すこしまえの朝日新聞に、オーストラリアの野生ネコがのっていた。
オーストラリアという土地の特殊事情から、ネコには天敵が存在せず、
野生化したネコ(「野猫」とある)がどんどんふえてしまった。
その結果、オーストラリア固有の動物たちが、
絶滅の危機においやられているという。
記事によると、野猫1匹が
1年に748匹の爬虫類・鳥類・哺乳類をたべるという。
野猫は、自分のからだよりもちいさくて、
獲物にできるならなんでもたべてしまうので、
危惧種の動物のうち130種が、存続をおびやかされているそうだ。
オーストラリアには、推計で
220万〜560万匹もの野猫がいるといい、
政府は2015年に野猫を有害動物として分類し、
2020年までに200万匹を駆除する目標をかかげている。
ネコを保護するのではなく、駆除、
しかも200万匹が目標だなんてひどいはなしだ。
駆除されるネコたちをおもうと 胸がいたむ。
固有種をまもるのは大切なことなんだろうけど、
そのために200万匹もの猫を駆除するとは。
人間に、そんな権利があるのかともおもう。
もっとも、野猫は、ネコからイメージするような、
かわいらしい存在ではないようだ。
記事にはワナにかかった野猫の写真がのっており、
こわい顔でこっちをにらんでいる。りっぱな猛獣のつらがまえだ。
野猫は、小型でたくましい肉食動物であり、
だからこそなんでも獲物にしてしまい、
おおくの種をおびやかすまで数がふえすぎた。
もとはといえば、オーストラリアという土地に、
ネコをはなったのがまちがいだったわけで、
生態系をみだしたツケが、野猫の駆除という形になってしまった。
200万匹のネコ、といわれても、おおすぎてイメージできない。
ネコはかわいい動物だからかわいそう、なんていうと、
それでは家畜をころすことはどうなんだ、
という問題につきあたるわけだけど、
野猫がふえすぎたのは、人間のせいであり、
その結果が200万匹の駆除というのがかなしい。
オーストラリアの問題に首をつっこむまでもなく、
日本のイノシシやシカだって駆除の対象となっている。
オーストラリアとおなじで、ふえすぎたのは、人間のせいだ。
おおくの野生動物が、たべるためではなく、ただころされている。
人間に、そんな権利があるのかと、ふたたびおもう。
2020年11月30日
2020年11月29日
再放送で天声人語氏のこころをうばった「未来少年コナン」
きょうの天声人語は、コロナ下でのドラマの再放送や、
映画の再上映をとりあげていた。
意外だったのは、「コナン」の名がでてきたことで、
天声人語氏は、
「『未来少年コナン』に、約40年ぶりに心をうばわれた。」
そうだ。
天声人語にコナンがのったからといって、
ありがたがるわけではないけど、
いつもこむずかしいことがかかれているコラムに、
コナンがとりあげられると、ぐっと親近感がわく。
レプカは太陽エネルギーを手にいれようと、
ラナをむりやりつれさって、いうことをきかせようとする。
そしてギガントをとばし、ハイハーバーを自分の領土にしたい。
でも、そうやって世界を征服してみたところで、
いったいどれだけのものが手にはいるだろう。
ハイハーバーを支配下においても、
レプカがえるのは小麦とわずかな家畜ぐらいだ。
どうかんがえても、ラオ博士に協力して、
平和利用のために太陽エネルギーをつかったほうがいい。
でもまあ、レプカとしたら、10歳ぐらいの子どもたちに
すきかってにあばれられ、自分の計画はスムーズにすすまず、
原子炉はもえつきようとしているし、
かつての部下が自分をうらぎってコナンの側についたりと、
さっぱりいいところがない。
大人の意地として、なんとしてもギガントをとばし、
溜飲をさげたかったのかもしれない。
わたしが感情移入してみたのはジムシーだ。
自分がコナンになれないのは はっきりしてしまった。
かといって、ダイスほどいいかげんにはいきられない。
まわりがどんどん成長していくなかで、
はじめからおわりまで、ジムシーはずっとジムシーのままだった。
コナンだけだったら、まじめすぎるなはなしだったところを、
ジムシーがうまくいきをぬいてくれたので すくいとなっている。
テラというパートナーもできたし、いろいろなことがあっても、
さいごはけっきょくうまくいくという、いいお手本だ。
映画の再上映をとりあげていた。
意外だったのは、「コナン」の名がでてきたことで、
天声人語氏は、
「『未来少年コナン』に、約40年ぶりに心をうばわれた。」
そうだ。
天声人語にコナンがのったからといって、
ありがたがるわけではないけど、
いつもこむずかしいことがかかれているコラムに、
コナンがとりあげられると、ぐっと親近感がわく。
昔ほどは主人公に自分を重ねられなかったが、むしろコナンの育ての親の「おじい」に感情移入している自分に気づく。悪役で、科学都市の政治指導者レプカの気持ちも少し考えてみた。政治を担う身としては、人々を飢えさせるわけにはいかない。そんな責任感が暴走した面もあるのか・・・
レプカは太陽エネルギーを手にいれようと、
ラナをむりやりつれさって、いうことをきかせようとする。
そしてギガントをとばし、ハイハーバーを自分の領土にしたい。
でも、そうやって世界を征服してみたところで、
いったいどれだけのものが手にはいるだろう。
ハイハーバーを支配下においても、
レプカがえるのは小麦とわずかな家畜ぐらいだ。
どうかんがえても、ラオ博士に協力して、
平和利用のために太陽エネルギーをつかったほうがいい。
でもまあ、レプカとしたら、10歳ぐらいの子どもたちに
すきかってにあばれられ、自分の計画はスムーズにすすまず、
原子炉はもえつきようとしているし、
かつての部下が自分をうらぎってコナンの側についたりと、
さっぱりいいところがない。
大人の意地として、なんとしてもギガントをとばし、
溜飲をさげたかったのかもしれない。
わたしが感情移入してみたのはジムシーだ。
自分がコナンになれないのは はっきりしてしまった。
かといって、ダイスほどいいかげんにはいきられない。
まわりがどんどん成長していくなかで、
はじめからおわりまで、ジムシーはずっとジムシーのままだった。
コナンだけだったら、まじめすぎるなはなしだったところを、
ジムシーがうまくいきをぬいてくれたので すくいとなっている。
テラというパートナーもできたし、いろいろなことがあっても、
さいごはけっきょくうまくいくという、いいお手本だ。
2020年11月28日
星野智幸さんの「家事としての肉野菜炒め」に100%共感する
朝日新聞土曜日版beにのっていた
星野智幸さんの「家事としての肉野菜炒め」に
100%共感してよんだ。
星野さんは、肉野菜いためにいたる必然を、
以下のような状況に整理している。
・週の半分の料理を担当している。
・次第に定番のメニューができて、普段はそれを回すことになる。
・私とつれあいとで得意なレパートリーも異なるので、
飽きることはない。
・とはいえ、連日となると、やはり面倒に感じる日もある。
・そんなときは、肉野菜炒めの出番だ。
・オンラインのレシピだと、ほんの一手間かけるだけで
美味しく作れる、とあったりするが、
その一手間をかける気力もないから、肉野菜炒めに頼るのだ。
まったくそのとおりで、キャベツとなにかの肉があれば、
それだけでりっぱな、というかそれなりの一品となる。
もやしをいれると量がふえるし、
ピーマンやニンジンがあればいろどりもきれいだ。
アジアの国ぐにを旅行していて、屋台料理をみていると、
そのおおくは肉野菜いためともいえる。
肉と野菜をいためたものが、いちばんてっとりばやい料理なのだ。
星野さんは、家事としての料理を下記のようにまとめている。
ウィキペディアにのせたいくらい完璧な定義だ。
このなかの「数日分の食材を予算内で買い」、
がわたしはにがてで、どうしてもその日の分の材料しかかえない。
献立をきめずにスーパーへゆき、棚にならべてある食材をみて、
なにをつくるかかんがえる。でないと、献立がわいてこないから。
だから、食材をあまらせることはほとんどなく、
「素材を使い切る」ため、というよりは、
くるしまぎれのメニューとして肉野菜いためにたすけられている。
星野さんは、「私が見出したコツ」として、
最初にキノコを強火でしっかり炒める、をあげている。
わたしは、このごろ鶏ガラスープにたよるようになった。
さいごにナンプラーをかければ、タイ料理っぽい。
星野智幸さんの「家事としての肉野菜炒め」に
100%共感してよんだ。
グルメな男が、気の向いたときに、自分の好きな料理を凝ったレシピでハイレベルに仕上げてふるまう、(中略)は、趣味としての料理であって、家事とは異なる。
星野さんは、肉野菜いためにいたる必然を、
以下のような状況に整理している。
・週の半分の料理を担当している。
・次第に定番のメニューができて、普段はそれを回すことになる。
・私とつれあいとで得意なレパートリーも異なるので、
飽きることはない。
・とはいえ、連日となると、やはり面倒に感じる日もある。
・そんなときは、肉野菜炒めの出番だ。
・オンラインのレシピだと、ほんの一手間かけるだけで
美味しく作れる、とあったりするが、
その一手間をかける気力もないから、肉野菜炒めに頼るのだ。
まったくそのとおりで、キャベツとなにかの肉があれば、
それだけでりっぱな、というかそれなりの一品となる。
もやしをいれると量がふえるし、
ピーマンやニンジンがあればいろどりもきれいだ。
アジアの国ぐにを旅行していて、屋台料理をみていると、
そのおおくは肉野菜いためともいえる。
肉と野菜をいためたものが、いちばんてっとりばやい料理なのだ。
星野さんは、家事としての料理を下記のようにまとめている。
ウィキペディアにのせたいくらい完璧な定義だ。
特売の安い食材を探し、栄養のバランスと調理のしやすさに配慮した献立をその場で考え、数日分の食材を予算内で買い、実際に手際よく料理し、ときに作り置きし、それでも余った素材を使い切るメニューをさらに工夫して作る、ということを、自分の気分にかかわらず繰り返す毎日。それが家事としての料理だ。
このなかの「数日分の食材を予算内で買い」、
がわたしはにがてで、どうしてもその日の分の材料しかかえない。
献立をきめずにスーパーへゆき、棚にならべてある食材をみて、
なにをつくるかかんがえる。でないと、献立がわいてこないから。
だから、食材をあまらせることはほとんどなく、
「素材を使い切る」ため、というよりは、
くるしまぎれのメニューとして肉野菜いためにたすけられている。
星野さんは、「私が見出したコツ」として、
最初にキノコを強火でしっかり炒める、をあげている。
わたしは、このごろ鶏ガラスープにたよるようになった。
さいごにナンプラーをかければ、タイ料理っぽい。
2020年11月27日
「やればできる」はほんとうか
郡司芽久さんが、朝日新聞のコラムに
小柴昌俊さんへの追悼文(のようなもの)をのせている。
郡司さんの母校には、
「やれば、できるよ。」とかかれた
小柴さん直筆の色紙があるそうだ。
「やればできる」は、学校の先生がよくいうセリフではないか。
梅棹エリオさんの『熱気球イカロス5号』にも、
「きみはやればできる」といわれたはなしがでている。
これをよんでから、わたしは学校の先生や親がよく口にする
「やればできる」を警戒するようになった。
梅棹さんがいうとおりだ。やればできるにきまっている。
やってみても、すぐにはできないかもしれないけど、
できるまでつづけたらいい。
「やればできる」は、とてもあたりまえのことだ。
でも、そのあたりまえが、なぜかんたんにはできないのだろう。
「やればできる」といわれて、すなおにやりだせるひとはいいとして、
「やればできる」といわれるまでもなく、
自分から行動をおこせないひとはどうすればいいか。
「やればできる」は事実だけど、
かんたんにはやりはじめられないという点において、
ほんとうではない。
「やればできる」は、あたりまえで
それ自体は意味のないことばだ。
郡司さんがいうように、おおくのハンディをかかえながら
努力をかさねつづけた小柴さんだからこそ
「やれば、できる。」はおもみをもつ。
そうでなければ、「やればできる」なんて
かんたんにいわないほうがいい。
小柴昌俊さんへの追悼文(のようなもの)をのせている。
郡司さんの母校には、
「やれば、できるよ。」とかかれた
小柴さん直筆の色紙があるそうだ。
やれば、できる。素晴らしい名言というよりは、日常の中で幾度となく耳にするようなありきたりな言葉である。けれど、旧制中学時代に小児まひを患い、音楽家か軍人になる夢を諦め、孤独で苦しいリハビリを乗り越え、学問の道に進まれた小柴先生の口から発せられたその言葉には、思わず背筋が伸びるような迫力と重みがあったのを、今でもよく覚えている。
「やればできる」は、学校の先生がよくいうセリフではないか。
梅棹エリオさんの『熱気球イカロス5号』にも、
「きみはやればできる」といわれたはなしがでている。
ぼくは、先生によくこんなことをいわれた「きみはやればできるんだ」あたりまえだ。ぼくはやればできるにきまっている。そんなことを先生から聞かされなくても、ぼくは知っている。ぼくのやれることをやらさないのが学校なのに、先生にはそれがぜんぜんわかっていないのだ。
これをよんでから、わたしは学校の先生や親がよく口にする
「やればできる」を警戒するようになった。
梅棹さんがいうとおりだ。やればできるにきまっている。
やってみても、すぐにはできないかもしれないけど、
できるまでつづけたらいい。
「やればできる」は、とてもあたりまえのことだ。
でも、そのあたりまえが、なぜかんたんにはできないのだろう。
「やればできる」といわれて、すなおにやりだせるひとはいいとして、
「やればできる」といわれるまでもなく、
自分から行動をおこせないひとはどうすればいいか。
「やればできる」は事実だけど、
かんたんにはやりはじめられないという点において、
ほんとうではない。
「やればできる」は、あたりまえで
それ自体は意味のないことばだ。
郡司さんがいうように、おおくのハンディをかかえながら
努力をかさねつづけた小柴さんだからこそ
「やれば、できる。」はおもみをもつ。
そうでなければ、「やればできる」なんて
かんたんにいわないほうがいい。
2020年11月26日
川崎フロンターレが日本のサッカーをひっぱっていく
きのうにつづき、川崎フロンターレについて。
優勝をきめた試合後のJリーグタイムで、
フロンターレがほかのチームとは別格の存在になってきた、と
解説の宮川ミシェルさんがいうと、
中村憲剛選手は、鬼木監督と自分たちは
それをめざしてこれまでやってきた、とこたえた。
日本のサッカーを、フロンターレがひっぱるつもりなのだ。
そのためにはタイトルをとりつづけなければならず、
タイトルが日常になれば、選手たちの意識もかわってくる。
今シーズンのフロンターレは、到達点ではなく、スタートなのだろう。
日本におけるバルセロナとなるかもしれない。
圧倒的につよかったフロンターレのつよさを
どこかの番組が特集し、記録にのこしてくれないか。
フロンターレというとパスをまわしながら
相手守備陣のスキをつく、というイメージがある。
そのパスまわしは、よくみてみると、
ワンタッチでのパスだけではなく、
2タッチしてのパスもあんがいおおいのに気づく。
ひとはあまりうごきまわらずに、
ボールをうごかすのがフロンターレの特徴といわれており、
いったんとめてからけるので、正確に味方へパスできる。
だれもがたかい技術をもつので、密集したエリアに
苦もなくはいりこみ、わずかなすき間にボールをとおす。
きのうのガンバとの試合は、5-0という点差そのままに、
フロンターレのつよさばかりが目だった。
リーグで2位につけているチームをあいてに、
格のちがいをみせつけての完勝。
フロンターレは、ボールをうしなったら、
すぐに複数の選手でプレッシャーをかけ、ボールをとりかえす。
選手の数がおおいのではないかとおもうくらい、
ボールのまわりでめだつのは青色のユニフォームだ。
今シーズンうりだした三苫のドリブルも魅力的だった。
スピードだけでなくテクニックがあるので
ボールをいったんもつとうばわれない。
サイドラインぎりぎりでボールをうばい、
股ぬきで相手選手をかわすと、ななめにドリブルできめこんで、
クロスやシュートにもっていく。
アシストだけでなく、自分でゴールにせまり、
そのままきめきるちからがある。
はじめのころは、いきおいでやってる新人なのかとおもってたけど、
シーズンをとおして活躍をつづけ、これまでに12得点もあげている。
今シーズン、もっとも印象にのこる選手として、
おおくのサポーターが三苫の名前をあげていた。
みていてたのしいフロンターレのサッカーを象徴するのが三苫選手だ。
優勝をきめた試合後のJリーグタイムで、
フロンターレがほかのチームとは別格の存在になってきた、と
解説の宮川ミシェルさんがいうと、
中村憲剛選手は、鬼木監督と自分たちは
それをめざしてこれまでやってきた、とこたえた。
日本のサッカーを、フロンターレがひっぱるつもりなのだ。
そのためにはタイトルをとりつづけなければならず、
タイトルが日常になれば、選手たちの意識もかわってくる。
今シーズンのフロンターレは、到達点ではなく、スタートなのだろう。
日本におけるバルセロナとなるかもしれない。
圧倒的につよかったフロンターレのつよさを
どこかの番組が特集し、記録にのこしてくれないか。
フロンターレというとパスをまわしながら
相手守備陣のスキをつく、というイメージがある。
そのパスまわしは、よくみてみると、
ワンタッチでのパスだけではなく、
2タッチしてのパスもあんがいおおいのに気づく。
ひとはあまりうごきまわらずに、
ボールをうごかすのがフロンターレの特徴といわれており、
いったんとめてからけるので、正確に味方へパスできる。
だれもがたかい技術をもつので、密集したエリアに
苦もなくはいりこみ、わずかなすき間にボールをとおす。
きのうのガンバとの試合は、5-0という点差そのままに、
フロンターレのつよさばかりが目だった。
リーグで2位につけているチームをあいてに、
格のちがいをみせつけての完勝。
フロンターレは、ボールをうしなったら、
すぐに複数の選手でプレッシャーをかけ、ボールをとりかえす。
選手の数がおおいのではないかとおもうくらい、
ボールのまわりでめだつのは青色のユニフォームだ。
今シーズンうりだした三苫のドリブルも魅力的だった。
スピードだけでなくテクニックがあるので
ボールをいったんもつとうばわれない。
サイドラインぎりぎりでボールをうばい、
股ぬきで相手選手をかわすと、ななめにドリブルできめこんで、
クロスやシュートにもっていく。
アシストだけでなく、自分でゴールにせまり、
そのままきめきるちからがある。
はじめのころは、いきおいでやってる新人なのかとおもってたけど、
シーズンをとおして活躍をつづけ、これまでに12得点もあげている。
今シーズン、もっとも印象にのこる選手として、
おおくのサポーターが三苫の名前をあげていた。
みていてたのしいフロンターレのサッカーを象徴するのが三苫選手だ。
2020年11月25日
祝 川崎フロンターレ、3どめのJ1リーグ優勝
かつか、ひきわけでも優勝のフロンターレが、
ガンバ大阪をホームにむかえての第29節。
フロンターレが5-0でガンバをやぶり、
4節をのこしての最速優勝をきめた。
序盤からフロンターレがおしまくり、
登里がピンポイントであげたクロスを
レアンドロ=ダミアンがきれいにあわせる。
そのあともフロンターレが追加点をかさね、
家長のハットトリックもうまれた。
ガンバはほとんどいいところがなく、
フロンターレがひさびさに自分たちのスタイルをとりもどし、
完勝といっていい勝利にむすびつけた。
後半41分には、3人目の選手交代として
中村憲剛もピッチにはいってきた。
5点目を齋藤学がきめ、そのまま試合終了となる。
フロンターレのいいところばかりがでた試合だった。
試合後のインタビューでは、鬼木監督にマイクがむけられる。
どんな試合でもきびしい表情をくずさない鬼木監督が、
このときは、まるで別人のようなさわやかな笑顔をみせる。
3人めにインタビューをうけたのは中村憲剛だ。
憲剛も笑顔をみせていたけど、交代でピッチにはいり、
大島からキャプテンマークをたくされたときは
いい演出をしてくれて、となきそうになったそうだ。
2017年に、フロンターレが初優勝をしたときのことをおもいだす。
他会場の結果により、2位だったフロンターレが
鹿島アントラーズを逆転しての優勝だった。
鹿島が磐田との試合をスコアレスドローでおえ、
その結果をしった瞬間、憲剛はピッチに顔をうずめてなきくずれた。
それまでなんどもいいところまでいきながら
優勝だけは縁どおかった川崎が、
やっと優勝にたどりついたよろこびに 等々力競技場がつつまれる。
中村憲剛は今シーズンをさいごに引退すると発表している。
もう憲剛をピッチのうえでみられなくなるのか。
今シーズンは開幕節こそおこなわれたものの、
新型コロナウイルスの影響で、その後4ヶ月の中断期間にはいる。
ようやく7月に再開されてからも、はじめは無観客試合だったし、
関係者がウイルスに感染し、試合ができないチームもいくつかでた。
そんななかでフロンターレは、リーグ新記録となる10連勝、
そのあと1敗1分をはさんで、さらに12連勝をあげ、
1シーズンに新記録を2つという 圧倒的なつよさをみせつける。
今シーズンは、これまでにまけたのはわずかに3試合で、
くるしい日程をあつい選手層でアドバンテージにかえ、
どの選手がでてもフロンターレらしいサッカーをみせてくれた。
これだけのチームをつくりあげた鬼木監督をはじめ選手たち、
関係者・サポーターの方々に、こころからのおいわいをおくりたい。
ガンバ大阪をホームにむかえての第29節。
フロンターレが5-0でガンバをやぶり、
4節をのこしての最速優勝をきめた。
序盤からフロンターレがおしまくり、
登里がピンポイントであげたクロスを
レアンドロ=ダミアンがきれいにあわせる。
そのあともフロンターレが追加点をかさね、
家長のハットトリックもうまれた。
ガンバはほとんどいいところがなく、
フロンターレがひさびさに自分たちのスタイルをとりもどし、
完勝といっていい勝利にむすびつけた。
後半41分には、3人目の選手交代として
中村憲剛もピッチにはいってきた。
5点目を齋藤学がきめ、そのまま試合終了となる。
フロンターレのいいところばかりがでた試合だった。
試合後のインタビューでは、鬼木監督にマイクがむけられる。
どんな試合でもきびしい表情をくずさない鬼木監督が、
このときは、まるで別人のようなさわやかな笑顔をみせる。
3人めにインタビューをうけたのは中村憲剛だ。
憲剛も笑顔をみせていたけど、交代でピッチにはいり、
大島からキャプテンマークをたくされたときは
いい演出をしてくれて、となきそうになったそうだ。
2017年に、フロンターレが初優勝をしたときのことをおもいだす。
他会場の結果により、2位だったフロンターレが
鹿島アントラーズを逆転しての優勝だった。
鹿島が磐田との試合をスコアレスドローでおえ、
その結果をしった瞬間、憲剛はピッチに顔をうずめてなきくずれた。
それまでなんどもいいところまでいきながら
優勝だけは縁どおかった川崎が、
やっと優勝にたどりついたよろこびに 等々力競技場がつつまれる。
中村憲剛は今シーズンをさいごに引退すると発表している。
もう憲剛をピッチのうえでみられなくなるのか。
今シーズンは開幕節こそおこなわれたものの、
新型コロナウイルスの影響で、その後4ヶ月の中断期間にはいる。
ようやく7月に再開されてからも、はじめは無観客試合だったし、
関係者がウイルスに感染し、試合ができないチームもいくつかでた。
そんななかでフロンターレは、リーグ新記録となる10連勝、
そのあと1敗1分をはさんで、さらに12連勝をあげ、
1シーズンに新記録を2つという 圧倒的なつよさをみせつける。
今シーズンは、これまでにまけたのはわずかに3試合で、
くるしい日程をあつい選手層でアドバンテージにかえ、
どの選手がでてもフロンターレらしいサッカーをみせてくれた。
これだけのチームをつくりあげた鬼木監督をはじめ選手たち、
関係者・サポーターの方々に、こころからのおいわいをおくりたい。
2020年11月24日
「ランスマ倶楽部」も手づくりレースをとりあげていた
「ランスマ倶楽部」をみる。
今回のタイトルは「モチベーションを上げるには?」。
新型コロナウイルスの感染による影響で、
レースのほとんどが中止となり、ランナーは
モチベーションをたもつのに苦労している。
そこで金さんがかかわっているジョギングクラブでは、
自分たちで手づくりの大会を企画し、準備をすすめ、
ほんものの大会にできるだけちかいかたちで実行している。
もうひとつ紹介されたのが、田沢湖マラソンで、
本来ひらかれるはずの大会は中止となったけど、
サブスリーをめざすランナーたちが
おなじコースをつかいレースをひらいていた。
大会に出場できず、モチベーションがたもてないなか、
たとえ小規模でも、レースではしれるのは
なにごとにもかえられないよろこびのようだ。
自分のベスト記録を更新したランナーがおおく、
残念ながら目標タイムにおよばなかったひとも、
こうやってはしれるのはすばらしいと、息をはずませていた。
きのうみた「チャリダー」では、
レースがなくなったのなら、自分たちでつくればいいと、
手づくりのヒルクライムレースをひらいていた。
これをみて、「チャリダー」の自由さをおもい、
それにひきかえ「ランスマ」はこれまでの形からぬけだせず、
ずいぶん差がついたものだ、とわたしはひややかにみていた。
でも、日本のランナーたちだって、新型コロナウイルスにめげず、
状況にあわせたレースを企画し、実行していた。
そうしたランナーたちのこころみをしらず、
「ランスマ」をみくだしていたのは 失礼な態度だった。
ただ、こうした手づくりレースに参加するのは、
かなり上級レベルのランナーであり、
初心者クラスのランナーたちは、
おいていかれている印象をもった。
はやいひとがよりはやくなるのは
それはそれでいいことなのだろうけど、
初心者がはしるたのしさをしって
ながい距離に挑戦していくのもまたすばらしい。
わたしは、自分のレベルにちかい、
初心者ランナーへのとりくみのほうに関心がある。
上級者だけの番組にならないよう、
初心者にも目をくばった内容に期待したい。
よわくてダメなランナーのほうがおおいのだから。
今回のタイトルは「モチベーションを上げるには?」。
新型コロナウイルスの感染による影響で、
レースのほとんどが中止となり、ランナーは
モチベーションをたもつのに苦労している。
そこで金さんがかかわっているジョギングクラブでは、
自分たちで手づくりの大会を企画し、準備をすすめ、
ほんものの大会にできるだけちかいかたちで実行している。
もうひとつ紹介されたのが、田沢湖マラソンで、
本来ひらかれるはずの大会は中止となったけど、
サブスリーをめざすランナーたちが
おなじコースをつかいレースをひらいていた。
大会に出場できず、モチベーションがたもてないなか、
たとえ小規模でも、レースではしれるのは
なにごとにもかえられないよろこびのようだ。
自分のベスト記録を更新したランナーがおおく、
残念ながら目標タイムにおよばなかったひとも、
こうやってはしれるのはすばらしいと、息をはずませていた。
きのうみた「チャリダー」では、
レースがなくなったのなら、自分たちでつくればいいと、
手づくりのヒルクライムレースをひらいていた。
これをみて、「チャリダー」の自由さをおもい、
それにひきかえ「ランスマ」はこれまでの形からぬけだせず、
ずいぶん差がついたものだ、とわたしはひややかにみていた。
でも、日本のランナーたちだって、新型コロナウイルスにめげず、
状況にあわせたレースを企画し、実行していた。
そうしたランナーたちのこころみをしらず、
「ランスマ」をみくだしていたのは 失礼な態度だった。
ただ、こうした手づくりレースに参加するのは、
かなり上級レベルのランナーであり、
初心者クラスのランナーたちは、
おいていかれている印象をもった。
はやいひとがよりはやくなるのは
それはそれでいいことなのだろうけど、
初心者がはしるたのしさをしって
ながい距離に挑戦していくのもまたすばらしい。
わたしは、自分のレベルにちかい、
初心者ランナーへのとりくみのほうに関心がある。
上級者だけの番組にならないよう、
初心者にも目をくばった内容に期待したい。
よわくてダメなランナーのほうがおおいのだから。
2020年11月23日
「チャリダー」のこころみ 手づくりヒルクライムレース
「チャリダー」で、志賀高原を舞台に
ヒルクライムレースをとりあげていた。
新型コロナウイルスの感染により、
予定されていた大会は中止になったけど、
番組レギュラーたちが、手づくりでレースをひらいたのだ。
ドクター竹谷・うじき・猪野の3名にくわえ、
戦場カメラマンの渡部さん、ママチャリで
自転車レースに出場しつづけている戸丸さんの5名が参加して、
全長13.1キロのコースをはしる。
そのままではレベルに差がありすぎるので、
渡部・うじき・戸丸・猪野・竹谷の順に
ハンディをつけてスタートする。
スタート地点は猪野さんがかざりつけ、
賞品は、うじきさんが地元の名物をあつめ、
ドクター竹谷がヒルクライムにふなれな渡部さんを特訓する。
実行委員長はうじきさんだ。
ゴールには、ちかくのお店のひとたちがあつめられていたけど、
それ以外は参加者しかいない大会だ。
当日は、朝からはげしい雨がふっていたにもかかわらず、
みんなすごくたのしそう。
ゴールした5人とも、充実感にあふれた表情をみせていた。
新型コロナウイルスでレースが中止になるなか、
ことしはじめで、おそらくさいごのレース。
レースに参加できるよろこびを
ふだんはあたりまえのようにレースにでている
猪野さんと竹谷さんが口にしていた。
ヒルクライムのコースはずっとのぼり坂で、きついけど、
ゴールでは、はしりきったよろこびにひたっていた。
異色だったのは、ママチャリライダーの戸丸さんで、
スタート直後からすごいいきおいで坂をのぼっていく。
ニコニコわらっているやさしそうな青年(25歳)だったのに、
スタートすると別人のようにガッツをむきだしにしてはしる。
ハンディにより、1位になったのはこの戸丸さんで、
うじきさん・渡部さんをかんたんにとらえ、
あとからスタートした猪野さん・竹谷さんにはぬかれずに、
1位でゴールをかけぬけた。
わかさ、といってしまうのはかんたんだけど、
坂への情熱と、ママチャリライダーとしてのほこりをかんじる
すてきな青年だった。
新型コロナウイルスのひろがりに、
文句をいってもしょうがないのだから、
レースが中止になったのなら、
自分たちで手づくりレースをひらけばいい。
参加人数はすくなく、シンプルで、でもたのしい。
たった5人でやりきった「チャリダー」のこころみは
このご時世ならではあそび方をおしえてくれる。
ヒルクライムレースをとりあげていた。
新型コロナウイルスの感染により、
予定されていた大会は中止になったけど、
番組レギュラーたちが、手づくりでレースをひらいたのだ。
ドクター竹谷・うじき・猪野の3名にくわえ、
戦場カメラマンの渡部さん、ママチャリで
自転車レースに出場しつづけている戸丸さんの5名が参加して、
全長13.1キロのコースをはしる。
そのままではレベルに差がありすぎるので、
渡部・うじき・戸丸・猪野・竹谷の順に
ハンディをつけてスタートする。
スタート地点は猪野さんがかざりつけ、
賞品は、うじきさんが地元の名物をあつめ、
ドクター竹谷がヒルクライムにふなれな渡部さんを特訓する。
実行委員長はうじきさんだ。
ゴールには、ちかくのお店のひとたちがあつめられていたけど、
それ以外は参加者しかいない大会だ。
当日は、朝からはげしい雨がふっていたにもかかわらず、
みんなすごくたのしそう。
ゴールした5人とも、充実感にあふれた表情をみせていた。
新型コロナウイルスでレースが中止になるなか、
ことしはじめで、おそらくさいごのレース。
レースに参加できるよろこびを
ふだんはあたりまえのようにレースにでている
猪野さんと竹谷さんが口にしていた。
ヒルクライムのコースはずっとのぼり坂で、きついけど、
ゴールでは、はしりきったよろこびにひたっていた。
異色だったのは、ママチャリライダーの戸丸さんで、
スタート直後からすごいいきおいで坂をのぼっていく。
ニコニコわらっているやさしそうな青年(25歳)だったのに、
スタートすると別人のようにガッツをむきだしにしてはしる。
ハンディにより、1位になったのはこの戸丸さんで、
うじきさん・渡部さんをかんたんにとらえ、
あとからスタートした猪野さん・竹谷さんにはぬかれずに、
1位でゴールをかけぬけた。
わかさ、といってしまうのはかんたんだけど、
坂への情熱と、ママチャリライダーとしてのほこりをかんじる
すてきな青年だった。
新型コロナウイルスのひろがりに、
文句をいってもしょうがないのだから、
レースが中止になったのなら、
自分たちで手づくりレースをひらけばいい。
参加人数はすくなく、シンプルで、でもたのしい。
たった5人でやりきった「チャリダー」のこころみは
このご時世ならではあそび方をおしえてくれる。
2020年11月22日
『ヘアスプレー』トラボルタがお母さんで、ウォーケンがお父さん
『ヘアスプレー』
(アダム=シャンクマン:監督・2007年・アメリカ)
冒頭からふとった女の子がうたっておどる。
こりゃついていけないかも、とおもった。
わたしが苦手なタイプの映画だ。
ミュージカルなのだから、
うたっておどるのはあたりまえとはいえ、
この女の子(トレイシー)はずっとこの調子なのか?
でもまあ、ラジオで紺野美沙子さんがすすめていたから、
もうすこしみてみよう、とようすをうかがっていたら、
そのうち女の子のお母さんがでてきた。
どこかでみたことのある顔。トラボルタだ。
そういえば、紺野美沙子さんがこの作品についてふれたとき、
トラボルタの女装のこともいっていた。
お母さんのでかい顔には、どことなく
トラボルタのおもかげがのこっている。
そして、お父さん役はクリストファー=ウォーケンだ。
これはみないわけにいかない。
ストーリーは単純で、歌とおどりに夢中な女子高校生が、
あこがれていたテレビ番組にでられるようになり、
これ以上ないくらい しあわせな顔でうたっておどる。
時代は1962年のアメリカはボルチモアで、
テーマは人種差別なのだけど、深刻ぶらずに
あかるい音楽とダンスでつっぱしる。
時代がかわっていくとはいえ、
そうすんなりと差別はなくならない。
エンディングでうたわれていたように、
「やっとここまできたけど 道のりはまだながい」。
でも、歌とダンスがあれば きっとうまくいく。
トレイシーがでるようになった番組には、
週にいちど、黒人音楽をながす日がある
(あとの日は、ぜんぶ白人音楽の日なわけだけど)。
この日の司会をつとめる女性シンガー(メイベル)を
クイーンーラティファがえんじており、
迫力のあるうた声と存在感にしびれた。
ラストでは、お約束のように
トラボルタがダンスを披露したあと、
メイベルが舞台にあがってさいごをしめくくる。
ふとっていたって、でかくたって、ぜんぜん問題ない。
ご機嫌な音楽でつっぱしりつづけ、
元気がでることまちがいなしの作品だ。
(アダム=シャンクマン:監督・2007年・アメリカ)
冒頭からふとった女の子がうたっておどる。
こりゃついていけないかも、とおもった。
わたしが苦手なタイプの映画だ。
ミュージカルなのだから、
うたっておどるのはあたりまえとはいえ、
この女の子(トレイシー)はずっとこの調子なのか?
でもまあ、ラジオで紺野美沙子さんがすすめていたから、
もうすこしみてみよう、とようすをうかがっていたら、
そのうち女の子のお母さんがでてきた。
どこかでみたことのある顔。トラボルタだ。
そういえば、紺野美沙子さんがこの作品についてふれたとき、
トラボルタの女装のこともいっていた。
お母さんのでかい顔には、どことなく
トラボルタのおもかげがのこっている。
そして、お父さん役はクリストファー=ウォーケンだ。
これはみないわけにいかない。
ストーリーは単純で、歌とおどりに夢中な女子高校生が、
あこがれていたテレビ番組にでられるようになり、
これ以上ないくらい しあわせな顔でうたっておどる。
時代は1962年のアメリカはボルチモアで、
テーマは人種差別なのだけど、深刻ぶらずに
あかるい音楽とダンスでつっぱしる。
時代がかわっていくとはいえ、
そうすんなりと差別はなくならない。
エンディングでうたわれていたように、
「やっとここまできたけど 道のりはまだながい」。
でも、歌とダンスがあれば きっとうまくいく。
トレイシーがでるようになった番組には、
週にいちど、黒人音楽をながす日がある
(あとの日は、ぜんぶ白人音楽の日なわけだけど)。
この日の司会をつとめる女性シンガー(メイベル)を
クイーンーラティファがえんじており、
迫力のあるうた声と存在感にしびれた。
ラストでは、お約束のように
トラボルタがダンスを披露したあと、
メイベルが舞台にあがってさいごをしめくくる。
ふとっていたって、でかくたって、ぜんぜん問題ない。
ご機嫌な音楽でつっぱしりつづけ、
元気がでることまちがいなしの作品だ。
2020年11月21日
『きみは誤解している』(佐藤正午)
『きみは誤解している』(佐藤正午・集英社文庫)
佐藤正午さんといえば競輪、
というイメージをわたしはもっている。
この本は、競輪についてかかれた6編の短編集だ。
ギャンブルをいっさいしないわたしには、
競輪をするひとの心理がわからない。
「きみは誤解している」にでてくる「僕」が、
だれもがふりむくほど美人の彼女をうしなってまで
競輪をつづける描写に、ギャンブラー独特の論理をしる。
「遠くへ」には、佐藤正午さんの競輪観があらわれている。
おおきくはまけないけど、つまらないかけかたがあるのだ。
「女房はくれてやる」には、
競輪にはまりこみ、妻と店をうしなう男性がでてくる。
妻をとられたのは競輪選手だ。
男性は、おちるところまでおちたあげく、
けっきょくその選手にかけておおきくかち、
なんとか生活をたてなおせた。
いちど地獄をみたひとのすごみ、
そしてたちなおっていく人生のあやがうまい。
この本をつくるのにかかわった岩波書店の編集者、
坂本政謙さんによる解説がとてもいい。
「付録」に佐藤正午さんがかいていることは、いかにでたらめで、
「九割方、ウソ」なのをあきらかにしている。
といっても、そのウソを非難しているのではなく、
「小説的真実が生まれている」とうけとめているのがさすが編集者だ。
がオチになっている。
佐藤正午さんといえば競輪、
というイメージをわたしはもっている。
この本は、競輪についてかかれた6編の短編集だ。
ギャンブルをいっさいしないわたしには、
競輪をするひとの心理がわからない。
「きみは誤解している」にでてくる「僕」が、
だれもがふりむくほど美人の彼女をうしなってまで
競輪をつづける描写に、ギャンブラー独特の論理をしる。
「あと一時間だ。それでぜんぶ終わる。終わったら、僕は以前の僕に戻ってきみのことを考える、約束するよ、今度の休みにはきみの親に挨拶に行く」
「あと一時間で何が終わるの?」
「今日の第8レース・・・」(中略)
「どこが最期なの」案の定マリは怒った。「8レースのあとは9レースがあるじゃないの」(中略)
「二百万ある、ぜんぶ競輪で儲けた金なんだ、これを8レースの2-5に賭ける、それで最後にしたいと思ってる」(中略)
「気は確かなの?」
「最後にしたいと言ってるだろう、僕はギャンブラーになりたいと言ってるわけじゃない。これを賭けてみたいだけだ」
「もし当たったらどうするの」
「結婚式を派手にする」
「遠くへ」には、佐藤正午さんの競輪観があらわれている。
おおきくはまけないけど、つまらないかけかたがあるのだ。
彼女は男のギャンブルに対する姿勢に疑問を持ちはじめた。だいいち、大穴を狙いながら同時に本命も押さえておく、どっちに転んでもいいという、その考え方自体が曖昧でだらしがない。(中略)三十三通りある買い目のうち十通りも買いあさる男には、競輪を理解する能力もギャンブルに挑戦する資格もありはしない、とまで彼女は考えたじめた。
「女房はくれてやる」には、
競輪にはまりこみ、妻と店をうしなう男性がでてくる。
妻をとられたのは競輪選手だ。
男性は、おちるところまでおちたあげく、
けっきょくその選手にかけておおきくかち、
なんとか生活をたてなおせた。
いちど地獄をみたひとのすごみ、
そしてたちなおっていく人生のあやがうまい。
要するにこういうことだ。おれに言わせりゃギャンブルの手を借りなくても人生なんてもともと狂ってる。おれはそう思う。気をつけたほうがいい。いつ何が起こるかわからない。ギャンブルに手を出そうと出すまいと、おれもあんたも狂った人生の真っ只中にいるんだ、実際のところ。
この本をつくるのにかかわった岩波書店の編集者、
坂本政謙さんによる解説がとてもいい。
「付録」に佐藤正午さんがかいていることは、いかにでたらめで、
「九割方、ウソ」なのをあきらかにしている。
といっても、そのウソを非難しているのではなく、
「小説的真実が生まれている」とうけとめているのがさすが編集者だ。
ただ、書いた本人が、「僕、そんな手紙もらった?」とか「そんなこと言ったかなぁ」などと、自分がつくりだした小説的真実を事実だと思い込んでしまっていることには、大いに問題があるのですが。
がオチになっている。
2020年11月20日
なぜ養子にネガティブなイメージがあるのかわからない
新聞の投書欄をよんでいたら、
養子についてかいたものが3つならんでいた。
ひとつは8月にのった「養子という言葉 廃れさせたい」
という投書に同感、というもので、
タイトルは「養子と明かすつらさ なくなれば」。
もうひとつは、イギリスでは養子だからといって、
だれも詮索しなかった、という体験談だ。
どちらの投書も、日本社会は養子とあかしにくい、とある。
なぜ日本では養子についてネガティブなイメージがあるのか
わたしにはわからない。
養子についての日本の意識がかわらなければ、
たとえ養子という言葉をすたれさせても、
養子へのうけとめ方はかわらないのではないか。
どうして養子とあかしにくいのか。
みんなそれぞれの事情があるだろうから、
えらそうなことはいいたくないけど、
もっとかるくかんがえられないものだろうか。
犬やネコといっしょにするな、といわれそうだけど、
じつの子と養子と、なにがかわるのだろう。
自分が養子であっても、養子をむかえた側ても、
まわりがどんな反応をみせようと、
ただのおせっかいとして、無視すればいいのに。
「養子と明かすつらさ なくなれば」というひとは、
そのひとがかってにつらくかんじているだけではないか。
自分のその意識がかわらなければ、いつまでもつらいままだ。
そうおもわせる社会がわるいといったところでしかがたない。
自分にわるいところはないのだから、堂々としていたらいい。
すこしむりやりだけど、このご時世なので、
じつの子をインフルエンザ、
養子を新型コロナウイルスにおきかえてみる。
まいとし数百万のひとが感染し、
1万人死亡しているインフルエンザにもしかかっても、
それをまわりにあやまるひとはいない。
感染症なのだからおたがいさま、という意識が社会にある。
しかし、新型コロナウイルスにかかると、
そのひと個人の責任が追求され、謝罪するひとがでてくる。
おおくのひとが 感染したうしろめたさをくちにする。
社会的な圧力のつよさは、まるで犯罪人あつかいだ。
犯罪人でも、そんな対応はゆるされないはずなのに。
おなじ感染症なのだから、新型コロナウイルスも、
インフルエンザとおなじようにあつかうべきだろう。
新型コロナウイルスを、べつの病名におきかえても意味がない。
おかしなのは社会の意識のほうだから、
感染したからといって、あやまる必要はないし、
感染を「明かすつらさ なくなれば」となやまなくてもいい。
養子についてかいたものが3つならんでいた。
ひとつは8月にのった「養子という言葉 廃れさせたい」
という投書に同感、というもので、
タイトルは「養子と明かすつらさ なくなれば」。
もうひとつは、イギリスでは養子だからといって、
だれも詮索しなかった、という体験談だ。
どちらの投書も、日本社会は養子とあかしにくい、とある。
なぜ日本では養子についてネガティブなイメージがあるのか
わたしにはわからない。
養子についての日本の意識がかわらなければ、
たとえ養子という言葉をすたれさせても、
養子へのうけとめ方はかわらないのではないか。
どうして養子とあかしにくいのか。
みんなそれぞれの事情があるだろうから、
えらそうなことはいいたくないけど、
もっとかるくかんがえられないものだろうか。
犬やネコといっしょにするな、といわれそうだけど、
じつの子と養子と、なにがかわるのだろう。
自分が養子であっても、養子をむかえた側ても、
まわりがどんな反応をみせようと、
ただのおせっかいとして、無視すればいいのに。
「養子と明かすつらさ なくなれば」というひとは、
そのひとがかってにつらくかんじているだけではないか。
自分のその意識がかわらなければ、いつまでもつらいままだ。
そうおもわせる社会がわるいといったところでしかがたない。
自分にわるいところはないのだから、堂々としていたらいい。
すこしむりやりだけど、このご時世なので、
じつの子をインフルエンザ、
養子を新型コロナウイルスにおきかえてみる。
まいとし数百万のひとが感染し、
1万人死亡しているインフルエンザにもしかかっても、
それをまわりにあやまるひとはいない。
感染症なのだからおたがいさま、という意識が社会にある。
しかし、新型コロナウイルスにかかると、
そのひと個人の責任が追求され、謝罪するひとがでてくる。
おおくのひとが 感染したうしろめたさをくちにする。
社会的な圧力のつよさは、まるで犯罪人あつかいだ。
犯罪人でも、そんな対応はゆるされないはずなのに。
おなじ感染症なのだから、新型コロナウイルスも、
インフルエンザとおなじようにあつかうべきだろう。
新型コロナウイルスを、べつの病名におきかえても意味がない。
おかしなのは社会の意識のほうだから、
感染したからといって、あやまる必要はないし、
感染を「明かすつらさ なくなれば」となやまなくてもいい。
2020年11月19日
ハトマスクでのボジョレー配達
せんじつの記事にかいたように、
わたしがつとめる介護事業所は、ボジョレー=ヌーボーの解禁日、
つまり11月の第3木曜日、つまりきょう、
利用者やお世話になったひとたちへ、
ボジョレーと、自分たちがつくった製品をセットにして
プレゼントする行事がこの10年ほどつづいている。
問題は、ボジョレーをただくばるのではなく、
職員が仮装する、というしばりがある点だ。
職員は、まいとしどんな仮装をするかでなやむ。
わたしは派手な仮装に抵抗があるので、
デイリーポータルZがはじめた地味仮装をヒントに、
そこらへんにいるひとの仮装をして、
そこにストーリー性をもたせ、この4年をしのいできた。
宅配便のおじさんや、国政選挙に立候補する議員と秘書など、
アイデアにくるしみながらも、なかなかたのしんできた。
でも、ことしはもうアイデアがうかばない。
これまたデイリーポータルZの「ハトマスク」を
そのままパクることにする。
わたしがはいったチームは3人なので、
3人がハトマスクをつけて玄関にたったら
けっこうこわい光景になりそうだ。
ストーリーとしては、国勢調査にきたハトマスク、という線でいく。
で、きょうの夕方に、ハトマスクをかぶって
8軒の利用者宅をたずねる。
こういう冗談はひとをえらぶので、
よろこんでくれるひと、迷惑そうなひと、など
いくつかの反応がみられたものの、
おおむね好意的に対応してもらえた。
プレゼントをくばりおえ、事務所にもどると、
ほかの5組のペアが、どんな仮装をしたのかがわかる。
サザエさんと波平さんペア、変なおじさんペアが好評で、
決選投票の結果、変なおじさんペアがえらばれた。
わたしたちのハトマスクも、ハトがたくさんだと気もちわるい、
という、まさにわたしの意図をくみとってもらえた。
これがカラスだと冗談にならないし、
ライオンや象のマスクでは、無表情のこわさがつたわらない。
ハトならではの不気味さが理解されたのをよろこぶ。
わたしがつとめる介護事業所は、ボジョレー=ヌーボーの解禁日、
つまり11月の第3木曜日、つまりきょう、
利用者やお世話になったひとたちへ、
ボジョレーと、自分たちがつくった製品をセットにして
プレゼントする行事がこの10年ほどつづいている。
問題は、ボジョレーをただくばるのではなく、
職員が仮装する、というしばりがある点だ。
職員は、まいとしどんな仮装をするかでなやむ。
わたしは派手な仮装に抵抗があるので、
デイリーポータルZがはじめた地味仮装をヒントに、
そこらへんにいるひとの仮装をして、
そこにストーリー性をもたせ、この4年をしのいできた。
宅配便のおじさんや、国政選挙に立候補する議員と秘書など、
アイデアにくるしみながらも、なかなかたのしんできた。
でも、ことしはもうアイデアがうかばない。
これまたデイリーポータルZの「ハトマスク」を
そのままパクることにする。
わたしがはいったチームは3人なので、
3人がハトマスクをつけて玄関にたったら
けっこうこわい光景になりそうだ。
ストーリーとしては、国勢調査にきたハトマスク、という線でいく。
で、きょうの夕方に、ハトマスクをかぶって
8軒の利用者宅をたずねる。
こういう冗談はひとをえらぶので、
よろこんでくれるひと、迷惑そうなひと、など
いくつかの反応がみられたものの、
おおむね好意的に対応してもらえた。
プレゼントをくばりおえ、事務所にもどると、
ほかの5組のペアが、どんな仮装をしたのかがわかる。
サザエさんと波平さんペア、変なおじさんペアが好評で、
決選投票の結果、変なおじさんペアがえらばれた。
わたしたちのハトマスクも、ハトがたくさんだと気もちわるい、
という、まさにわたしの意図をくみとってもらえた。
これがカラスだと冗談にならないし、
ライオンや象のマスクでは、無表情のこわさがつたわらない。
ハトならではの不気味さが理解されたのをよろこぶ。
2020年11月18日
『忖度しません』(斎藤美奈子)むつかしい本でも斎藤さんが説明してくれるから大丈夫
『忖度しません』(斎藤美奈子・筑摩書房)
PR誌「ちくま」に連載された5年分をまとめたもの
(2015年7月号〜2020年7月号)。
『月夜にランタン』『ニッポン沈没』につづく3冊めだ。
斎藤さんが、旬のテーマをえらび、それに関連した3冊をとりあげる。
ややこしい本でも、斎藤さんがよんで内容をおしえてくれるので、
読者はとても楽にそのジャンルのうごきをしることができる。
斎藤さんは、どんな本でも手にとって、バリバリよんでいく。
自分とあわない意見がかかれた本は、
わたしだったらよむ気さえおきないけど、
斎藤さんはめんどくさがらずに、どれどれと、まずよんでみる。
自分でよまなくても、斎藤さんがかわりによんでくれて、
内容をわかりやすくおしえてくれるのだから、
かんがえてみたら、すごくありがたいサービスだ。
もっとも、斎藤さんと相性があわないひとは、
このシリーズをよんでもそんなにおもしろくないかもしれない。
わたしは斎藤美奈子さんのデビュー作である
『妊娠小説』をよんで、するどいきりくちにすっかり感心した。
それ以来、書評家としての斎藤さんを信頼し、
わたしが理解できないうごきについて、おしえてもらっている。
『忖度しません』は、5つの章にわかれ、
番外編として新型コロナウイルスもとりあげている。
章だては下記のとおり。
・バカが世の中を悪くする、とか言ってる場合じゃない
・戦後日本の転換点はいつだったのか
・わかったつもりになっちゃいけない、地方の現在地
・文学はいつも現実の半歩先を行っている
・当事者が声を上げれば、やっぱり事態は変わるのだ
政治や経済がどう うごいているかは、わたしにはわかりにくい。
それらをあつかった本は、とても自分からはよまないし
斎藤さんに解説してもらわないと、よんでもわからない本ばかりだ。
そんなわたしでも、文学についての章はすんなり頭にはいる。
1972年にかかれた『恍惚の人』から50年ちかくたち、
小説は認知症をどうとらえるようになったか。
仕事や勉強で介護の本をよむのは気がおもいけど、
斎藤さんがおもしろそうに紹介してくれるとよみたくなる。
よむべき本はたくさんあるのに、理解できる本はかぎられている。
信頼できる書評家がいてくれるのは、すごくたすかる。
PR誌「ちくま」に連載された5年分をまとめたもの
(2015年7月号〜2020年7月号)。
『月夜にランタン』『ニッポン沈没』につづく3冊めだ。
斎藤さんが、旬のテーマをえらび、それに関連した3冊をとりあげる。
ややこしい本でも、斎藤さんがよんで内容をおしえてくれるので、
読者はとても楽にそのジャンルのうごきをしることができる。
斎藤さんは、どんな本でも手にとって、バリバリよんでいく。
自分とあわない意見がかかれた本は、
わたしだったらよむ気さえおきないけど、
斎藤さんはめんどくさがらずに、どれどれと、まずよんでみる。
自分でよまなくても、斎藤さんがかわりによんでくれて、
内容をわかりやすくおしえてくれるのだから、
かんがえてみたら、すごくありがたいサービスだ。
もっとも、斎藤さんと相性があわないひとは、
このシリーズをよんでもそんなにおもしろくないかもしれない。
わたしは斎藤美奈子さんのデビュー作である
『妊娠小説』をよんで、するどいきりくちにすっかり感心した。
それ以来、書評家としての斎藤さんを信頼し、
わたしが理解できないうごきについて、おしえてもらっている。
『忖度しません』は、5つの章にわかれ、
番外編として新型コロナウイルスもとりあげている。
章だては下記のとおり。
・バカが世の中を悪くする、とか言ってる場合じゃない
・戦後日本の転換点はいつだったのか
・わかったつもりになっちゃいけない、地方の現在地
・文学はいつも現実の半歩先を行っている
・当事者が声を上げれば、やっぱり事態は変わるのだ
政治や経済がどう うごいているかは、わたしにはわかりにくい。
それらをあつかった本は、とても自分からはよまないし
斎藤さんに解説してもらわないと、よんでもわからない本ばかりだ。
そんなわたしでも、文学についての章はすんなり頭にはいる。
1972年にかかれた『恍惚の人』から50年ちかくたち、
小説は認知症をどうとらえるようになったか。
〈おほらのゆうこうが、そっちであれして、こう、わーっと、二階にさ、こっつるというか、なんというか、その、そもろるようなことが、あるだろう?〉(中略)『長いお別れ』は父の摩訶不思議な「ハナモゲラ語(?)を書きとめている点である。彼らの言葉が放つ巧まざるユーモアは、得もいわれる味を作品に加え、読者に開放感を与えるのだ。(中略)
現実はそんなに甘くない、といわれればその通り。だが、私たちが家族の認知症と、あるいは自身の認知症と付き合っていかなければならないのであれば、絶望よりは希望、暗いよりは明るいほうがいいいに決まっている。妄想を描くのが得意な文学は、存外、認知症との相性がいい。
仕事や勉強で介護の本をよむのは気がおもいけど、
斎藤さんがおもしろそうに紹介してくれるとよみたくなる。
よむべき本はたくさんあるのに、理解できる本はかぎられている。
信頼できる書評家がいてくれるのは、すごくたすかる。
2020年11月17日
けっきょく来年もほぼ日手帳に
すこしまえの記事に、来年はほぼ日以外の手帳、とかいた。
注文したほぼ日手帳がせっかくおくられてきたのに、
不在通知に気づかず、そのままきめられた日数がすぎてしまい、
手帳がふたたびほぼ日ストアまでもどされてしまったからだ。
そのあとほぼ日から、再発送はいつにしますか?
というメールがきていたのに、なぜか受信トレイに表示されず、
再発送の機会もまたふいにしてしまった。
メール内で「ほぼ日」を検索し、はじめてそのメールをよんだ。
「すべてのメール」ボタンをおしたら表示されたので、
Gメールの設定により、よりわけているのかもしれない。
なぜこんなことがおこるのか、さっぱりわからない。
ほぼ日のひとからみたら、
たびかさなる連絡をずっと無視した
ろくでもないお客であるわたしなのに、
とてもていねいで、かんじのいいメールだ。
受信トレイの表示からもれており、
再確認のメールに気づかなかったことをおわびする。
またおなじようなことがくりかえされてはよくないので、
ほぼ日での注文はあきらめ、
来年は、予定どおりほぼ日以外の手帳でしのぐことにする。
で、本屋さんへいき、来年の手帳コーナーをみるけど、
1日1ページというスタイルの手帳はおいてなかった。
ありそうでないのが1日1ページのようだ。
ネットでしらべると、A6サイズならあったけど、
もちはこびはそんなにしないので、A5のほうが都合がいい。
A5の1日1ページにかきなれると、A6はいかにもせまい。
1日1ページなんてあたりまえかとおもっていたのに、
手帳のおおくはよくて2日で1ページだ。
ほぼ日手帳の人気は、それまでになかった1日1ページの様式が
つよくもとめられているからではないか。
もちろん、ほかにもこまかなところまで目がいきとどき、
おせっかいとおもえるほど、いたりつくせりの手帳でもある。
このまえの記事には、ほぼ日の商品はたかくてこまる、
みたいなことをかいたのに、
手帳うり場をちょっとさがしただけですぐにあきらめて
やはりなれたほぼ日のほうがいいとコロッとかわる。
われながら自分勝手なヘタレだ。
A5で1日1ページの手帳なら、
3850円はしかたがない値段だと納得し、
あらたにアマゾンでカズンを注文した。
注文したほぼ日手帳がせっかくおくられてきたのに、
不在通知に気づかず、そのままきめられた日数がすぎてしまい、
手帳がふたたびほぼ日ストアまでもどされてしまったからだ。
そのあとほぼ日から、再発送はいつにしますか?
というメールがきていたのに、なぜか受信トレイに表示されず、
再発送の機会もまたふいにしてしまった。
メール内で「ほぼ日」を検索し、はじめてそのメールをよんだ。
「すべてのメール」ボタンをおしたら表示されたので、
Gメールの設定により、よりわけているのかもしれない。
なぜこんなことがおこるのか、さっぱりわからない。
ご注文いただいた商品につきまして、
先日、ご不在のため商品をお届けできない旨を
メールでご連絡いたしましたが、
1週間お待ちいたしましても
ご連絡をいただくことができませんでしたので、
たいへん勝手ながらキャンセルさせていただきました。
なにとぞご了承いただきますようお願いいたします。
今後とも「ほぼ日刊イトイ新聞」
ならびに「ほぼ日ストア」を
どうぞよろしくお願いいたします。
ほぼ日のひとからみたら、
たびかさなる連絡をずっと無視した
ろくでもないお客であるわたしなのに、
とてもていねいで、かんじのいいメールだ。
受信トレイの表示からもれており、
再確認のメールに気づかなかったことをおわびする。
またおなじようなことがくりかえされてはよくないので、
ほぼ日での注文はあきらめ、
来年は、予定どおりほぼ日以外の手帳でしのぐことにする。
で、本屋さんへいき、来年の手帳コーナーをみるけど、
1日1ページというスタイルの手帳はおいてなかった。
ありそうでないのが1日1ページのようだ。
ネットでしらべると、A6サイズならあったけど、
もちはこびはそんなにしないので、A5のほうが都合がいい。
A5の1日1ページにかきなれると、A6はいかにもせまい。
1日1ページなんてあたりまえかとおもっていたのに、
手帳のおおくはよくて2日で1ページだ。
ほぼ日手帳の人気は、それまでになかった1日1ページの様式が
つよくもとめられているからではないか。
もちろん、ほかにもこまかなところまで目がいきとどき、
おせっかいとおもえるほど、いたりつくせりの手帳でもある。
このまえの記事には、ほぼ日の商品はたかくてこまる、
みたいなことをかいたのに、
手帳うり場をちょっとさがしただけですぐにあきらめて
やはりなれたほぼ日のほうがいいとコロッとかわる。
われながら自分勝手なヘタレだ。
A5で1日1ページの手帳なら、
3850円はしかたがない値段だと納得し、
あらたにアマゾンでカズンを注文した。
2020年11月16日
サッカー国際親善試合 日本対パナマ 遠藤の活躍に気づかなかい サッカー音痴のわたし
サッカー国際親善試合
日本対パナマ 1-0で日本
この試合でひかったのは、なんといっても遠藤だ、
とかきたいところだけど、
わたしには遠藤のよさがそれほどみえなかった。
後半から遠藤がはいると、実況のアナウンサーと、
解説の風間さんは、ずっと遠藤の名前ばかりあげていた。
みるひとがみれば、遠藤のうごきは、
それだけとびぬけていたのだろう。
たしかに遠藤はよみが正確で、
味方からのボールをひきだしてはまえにおくっていた。
ただ、遠藤が絶妙な場所に顔をだしていることなど、
とてもわたしには気づかないうごきで、
もういちど試合をみなおしても、感想はかわらなかった。
わたしはサッカーずきのサッカー音痴ということが
残念ながらよくわかる試合だった。
遠藤選手は、ブンデスリーガでデュアルが一番と、
実況アナウンサーが紹介していた。
ひとにつよく、ボールをうばわれない。
あとだしジャンケンみたいでかっこわるいけど、
ごついからだつきは、たしかに目をみはるものがある。
この試合にあつまったのは、先月とおなじように、
すべてヨーロッパのチームに所属する選手だ。
わたしがよくしらない選手もいて、
とおくからの映像では、どの選手なのかわからない。
遠藤選手の活躍に気づかなかったように、
いったいだれがなにをしているのかさっぱりになる。
ひとむかしまえの日本代表なら、
とおくからみても、だれなのかだいたいわかったのに、
顔ぶれがかわると とたんについていけなくなった。
けっきょく、サッカーがわかってないただのおやじだ。
遠藤といえばむかしはヤットさんだったと、
ふるいファンはぶつぶついいわけする。
パナマはおしいシーンをなんどもつくっていた。
ゴールまえにせまり、日本はギリギリのシュートブロックで
なんどふせいでいたことか。
日本の攻撃も、さいごのところできめきれず、
けっきょくはPKでえた1点にとどまっている。
パナマにもうすこし決定力があれば、
1-3でまけていても不思議ではない試合だ。
日本は終盤にはいった浅野と鎌田が、
たてつづけにゴールまでせまったのに、
キーパーと1対1になるとあわててしまい、きめきれない。
1-0でかったものの、もっと得点がほしかった試合だ。
日本対パナマ 1-0で日本
この試合でひかったのは、なんといっても遠藤だ、
とかきたいところだけど、
わたしには遠藤のよさがそれほどみえなかった。
後半から遠藤がはいると、実況のアナウンサーと、
解説の風間さんは、ずっと遠藤の名前ばかりあげていた。
みるひとがみれば、遠藤のうごきは、
それだけとびぬけていたのだろう。
たしかに遠藤はよみが正確で、
味方からのボールをひきだしてはまえにおくっていた。
ただ、遠藤が絶妙な場所に顔をだしていることなど、
とてもわたしには気づかないうごきで、
もういちど試合をみなおしても、感想はかわらなかった。
わたしはサッカーずきのサッカー音痴ということが
残念ながらよくわかる試合だった。
遠藤選手は、ブンデスリーガでデュアルが一番と、
実況アナウンサーが紹介していた。
ひとにつよく、ボールをうばわれない。
あとだしジャンケンみたいでかっこわるいけど、
ごついからだつきは、たしかに目をみはるものがある。
この試合にあつまったのは、先月とおなじように、
すべてヨーロッパのチームに所属する選手だ。
わたしがよくしらない選手もいて、
とおくからの映像では、どの選手なのかわからない。
遠藤選手の活躍に気づかなかったように、
いったいだれがなにをしているのかさっぱりになる。
ひとむかしまえの日本代表なら、
とおくからみても、だれなのかだいたいわかったのに、
顔ぶれがかわると とたんについていけなくなった。
けっきょく、サッカーがわかってないただのおやじだ。
遠藤といえばむかしはヤットさんだったと、
ふるいファンはぶつぶついいわけする。
パナマはおしいシーンをなんどもつくっていた。
ゴールまえにせまり、日本はギリギリのシュートブロックで
なんどふせいでいたことか。
日本の攻撃も、さいごのところできめきれず、
けっきょくはPKでえた1点にとどまっている。
パナマにもうすこし決定力があれば、
1-3でまけていても不思議ではない試合だ。
日本は終盤にはいった浅野と鎌田が、
たてつづけにゴールまでせまったのに、
キーパーと1対1になるとあわててしまい、きめきれない。
1-0でかったものの、もっと得点がほしかった試合だ。
2020年11月15日
『未来少年コナン』がおわってしまった
デジタルリマスター版による『未来少年コナン』がおわった。
日曜日の深夜0時10分からの放送だったので、
子どもたちがみるにはおそすぎる時間だ。
いまの子どもたちが もしコナンをみたら、
どんな反応をしめすだろうか。
できれば夕方の時間帯に放送してほしかった。
とはいえ、いまのテレビには録画機能がある。
お父さんかお母さんのどちらかでも、
『未来少年コナン』のすばらしさをしっていたら、
録画して子どもたちといっしょにたのしめる。
なんとか子どもたちがコナンにせっする機会をつくれないものか。
わたしは、むすこが保育園にかよっていたころ、
もっていたコナンのビデオテープをみせた。
すばらしいくいつきで、むすこがすきなシーンを、
なんどもなんどもくりかえし再現させられたものだ。
たとえばコナンがジムシーのいる島にながれつき、
ふたりがちからくらべをする場面。
コナンがたおれたふりをして、
ジムシーをおびきよせるところからはじまり、
ジムシーが「ひゃくきゅうじゅうきゅうまん・・・」と、
しとめたトカゲのかずを、
めちゃくちゃな数字でかぞえるところをふくめ、
えんえんとむすことふたりでの
コナンとジムシーごっこをやらされた。
むすこがわたしのことを「おとう」というのは
もちろんコナンの影響だし、
おじいちゃんのことは、とうぜんながら「おじい」とよぶ。
逆だ。おじいとよぶから、父親は「おとう」になるのだ。
あれからすでに20年がすぎたけど、いまの子どもたちだって、
きっとコナンをおもしろがってくれるにちがいない。
25話の「インダストリアの最期」は、
BSカードが挿入されていません、という
よくあるトラブルで、録画されていなかった。
あわててツタヤでDVDをかり、26話までをみおえた。
いまさらながら、文句なしにおもしろかった。
42年まえの作品なのに、ぜんぜんふるくない。
最終話である26話では、ハイハーバーからのこされ島へ、
あたらしい村をつくるためにひとびとが旅だつ。
ようやく陸がみえ、島についたとおもったけど、
のこされ島にしてはおおきすぎる。
山のてっぺんに、なにか塔のようなものがみえ、
やがてそれはコナンがすんでいたロケット小屋だとわかる。
さいごのセリフは、
「ロケット小屋があんなにたかく」(ラナ)
「かえってきた!かえってきたんだ!!」(コナン)
だった。
コナンがラナをたすけだすためにのこされ島をはなれ、
ものすごくいろんなことがあり、ようやくまた
のこされ島にかえってきた。
なんという壮大なものがたりだったことか。
わたしがはじめてコナンをみたのは高校3年生のときだった。
コナンの勇気。ラナへの絶対的なおもい。
ラナのつよい気もち。
すべてがわたしのこころをはげしくゆさぶった。
いまの子どもたちだって、いちどみる機会さえあれば、
きっとコナンのすばらしさをわかってくれる。
夕方の時間に再放送されたら 世界はかわる。
日曜日の深夜0時10分からの放送だったので、
子どもたちがみるにはおそすぎる時間だ。
いまの子どもたちが もしコナンをみたら、
どんな反応をしめすだろうか。
できれば夕方の時間帯に放送してほしかった。
とはいえ、いまのテレビには録画機能がある。
お父さんかお母さんのどちらかでも、
『未来少年コナン』のすばらしさをしっていたら、
録画して子どもたちといっしょにたのしめる。
なんとか子どもたちがコナンにせっする機会をつくれないものか。
わたしは、むすこが保育園にかよっていたころ、
もっていたコナンのビデオテープをみせた。
すばらしいくいつきで、むすこがすきなシーンを、
なんどもなんどもくりかえし再現させられたものだ。
たとえばコナンがジムシーのいる島にながれつき、
ふたりがちからくらべをする場面。
コナンがたおれたふりをして、
ジムシーをおびきよせるところからはじまり、
ジムシーが「ひゃくきゅうじゅうきゅうまん・・・」と、
しとめたトカゲのかずを、
めちゃくちゃな数字でかぞえるところをふくめ、
えんえんとむすことふたりでの
コナンとジムシーごっこをやらされた。
むすこがわたしのことを「おとう」というのは
もちろんコナンの影響だし、
おじいちゃんのことは、とうぜんながら「おじい」とよぶ。
逆だ。おじいとよぶから、父親は「おとう」になるのだ。
あれからすでに20年がすぎたけど、いまの子どもたちだって、
きっとコナンをおもしろがってくれるにちがいない。
25話の「インダストリアの最期」は、
BSカードが挿入されていません、という
よくあるトラブルで、録画されていなかった。
あわててツタヤでDVDをかり、26話までをみおえた。
いまさらながら、文句なしにおもしろかった。
42年まえの作品なのに、ぜんぜんふるくない。
最終話である26話では、ハイハーバーからのこされ島へ、
あたらしい村をつくるためにひとびとが旅だつ。
ようやく陸がみえ、島についたとおもったけど、
のこされ島にしてはおおきすぎる。
山のてっぺんに、なにか塔のようなものがみえ、
やがてそれはコナンがすんでいたロケット小屋だとわかる。
さいごのセリフは、
「ロケット小屋があんなにたかく」(ラナ)
「かえってきた!かえってきたんだ!!」(コナン)
だった。
コナンがラナをたすけだすためにのこされ島をはなれ、
ものすごくいろんなことがあり、ようやくまた
のこされ島にかえってきた。
なんという壮大なものがたりだったことか。
わたしがはじめてコナンをみたのは高校3年生のときだった。
コナンの勇気。ラナへの絶対的なおもい。
ラナのつよい気もち。
すべてがわたしのこころをはげしくゆさぶった。
いまの子どもたちだって、いちどみる機会さえあれば、
きっとコナンのすばらしさをわかってくれる。
夕方の時間に再放送されたら 世界はかわる。
2020年11月14日
祝『本の雑誌』45周年&450号
『本の雑誌 12月号』は、「45周年&450号記念号」。
「本の雑誌」の45年をふりかえった
「本の雑誌事件簿」がおもしろかった。
現在の職員や、これまでにはたらいていたひと、
それに「本の雑誌」とふかくかかわりのある関係者が、
「本の雑誌」について おもいでをかたる。
「10大事件簿」は編集長の浜本さんによるもので、
「目黒考二ロックアウト」(部屋にはいれなくなっただけ)、
「目黒考二尿管結石に罹患」など、
「本の雑誌」らしく、どうでもいい「事件」がおおいなか、
「休刊危機」(2008年)や「菊池寛賞受賞」は
たしかに「10大事件」にえらばれるべきできごとだった。
とくに休刊危機は、きゅうにしらされた経営不振であり、
このさきどうなるか不安だったのをぼえている。
「本の雑誌」が、もし休刊になったら。
むかしみたいに隔月や季刊にしたら、という手もあるけど、
雑誌はいちど休刊になると、事実上それっきりになってしまう。
わたしには、本についてはなせるしりあいがすくなく、
この雑誌をひらくのは、同好の士があつまる
部室をおとずれるようなかんじがしている。
ことしは新型コロナウイルスがひろまるなか、
それでもあたらしい号をだしつづけてくれる「本の雑誌社」の存在が、
どれだけありがたいか はかりしれない。
毎月の特集では、本にまつわる あたらしいうごきにふれられるし、
「新刊めったくたガイド」は、旬のおもしろ本をおしえてくれる。
ときどきぶあつい海外ミステリーをよみたくなると、
「本の雑誌」からの情報はとてもありがたい。
わたしごのみの連載も、いつもいくつか用意されている。
いまは宮田珠己さんの「私がロト7に当たるまで」と、
高野秀行さんの「SF音痴が行くSF古典宇宙の旅」がたのしい。
目次をながめていると、あらためて雑多な内容なのがわかる。
450号もつづけてきて、よく毎月「特集」をくめるものだ。
12月号のさいごのほうに、
「本の雑誌社が45年間に刊行した単行本と別冊・増刊号」
の一覧がのっている。
8ページにわたる壮観なリストに、
「本の雑誌」がつみあげてきた歴史をおもう。
単行本をよむだけが、本のたのしみではなく、
すぐれた「雑誌」(という名の本だけど)もまた、
活字中毒者にはなくてはならない。
こんな本は、「本の雑誌」にしかつくれない。
あたりまえのように、毎月あたらしい
『本の雑誌』をひらけるしあわせをおもう。
これからも、ずっと「本の雑誌」とともに生きていきたい。
「本の雑誌」の45年をふりかえった
「本の雑誌事件簿」がおもしろかった。
現在の職員や、これまでにはたらいていたひと、
それに「本の雑誌」とふかくかかわりのある関係者が、
「本の雑誌」について おもいでをかたる。
「10大事件簿」は編集長の浜本さんによるもので、
「目黒考二ロックアウト」(部屋にはいれなくなっただけ)、
「目黒考二尿管結石に罹患」など、
「本の雑誌」らしく、どうでもいい「事件」がおおいなか、
「休刊危機」(2008年)や「菊池寛賞受賞」は
たしかに「10大事件」にえらばれるべきできごとだった。
とくに休刊危機は、きゅうにしらされた経営不振であり、
このさきどうなるか不安だったのをぼえている。
「本の雑誌」が、もし休刊になったら。
むかしみたいに隔月や季刊にしたら、という手もあるけど、
雑誌はいちど休刊になると、事実上それっきりになってしまう。
わたしには、本についてはなせるしりあいがすくなく、
この雑誌をひらくのは、同好の士があつまる
部室をおとずれるようなかんじがしている。
ことしは新型コロナウイルスがひろまるなか、
それでもあたらしい号をだしつづけてくれる「本の雑誌社」の存在が、
どれだけありがたいか はかりしれない。
毎月の特集では、本にまつわる あたらしいうごきにふれられるし、
「新刊めったくたガイド」は、旬のおもしろ本をおしえてくれる。
ときどきぶあつい海外ミステリーをよみたくなると、
「本の雑誌」からの情報はとてもありがたい。
わたしごのみの連載も、いつもいくつか用意されている。
いまは宮田珠己さんの「私がロト7に当たるまで」と、
高野秀行さんの「SF音痴が行くSF古典宇宙の旅」がたのしい。
目次をながめていると、あらためて雑多な内容なのがわかる。
450号もつづけてきて、よく毎月「特集」をくめるものだ。
12月号のさいごのほうに、
「本の雑誌社が45年間に刊行した単行本と別冊・増刊号」
の一覧がのっている。
8ページにわたる壮観なリストに、
「本の雑誌」がつみあげてきた歴史をおもう。
単行本をよむだけが、本のたのしみではなく、
すぐれた「雑誌」(という名の本だけど)もまた、
活字中毒者にはなくてはならない。
こんな本は、「本の雑誌」にしかつくれない。
あたりまえのように、毎月あたらしい
『本の雑誌』をひらけるしあわせをおもう。
これからも、ずっと「本の雑誌」とともに生きていきたい。
2020年11月13日
服部勇馬選手「マラソンは、心で走る」
服部勇馬選手をとりあげた「マラソンは、心で走る」をみる。
服部選手といえば、きょねんおこなわれたマラソン代表の選考レース、
MGC(マラソン=グランド=チャンピオンシップ)での
ねばりづよいはしりが印象にのこっている。
マラソン選手らしからぬ発達した上半身とふとい下半身で、
表情をかえず、安定したはしりをみせる服部選手。
番組によると、新潟県の雪のおおい町でそだった服部選手は、
グランドのない中学で陸上をはじめた。
冬のあいだははしることもままならず、
半年間はクロスカントリースキーにきりかえる。
おおくうでをふるスキーのフォームにより、
長距離をはしる体幹がきたえられた。
高校は宮城県へすすみ、このときに東日本大震災を体験している。
練習どころか、競技場にはいることさえできなくなる。
震災で、おおくの大会が中止になるなか、
顧問の先生たちが全国高校駅伝の県予選の開催にむけてうごきだす。
大会をめざし、1年なり3年なり努力してのぞむ子どもたち。
高校生にとっては最大の舞台となるので、
なんとか体験させてあげたい、という先生の気もちがありがたい。
先生の気もちがまわりをうごかし、おおくのひとの協力をえて、
陸上自衛隊の駐屯地をかりてのレースがひらかれた。
このときの体験から服部選手は、
いつもの日常があたりまえではないこと、
自分たちがはしれるのは、
たくさんのひとにささえられているから、
というおもいをつよくする。
服部選手は、いまでもマラソンでくるしいときは、
こうしてはしることができるのは、
おおくのひとのおかげだと、いいきかせているという。
なんのためにはしるのか、というといかけにたいし、
たいていの選手は日の丸をせおってオリンピックにでたい、
みたいなことをいうのに、服部選手だけは
「自分をたかめるため」とこたえたと、
マラソン解説者の増田明美さんが番組ではなしている。
とてもストイックな、日本人のいい面がでている選手だ。
オリンピックが1年延期となったことし、
服部選手はにがてのスピードを克服しようと、
キロ2分40秒のペースではしるトレーニングにとりくんだ。
それまでの服部選手のペースはキロ2分50秒なので、
それよりも10秒はやい。
もし東京オリンピックが中止になったら、
どうやって生きていこう、とかんがえたときもあったけど、
はしっているのは自分だけではないのだから、
どんなときにでも前をむいて、いちにちいちにちを
大切にすごしていけば、きっと道がみつかるはず、
とはなす服部選手。
新型コロナウイルスの感染がおちつかないなか、
ちからづくでオリンピックをひらこうとする
IOCや東京都、そして日本政府のやり方にわたしは反対で、
東京オリンピックは中止になればいいとおもっている。
それでも練習にとりくむ服部選手をみていると、
オリンピックではしってもらいたい、と気もちがゆれる。
でもまあ、それはそれ、これはこれ、だ。
服部選手なら、東京オリンピックが中止になっても、
その体験をまえむきにとらえ、
きっとすぐれたランナーへと成長するだろう。
マラソンはこころではしるのだから、
その舞台が東京オリンピックでなくなっても
服部選手ならのりこえて、あたらしい道をしめしてくれる。
服部選手といえば、きょねんおこなわれたマラソン代表の選考レース、
MGC(マラソン=グランド=チャンピオンシップ)での
ねばりづよいはしりが印象にのこっている。
マラソン選手らしからぬ発達した上半身とふとい下半身で、
表情をかえず、安定したはしりをみせる服部選手。
番組によると、新潟県の雪のおおい町でそだった服部選手は、
グランドのない中学で陸上をはじめた。
冬のあいだははしることもままならず、
半年間はクロスカントリースキーにきりかえる。
おおくうでをふるスキーのフォームにより、
長距離をはしる体幹がきたえられた。
高校は宮城県へすすみ、このときに東日本大震災を体験している。
練習どころか、競技場にはいることさえできなくなる。
震災で、おおくの大会が中止になるなか、
顧問の先生たちが全国高校駅伝の県予選の開催にむけてうごきだす。
大会をめざし、1年なり3年なり努力してのぞむ子どもたち。
高校生にとっては最大の舞台となるので、
なんとか体験させてあげたい、という先生の気もちがありがたい。
先生の気もちがまわりをうごかし、おおくのひとの協力をえて、
陸上自衛隊の駐屯地をかりてのレースがひらかれた。
このときの体験から服部選手は、
いつもの日常があたりまえではないこと、
自分たちがはしれるのは、
たくさんのひとにささえられているから、
というおもいをつよくする。
服部選手は、いまでもマラソンでくるしいときは、
こうしてはしることができるのは、
おおくのひとのおかげだと、いいきかせているという。
なんのためにはしるのか、というといかけにたいし、
たいていの選手は日の丸をせおってオリンピックにでたい、
みたいなことをいうのに、服部選手だけは
「自分をたかめるため」とこたえたと、
マラソン解説者の増田明美さんが番組ではなしている。
とてもストイックな、日本人のいい面がでている選手だ。
オリンピックが1年延期となったことし、
服部選手はにがてのスピードを克服しようと、
キロ2分40秒のペースではしるトレーニングにとりくんだ。
それまでの服部選手のペースはキロ2分50秒なので、
それよりも10秒はやい。
もし東京オリンピックが中止になったら、
どうやって生きていこう、とかんがえたときもあったけど、
はしっているのは自分だけではないのだから、
どんなときにでも前をむいて、いちにちいちにちを
大切にすごしていけば、きっと道がみつかるはず、
とはなす服部選手。
新型コロナウイルスの感染がおちつかないなか、
ちからづくでオリンピックをひらこうとする
IOCや東京都、そして日本政府のやり方にわたしは反対で、
東京オリンピックは中止になればいいとおもっている。
それでも練習にとりくむ服部選手をみていると、
オリンピックではしってもらいたい、と気もちがゆれる。
でもまあ、それはそれ、これはこれ、だ。
服部選手なら、東京オリンピックが中止になっても、
その体験をまえむきにとらえ、
きっとすぐれたランナーへと成長するだろう。
マラソンはこころではしるのだから、
その舞台が東京オリンピックでなくなっても
服部選手ならのりこえて、あたらしい道をしめしてくれる。
2020年11月12日
『パリ行ったことないの』(山内マリコ)
『パリ行ったことないの』(山内マリコ・集英社文庫)
連作短編集。
第1部は、パリへいきたい9人の女性について、
ひとりに1話ずつ、それぞれの事情がかたられる。
たとえば第1話のあゆこは35歳で、
これまでパリどころか外国へいったことがない。
友だちとはなしていても、
「行ってみたいとは思ってるけど行けないの、猫いるし」
といいわけして別の話題へうつる。
高校生のときよんでいた『フィガロ』で
映画『ディディーヌ』についてかかれた記事をよみ、
まるで自分のことをいわれているようで気になった。
『ディディーヌ』は日本で上映されなかったので、
当時のあゆこにこの作品をみる機会はなかった。
それから18年たち、あゆこはあいかわらず
なにがやりたいかもわからずに、フラフラ生きている。
第1部は、そんなかんじで、9人の女性についてかたられる。
みんなそれぞれいろんな理由からパリへいきたい。
10話には、ふたたびあゆこが登場する。
このときのあゆこは、すでにいちどパリへいっていた。
でも、おもったような旅行にならなかったあゆこは、
こんどはパリでくらそうとかんがえている。
以前は、旅行にいかないのをネコのせいにしていたけど、
そのネコを友だちにあずけ、あゆこはパリへふたたび旅だつ。
ネコのことを心配する友だちに、
とあっけらかんという(たしかにネコって、そういうところがある)。
というかんじで第1部がすすめば、
第2部は、その9人がパリへいってからのはなしになるだろう。
9人がどうからみあうのか、たのしみにしていたら、 ツアーだった。
ツアーという手があったか。 まあ、そうだろうな。
このツアーを企画したのが、
パリの旅行会社ではたらくようになったあゆこだ。
8月のパリは、おおくのひとがバカンスをとり、
お店はやすみでかいものもできない。
そこであゆこは、南仏のプロバンス地方へでかけ、
フランス人のバカンスのように ただのんびりすごすツアーを企画する。
ツアーに応募してきたのは、みんな第1部でかたられたひとたちなので、
読者からすると同窓会みたいだ。
人生に生きづまりをかんじているひとがおおいせいか、
この旅行はそれぞれが特別なイベントに位置づけている。
4日間をのんびりすごすあいだに、おたがいがなかよくなり、
参加者たちはいい「旅」に満足する。
『パリ行ったことないの』だから、
パリにこだわるのかとおもってたけど、
プロバンスでのバカンスはとてもたのしそうだ。
なによりも、企画したあゆこにとって、特別なツアーとなった。
連作短編集。
第1部は、パリへいきたい9人の女性について、
ひとりに1話ずつ、それぞれの事情がかたられる。
たとえば第1話のあゆこは35歳で、
これまでパリどころか外国へいったことがない。
友だちとはなしていても、
「行ってみたいとは思ってるけど行けないの、猫いるし」
といいわけして別の話題へうつる。
高校生のときよんでいた『フィガロ』で
映画『ディディーヌ』についてかかれた記事をよみ、
主人公のディディーヌは、人生に消極的な女性。夢も意思もあるけれど、それを隠し、流されて生きている。
まるで自分のことをいわれているようで気になった。
『ディディーヌ』は日本で上映されなかったので、
当時のあゆこにこの作品をみる機会はなかった。
それから18年たち、あゆこはあいかわらず
なにがやりたいかもわからずに、フラフラ生きている。
わたしはずっと小さな女の子みたいに、いつもただ漠然と憧れるばかりで、自分の足で一歩を踏み出し、近づこうとしたことがなかったんだな。あゆこはそんな自分の性格を改めて見つめた。そしてそんな自分が、突然、猛烈に、嫌で嫌でたまらなくなった。
三十五歳にもなって、まだ十代みたいなことを言っている自分。五年後は四十歳なのに。そのうち死ぬのに。
わたし、パリにすら行かずに、死んでもいいと思ってたの?
第1部は、そんなかんじで、9人の女性についてかたられる。
みんなそれぞれいろんな理由からパリへいきたい。
10話には、ふたたびあゆこが登場する。
このときのあゆこは、すでにいちどパリへいっていた。
でも、おもったような旅行にならなかったあゆこは、
こんどはパリでくらそうとかんがえている。
以前は、旅行にいかないのをネコのせいにしていたけど、
そのネコを友だちにあずけ、あゆこはパリへふたたび旅だつ。
ネコのことを心配する友だちに、
「大丈夫、猫ってどんな目に遭っても”これが人生さ”(セ・ラ・ヴィ)って、けろっと流しちゃうから」
とあっけらかんという(たしかにネコって、そういうところがある)。
というかんじで第1部がすすめば、
第2部は、その9人がパリへいってからのはなしになるだろう。
9人がどうからみあうのか、たのしみにしていたら、 ツアーだった。
ツアーという手があったか。 まあ、そうだろうな。
このツアーを企画したのが、
パリの旅行会社ではたらくようになったあゆこだ。
8月のパリは、おおくのひとがバカンスをとり、
お店はやすみでかいものもできない。
そこであゆこは、南仏のプロバンス地方へでかけ、
フランス人のバカンスのように ただのんびりすごすツアーを企画する。
ツアーに応募してきたのは、みんな第1部でかたられたひとたちなので、
読者からすると同窓会みたいだ。
人生に生きづまりをかんじているひとがおおいせいか、
この旅行はそれぞれが特別なイベントに位置づけている。
4日間をのんびりすごすあいだに、おたがいがなかよくなり、
参加者たちはいい「旅」に満足する。
『パリ行ったことないの』だから、
パリにこだわるのかとおもってたけど、
プロバンスでのバカンスはとてもたのしそうだ。
なによりも、企画したあゆこにとって、特別なツアーとなった。
「いい旅だったなぁ」と、帰りの飛行機の中で杉浦さんが言った。
「はい、とっても」
わたしは謙遜なんかせず、はっきりと言い切った。
これは、とても素敵な旅だったと。
誰の人生にとっても、特別な時間だったと。
外国に住むなんて聞こえがいいし、パリに住んでいるというだけでなんとなく格好がついているけれど、でもだからって、すべてが解決したわけじゃない。日本でうまくやれなかったから、出口を求めて、ここへ来ただけの話だ。(中略)
〈でも、ここまでたどり着いたなんて、よくやったじゃない。
わたしにしたら上出来よ。がんばった方だわ。
自分のことをちょっとは褒めてあげてもいいんじゃない?
その気になったらニューヨークだって行けるし、
日本に帰ってももちろん大丈夫。
都会でも田舎でも、どこでだって、きっとわたしはやっていける〉
2020年11月11日
いい曲ばかりがかかるのもあんがいこまる
いつも車のラジオできいている「音楽遊覧飛行」(NHK-FM)。
今週は向谷実さんの担当によるミュージックエクスプレスで、
「秋にふさわしいピアノ中心のポップス 」を向谷さんがえらんでいる。
きのうは
・「ピアノ・マン」ビリー・ジョエル
・「レディ・マドンナ」ザ・ビートルズ
・「イマジン」ジョン・レノン
・「デスペラード(ならず者)」イーグルス
がながれた。
音楽がききたくてラジオをつけているので、
いい曲がながれるのは大歓迎だ。
でも、仕事ちゅうでもあるわけで、
きのうは農家をまわって野菜をあつめており、
そんなときにこれだけいい曲がかかると
車からおりるのがためらわれる。
そのつどじっくり曲に耳をかたむけていたら
野菜あつめがはかどらない。
マーフィーの法則どおり、ききたい曲は、
きけない状況でかかることになっている。
わたしがラジオをよくきくようになったのは、
ほんの数年まえからという、あさい歴史しかない。
それまでは、地元の放送局による番組を、
ただ音がながれていたらいいと、雑にきいていた。
それがふさわしいほど、たいした内容ではなかったし。
熱心にきくようになったのは、音楽遊覧飛行からで、
いまは担当からはなれた吉村喜彦さんの番組をすきになった。
「食と音楽でめぐる地球の旅」というタイトルで、
いろんな町のいろんなたべものを吉村さんが紹介されており、
いかにもわたしごのみの内容だ。
そのあとをひきついだのが向谷実さんで、
向谷さんの番組もわたしのお気にいりとなっている。
自分のすきなものについて
だれかがおしゃべりするのは たいていたのしい。
ゲストをまねいてはなしをきく番組は、
よほどホスト役にひとをえないと
あたりさわりのないはなしにおわってしまう。
わたしがすきなのは「トーキングウィズ松尾堂」で、
松尾貴史さんの話術が番組の魅力となっている。
ゲストをたてながら、はなしをききだすのがとてもうまい。
土曜日の午前9時からはじまる
「世界の快適音楽セレクション」もたのしい。
ゴンチチのふたりは、あらゆる音楽についてしっている。
なにをきいても「いいですね〜」と共感されるので、
そういわれると、こっちまでいい気もちになる。
今週は向谷実さんの担当によるミュージックエクスプレスで、
「秋にふさわしいピアノ中心のポップス 」を向谷さんがえらんでいる。
きのうは
・「ピアノ・マン」ビリー・ジョエル
・「レディ・マドンナ」ザ・ビートルズ
・「イマジン」ジョン・レノン
・「デスペラード(ならず者)」イーグルス
がながれた。
音楽がききたくてラジオをつけているので、
いい曲がながれるのは大歓迎だ。
でも、仕事ちゅうでもあるわけで、
きのうは農家をまわって野菜をあつめており、
そんなときにこれだけいい曲がかかると
車からおりるのがためらわれる。
そのつどじっくり曲に耳をかたむけていたら
野菜あつめがはかどらない。
マーフィーの法則どおり、ききたい曲は、
きけない状況でかかることになっている。
わたしがラジオをよくきくようになったのは、
ほんの数年まえからという、あさい歴史しかない。
それまでは、地元の放送局による番組を、
ただ音がながれていたらいいと、雑にきいていた。
それがふさわしいほど、たいした内容ではなかったし。
熱心にきくようになったのは、音楽遊覧飛行からで、
いまは担当からはなれた吉村喜彦さんの番組をすきになった。
「食と音楽でめぐる地球の旅」というタイトルで、
いろんな町のいろんなたべものを吉村さんが紹介されており、
いかにもわたしごのみの内容だ。
そのあとをひきついだのが向谷実さんで、
向谷さんの番組もわたしのお気にいりとなっている。
自分のすきなものについて
だれかがおしゃべりするのは たいていたのしい。
ゲストをまねいてはなしをきく番組は、
よほどホスト役にひとをえないと
あたりさわりのないはなしにおわってしまう。
わたしがすきなのは「トーキングウィズ松尾堂」で、
松尾貴史さんの話術が番組の魅力となっている。
ゲストをたてながら、はなしをききだすのがとてもうまい。
土曜日の午前9時からはじまる
「世界の快適音楽セレクション」もたのしい。
ゴンチチのふたりは、あらゆる音楽についてしっている。
なにをきいても「いいですね〜」と共感されるので、
そういわれると、こっちまでいい気もちになる。