらやましい。
アルバイトさきのハーブショップで仕事をしていたら、
ひさしぶりにお店にきたお客さんが
ネコをかいだした、というはなしをきけた。
それまでネコをかったことのないひと(女性・40代)なのに、
家のまわりにいるノラネコが気になって、
なぜだかきゅうに世話をする気になったそうだ。
そのネコは、女性の家のちかくで、
これまでになんどか赤ちゃんをうんできたらしい。
女性はネコを動物病院へつれてゆき、避妊手術をしてもらい、
自分の家にむかいいれている。
ネコの世話がいそがしくて、ハーブどころではなかったという。
エサやトイレ、それに病院へよくいくので、
お金がかかってたいへんだといいながら
(10万円の特別給付金をあてたそうだ)、
ネコが家にきてから、すっかり家族があかるくなったという。
女性本人もしあわせをかんじているそうだし、
ネコをめぐってほかの家族もいい関係になっているという。
片目がつぶれているというし、もうおとなのネコだから、
子ネコ特有のかわいさはないだろうに、
きゅうにそのネコの世話をしようとおもいたつのだから、
神さまがすてきなアレンジをしてくれたのだろう。
そして、そんな気をおこさせる魅力がネコにはある。
一匹のネコが、家族としてむかえられ、
おたがいがあいてを必要としあい、しあわせになる。
ネコは 自分を家族にむかえてくれる家が なんでわかるのだろう。
バスク地方のネコたちが何匹も登場した。
ものすごくあまえっこのネコがいて、
かいぬし(男性)との濃厚なひとときをみせてくれた。
もうながいつきあいなのだろうとおもっていたら、
ほんの4日まえ(撮影の)にきたばかりなのだという。
おとなのネコなのに、すっとなれたらしい。
ネコって、そういうところがある。
ここは気をゆるせる家だとおもったら、
すっかり安心して自分のねぐらにしてしまう。
反対に、人間がいかにいい環境とおもっていても、
ネコが気にいってくれなければ、ひきとめられない。
ククという名のそのネコは、
かいぬしの胸にあまえて頭をこすりつけている。
かいぬしは、頭とほほをやさしくなでる。
朝のかるいあいさつというよりも、
恋人どうしが性的なスキンシップをとっている雰囲気だ。
岩合さんにもネコたちは気をゆるす。
カメラをかまえる岩合さんの肩にのったり、だっこをせがんだり。
テレビからネコの声がするので、
子ネコがお母さんネコをさがしているのかとおもったら、
岩合さんがネコの声をまねているのだった。
その声をきいたネコは反応して、自分でもなき声をあげる。
興がのってきた岩合さんは、30分もそうしてなきあっていたらしい。
ネコがすきなひとを、ネコはわかるというけど、
あまりにもかんたんに手なずけてしまうので、
2匹のネコといっしょにくらしていながら、
わたしは岩合さんにシットしてしまった。
あんなふうにネコに気をゆるしてもらえるのがうらやましい。
アルバイトさきのハーブショップで仕事をしていたら、
ひさしぶりにお店にきたお客さんが
ネコをかいだした、というはなしをきけた。
それまでネコをかったことのないひと(女性・40代)なのに、
家のまわりにいるノラネコが気になって、
なぜだかきゅうに世話をする気になったそうだ。
そのネコは、女性の家のちかくで、
これまでになんどか赤ちゃんをうんできたらしい。
女性はネコを動物病院へつれてゆき、避妊手術をしてもらい、
自分の家にむかいいれている。
ネコの世話がいそがしくて、ハーブどころではなかったという。
エサやトイレ、それに病院へよくいくので、
お金がかかってたいへんだといいながら
(10万円の特別給付金をあてたそうだ)、
ネコが家にきてから、すっかり家族があかるくなったという。
女性本人もしあわせをかんじているそうだし、
ネコをめぐってほかの家族もいい関係になっているという。
片目がつぶれているというし、もうおとなのネコだから、
子ネコ特有のかわいさはないだろうに、
きゅうにそのネコの世話をしようとおもいたつのだから、
神さまがすてきなアレンジをしてくれたのだろう。
そして、そんな気をおこさせる魅力がネコにはある。
一匹のネコが、家族としてむかえられ、
おたがいがあいてを必要としあい、しあわせになる。
ネコは 自分を家族にむかえてくれる家が なんでわかるのだろう。
2020年10月15日
バットマン『ダークナイト』3部作をみる
バットマンの『ダークナイト』をみて、よくわからないなりに感心し、
クリストファー=ノーランが監督したほかの2つ、
『バットマン ビギンズ』と
『ダークナイト・ライジング』をつづけてみる。
ざっと説明すると、『バットマン・ビギンズ』は、
バットマンが誕生するまでのものがたりで、
『ダークナイト・ライジング』は
『ダークナイト』のその後がえがかれている。
『バットマン ビギンズ』をみると、
こういうふうにバットマンが生まれたのかと理解をたすけてくれた。
制作されたのが2006年とすこしまえのせいか、
スーツやマントがあんがいちゃちで、しょぼいところに好感がもてる。
ブルース=ウェインもそれなりにわかく、
げんきいっぱいにうごきまわるバットマンにリアリティがあった。
ジョーカーがあばれまくる『ダークナイト』のその後をえがいた
『ダークナイト・ライジング』には、ちょっとついていきにくい。
『ダークナイト』から8年後、という設定だから、
もうわかくはないブルース=ウェインのはずなのに、
足のマヒを克服したり、幽閉されていた外国の牢屋から
超人的なちからで脱出したりと、自由自在にちからをふるまう。
キャットウーマンのアン=ハサウェイは、
すばらしいプロポーションを披露してくれるけど、
バットマンがもっているバイク(バットポッド)にのると
お尻をつきださなければならず、くるしそうだ。
そもそも、ストーリーがわたしには複雑すぎた。
3作品をたてつずけにみたせいで、頭のなかがごちゃごちゃになり、
だれがどんな役がらなのかを整理しきれなかった。
これをかくためにウィキペディアをひらき、
ストーリーをよんでもまだモヤモヤは はれない。
ミランダの存在をわすれていたころに、
そんなことをきゅうにいわれても、こまる。
けっきょくわたしにとっての「バットマン」は、
なんだかんだといろいろなことがおこるけど、
さいごは不死身のバットマンがたすけてくれるので大丈夫、
という おおざっぱな理解にとどまりそうだ。
クリストファー=ノーランが監督したほかの2つ、
『バットマン ビギンズ』と
『ダークナイト・ライジング』をつづけてみる。
ざっと説明すると、『バットマン・ビギンズ』は、
バットマンが誕生するまでのものがたりで、
『ダークナイト・ライジング』は
『ダークナイト』のその後がえがかれている。
『バットマン ビギンズ』をみると、
こういうふうにバットマンが生まれたのかと理解をたすけてくれた。
制作されたのが2006年とすこしまえのせいか、
スーツやマントがあんがいちゃちで、しょぼいところに好感がもてる。
ブルース=ウェインもそれなりにわかく、
げんきいっぱいにうごきまわるバットマンにリアリティがあった。
ジョーカーがあばれまくる『ダークナイト』のその後をえがいた
『ダークナイト・ライジング』には、ちょっとついていきにくい。
『ダークナイト』から8年後、という設定だから、
もうわかくはないブルース=ウェインのはずなのに、
足のマヒを克服したり、幽閉されていた外国の牢屋から
超人的なちからで脱出したりと、自由自在にちからをふるまう。
キャットウーマンのアン=ハサウェイは、
すばらしいプロポーションを披露してくれるけど、
バットマンがもっているバイク(バットポッド)にのると
お尻をつきださなければならず、くるしそうだ。
そもそも、ストーリーがわたしには複雑すぎた。
3作品をたてつずけにみたせいで、頭のなかがごちゃごちゃになり、
だれがどんな役がらなのかを整理しきれなかった。
これをかくためにウィキペディアをひらき、
ストーリーをよんでもまだモヤモヤは はれない。
バットマンはベインを追い詰めるもベインの人質となっていたミランダに脇腹を刺され窮地に陥る。彼女の正体は、ラーズ・アル・グールの遺児タリア・アル・グールで、影の同盟の現首謀者であった。(ウィキペディアより)
ミランダの存在をわすれていたころに、
そんなことをきゅうにいわれても、こまる。
けっきょくわたしにとっての「バットマン」は、
なんだかんだといろいろなことがおこるけど、
さいごは不死身のバットマンがたすけてくれるので大丈夫、
という おおざっぱな理解にとどまりそうだ。
2020年10月14日
日本対コートジボワール 1-0で日本
サッカー国際親善試合
日本対コートジボワール 1-0で日本
コートジボワールといえば、2014年のブラジルW杯をおもいだす。
こまかな内容はわすれたけど、とちゅうからでてきたドログバに、
やたらと貫禄があり、ピッチにはいっただけで
すっかり全体のムードをかえてしまった。
ネームバリューでプレーしているかんじで、
日本は異様な雰囲気にのまれてしまい、逆転まけとなる。
こんかいの試合にドログバはでていない。
日本の選手もすっかり顔ぶれがかわり、まるでべつのチームだ。
香川も本田も、遠藤も長友もいない。
ブラジルW杯を体験しているのは、
吉田だけ(酒井と川島はベンチスタート)。
試合は後半アディショナルタイムまで0-0ですすむ。
日本はなんどかチャンスをつくりながらも
さいごのところでくずしきれなかった。
右サイドから単純にクロスをあげるだけでは、
コートジボワールにはねかえされてしまう。
ドリブルでしかけられるのは久保くらいで、
せめあぐねているうちに コートジボワールの選手にかこまれ、
ボールをうばわれる場面が目についた。
カメルーン戦では、相手の個のちからにとまどっていたけど、
コートジボワール戦では組織的なプレーにより
ボールをうばわれた印象だ。
日本の攻撃では、伊東純也のスピードと、
鈴木武蔵のからだのつよさが目についた。
鈴木は、ただつよいのではなく、日本にいたころより
確実にテクニックを身につけ、頭脳的なプレーをみせている。
守備は、カメルーン戦につづき、しぶとくまもっていた。
なんどか決定機をつくられながら、
さいごのところはからだをはってふせいでいる。
試合はアディショナルタイムに柴崎がけったフリーキックを
交代ではいったばかりの植田が ヘディングできめている。
唯一の得点をまもりきり、そのまま1-0で試合をおえた。
コートジボワールは、球際につよく、連携もとれたいいチームだった。
決定機をきめきれずにいたのが さいごまでひびいた。
こんかいの2試合は、代表戦をくめたことが
いちばんの収穫としてあげられる。
ほんの数ヶ月まえまで、サッカーの代表戦ができる状況ではなかった。
そして、2チームともサッカーの強豪国であり、
強化の面からも意味のある試合となった。
また、こうした試合をこなすことで、強化とともに、
ウイルス感染について チームとしての経験値をたかめられる。
新型コロナウイルスをめぐる世界の情勢は予測できず、
いまは特別な時期だとわりきって、
できることをつみあげていくしかない。
W杯のアジア予選では、ウイルス感染を
コントロールしにくい状況での試合となるはずで、
こんかいのような強化試合の体験が生きてくるだろう。
日本対コートジボワール 1-0で日本
コートジボワールといえば、2014年のブラジルW杯をおもいだす。
こまかな内容はわすれたけど、とちゅうからでてきたドログバに、
やたらと貫禄があり、ピッチにはいっただけで
すっかり全体のムードをかえてしまった。
ネームバリューでプレーしているかんじで、
日本は異様な雰囲気にのまれてしまい、逆転まけとなる。
こんかいの試合にドログバはでていない。
日本の選手もすっかり顔ぶれがかわり、まるでべつのチームだ。
香川も本田も、遠藤も長友もいない。
ブラジルW杯を体験しているのは、
吉田だけ(酒井と川島はベンチスタート)。
試合は後半アディショナルタイムまで0-0ですすむ。
日本はなんどかチャンスをつくりながらも
さいごのところでくずしきれなかった。
右サイドから単純にクロスをあげるだけでは、
コートジボワールにはねかえされてしまう。
ドリブルでしかけられるのは久保くらいで、
せめあぐねているうちに コートジボワールの選手にかこまれ、
ボールをうばわれる場面が目についた。
カメルーン戦では、相手の個のちからにとまどっていたけど、
コートジボワール戦では組織的なプレーにより
ボールをうばわれた印象だ。
日本の攻撃では、伊東純也のスピードと、
鈴木武蔵のからだのつよさが目についた。
鈴木は、ただつよいのではなく、日本にいたころより
確実にテクニックを身につけ、頭脳的なプレーをみせている。
守備は、カメルーン戦につづき、しぶとくまもっていた。
なんどか決定機をつくられながら、
さいごのところはからだをはってふせいでいる。
試合はアディショナルタイムに柴崎がけったフリーキックを
交代ではいったばかりの植田が ヘディングできめている。
唯一の得点をまもりきり、そのまま1-0で試合をおえた。
コートジボワールは、球際につよく、連携もとれたいいチームだった。
決定機をきめきれずにいたのが さいごまでひびいた。
こんかいの2試合は、代表戦をくめたことが
いちばんの収穫としてあげられる。
ほんの数ヶ月まえまで、サッカーの代表戦ができる状況ではなかった。
そして、2チームともサッカーの強豪国であり、
強化の面からも意味のある試合となった。
また、こうした試合をこなすことで、強化とともに、
ウイルス感染について チームとしての経験値をたかめられる。
新型コロナウイルスをめぐる世界の情勢は予測できず、
いまは特別な時期だとわりきって、
できることをつみあげていくしかない。
W杯のアジア予選では、ウイルス感染を
コントロールしにくい状況での試合となるはずで、
こんかいのような強化試合の体験が生きてくるだろう。
2020年10月13日
クールジャパンでの「IKIGAI」がよくわからなかった
「クールジャパン」(NHK-BS)で、
「世界を変えた日本の大発明」が特集されていた。
外国人からみて、クールだとおもう日本の発明はなにか。
回転寿司やカメラつき携帯電話はわかるけど、
4位に「IKIGAI」があげられていた。生きがいのことだ。
外国には、生きがいにあたることばがないそうで、
それなのに このところ「生きがい」が関心をもたれているという。
外国人による「IKIGAI」についての本も紹介されていた。
生きがいが、日本でうまれた概念だとはしらなかった。
そして、生きがいをもったほうがいいと、
外国のひともかんがえるようになっているのが興味ぶかい。
わたしはわかいころよんだ梅棹忠夫さんの
『わたしの生きがい論』につよい影響をうけた。
このブログにも、ときどきとりあげている。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/394704571.html
この本は、「生きがい論」といっても、
生きがいをもちましょう、ではなくて、
人生に生きがいはいらないとかいてある。
へんに生きがいなんかをもつから
世の中がおかしなことになる、というのにはおどろいた。
生きがいをもち、がんばってはたらくことで、
結果として なにかがうまれてしまう。
個人の充実感のためにがんばったことが、
地球規模でかんがえると、環境を破壊し、
資源をつかいはたしてしまう。
生きがいなんてものをもたず、
わたしはアホでっせ、と ただ生きたほうがいい、
というかんがえ方に、わたしはしびれた。
『わたしの生きがい論』には、3つの講演がおさめられている。
「キバと幸福」1959年
「未来社会と生きがい」1970年
「人間と社会とアドベンチャーと」1974年
いずれも日本ぜんたいがモーレツにうごいていた時代なのに、
梅棹さんはすでに「生きがい」をもって
生きることへの疑問をうちだしている。
その当時、「生きがい」なんてもたないほうがいいかも、
といわれても、きいているひとたちはとまどったのではないか。
これらの講演から50年がたち、ここにきて 世界が
「生きがい」をもとめるようになったのが不思議におもえる。
ただ、外国人が注目している「生きがい」は、
社会のためにがんばって生きることではなく、
ここちよい精神状態をえるための「生きがい」ではないか。
そうしたかんがえ方は、外国にもこれまでにあったとおもうけど、
なぜいまになって日本的な「生きがい」にすがりたくなるのか、
番組をみているだけでは わからなかった。
生きがいなんてもたなくてもやっていける、という
『わたしの生きがい論』どおりにわたしは生きてきた。
世間は「生きがい」がだいじ、という価値観がつよいけど、
生きがいはいらない、というかんがえ方をひとつはさむだけで、
ずいぶん楽に生きてこれたようにおもう。
「生きがい」を、気もちのもちかたでなんとでもなる、
みたいな精神論ではなく、文明史のながれから
積極的に否定してみせた『わたしの生きがい論』。
「IKIGAI」がどんな本なのかすこし気になるけど、
日本語の「生きがい」とはすこしちがうのではないか。
「世界を変えた日本の大発明」が特集されていた。
外国人からみて、クールだとおもう日本の発明はなにか。
回転寿司やカメラつき携帯電話はわかるけど、
4位に「IKIGAI」があげられていた。生きがいのことだ。
外国には、生きがいにあたることばがないそうで、
それなのに このところ「生きがい」が関心をもたれているという。
外国人による「IKIGAI」についての本も紹介されていた。
生きがいが、日本でうまれた概念だとはしらなかった。
そして、生きがいをもったほうがいいと、
外国のひともかんがえるようになっているのが興味ぶかい。
わたしはわかいころよんだ梅棹忠夫さんの
『わたしの生きがい論』につよい影響をうけた。
このブログにも、ときどきとりあげている。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/394704571.html
この本は、「生きがい論」といっても、
生きがいをもちましょう、ではなくて、
人生に生きがいはいらないとかいてある。
へんに生きがいなんかをもつから
世の中がおかしなことになる、というのにはおどろいた。
生きがいをもち、がんばってはたらくことで、
結果として なにかがうまれてしまう。
個人の充実感のためにがんばったことが、
地球規模でかんがえると、環境を破壊し、
資源をつかいはたしてしまう。
生きがいなんてものをもたず、
わたしはアホでっせ、と ただ生きたほうがいい、
というかんがえ方に、わたしはしびれた。
『わたしの生きがい論』には、3つの講演がおさめられている。
「キバと幸福」1959年
「未来社会と生きがい」1970年
「人間と社会とアドベンチャーと」1974年
いずれも日本ぜんたいがモーレツにうごいていた時代なのに、
梅棹さんはすでに「生きがい」をもって
生きることへの疑問をうちだしている。
その当時、「生きがい」なんてもたないほうがいいかも、
といわれても、きいているひとたちはとまどったのではないか。
これらの講演から50年がたち、ここにきて 世界が
「生きがい」をもとめるようになったのが不思議におもえる。
ただ、外国人が注目している「生きがい」は、
社会のためにがんばって生きることではなく、
ここちよい精神状態をえるための「生きがい」ではないか。
そうしたかんがえ方は、外国にもこれまでにあったとおもうけど、
なぜいまになって日本的な「生きがい」にすがりたくなるのか、
番組をみているだけでは わからなかった。
生きがいなんてもたなくてもやっていける、という
『わたしの生きがい論』どおりにわたしは生きてきた。
世間は「生きがい」がだいじ、という価値観がつよいけど、
生きがいはいらない、というかんがえ方をひとつはさむだけで、
ずいぶん楽に生きてこれたようにおもう。
「生きがい」を、気もちのもちかたでなんとでもなる、
みたいな精神論ではなく、文明史のながれから
積極的に否定してみせた『わたしの生きがい論』。
「IKIGAI」がどんな本なのかすこし気になるけど、
日本語の「生きがい」とはすこしちがうのではないか。
2020年10月12日
いまさらながら『老人と海』(ヘミングウェイ・高見浩:訳)
『老人と海』(ヘミングウェイ・高見浩:訳・新潮文庫)
いまさらながらの『老人と海』。
なんで高校生ぐらいの夏やすみによまなかったのか、
不思議なくらい名のしれた小説なのに。
まいとし「夏の100冊」みたいな企画にえらばれてなかったか。
あまりにも有名なので敬遠していたのだろう。
こんかい、わたしのすきな翻訳家である
高見浩さんが新訳本をだしたのをしり、
ようやくよんでみる気になった。
以下、ネタバレあり。
といっても、おおくのひとが
おおまかなストーリーはしってるのではないか。
老人が、苦労しながら 巨大なカジキとたたかうはなしだ。
なんにちもかけて 相手の腹をさぐりながら、
みたこともないほど立派なカジキをつりあげる。
いざ魚を船にくくりつけて港へかえろうとすると、
サメにおそわれて、ほとんどの肉をくわれてしまう。
わたしは、ようやくサメの攻撃をやりすごしたと安心したところで、
こんどは猛烈なハリケーンにであうのかとおもった。
なんどもピンチをくぐりぬけないと気がすまなくなってるのは、
ハリウッド映画に毒され証拠だろう。
カジキとの死闘のあと、サメにまでおそわれた老人が、
そのうえにハリケーンなんかにあったら
生きてもどれるわけがない。
老人をしたう少年がよかった。
親が反対するので、いまは別の船にのっているけど、
ほんとうは老人と漁にでたくてたまらない。
老人に、漁をおしえてもらうのが、なによりもすきな少年で、
お金にとぼしい老人の世話をこまかくやいている。
漁のエサにするイワシをもってきたり、
ツケのきく店から 老人に夕ごはんをとどけたり。
なんにちもの漁から老人が港にようやくたどりつく。
へとへとで、まともに家まであるけない。
なんどもやすみながらようやくベッドにたおれこむ。
カジキとサメとのたたかいで、キズだらけになった老人の手をみて
少年はなきだしてしまう。
漁にでた老人がなんにちもかえらなくて、
彼はどんなにか心配していたことだろう。
旧訳をよんでないので、くらべるわけにはいかないけど、
高見浩さんによる新訳は、新聞で紹介されていたとおり、
タフな男として漁師をえがいてはいない。
お金がなく、しょぼい状況におかえながら、
漁師としてほこりたかく生きる老人に胸をあつくする。
本文は135ページと、かなりみじかい小説だ。
そのあと、訳者によるていねいな解説があり、
小説のなかにでてくる野球や漁について
こまかな説明として「翻訳ノート」も用意されている。
さらに、ヘミングウェイの生涯とその時代に、
世界でどんなうごきがあったかをしめす年譜と、
いたりつくせりの構成が理解をたすけてくれる。
うすくてもおとくな一冊としておすすめしたい。
いまさらながらの『老人と海』。
なんで高校生ぐらいの夏やすみによまなかったのか、
不思議なくらい名のしれた小説なのに。
まいとし「夏の100冊」みたいな企画にえらばれてなかったか。
あまりにも有名なので敬遠していたのだろう。
こんかい、わたしのすきな翻訳家である
高見浩さんが新訳本をだしたのをしり、
ようやくよんでみる気になった。
以下、ネタバレあり。
といっても、おおくのひとが
おおまかなストーリーはしってるのではないか。
老人が、苦労しながら 巨大なカジキとたたかうはなしだ。
なんにちもかけて 相手の腹をさぐりながら、
みたこともないほど立派なカジキをつりあげる。
いざ魚を船にくくりつけて港へかえろうとすると、
サメにおそわれて、ほとんどの肉をくわれてしまう。
わたしは、ようやくサメの攻撃をやりすごしたと安心したところで、
こんどは猛烈なハリケーンにであうのかとおもった。
なんどもピンチをくぐりぬけないと気がすまなくなってるのは、
ハリウッド映画に毒され証拠だろう。
カジキとの死闘のあと、サメにまでおそわれた老人が、
そのうえにハリケーンなんかにあったら
生きてもどれるわけがない。
老人をしたう少年がよかった。
親が反対するので、いまは別の船にのっているけど、
ほんとうは老人と漁にでたくてたまらない。
老人に、漁をおしえてもらうのが、なによりもすきな少年で、
お金にとぼしい老人の世話をこまかくやいている。
漁のエサにするイワシをもってきたり、
ツケのきく店から 老人に夕ごはんをとどけたり。
なんにちもの漁から老人が港にようやくたどりつく。
へとへとで、まともに家まであるけない。
なんどもやすみながらようやくベッドにたおれこむ。
カジキとサメとのたたかいで、キズだらけになった老人の手をみて
少年はなきだしてしまう。
漁にでた老人がなんにちもかえらなくて、
彼はどんなにか心配していたことだろう。
少年は熱いコーヒーの缶を老人の小屋まで持ってゆき、そばにすわって老人が目覚めるのを待った。一度、目が覚めそうに見えたが、また深い眠りに落ちていった。少年はコーヒーを温め直せるように、すでに道路の向こうにいって薪を借りてきてあった。
旧訳をよんでないので、くらべるわけにはいかないけど、
高見浩さんによる新訳は、新聞で紹介されていたとおり、
タフな男として漁師をえがいてはいない。
お金がなく、しょぼい状況におかえながら、
漁師としてほこりたかく生きる老人に胸をあつくする。
本文は135ページと、かなりみじかい小説だ。
そのあと、訳者によるていねいな解説があり、
小説のなかにでてくる野球や漁について
こまかな説明として「翻訳ノート」も用意されている。
さらに、ヘミングウェイの生涯とその時代に、
世界でどんなうごきがあったかをしめす年譜と、
いたりつくせりの構成が理解をたすけてくれる。
うすくてもおとくな一冊としておすすめしたい。