新聞の投書欄をよんでいたら、
養子についてかいたものが3つならんでいた。
ひとつは8月にのった「養子という言葉 廃れさせたい」
という投書に同感、というもので、
タイトルは「養子と明かすつらさ なくなれば」。
もうひとつは、イギリスでは養子だからといって、
だれも詮索しなかった、という体験談だ。
どちらの投書も、日本社会は養子とあかしにくい、とある。
なぜ日本では養子についてネガティブなイメージがあるのか
わたしにはわからない。
養子についての日本の意識がかわらなければ、
たとえ養子という言葉をすたれさせても、
養子へのうけとめ方はかわらないのではないか。
どうして養子とあかしにくいのか。
みんなそれぞれの事情があるだろうから、
えらそうなことはいいたくないけど、
もっとかるくかんがえられないものだろうか。
犬やネコといっしょにするな、といわれそうだけど、
じつの子と養子と、なにがかわるのだろう。
自分が養子であっても、養子をむかえた側ても、
まわりがどんな反応をみせようと、
ただのおせっかいとして、無視すればいいのに。
「養子と明かすつらさ なくなれば」というひとは、
そのひとがかってにつらくかんじているだけではないか。
自分のその意識がかわらなければ、いつまでもつらいままだ。
そうおもわせる社会がわるいといったところでしかがたない。
自分にわるいところはないのだから、堂々としていたらいい。
すこしむりやりだけど、このご時世なので、
じつの子をインフルエンザ、
養子を新型コロナウイルスにおきかえてみる。
まいとし数百万のひとが感染し、
1万人死亡しているインフルエンザにもしかかっても、
それをまわりにあやまるひとはいない。
感染症なのだからおたがいさま、という意識が社会にある。
しかし、新型コロナウイルスにかかると、
そのひと個人の責任が追求され、謝罪するひとがでてくる。
おおくのひとが 感染したうしろめたさをくちにする。
社会的な圧力のつよさは、まるで犯罪人あつかいだ。
犯罪人でも、そんな対応はゆるされないはずなのに。
おなじ感染症なのだから、新型コロナウイルスも、
インフルエンザとおなじようにあつかうべきだろう。
新型コロナウイルスを、べつの病名におきかえても意味がない。
おかしなのは社会の意識のほうだから、
感染したからといって、あやまる必要はないし、
感染を「明かすつらさ なくなれば」となやまなくてもいい。