2021年02月28日

朝日新聞beの「コロコロ毛玉日記」がなんとなくたのしみ

朝日新聞の土曜日版beに、しばらくまえから
「コロコロ毛玉日記」というマンガが連載されている。
中川いさみさんによる作で、ケダマという名のネコが主人公だけど、
ネコだけに、とくべつ役にたつ情報はなく、
作者がケダマとすごしてかんじたことを、ただえがいているだけだ。
それでマンガとしてなりたつのは、ケダマがネコだからで、
ケダマがなにをしても、それはそれと、おおめにみられる。
いちどなど、ケダマがひとコマも顔をださない回があった。
作者の娘さんがもんじゃ焼きを注文するはなしで、
「もんじゃ焼きはよくわからない」になんとなく納得する。
それでも連載がなりたってしまうのだから、
いかにもネコマンガ的ゆるさが、ネコずきの気をひくのだろう。

ケダマはもう子ネコではなく おとなのネコで
(あとでしらべたら、連載がはじまった時点で1歳半)、
顔つきもそうかわいらしくはない。
ケダマがひっくりかえってお腹をなでさせる、とか、
予知能力があるかのように、ひとのうごきをさきよみする、とか、
ネコあるあるのはなしが 淡々とえがかれている。
作者とケダマとの関係は、ネコかわいがりするわけではなく、
しずかにケダマのうごきを観察する、というつきあい方だ。
なんで そんなことをわざわざ連載マンガにするのかというと、
しつこいけど、ケダマがネコだから、ということと、
新型コロナウイルによる自粛生活が背景にありそうだ。
家にいる時間が まえよりもながくなり、
必然的にながい時間をネコといっしょにすごす。
どうしても、目にはいるのはケダマの日常であり、
役にたたないからこそ ケダマの存在にすくわれる。

それに、ケダマはとくにわるさをするわけではないようだ。
わたしの家のネコについてかくと、
もうすぐ3歳のココは行儀がわるく、食事の時間になると
テーブルのうえにあがっておかずをねらう。
スキあらば、ではなく、強引にうばおうとする。
生後8ヶ月のプリンは食がほそくて、
ネコごはんをすすめてもなかなかたべない。
テーブルのうえにあがっても、おとなしくすわっているだけ。
プリンはぜんぜん問題がないかというと、もちろんある。
プリンはまだ去勢手術をしてないせいか、
ときどきのスプレー行為になやまされている。
あらった食器がふせてあるカゴにむけて、
これまでに2どスプレーをした。わたしのパジャマにも3ど。
こまったような声をあげながら、おしりをつきだして
アッとおもったときは もうスプレーがはなたれている。

「コロコロケダマ」にわるさがえがかれないのは、
苦情をうったえても マンガにならないから、かもしれない。
ネコとのくらしは、こまったうごきもうけいれるしかない。
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posted by カルピス at 22:12 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月27日

デイリーポータルZの「寒中水泳は楽しい」に むかしをおもいだす

デイリーポータルZの「寒中水泳は楽しい」をよむ。
https://dailyportalz.jp/kiji/Bathing-in-cold_water-is-fun
ほりべのぞみさんが、ベルリンでの寒中水泳を紹介している。
新型コロナウイルスによるロックダウンのせいか、
寒中水泳をやるひとがふえているそうだ。
サウナのかわりに寒中水泳、ということらしい。
入った直後は水が冷たく感じるのだが、1分ぐらいすると不思議と体が慣れてくる。それから数分間は冷たさが逆に心地よくなり、出た後も頭がすごくスッキリする。サウナでいう「ととのう」状態に近い感じがする。

11月くらいなら、まだがまんできそうだけど、
1月になると気温がマイナス6℃、水温が1℃となり、
湖のところどころに氷がはり、すごくつめたそうだ。
健康にいいとか、精神がおちつくとか、いろいろな効用があるようで、
ドイツだけでなく世界的にはやっている、ともある。
温泉だと肩までお湯につかるけど、
寒中水泳でそれをやると手足がひえるので、
だれもがうでをぬらさないポーズをとっている。
それでもつめたい水につかる、というのがおかしい。
みんなただ黙々と入り、上がり、帰っていく。寒中水浴大会でよくある気合いを入れるための声かけや、冷たさに叫ぶ人もほとんどいなく、とても静かなことが印象的だ。

わたしは大学のとき水泳部にはいっており、
毎年1月に寒中水泳をするのがならわしだった。
水泳部なので、水につかるだけでなく、およぐ。
具体的には大橋川という幅200メートルほどの川をおよいでわたる。
水温は5℃くらいだったとおもう。
もちろんつめたいし、寒中水泳をやったからといって、
なにがどうなるわけではない。
伝統行事は、どれもそんなものだろう。
理由はとくにないけど、まえからつづいているので、ことしもやる。

いきなりのつめたい水では、いくらわかくてもたいへんなので、
秋から週にいちどプールにはいって つめたい水になれた。
本番でおよぐ川は、ながれがあるので、
わたるにはあるていどの泳力が必要だ。
なんであんなことをしていたのだろうと、いまはおもう。
十数人の水泳部員が、大声をあげて気合をいれ、水にはいっていく。
ひとりではいやだけど、イベントなので 単純にたのしかった。
あまりにも水がつめたいのでからだの感覚がマヒし、
つめたいとかんじない。かんじるころにはむこう岸についている。

だれにでもおすすめできるレジャーではないけれど、
ほりべさんの記事には、寒中水泳をしてるひとに、
白鳥がちかづいている写真がのっていて、なんだかたのしそうだ。
ドイツ、というか世界的にはやっている寒中水泳が、
日本ではとりくまれないのはなぜだろう。
じじいになりつつあるわたしは、寒中水泳にたえられるだろうか。
昔とった杵柄、ではなく、年よりの冷や水で死んでしまいそうだ。

posted by カルピス at 17:06 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月26日

ふたたび島根県の丸山知事を応援したい

聖火リレーの中止を検討ちゅう、という
島根県の丸山知事の発言にたいし、
島根選出の竹下議員が
「知事をよんで注意する」とケチをつけた。
国会議員が知事をよびつけて小言をいう、
という発想がふるい体質そのもので、
丸山知事に失礼なことが竹下氏はわかっていない。
あなたにそんな権利はない、と
わたしなら竹下氏に反発したくなるところだけど、
丸山知事は(そのためだけではないにせよ)上京し、
竹下氏にあって発言の趣旨を説明している。
竹下氏の「注意する」は、いきすぎだと批判をあつめるなか、
丸山知事に無視されたら、竹下氏の顔がつぶれるところだった。
丸山知事は大人の対応をとることで、
竹下氏を味方にひきよせることに成功している。

それにしても、丸山知事は理づめのひとだ。
聖火リレーの中止の検討は、
協定とことなることをもとめられているからだ。
もっともな理由があっての反対であり、
そこからはずれるのなら協力できない、
というかんがえ方は筋がとおっていて、
これに論理的な反論をくわえるのはむつかしいだろう。
丸山知事は、島根のことばかりだいじにしてるとおもわれそうだけど、
知事はそのためにいる ともいえる。
国のいうことをきくばかりではなく、
島根県の状況に理解をもとめる丸山知事はただしい。

丸山知事が上京したのは、西村経済再生相にあい、
首都圏のコロナ対策強化や、島根など、
感染抑制地域の飲食店にも給付金を、という
要望書をちょくせつ手わたすためだった。
理づめの行動だったものの、西村氏にはあうことができず、
副大臣や担当職員による対応にとどまっている。
あくまでも直球をなげながら、
「政府からは具体的な対応方針は得られなかった」
(朝日新聞)とはなす丸山知事の誠実さがこのましい。
政府はどんな対応をみせるだろうか。

posted by カルピス at 17:53 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月25日

やらない選択がないと、ものごとはとてもシンプル

月に20回をめざして はしったりおよいだりしている。
2月はただでさえ日数がすくない月なのに、
さらに雪と雨ではしれない日が数日あった。
2月18日の時点で、まだ10回しかはしっておらず、
今月は20回にとどかなかったか、とあきらめていたとき、
配偶者の勤務表をみると、奇跡のように
はしれる日が10日つづいているのがわかった。
はしれる日は、わたしが夕ごはんの当番ではないときで、
それは基本的に配偶者の勤務表できまってくる。
配偶者は栄養士をしており、早番と遅番が不定期にくまれるからだ。
うんがわるい月は、彼女の休日のおおくが わたしの休日にかさなり、
週に2回しかはしれない、なんてことになる。
10日もつづけてはしれるなんて めったにない。

ということで、19日からまいにちジョギングにでかけている。
これまでだって、はしれる日はたいていはしっていたけど、
気もちがのらなかったり つかれたりを理由に、
はしらない日がなかったわけではない。
でも、いまはミッションインポッシブルの最中だ。
奇跡的につながった10日間を無駄にはできず、
はしらないという選択はない。
雨がふっても、レインスーツをきてでもはしるつもりでいる。
「みんなで筋肉体操」の谷本さんが
がんばるか、がんばらないかではなく、
がんばるか、超がんばるかの二択でかんがえてください、
といっている。やるのはあたりまえだから、
やるかやらないかでまよわない。
やらない選択がないと、ものごとはとてもシンプルだ。
まよわずに、とにかくやるしかない。

本多勝一さんが、冒険をやるときにいろいろな情報をえるのは、
やるかやらないかをきめるためではなく、
どうしたらよりよくやれるかのため、とかいている。
よく、いい条件がととのったらやる、なんていうひとがいるけど、
そんなことではいつまでたってもなにも実行できないだろう。
やるのは当然で、そのためになにが必要か、情報をあつめる。

もちろんこれは、個人やクラブなどのレベルで
なにか目標をかかげるときのはなしだ。
国家レベルとなるとはなしがちがう。
森さんが「オリンピックをやらない選択はない」なんていうと、
森さんの気もちとしてはそうだろうし、
ものすごく限定的な大会にすればオリンピックはひらけるだろう。
でも、日本全体や、人類のゆきさきをふつうにかんがえると、
いまはオリンピックをひらく状況ではないのがわかる。

posted by カルピス at 21:04 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月24日

26日のJリーグ開幕がまちどおしい

Jリーグが今月の26日に29年めのシーズンをむかえる。
開幕まぢかということで、「サッカーの園」と
「スポーツ酒場かたり亭」の特集をみた。

「サッカーの園」は、開幕戦に焦点をしぼり、
印象にのこる選手や試合、
得点がいちばんおおかった試合などを紹介している。
東日本大震災で、中断したあとの再開幕試合、
ベガルタ仙台は川崎フロンターレとの試合にのぞんだ。
ベガルタは、本拠地が被災地となり、
サッカーをつづけられる状況ではなかった。
手倉森監督が、地元のひとたちへ希望をとどけようと
チームをもりたて、選手たちもそれにこたえたのが
このシーズンのベガルタだ。
再開幕試合のフロンターレ戦では、
試合終了間際に奇跡的なかちこし点をあげている。
その後も12試合をまけなしでたたかい、
東北のひとたちをはげましつづけた。
自分のため、チームのためではなく、
被災したひとたちのためにたたかった試合だったと、
かちこし点をあげた当時の選手がかたっている。
自分がゴールをきめたというより、
みえないちからにおされたシュートで、
サッカーにたいするかんがえ方がかわる試合となったという。
このシーズンを、ベガルタはリーグ4位でおえている。

さきほどあげたベガルタとフロンターレの試合では、
ベガルタをホームにむかえたフロンターレのサポーターが、
フロンターレにではなく、ベガルタへ声援をおくっていた。
こういうところが日本のサッカーのよさで、
ヨーロッパのクラブにはない精神だろう。
おおごえでベガルタへのチャントをうたいつづける
フロンターレのサポーターに胸をあつくする。

「スポーツ酒場かたり亭」では、
今シーズンの見どころを紹介している。
昨シーズンに圧倒的なつよさをしめした
フロンターレが話題の中心となる。
まるでフロンターレのスペシャル番組のように、
半分以上の時間を、フロンターレのつよさの分析にあて、
なかでも キーマンであった三苫選手のうまさを解説している。
三苫選手は、得点とともにアシストでも数字をのこし、
スピードとうまさをかねそなえたドリブルが、
相手チームの脅威となっていた。
ちかづいてまもるとドリブルでぬかれるし、
距離をたもっていると、パスをだされてしまう。
ゲストの中澤さんは、フロンターレ対策となるのは、
コンサドーレがやったショートカウンターというけど、
おなじ失敗を、鬼木監督がくりかえすとはおもえない。
今シーズンのコンサドーレ戦はどんな試合となるだろうか。
福西さんは、フロンターレをとめるクラブとしてグランパスをあげた。
もともとかたい守備がうりだったグランパスに、
攻撃面でいい補強がおこなわれたからで、
いずれにしても、今シーズンは フロンターレを中心にまわりそうだ。
26日の開幕がまちどおしい。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月23日

島根県の聖火リレーに7200万円もかかるとはしらなかった

2月22日はねこの日としてしられているけど、
島根県も条例で「竹島の日」とさだめている。
この日ひらかれる式典に、右翼の街宣車が何台もやってきて、
韓国からきた活動家とおしあいへしあい、というのが、
2月22日の風景として 松江市民にはおなじみとなってきた。
朝日新聞によると、
今年は新型コロナウイルスの影響で、出席者はほぼ半減。会場周辺で多数の警察官が警備にあたったが、韓国人活動家の姿はみられず、大きな混乱はなかった。

ということだ。
700人の警察官が警備にあたったそうで、
おひるごろに配達で市内をはしると、
会場ちかくには警察官がたくさんたっていた。

島根県の丸山知事による 聖火リレーの中止を検討ちゅう、
という発言が せんじつ話題になった。
島根県は7200円を聖火リレーの警備費などに予算化している、
ともほうじられた。
2日かけて島根県内をはしるのに7200万円。
たかだか聖火をもってはしるだけなのに、
こんなにもお金がかかるとはしらなかった。
全国でみると、すごい金額が
聖火リレーのために予算化されているわけだ。
ケチなわたしは、単純にもったいないとおもう。
いっぺんで聖火リレーそのものに反対したくなった。
断捨離をかんがえるなら、筆頭にくるのが聖火リレーだろう。

「竹島の日」にたっていた たくさんの警察官にも
相当なお金がかかっていそうだ。
お金だけでなく、どこに何人たつのか、
その警官たちは、どこから応援にきてもらうかなど、
計画をたてるのはたいへんそうだ。
食事や宿泊施設の確保など、めんどくさそうな雑務があたまにうかぶ。
ひとがあつまるとお金がかかる。
式典を警備するだけで700人の警官が必要なのだから、
オリンピックの警備となると、大規模すぎて わたしの想像をこえる。
かさねていうけど、ケチなわたしは、ここでも もったいないとおもう。
お金がかかるからやめよう、というわけではないけど、
ひとがあつまるのをためらわせる新型コロナウイルスは、
わるいことばかりじゃないかも、と「竹島の日」の警備からおもった。

posted by カルピス at 16:32 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月22日

ネコの日なのに谷山浩子さんの「ねこの森には帰れない」をきけなかった

地元のラジオ局の番組をきいていたら、
ネコの日なので、谷山浩子さんの
「ねこの森には帰れない」をおねがいします、
というリクエストがよみあげられた。
番組の担当者が、レコードでおとどけします、
準備がととのいしだいはじめます、ともったいつけ、
いよいよ「ねこの森には帰れない」をおかけします、
と曲がはじまったけど、
それは谷山浩子さんによる別の曲で、ネコの森ではなかった。
そのまま、まちがった曲がおわりまでながれる。
とうぜん あらためて
「ねこの森には帰れない」がかかるとおもっていたら、
おわびだけで、さらっとさきにすすまれてしまった。
アルバムの3曲めにはいっている
「ねこの森には帰れない」ではなく、
4曲めの「私の愛した人」をかけてしまいました、
もうしわけありません、ということだ。

けっきょくそのまま「ねこの森には帰れない」はかからなかった。
ラジオをきいていたわたしでも、かなりがっかりしたのだから、
リクエストをよせた方は しばらく呆然とされたのではないか。
いったいなにがおきたのか。これからどうなるのか。
たのしみにしていたリクエストが番組でよまれ、
さあいよいよ、とおもってたら、別の曲だった。
すぐに番組がまちがいに気づき、レコードをとりかえて、
ネコの森がはじまるだろう、とまっていたら、
そのまま なかったこととして番組がすすんでいく。
ひどい手ちがいで、あってはならないし、
まちがえたのなら、あらためて
「ねこの森には帰れない」をかけなおせばいいのに。
このラジオ番組は、やたらと演歌がかかり、
そうでなければわたしのにが手なさだまさしだったりと、
あまりいい感情をもっていなかったけど、
きょうの一件で、決定的に不信感をつのらせる。

ネコの日だというのに、プリンが2時に外へでていったまま、
夜の9時になってもかえらない。
例によって、いっしょにくらす母が、
洗濯物をとりいれたときのできごとだ。
90になる母は、ネコたちからみれば
なにをやるのかすべておみとおしの のろまな老人でしかなく、
いまでは ほぼ自由自在にではいりしている状態だ。
わたしは、プリンがそとにでるたびに、母につよくあたる。
老人に、すばやいうごきをもとめるのは、
老人虐待でしかないとわかっていても、
身内にたいしては つい感情がむきだしになる。
新聞記事に、年おいた親への暴力がときどきほうじられるけど、
プリンをめぐって 母へのいらだちが
エスカレートしているわたしにとって、親への虐待は、
とてもひとごとにはおもえない。
もうすぐ深刻で陰湿ないじめをはじめてしまいそうでこわい。

母に無理難題をおしつけるのは、
けっきょくわたしが母にあまえているからだ。
家族って、こんなふうに感情をあらわにしてもいいのだ、
とみょうにひらきなおって 他人にならぜったいにくちにしない
きついことばが 母にたいしては あふれてくる。
いまさらながら親との同居を後悔する。
べつべつにくらせば、わたしだってもうすこしやさしくできるし、
母の生活に不自由がでればヘルパーさんにきてもらえばいい。
わたしがかってにつれてかえったネコのことで、
ひどくいわれては、母としても理不尽だろう。
ネコがいると、いろんなことをまなべる。
親との同居に問題があるとおしえてくれたのはネコたちだ。
別居こそ、種としての人間がとるべき 自然なながれなのだ。

posted by カルピス at 21:06 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月21日

スーパー杯 フロンターレ対ガンバ 3−2でフロンターレ

スーパー杯として、フロンターレ対ガンバがおこなわれる。
きょねんのJ1優勝クラブと、
天皇杯優勝クラブによる試合なわけだけど、
さくシーズンはどちらもフロンターレがとってしまったので、
J1リーグ2位のガンバが くりあがって対象チームとなった。

サッカーシーズンのはじまりをつげるスーパー杯だけど、
まだコンディションがととのっていない時期のため、
あまり内容がともなわない試合がおおい。
きょねんのマリノス対ヴィッセルでは、
3−3で決着がつかずPK戦となり、
9人連続でシュートをはずしたのが話題になった。

ただ、ガンバはさくシーズンフロンターレに3敗し、
1得点さえあげられなかった。
目のまえでJ1の優勝をきめられたし、
天皇杯決勝では1−0でやぶれている。
きょうの試合で、またフロンターレに歯がたたなければ、
精神的にきびしいだろうし、
ファンにもぶざまな姿はさらせられない。
いっぽうのフロンターレにしても、
シーズン最初のカップ戦をおとすつもりはさらさらない。
どちらもまけられないモチベーションがたかく、
おもしろい試合になりそうだ。

試合開始そうそう、フロンターレがチャンスをつくるけど、
ガンバのキーパー、東口がスーパーセーブをみせる。
そのあとガンバがせめこむものの、
三苫がつづけざまに2得点をあげ、前半を2−0でおりかえす。
またフロンターレの楽勝か、とおもっていたら、
後半にはいるとガンバがボールをもつ時間がふえ、2点をかえす。
これまでの惨敗にくらべると、2−2にもちこんだだけでも
ガンバとしては形をつくれたかんじだ。
ながれはガンバにかたむいており、
このままPK戦か、とおもっていたら、
後半終了間際に田中蒼がたてにながいパスをいれ、
遠野がまったくむだのないうごきで小林にパスをおくる。
それを小林がたくみにキーパーのタイミングをずらし、
コントロールされたシュートをゴールすみにきめる。
みごとなかちこし点となる3点目で、
フロンターレがまずはひとつめとなるタイトルをとった。
3どつづけてフロンターレの優勝をながめるガンバの選手たちは、
どんなおもいをいだいていただろう。

この試合の解説に、元フロンターレの中村憲剛がよばれていた。
タイトルをとることについて、憲剛はこうはなしている。
タイトルにふさわしい日常をすごさなければならなくなり、
そうすると、ひごろのとりくみや、
チームのまとまりがかわってくる、と。
タイトルは、とったらそれでおしまいではなく、
まわりの目と、自分たちの自覚がかわってくるものなのだ。
アントラーズの選手たちも、自分たちは、
つねにかちつづけなければならない、とよくいっている。
なんだかエラソーだとおもっていたけど、
タイトルにあたいするチームでありつづけようとするのは、
たいへんなプレッシャーだろう。
フロンターレは、常勝チームとしての一歩をふみだした。
それだけの自覚を選手と監督、それにクラブがもっている。
フロンターレのサッカーが、どこまで成熟するのか たのしみだ。

posted by カルピス at 21:30 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月20日

プリンの去勢手術を 予約するだけでたいへんだった

子ネコのプリンが生後8ヶ月になったので、
かかりつけの獣医さんに連絡して、去勢手術をおねがいする。
でも、おことわりされてしまった。
先生も高齢となり、手術がたいへんになったためのようだ。
いつもこの病院ですべての治療をおねがいしているので、
こんかいもとうぜんひきうけてもらえるとおもってたのに。

ネコをかっているしりあいに連絡して、
おすすめの獣医さんをおしえてもらう。
いまはどこの病院も去勢手術の予約がいっぱいで、
数ヶ月またないといけないかも、といわれる。
新型コロナウイルスの影響で、きょねんできなかった手術が
ことしにずれこみ、どこの病院も予約でいっぱいらしい。
動物病院はたくさんあっても、
評判のよくないところへはいきたくないし、
なかには血液検査をしてからでないと、
手術をひきうけないところもあるという。
費用もさまざまなので、あらかじめ承知しておきたい。
はじめに電話した病院は、7月までまたないと、といわれ、
べつの病院にあたると、そちらも6月までいっぱい、ということだ。

プリンはこのごろさかりのついたなき声をあげるようになり、
あきらかにおとなの仲間いりをしつつあるようすだ。
イライラしておちつかない。みていてもつらそうだ。
まえは外にでなくても 家のなかだけですごせていたのに、
このごろは必死に外へでようと わたしたちのスキをうかがっている。
ネコとくらすことは、彼らの野生とつきあうことでもある。
子ネコのかわいい時期をすぎると、すぐおとなになって、
野生の血をたぎらせるようになる。
赤ちゃんとしてせっし、ネコかわいがりをしてきたのに、
オスとして目ざめつつあるプリンにわたしはとまどう。
スプレー行動(おしっこを、あちこちでする)
をするようになるとたいへんなので、
できるだけはやく去勢手術をすませたいところだ。

家のちかくの動物病院をおしえてもらい、電話をいれる。
かかりつけの病院でことわられたことをはなすと、
予防接種をしてあるかを確認され、
いちどネコちゃんをみさせてもらったうえで、といわれた。
その日のうちに病院へつれていくと、
去勢手術についてくわしく説明されたうえで、
6月18日が手術の日ときまった。4ヶ月さきなので、
しばらくプリンのイライラにつきあわないといけない。
あっという間におとなになってしまったプリンをなでる。
からだはまだちいさく、体重は3.7キロしかないのに、
プリンの内面は もう一人前のオスにそだちつつある。
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posted by カルピス at 16:55 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月19日

「奇跡のレッスン」に登場した森内九段のおしえ方がいいかんじ

奇跡のレッスンに、将棋の森内俊之九段が登場した。
横浜にある公立中学の将棋部を7日間おしえる、というものだ。
森内さんというと、羽生さんとの名人戦がおもいだされる。
2008年は、羽生さんにやぶれ、森内さんは名人位をうしなった。
このときは、名人戦を特集した番組がくまれ、
かった羽生さんのはればれしい姿と、
ひとりしずかに東京へもどる森内さんからは、
つよい決意がかんじられて印象にのこった。
それまでわたしは、ひとをよせつけない雰囲気のある森内さんより、
あかるさをかんじる羽生さんを応援していたけど、
この名人戦からは、勝負にかける森内さんの情熱に好感をもった。
2017年のA級順位戦の結果、つぎの年からはB級1組への降級がきまる。
おそらくその影響で、森内さんは2017年度から
名人をあらそう順位戦に参加せずに、
フリークラスへの転出を宣言する。
森内さんは、いまは将棋の普及にちからをいれているという。

奇跡のレッスンに登場した将棋部には、
とくにつよい生徒がいるわけではなく、
せめることばかりかんがえる子とか、
ついまもりばかりになりがちな子とか、
気のきいた手をさしたがる子とか、
いかにもよわい将棋部の典型みたいなレベルだ。
「奇跡のレッスン」といっても、
なにか特別な妙手が森内さんにあるわけではなく、
詰将棋や実践をとおして、生徒が苦手とする局面を整理し、
バランスのとれた将棋がさせるようにアドバイスをする。
ちょっと早口だけど、森内さんのかたりかけはわかりやすく、
生徒たちは素直に耳をかたむけている。

森内さんは、1週間の手ごたえをたずねられると、
この1週間をゴールだとはおもってない、とはなした。
目先の結果をだそうとすると、
そこにばかり意識がむきがちなので、
目のまえのことと将来のことをあわせもつ
ふかい視点で物事をみれば、
より充実した人生になるとおもう、という意味だ。
そこらへんのバランス感覚が、いかにも一流の棋士らしい。
団体戦でのプレッシャーを どうしたらいいのか 生徒にきかれると、
責任感をかんじたからといって、
それでなにかがよくなるわけではないので、
(まけたときは)わるいなーと、おもいつつ、
気にせずに、次をがんばることが、
けっきょくはチームのためになる、という。
とても現実的なとらえ方で、たずねた生徒は気がらくになったようだ。

7日目のレッスンは、4つの中学があつまっての合同練習会だった。
「この1週間をゴールとはおもってない」とはいっても、
生徒たちが対局でかてば、森内さんはうれしそうに拍手するし、
これまでの弱点を克服できた手にはガッツポーズをとる。
森内さんがいくら一流の棋士といっても、
初心者をおしえるのはまったくべつなことだ。
ふだん森内さんがせっしているプロ棋士とは
まるでレベルのちがう生徒たちをあいてに、
どうレッスンをすすめるのかは、むつかしいこころみとなる。
しんぼうづよく生徒たちにむきあう森内さんからは、
将棋へのはてしない情熱と愛をかんじた。
自分のかんがえをおしつけたりせず、
こういうとらえ方もある、とバランス感覚を大切にする。
「奇跡のレッスン」というと、
自分流のひねったトレーニングをやらせる指導者がおおいなか、
森内さんの謙虚な姿勢はとてもすてきだった。

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2021年02月18日

YOASOBIさんの『夜に駆ける』につよくひかれる

青山テルマさんの「ゆうがたパラダイス」をきいていたら、
やたらとノリのいい曲がかかった。
仕事をしながらラジオをつけていたので、
パソコンに意識をむけたいのだけど、
それをさせないほど、なにかにはげしくひかれてしまう。
あとでしらべると、YOASOBIさんの『夜に駆ける』だった。
うたごえとピアノのはやいテンポがじつにいいかんじだ。
歌詞の意味までとらえ、曲のよさを理解したわけではない。
全体がもっているキレキレのいきおいに圧倒されたのだ。
いまさら『夜に駆ける』のよさに気づくなんて、
といわれそうだけど、音楽ずきなひとがしってるのはあたりまえで、
わたしが耳にするようになったら、ようやく本物、とおもっている。
ウィキペディアによると、YOASOBIさんの『夜に駆ける』は、
きょねんの紅白にえらばれた、とある。
紅白にでたからすごい、というわけではないけど、
それだけおおくのひとが関心をよせたという意味では
その年を印象づける曲だったのだろう。

SHISHAMOの『明日も』をはじめてきいたときも、
『夜に駆ける』とおなじようなインパクトがあった。
わかいひとたちの音楽にうとく、
歌詞をきいてもなんのことかわからないのに、
SHISHAMOの『明日も』は、わたしの胸にふかくささった。
音楽オンチのわたしまで、曲がとどくようになれば、
そのヒットは一時的なものではなく、ほんものだ。
YOASOBIさんの『夜に駆ける』が、
わたしのもとにとどくのがおそかったのは、
これまで気づかなかったわたしがわるい。
きょうはじめてきいたら、仕事のじゃまだとおもいつつ、
ついついそちらにひかれていったように、
曲にふれる機会さえあれば、もっとはやくから
『夜に駆ける』をまわりにふれまわったにちがいない。
そして、いまさらなにを、とひかれたことだろう。

ほかにもつよくひかれた曲として、
桜高軽音部の「Don't say "lazy"」と
花澤香菜さんの「Qunka」がある。
どちらも印象的な曲だけど、アニソンというジャンルだけに、
一般的な話題にはなりにくく、
どうしてもひろがりが限定されてしまう。
ひとにすすめても さめた反応しか かえってこないので、
残念なおもいをなんどかしてきた。
おおくのひとが耳にすれば、そのよさをみとめてくれるはずなのに。
きょうの『夜を駆ける』とのであいは、
SHISHAMOの『明日も』以来、ひさしぶりにヒットを予感させた。
いまさらながら、だけど。

伊藤理佐さんが朝日新聞のコラムで、
「わたしまできたら売れっ子」
とうまいことをいっていた。
 フッ。えらそうだが。わたしが耳にするくらいになったら、その芸人さんはもう売れっ子だ。ここまで来い。

わたしのところまできたのだから、
YOASOBIさんはまちがいなくうれっこだ。

posted by カルピス at 20:34 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月17日

丸山知事の聖火リレー中止検討に賛成する

島根県の丸山知事が、東京五輪の聖火リレーの中止を検討するという。
いかにも唐突な発表におもえるけど、
丸山知事は、今月の10日にも、定例会見で
「開催してもらっては困る。資格がない」とのべている。
資格、というのは、
医療にアクセスできず自宅で死亡した都民が複数人いることを挙げて、(五輪は)全世界からアスリートや大会関係者が集まる。一番対応能力の水準が低いところにそうしたリスクの高いイベントを実施する資格があるのか

という意味での資格のことだ。
「現状の対応のまま東京五輪を開くことに反対する立場を示した。」
のだから、状況がかわれば はなしはまたべつ、なのだろう。
 加えて、東京都など大都市の年末年始の感染拡大が県内の飲食業や宿泊業にも打撃を与えているとして「オリンピックを開いてもう一度同じことをされたらかなわない」と話した。(引用はすべて朝日新聞島根版・2月12日より)。

人口も経済もちいさな島根県がえらそうなことをいうのは
政府や東京都にすればおもしろくないだろう。
そして、こんどは聖火リレーの中止を検討中、だ。
東京都の小池知事が、いやがらせの皮肉をいいそうなのに、
こんなふうに強気の発言ができるのはたのもしい。
きょねんの3月、全国一斉に学校が休校となったなか、
島根県は独自の判断により、授業をつづけたのも
自分でかんがえるちからのある知事として、
丸山知事にいい印象をもった。

わたしは東京五輪に反対しており、
丸山知事のこうした発言をこのましくおもう。
いちど五輪をひらくときまれば、
国立競技場の建設であきらかになったように、
責任が不明なまま、計画だけがひとりあるきして、
ズルズルとお金がかかる大会になってしまった。
新型コロナウイルの感染で余裕がないなか、
どうかんがえても無理な状況なのに、
なにがなんでも、ちからづくで実施しようとする
IOCと日本政府のやり方がすきではない。
ありえない判断をしようとしているのに、
どんな形になっても、とにかくひらくことに意味があると、
ゴリおしするすがたがまともではない。
まともではないのに、ひらきなおって、
「できる」といいつづけるのもどうかしている。
五輪ありきの関係者より、
丸山知事の発言のほうがよほどまともだ。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月16日

糸井重里さんの集約が意外だった『ピーターの法則』

糸井重里さんが「今日のダーリン」で
いぜんによんだという『ピーターの法則』をとりあげている。
「創造的無能のすすめ」という副題にあるとおり、
わざと無能なふりをして、いまのポジションにとどまったほうがいい、
とかかれた本、のはずだ。
はずだ、というのは、糸井さんの集約とはずいぶんちがうからで、
糸井さんは、「創造的無能のすすめ」という副題を承知しながらも、
ぼくは、その本の内容を約一行に集約して覚えた。
 「人は、ほめられたところにとどまりやすい」である。

とかいている。
え、そうだったっけ?と わたしはとまどってしまった。
「創造的無能」をすすめる本じゃなかったの?
『ピーターの法則』をとりだし たしかめようとしたけど、
本は15章からなり、かんたんには全体の内容をつかめない。
本をひらくと、なんのかきこみもなく、きれいなままだ。
わたしはよんだつもりになっていただけで、
ちゃんと目をとおしていないような気がしてきた。

なんでわたしがこの本をもっているかというと、
梅棹忠夫さんが『わたしの生きがい論』のなかで
『ピーターの法則』を紹介していたからだ。

あるひとが、いまいるポジションで有能さをしめすと、
まわりはもういちだんレベルをあげたポジションにつかせようとする。
そこでも有能さをしめすと、さらに一歩うえのレベルへあげられる。
そうするうちに、だれでも無能となる位置にたどりつき、
そこではおもったように仕事をこなせず、まわりからもみはなされて、
自分も同僚も、おたがいに不幸な状況におちいってしまう。
そんなことなら、いちだんうえにあげられるのを
なんとか理由をつけて ことわればいいのだけど、
そのときには、まだそのひとは有能なのだから、
まわりはどうしても 一歩うえにひきあげようとする。
だったら、わざと無能なふりをして、
いまのポジションにとどまったほうがしあわせですよ、
という内容だと梅棹さんは紹介している。

それが「生きがい」となんの関係があるかというと、
『わたしの生きがい論』は、生きがいを否定しているからで、
人生に生きがいはない、というより、
もたないほうがいい、とこの本はといている。
進歩だけで地球の問題が解決するとおもうのはあまいですよ、
むしろ、知恵をしぼることで、問題がよりわるくなってしまう、
それよりも、なにもしないほうがましだ、
というのが梅棹さんの「生きがい論」だ。

わたしは梅棹さんの説にとびつくあまり、
たいして『ピーターの法則』をよまないうちから、
その内容をきめつけていたのではないだろうか。
じっさいは、糸井さんの解釈どおり、
「人は、ほめられたところにとどまりやすい」
とかかれた本かもしれない。

糸井さんが集約する
「人は、ほめられたところにとどまりやすい」は、
梅棹さんのとらえ方と真逆におもえる。
でも、すくなくとも糸井さんは本の全体に目をとおし、
そのうえで1行にまとめている。
梅棹さんの説をうけうりし、
『ピーターの法則』をよんだつもりになっているわたしは
『バーナード嬢曰く』の町田さわ子さんみたいに、
本をよまないでおいて、よんだ気になりがちな読者のようだ。

posted by カルピス at 21:22 | Comment(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月15日

クラブW杯決勝 バイエルン対ティグレス 1−0でバイエルン

カタールでおこなわたクラブW杯の決勝、
バイエルン=ミュンヘン対ティグレス(メキシコ)をみる。
1-0でバイエルンが優勝をきめたわけだけど、
点差以上にバイエルンの猛攻が印象にのこる。
ティグレスも、ときおりゴール前までせまるものの、
ノイアーにはばまれて きめきれない。
後半にあげた1点をバイエルンがまもり、そのまま試合終了となる。

決勝点となった1点は、バイエルンの選手があげたクロスに、
味方がヘディングであわせたものだ。
ディフェンスラインがきれいにそろっていた場面で、
ちょうど真横でプレーをみていた副審が、
すぐに旗をあげてオフサイドをしらせている。
オフサイドかどうかで微妙だったため、
VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)にもちこまれた。

前半にも、おなじようにオフサイドをめぐるプレーがあり、
VARによりオフサイドの判定となった。
ゴールまえにいた選手が、ボールにはからまなかったものの、
キーパーのうごきに影響をあたえたという判定で、
得点はみとめられなかった。
オフサイドは微妙なケースがおおく、あらためてビデオをみると、
どうしてもオフサイドの位置にみえがちだ。
VARによる判定は、正確かもしれないけど、
試合のながれをとめ、判定を おおくの場合かえてしまい、
わたしはすきではない。

もういちど、決勝点となったプレーにもどると、
副審はオフサイドといっているのに、
VARがオフサイドではないと判定しためずらしいケースだ。
映像をスローでみると、たしかにラインより手がでている。
目でみてもわかるのだから、これをVARにかければ、
さらにオフサイドが確実になりそうにおもえた。
しかし解説の岡田さんは、(オフサイドかどうかをみるのは)
「手ではなく、からだの中心だからね」
とはなす。
そのことばがきこえたかのように、VARは副審の判定をくつがえし、
主審はオフサイドではなかったと判定した。
いつもとちがう展開が意外だった。
VARのシステムが成熟したのならいいけど。

いっしょに試合(の録画)をみていた配偶者が、
いまいちオフサイドがわからない、といいだす。
画面がちょうどディフェンスラインに
便宜上の線をつけていたので、それをつかって説明する。
キーパーと攻撃側の選手とのあいだに、
かならずひとりは守備側の選手がいなければならないこと。
もともとはゴールちかくで
ボールをまちうけるのをきんじるルールだったこと。
ボールをけった瞬間の位置なんて、目ではなかなかおえないので、
そんなに気にしなくてもいいことがいちばんだいじだ。
100%正確な判定とはかぎらないことを
暗黙の了解にしたルールだとおもったほうがいい。
それをVARが、正確さをおいもとめて つまらなくしてしまった。

posted by カルピス at 21:10 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月14日

チーズトーストむきの食パンをしらべる 地主恵亮さんの実験がすごい

デイリーポータルZに地主恵亮さんの
「フライパンで作るチーズトーストは至高の美味しさである」
がのった。
https://dailyportalz.jp/kiji/cheese_toast-the-best-meal
チーズトーストというものがある。食パンにチーズを乗せて焼いたものだ。トロけたチーズが食パンに乗ったものと、カリカリのチーズが食パンの表面にある2パターンがあると思う。
この記事では後者のカリカリのチーズトーストについて記す。それはなぜか、簡単に作ることができて美味しいからだ。フライパンで簡単に作れてしまう。最強のチーズトーストと言っても問題ないだろう。

地主さんはわたしがすきなライターのひとりだけど、
記事についている写真をみたとき、
これはさすがに、いくらなんでも無理だ、と直感した。
地主さんがたべものについてかくと、
たいていあぶなっかしい記事となる。
ぶあつい食パン(やきあがったそのままの1.5斤)のうえに
とけたチーズがのっかっている写真をみると、
こんなものがチーズトーストといえるわけがないとおもう。
しかし、そんな実験を、すごくおいしそうにたべる写真つきで、
まじめにやりきってしまうのが地主さんのすごさだ。

地主さんはトースターをもっていないので、
まずフライパンで食パンをやき、食パンをとりだしておいて
ピザ用のチーズをフライパンにちらし、すぐに食パンをのせる。
「チーズがとける前にトーストを乗せちゃうのがポイント」
だという。
チーズトーストといえば、日本ではハイジでおなじみの、
パンのうえでとろーりとけているチーズにとどめをさすのに、
そんな「常識」をふりきって、というか、
トースターがないからしょうがなかったのだろうけど
フライパンのうえにチーズをのせる乱暴な方法にたよっている。
そして、そのできあがりが 至高のおいしさだという。
記事のおもいつきから そもそも無茶なのだ。

地主さんは、4枚ぎりから10枚ぎりまで、
何枚ぎりの食パンをつかったら、
いちばんおいしいチーズトーストができるかをためしている。
でも、地主さんのことだから、
どれもおいしかった、という結論と、
ものすごくあたりまえな「分析」におわっている。
結論としてはどれも美味しかった。6枚切りあたりが、チーズの風味と食パンの風味が均等で、食パンが薄くなればチーズの風味が勝ち、厚くなれば食パンの風味が勝つ。そして、薄いほどにチーズ、食パン共にカリカリとなる。
これを言うと元も子もないのだけれど、好みということになる。(中略)チーズトーストにカリカリを求めるか、フワフワを求めるか、ということになると思う。

029.jpg

地主さんは以前にも似たような実験をしている。
「おかずのコストパフォーマンスを調べる」という記事だった。
https://dailyportalz.jp/kiji/120914157396
いくつかのおかずについて、白ごはん2合を上限に、
どれだけたべられるかをためしている。
その結果は、コロッケ・甘露煮・納豆・ふりかけ・たまご・梅干とも、
2合の白ごはんを あぶなげなくたべきっている。
このときにもチーズトーストとおなじような
意味のないグラフが提出されていた。

こんかいの記事をデイリーポータルZにのせるにあたり、
編集部は ずいぶんためらったのでは、と想像する。
地主さんがこれまでにつみあげてきた
無謀な記事の数々が実績となり、
こんかいの無理をとおしてしまったのだろう。
ちなみに、わたしは地主さんの方法で
チーズトーストをつくったことがない。
つくったことがないのに「無茶」と
きめつけるのはよくないのだろうけど、
やらなくてもわかることもある。この記事のように。
地主さんはふざけているのではなく、
おそらく自分では直球をなげているつもりなのだろう。
デイリーポータルZをみると、「今大人気の記事」に
このチーズトーストがあげられている。
地主さんの実験が ストレートに評価されたことをよろこびたい。

posted by カルピス at 21:07 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月13日

「雨戸道」11年 伊藤理佐さんのコラムがいつもながらうまい

いつもながら伊藤理佐さんのコラムがすばらしい。
隔週の金曜日、朝日新聞に連載されている
「オトナになった女子たちへ」のことだ。
今回は「雨戸道」について。
伊藤さんは、雨戸をあけるのも「道」があるという。
茶道や花道でいう、あの「道」のことで、
戦車道があるぐらいだから、雨戸道があっても不思議ではない、
と かんたんにはいいきれない。
戦車道はむりやりだけど、雨戸道はたしかにむかしからあった。
雨戸には、戦車道よりも、
よほどお作法っぽい要素があると、伊藤さんは気づいた。

伊藤さんがかんじている「道」っぽいところは、
 電動で、ない。ガラガラっと、戸袋から一枚ずつ、夕方に出して、朝は入れる。なんとなく、日が沈んでから&昇ってから、としている。季節に合わす。素早くやる。でも、少し勢いをつけないと一発で決まらないので、ちょっと音を立てる。雨戸で自分を隠しながら、目線を外にまっすぐ向けない。道を歩いている人、向かいの家の人、と目があわないようにする。なんかこう、お作法っぽい。

雨戸をあけるのに作法があるように、
雨戸をあけているひとから目をそらすのも
まわりのひとがつくりあげた作法だ。
なぜなら「朝だから見られたくない格好」だから。
家の前のゴミ出しがギリギリ許される、の格好だった。角のコンビニには行っちゃダメレベルの。だから雨戸で隠すのだ。そうか。それはこちらへの気づかいだった。気をつかっているつもりが、つかわれていた。外にも「雨戸道」があった。

わたしがすむ地方には、雨戸がない。
わたしの家だけでなく、雨戸文化のない地方のようだ。
東京で、親戚の家にとまったとき、はじめて雨戸を体験した。
雨戸をぜんぶしめると、部屋はまっくらになり、
朝になり雨戸をひらくと、ものすごくつよい光がはいってくる。
雨戸の威力と存在感は圧倒的だった。
雨戸はこれだけのちからをひめているのだから、
たしかに それなりの作法が必要にちがいない。

コラムのしめくくりが、またうまい。
 どーでもいい気がする。いや、どーどもよくない。そんなこといったら「お茶」だってどーでもいいのだ。

すべてに「道」がつうじていると 伊藤さんは発見した。

posted by カルピス at 17:00 | Comment(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月12日

『ゲンロン戦記』(東浩紀)

『ゲンロン戦記』
(東浩紀・中公新書ラクレ)

わたしはゲンロンも東浩紀さんもしらなかったけど、
はじめからおわりまで、興味ぶかくよめた。
本の帯や表紙には、
・「知の観客」をつくる
・自らの失敗を通して伝えたい大切なこと
とかいてあり、よみおえてみると、
まさにそのとおりの内容なのだ。

東さんは「ゲンロン」という会社をたちあげて
ネットをつかったビジネスにとりくむ。
ゲンロンをはじめるまえから
東さんはいろいろな活動で名がしられていた。
しかし、有名人である東さんがつくった会社だからといって、
ゲンロンのとりくむ事業がスムーズにすすんだわけではない。
お金をつかいこまれたり、資金が底をついたり、
中心となって会社をしきっていた社員にやめられたりと、
いくつもの倒産の危機にみまわれている。

ネットをつかった会社というイメージから、
アイデアがすべて、みたいにおもっていたけど、
東さんは経理こそ経営者が把握しておかなければならない、
いちばん大切なこと、となんどもかいている。
請求書や領収書を紙にはりつけ、帳簿をととのえること。
自分はそうした経理にかかわりたくないと、
ひとまかせにしたツケで、東さんはなんどもいたい目にあい、
それでもこりずにおなじ失敗をまたくりかえし、と
うまくいかなかったことを かくさずにつたえている。

東さんはチェルノブイリ原発と周辺の町を取材して、
「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」
を出版し、のちにはツアーもくんで現地をおとずれている。
チェルノブイリ原発へ観光にいくなんて、
いかにもキワモノ企画におもわれるけど、
じっさいに現地へゆき、原発を見学したり、
土地のひとにはなしをきくと、
イメージしていた「チェルノブイリ」とは
まるでちがう体験をえる旅となる。
表紙にあった「知の観客」とは、観光客のことでもある。
観光地の情報はオンラインで簡単に手に入ります。風景や建物の写真は検索すればたいていのものは出てきます。それはいまやチェルノブイリでも同じです。(中略)「オンライン観光」といった言葉も生まれています。
 けれども、それはやはり観光ではないのです。(中略)旅の価値のかなりの部分は、目的地に到着するまでのいっけん無駄な時間にあります。そのときにこそひとは普段とはちがうことを考えますし、思いがけぬひとやものに出会います。そのような体験こそ「誤配」です。ゲンロンは、その無駄にこそ価値があると言ってきたわけです。

本の内容を、これまた帯から引用すると、
「数」の論理と資本主義が支配する残酷な世界で、人間が自由であることは可能か?

と、すごくむつかしいテーマがかかげられている。
ふつうにかかれたら、わたしはすぐにお手あげだろうけど、
東さんと、きき手である石戸さんが、
わかりやすく表現することにとても気をくばわれており、
哲学なんてとんでもない、というわたしにもスラスラとよめる。
ゲンロンがなにをめざしてきたかがよく整理され、
よくできたノンフェクションをよんでいるここちよさがあった。

posted by カルピス at 17:44 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月11日

2週間の隔離生活に、せまいケージですごすニワトリたちをおもう

ラジオをきいていたら、
基礎疾患のあるひとが県にもどるとき、
2週間の隔離期間をすごすための助成があるという。
助成があるのはいいとして、
2週間をどこか、たとえばホテルの一室ですごすのは
すごくたいへんだろうとおもった。
ロビーとか、ほかの階をぶらつくことができず、
ずっとせまい部屋だけでの2週間は、
いかにネットやテレビがあったとしても退屈そうだ。
自分だったらどんな「あの手この手」で2週間をすごすだろう。
本や音楽、あとは部屋でできる運動くらいしかおもいつかない。
新型コロナウイルスのご時世、国をまたいだおおくのひとが、
このように不自由な2週間をすごしているのだろう。
外国からではなく、国内の移動でも、
2週間の隔離が適用されるのだから
たいへんな状況になったものだ。

なんてことをかんがえていたら、
ふと養鶏場のニワトリがあたまにうかんだ。
せまいケージにとじこめられ、身うごきできるスペースはなく、
できるのはエサをたべることと水をのむことだけ。
あとはフンをして、いちにちにひとつの卵をうむ。
仲間といっしょに外でエサをついばむよろこびをしらないし、
時をつげるオンドリの声にときめくこともない。
ただたべるだけの生活って、ニワトリには虐待でしかないだろう。
そんな環境で生みだされた卵が健康なわけない。
養鶏場のニワトリにくらべたら、
ホテルの一室ですごす2週間なんて天国みたいなものだ。
どこかの国で、せまいケージにとじこめる養鶏場が
法律で禁止された、というニュースをきいたような気がする。
卵が値あがりしてもいいから、ニワトリを広場でかってほしい。
(あとでネットをみると、せまいケージの禁止ではなく、
オスのひよこの一律殺処分の禁止だった。
https://www.afpbb.com/articles/-/3265580

都道府県別に発表される
新型コロナウイルスの感染者数を毎日チェックしている。
すくない順で、島根は248人で3位と検討中だ。
1位は鳥取がぶっちぎりですくなく207人。
2位は秋田県の269人。
島根はこの秋田県とデッドヒートをくりひろげており、
すこしまえまでは ぬきつぬかれつのレースだったけど、
10人規模のクラスターが2つでてからは
秋田県をうわまわってしまった。
秋田県のことが気になってウィキペディアをひらく。
面積は、島根県の6,708,26km2の2倍ちかく、
人口はおよそ1.5倍の95万人。
人口密度は島根県よりすこしすくない81.5人km2。
都道府県別の人口密度で秋田県は44位、島根県が43位と、
どちらもおなじレベルですくない。

鷹の爪カレンダーの2月は、
「青銅器よりも芸能人が希少価値」だ。
ひとのすくなさを自虐してきた島根県だけど、
いまの状況では過疎がメリットになっている。

posted by カルピス at 17:24 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月10日

「名もなき家事」がわたしにはわからない

朝日新聞の「ひととき」という欄に、
「夫よ、名もなき家事から」という投書がのった。
「働くパパママ川柳」の大賞にえらばれた
「イクメンは 名もなき家事が できてから」について、
「名もなき家事って何?」と夫がたずねたという。
 分かるまいな、おぬしには。結婚して27年、調理や洗濯、掃除など「名のある家事」さえほぼやっていないのだから。私からすれば、食事の時に箸やコップをテーブルに出してくれるのだって「名もなき家事」だが、それすらしない。若い頃、頼んだことはあるが、機嫌が悪くなるのであきらめた。

投書氏のいいたいことはわかるけど、
わたしは「名もなき花」がないように
(どの花にもかならず名前がついている)
「名もなき家事」もないとおもう。
投書氏の夫が「名もなき家事って何?」
とたずねるのは当然ではないか。
「箸やコップをテーブルに出」すのは
配膳という名前がついているし、
ほかのどんな家事にもなんらかの名前がある。
論理的にかんがえると、どうしても
「名もなき家事」はない、といわざるをえない。
そんなことをいうからあなたは女の気もちがわかってない、
といわれそうだけど、
「名のある家事」すらしない夫をほったらかしておきながら、
「分かるまいな、おぬしには」はグチにしかきこえない。
それとも、わたしが「名もなき家事」に気づいていないだけで、
自分はちゃんと家事ができているとおもいこんでいる
アホな夫のひとりなのだろうか。

家事といえば、梅棹忠夫さんによる
一連の女性論をおもいだす。
『妻無用論』のなかで梅棹さんは、
家庭における主婦権を確立するために家事がうまれた、とかいている。
封建家族以来の、家庭における主婦権を確立するためには、やはり主婦自身がはたらくほかはなかったのである。はたらいて、その労働が有用であることを証明するほかはなかったのである。
 こうして、じっさいに日本の家庭ではおびただしい家事労働がつくりだされた。ひとはすぐ、日本の家庭における家事労働の雑多さ、はげしさをいうけれど、わたしは、そのかなのおおくのものは、生活の必要からやむをえずおこなわれているというよりは、主婦に労働の場を提供するためにつくられた、発明品ではないかと解釈している。それは、主婦が主婦権を確立するために、必要だったのである。

できるだけ家事をしないですませよう、
というのが梅棹さんの基本的なかんがえだ。
投書氏はパートをされており、専業主婦ではないのだから、
ひとりで家事をになうのはたいへんにきまっている。
名があろうがなかろうが、夫も家事をするのが当然であり、
あきらめずに夫をまきこんだら、とおもう。
「機嫌が悪くなる」ので、それぐらいなら自分でやる、
という女性もおおいだろうけど、
「できるだけ家事をしないですます」
ことをあたまのすみにおいておけば、
ずいぶん家事へのかかわりがちがってくるのではないか。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月09日

ひさしぶりにひらく高野秀行さんについてのノートブックが、まるではじめてのようにおもしろかった

おひるにお弁当をたべながらエバーノートをひらく。
いまはinboxを整理していないので カオスだけど、
4年まえまでは ノートをいくつものノートブックにふりわけていた。
お弁当をたべるときによむのは、inboxではなく
つくったことさえわすれているノートブックだ。
きょうは高野秀行さんについてのノートを再読する。
高野さんのブログをwebクリップでとりこんだものだ。
録画しておいた番組を、何年かたってからふたたびみると、
内容をまったくわすれてしまっているものがある。
それとおなじで、ひさしぶりによむノートは、
はじめてよむ記事みたいにおもしろい。
というか、記憶にないので、はじめてよむのとおなじだ。

わたしがすきな『間違う力』について、以下のようにかいてある。
わすれているだけに、とても興味ぶかくよんだ。
あるとき、(しりあいのSさんが)同じ人事部のメンタルヘルス担当の課長に私の『間違う力』を渡したところ、
課長がそれを10冊購入し、精神を病んで休職中の社員10名に送った。
すると、なんと10人中8人が読了後、会社に復帰し、
しかも社内の評価(恐ろしいことに学校みたく5段階評価になっているという)が、休職前は1か2だったのが復帰後は4か5という高評価をあげた。
それも他の社員と同じようにしゃかりきに働くのではなく、自分のペースで働いて好結果を生みだしているという。

『間違う力』のあたらしいつかい方だ。
今の日本では、精神疾患で求職中もしくは普通に勤務できない会社員が一体何十万人いることだろうか。
一つの社会問題であり、『間違う力』はその特効薬となる可能性があるのだ。(中略)
ゆくゆくは書店でなく薬局で販売されるようになるかもしれない。

わたしも『間違う力』にまちがってしまったクチで、
あまりかんがえないで仕事をやめ、定職につかない時期があった。
この本には、「長期スパンで物事を考えない」とかかれているので、
さきのことを心配する必要がなく、なんとかなるような気がしてくる。
事実、いまもなんとか生活できているので、
たしかに「長期スパンで物事を考えない」ほうが
結果滝にはうまくいくのかもしれない。
「間違った」ほうがたのしいのはたしかだ。

高野さんのノートブックだけでなく、
ほかのノートブックだって、4年以上もまえとなると
すっかり内容をわすれていて、再読するとたのしい。
たのしいけど、はたしてすなおによろこんでいいのだろうか。

「シゴタノ!」で、倉下忠憲さんが
「死蔵するwebクリップ問題」をとりあげている。
https://cyblog.jp/42377
エバーノートをつかえば、webクリップにより
ネット上の情報をかんたんにとりこめる。
でも、かずがあるていどたまってくると、
大量のノートをいかすのがむつかしくなる、という問題がおきてくる。
Inboxからノートブックにうつすのさえめんどくさいわたしは、
ノートをくりながらあたらしく気づきをえる、
という京大型カード的なつかい方ができず、
ただノートをためこむだけとなる。
そのうちとりこんだノートをすっかりわすれてしまい、
ひさしぶりによむとおもしろかった、となるのは当然のながれだ。
ひるやすみに存在をわすれていたノートブックをひらき、
まるではじめてよむようだ、とよろこんでいる場合ではないのだ。
どうしたらノートを死蔵しないかは、
わたしにとっても重要な問題となっている。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする