佐藤正午さんといえば競輪、
というイメージをわたしはもっている。
この本は、競輪についてかかれた6編の短編集だ。
ギャンブルをいっさいしないわたしには、
競輪をするひとの心理がわからない。
「きみは誤解している」にでてくる「僕」が、
だれもがふりむくほど美人の彼女をうしなってまで
競輪をつづける描写に、ギャンブラー独特の論理をしる。
「あと一時間だ。それでぜんぶ終わる。終わったら、僕は以前の僕に戻ってきみのことを考える、約束するよ、今度の休みにはきみの親に挨拶に行く」
「あと一時間で何が終わるの?」
「今日の第8レース・・・」(中略)
「どこが最期なの」案の定マリは怒った。「8レースのあとは9レースがあるじゃないの」(中略)
「二百万ある、ぜんぶ競輪で儲けた金なんだ、これを8レースの2-5に賭ける、それで最後にしたいと思ってる」(中略)
「気は確かなの?」
「最後にしたいと言ってるだろう、僕はギャンブラーになりたいと言ってるわけじゃない。これを賭けてみたいだけだ」
「もし当たったらどうするの」
「結婚式を派手にする」
「遠くへ」には、佐藤正午さんの競輪観があらわれている。
おおきくはまけないけど、つまらないかけかたがあるのだ。
彼女は男のギャンブルに対する姿勢に疑問を持ちはじめた。だいいち、大穴を狙いながら同時に本命も押さえておく、どっちに転んでもいいという、その考え方自体が曖昧でだらしがない。(中略)三十三通りある買い目のうち十通りも買いあさる男には、競輪を理解する能力もギャンブルに挑戦する資格もありはしない、とまで彼女は考えたじめた。
「女房はくれてやる」には、
競輪にはまりこみ、妻と店をうしなう男性がでてくる。
妻をとられたのは競輪選手だ。
男性は、おちるところまでおちたあげく、
けっきょくその選手にかけておおきくかち、
なんとか生活をたてなおせた。
いちど地獄をみたひとのすごみ、
そしてたちなおっていく人生のあやがうまい。
要するにこういうことだ。おれに言わせりゃギャンブルの手を借りなくても人生なんてもともと狂ってる。おれはそう思う。気をつけたほうがいい。いつ何が起こるかわからない。ギャンブルに手を出そうと出すまいと、おれもあんたも狂った人生の真っ只中にいるんだ、実際のところ。
この本をつくるのにかかわった岩波書店の編集者、
坂本政謙さんによる解説がとてもいい。
「付録」に佐藤正午さんがかいていることは、いかにでたらめで、
「九割方、ウソ」なのをあきらかにしている。
といっても、そのウソを非難しているのではなく、
「小説的真実が生まれている」とうけとめているのがさすが編集者だ。
ただ、書いた本人が、「僕、そんな手紙もらった?」とか「そんなこと言ったかなぁ」などと、自分がつくりだした小説的真実を事実だと思い込んでしまっていることには、大いに問題があるのですが。
がオチになっている。