2021年04月30日

HIS(エイチ・アイ・エス)がひらいたそば屋さん

『本の雑誌 5月号』をよんでいたら、
旅行会社のHIS(エイチ・アイ・エス)が
都内にひらいた4店のそば屋さんについて とりあげていた。
きょねん緊急事態宣言がでたとき、
HISは全社員にむけて会社が新規事業を募集し、
そのなかから採用されたうちのひとつが
そば屋ということらしい。
どこかの大手と提携して そば屋経営のノウハウをいれるのではなく、
ひらいた4つのお店すべてが、まったくべつべつに
うごいているというからおもししろい。
それぞれに味とメニューがちがうのだから、
おなじ会社であるつよみをだせないような気がするけど、
自分たちの手でやる、というのがHIS文化としてあるそうだ。
まず自分たちの手でやってみよう、と。それに、自分たちがやることでスピード感が生まれます。(中略)今できることをすぐやって、失敗したら、また考えてやり直せばいいというのが会社の精神です。これまでも、そうしてきました

1980年にHISが旅行事業をはじめたとき、
机2つ、電話1本でのスタートだったという。
そのころは、格安航空券がひろがりはじめた時期で、
ちいさな会社がたくさんできて、それまでよりも
ずいぶんやすく外国へいけるようになっていた。
その後HISは旅行大手となり、わたしも外国・国内とも、
旅行するときはHISをつかっている。
新型コロナウイルスの影響で、旅行業界は
さきがみえにくくなっており、
これまでとおなじようにかまえていては経営がなりたたない。
HISのように、まったくあたらしい事業への展開も
こころみる必要があるのだろう。
旅行事業の穴うめとして、採算ばかりをかんがえるのではなく、
それぞれのお店で工夫をかさねるという、
やわらかい方針に好感をもった。

HISのそば屋さんをとりあげているのは、
平松洋子さんによる「そばですよ」という企画だ。
今回の記事で、もう70回も連載つづいている。
なんで『本の雑誌』が「そば」なのかよくわからないけど、
本についての雑誌が、本以外のことをのせても、
それがおもしろければ いいじゃないか、とおもう。
『本の雑誌』の、そんな なんでもありなところがすきだ。

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2021年04月29日

『ゴールドフィンチ』(ドナ=タート)ながさがたのもしい全4巻

『ゴールドフィンチ』
(ドナ=タート・岡真知子:訳・河出書房新社)

13歳のテオは、母親とメトロポリタン美術館をおとずれたとき、
テロ事件の爆発にまきこまれ、偶然1枚の絵を手にする。
母親が、いちばんすき、といっていた作品で、
歴史的・絵画的にも貴重な名画としてしられていた。
爆発でたおれた老人の手あてをしていたら、
その絵をもってくるようもとめられたのだ。
ケガによる意識の混乱からか、
絵をもってホービーをたずねるよう老人はいう。
テオはカバンにいれた絵とともに瓦礫のなかをさまよい、
ようやく美術館のそとへとのがれた。

美術館の絵をもちだせば とうぜん犯罪となる。
テロ事件の混乱がおちついてからは、
どうやって美術館に絵をかえそうかとテオはなやみつつ、
タイミングをはかりかねていた。
老人のうわごとに まきこまれたかたちであれ、
絵をもちだした正当な理由にはならないし、
絵には、手ばなしたくない不思議な魅力があった。
この絵をめぐり、さまざまな事件にテオはまきこまれていく。

全4巻というボリュームながら、あきさせないでよませる。
いったんはまってくると、ながさはそのままたのしさとなり、
わたしは、夜ねるまえに、酒をのみながらすこしずつよみすすめた。
よっぱらってよむと、あまり内容が頭にのこっておらず、
つぎの日に本をひらいたとき、何ページかを
もういちどよみかえすことになり、ますますはかどらない。
2021年の4月は、『ゴールドフィンチ』とすごした月として
わたしの記憶にのこるだろう。

絵をめぐるストーリーだけでなく、登場人物が魅力的だ。
出番は数ページしかないテオの母親について、もっとしりたかった。
だれにでもやさしく、都会的でチャーミングな女性。
なんでこんなにすてきなひとが、
人格破綻者のような男と結婚したのか不思議でならない。
のちにテオの相棒となるボリスもいい。
彼もまた、めちゃくちゃな父親にふりまわされてそだってきた。
言語についての才能があり、ロシア語やウクライナ語をあやつる。
成長してからは、裏社会を舞台にあぶない仕事につき、
おおくの金をうごかしながら、危険ととなりあわせで生きている。
それだけに、テオにはないちからをひめ、たよりになる男だ。
テオもボリスも、いったん酒(おおくはウォッカ)をのみだすと、
わたしだったら3回くらい死んでしまう量を口にする。
そのうえに麻薬や薬も日常的にきめこみ、ラリっている描写がおおい。
著者のドナ=タートは そうとうドラッグにくわしそうだ。

ものがたりは、ニューヨークからラスベガス、
もういちどニューヨークにもどってから、
アムステルダムへと、舞台をうつしながらすすんでいく。
絵をおいかける旅は、意外な結末をむかえ、
絵はおちつくべきところへもどされる。
テオは自分のおかしてきたあやまちをつぐないながら、
アメリカ各地をめぐりつづける。

わたしは「ゴールドフィンチ」(ごしきひわ)を、
ずっと5匹ヒワ、とかんちがいしていた。
足をクサリでとめられた5匹の鳥って、
なんだかややこしそうな絵だなーと。
ただしくはもちろん五色ヒワで、
テオがメトロポリタン美術館をおとずれる
最初の部分ですでに道をあやまっていたとは。
それでもさいごまでたのしくよめるのだから、
『ゴールドフィンチ』のおもしろさは はかりしれない。

posted by カルピス at 22:07 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月28日

発想の転換「『元気が出ない日』を満喫したい」(輿座ひかる)がおもしろかった

デイリーポータルZの
「『元気が出ない日』を満喫したい」(輿座ひかる)
がおもしろかった。
https://dailyportalz.jp/kiji/want_to_enjoy-_day_when_not_feeling_well
どうしても元気がでない日がある。
そういう日は「捨て日」と認定し、月に10日ぐらいは体調不良や寝不足を言い訳にいろいろあきらめていた。
が、先日「元気が出ない日も満喫できるかも」という発見をしてしまった。

「元気がで出ない時だけ楽しめることがある」
これはすごい発見だった。

元気がでない日は、それまで「捨て日」であり、
つらいからなにもできない日だったのを、
「元気が出ない日も満喫できるかも」
という発見により、元気がでない日の位置づけが、
プラスへの評価へとかわっている。
輿座さんがいろんなひとに
「元気が出ない日を満喫できる」方法をきいたところ、
・「クラシック短調」で検索してひたすら聞きまくる
・おかゆとか雑炊って元気ない時の方が美味しくないですか?
・中島みゆきの「命の別名」を聞く
などがあげられた。
せっかくボロボロだから、満喫してやろうという思いがずっとどこかにあります

ボロボロでやだなー、つらいなー、とおもうのではなく、
「せっかく」ボロボロなのだから、という
つらさをたのしみにとらえる発想がいい。
わたしが「元気が出ない日」にこころがけるのは、
「からだをやすめる」ぐらいで、
積極的にたのしもうというかんがえはなかった。
元気があると、かえってたのしめないというのがおもしろい。
一般的には、元気であることが善であり、
元気がないと、それはよくないことだから、
なんとかしようとしがちだ。「からだをやすめる」みたいに。
げんきをだそうとするではなく、
あえて元気がないときこそ たのしめることに気づけるかどうか。
元気がないときの音楽や、
元気がないときの料理、
元気がないときのあそび、など、
元気がないからこそたのしめることが、
これまではなおざりにされてきた。
元気がないときは、元気をだそうとせずに、
元気のなさを満喫するのがただしいむきあい方かもしれない。
そうやってたのしめば、結果的に元気がでてきそうだ。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月27日

脱炭素のため、片方のエンジンをとめて離発着する飛行機

先日おこなわれた気候変動サミットでは、
おおくの国が温室効果ガスの削減目標を
まえよりもたかい数字に設定した。
日本は、2030年度までに、2013年度より
46%の削減を目標にすると発表している。
ヨーロッパの国々は脱炭素にたかい意識をもち、
日本はそれにひっぱられた形らしい。
ただ、目標をかかげたものの、
具体的にどうやってへらしていくのかは、
ほとんどかんがえられていないようだ。
原子力発電の復活につながらなければいいけど。

きょうの朝日新聞で、「航空会社の脱炭素」として、
地上走行はひとつのエンジンだけでおこなうとりくみが
紹介されていた。
地上を走るにはひとつのエンジンで十分。片方を止めれば燃料消費を抑えられる。(中略)全ての離着陸で行うわけではなく、天候などを考慮して機長の判断で実施する。これで、2019年度は訳2100トンも排出を抑えたという。

片方のエンジンだけをつかうより、そもそも
飛行機をとばさなければいいのはあきらかだ。
国内は、電車やバスにのればいい。
そんなことは わかっている。
とはいいつつも、旅行へいきたいからこまっている。
環境のことをかんがえると、
旅行をどう正当化するかがむつかしい。
わたしはなんども海外旅行へいっているし、
国内への移動でも、飛行機をつかうことがある。
環境をたいせつにといいながら、
手がるに旅行もしたい人間にとって、
片方のエンジンだけをつかう、というのは
罪悪感をすこしかるくしてくれる、ありがたい工夫だ。

記事では、脱炭素をめざす航空業界のうごきとして、
「CORSIA」(コルシア)というとりきめを紹介している。
各社が排出量をふやさないように義務づけ、
超えた場合、超過分の排出量を、余分に削減できた企業から購入することが求められる。

航空業界だけでなく、すべての分野で、
こうしたしくみの導入が必要になるだろう。
ただたかい目標の数字をあげるだけではだめで、
環境に負担をかけると、それなりのペナルティがかせられたら、
脱炭素へ真剣にとりくむよう、社会がかわるしかない。
航空業界のこうしたうごきを評価したい。
そのうえで、もうしわけないとおもいつつ、
いちねんにいちどくらい 旅行にいかせてもらえたらうれしい。

posted by カルピス at 22:19 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月26日

「夜廻り猫」に連載ちゅうの「おじいさんと子猫」がいいかんじ

ネットで連載されている『夜廻り猫』(深谷かほる)が、
老人の家にまよいこんだ子ネコをとりあげている。
タイトルは「おじいさんと子猫」。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco/740/1
子ネコをどうあつかっていいかわからない老人に、
とおりがかった遠藤さんが、
「親とはぐれたら生きていけない
 飼ってやってください!」
とおねがいする。
はじめはしぶっていた老人だけど、
ぴゅーぴゅーなく子ネコ(まだほんの赤ちゃんだ)に
こまってしまい、晩酌のサシミをゆでてあげる。

2話目では、毎日サシミはやれんよ、という老人(渡辺さん)に、
動物病院へいけば子ネコ用フードがあると、
遠藤さんがおしえる。「ノミやダニも駆除してもらえる」し。
子ネコ用フードなら、スーパーでも
ホームセンターでもかえるのに、動物病院を紹介するところが
遠藤さんのうまいところだ。
フードだけをかうわけにいかず、血液検査や
予防注射のはなしにきっとすすむだろう。
ネコとくらしていこうとするのなら、
かかりつけ医がいたほうがいい。
はじめてネコをうけいれるひとは、
ほんとうになにもしらない状態なので、
病院へいけば基本的な情報をおしえてくれる。
それにしても、渡辺さんが子ネコをうけいれる気になってよかった。
このごろは、余命と相談して動物をかいましょう、
という風潮があるけど、であいはいつだって突然におとずれる。
一時的な感情にながされてはいけない、といっても、
ないている子ネコを だれがほっておけるだろう。
まずはたすける、が基本だ。渡辺さんがやったように。

そして3話目。
ピューピューないて なにかを必死にうったえている子ネコに、
渡辺さんはどうしていいかわからない。
夜まわりちゅうの遠藤さんにたすけをもとめると、
これは・・・
「すきー」と言っておるのです

と遠藤さんはおしえてあげた。
だれかに、ましてや子ネコに
「すきー」なんていわれたことのなかった渡辺さんは、
こころをわしずかみにされて かたまってしまう。
ネコずきがまたひとりふえた瞬間だ。
こういうふうにして、ネコは人間をとりこんでしまう。
ネコのかわいさをまえに、人間はあまりにも無防備だ。

posted by カルピス at 21:22 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月25日

村上レディオの「花咲くメロディー特集」にとまどう

第23回の村上レディオは「花咲くメロディー特集」。
春→お花見→幕の内弁当→メドレー音楽、というきわめて単純な発想の命名ですが、

と村上さんはいうけど、
なんで幕の内弁当からメドレー音楽を連想するのか
わたしにはよくわからない。あそびといえばそれまでだけど、
なにがおもしろいのかわからないと、あそびにならない。
紅白にでる歌手が、自分のヒット曲を
何曲かおりまぜてうたうことがあり、
そういうのをメドレーというのだとおもっていた。
たとえばピンクレディや嘉門達夫さん。
ヒット曲を つづけてうたうのがメドレーなら わたしにもわかる。
でも、はなしはそれほど単純ではなさそうだ。
クイーンのセカンドアルバムから3作のスタジオアルバムでは、別々の録音で、アレンジとテープ編集でありながらも、実際にメドレーであるかのような錯覚を与えるサンプルが収録されている。
レッド・ツェッペリンは、正式発表されているライヴは数少ないが、通常、冒頭の2~3曲は続けて演奏し、そのほとんどは、絶妙なアレンジでメドレー形式となっていて、節目ごとに、その曲目とアレンジを変えている。

なんてウィキペディアの説明をよむと ますますわからない。
1曲のなかに、数曲はいっているもの、という解釈でいいだろうか。

競泳にも「メドレーリレー」や「個人メドレー」という種目がある。
4つの泳法をつなげておよぐからメドレーなのだろう。
ことなるものをつなげる、という意味なら、
競泳のメドレーはよくわかるけど、
きょうの「村上レディオ」でかかった曲は、
村上さんが「メロディー」と紹介してくれなかったら、
わたしにはふつうの曲としかおもえないだろう。
音楽におけるメドレーは、きくもののちからをためすところがある。

「村上レディオ」のサイトには
なんだろう、この“つながる瞬間”のグルーヴ感は! 村上DJが音楽の幕の内弁当だという「花咲くメドレー特集」は、アーティストと選曲者が卓越したセンスを持っていなければ成り立ちません。

とスタッフがコメントをよせている。
ヒット曲をつなげてうたえばなんでもメドレーになる、
というほどかんたんではないようだ。
それにしても、幕の内弁当とメドレーが、なぜつながるのか。
そこにひっかかったまま、わたしの頭はさきにすすまない。

今夜の夕ごはんは、村上レディオをききながらたべた。
いつもだと、録画しておいた番組をみながらだけど、
食事のおともとして、テレビとラジオではずいぶんちがう。
村上さんがえらんだ曲は、メドレーとしてはおもしろのだろうけど、
食事のときにふさわしい曲かどうかは またべつだ。
いつもの村上レディオは、もっと村上さんのおしゃべりがはいるので、
食事のときでもたのしめるかとおもっていたけど、
今回はほとんど曲がながれっぱなしだったためか、
なんだかへんな雰囲気の夕ごはんとなった。
基本的に、音楽と食事はあわないのかもしれない。
なにかにじっと耳をかたむけると、おしゃべりはできないし、
食事に集中するのもむつかしい。
会話のとぼしい我が家の食事には、
テレビ番組のほうがにつかわしいのかも。

posted by カルピス at 21:36 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月24日

4名の新成人を おいわいする

職場の介護施設(生活介護・就労継続支援B)で
成人をいわう会がもよおされた。
もともとは1月に予定されていたものが、
新型コロナウイルスの影響で延期となり、きょうとなった。
おりから、全国的に第4波の感染がひろがりつつあり、
島根県でも このなんにちか、複数の感染者がでている。
ひさしぶりにリアルなこわさをかんじる状況となった。
それでも、会をまたのばすよりも、
感染に配慮したかたちで実行しようと、
予定どおり4名の新成人をいわった。

ひとりひとりの新成人にたいし、
職員がおいわいのことばをのべる。
学校でお世話になった先生方もおまねきし、
生徒だったときのようすもうかがった。
誕生からこんにちにいたるまでの写真が
映像として編集され、赤ちゃんだったころや、
学校での行事にとりくむ姿が紹介される。
運動会でのたのしそうな笑顔や、
あたらしい体験に胸をときめかせている真剣な表情、
保護者たちがほほえむ しあわせそうな写真をみると、
おさなかったころからの成長がしのばれる。
わたしたちは、彼・彼女たちと大切なひとときをともにすごし、
いまは人生の節目にたちあっているのだと、エリをただされる。
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新成人のひとりは、いつもとちがう場所や雰囲気にとまどい、
なかなか会場にはいることができなかった。
式のながれがとまりそうになっても、
その方が部屋にはいれるまであわてずにまちつづけ、
さいごにはピッタリと記念写真におさることができた。
スムーズな進行にこだわのではなく、
その方の障害特性に配慮した対応が印象にのこる。
にぎやかで、おいわいのあたたかい雰囲気にみちた会となった。

posted by カルピス at 15:29 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月23日

いつかは死ぬといいながら、心配しがちなわたし

いつものようにプールでおよぐ。
1500メートルをつづけて、そのあと50メートルで
4種目を2本ずつ。合計2000メートルのメニューだ。
先週およいでいるとき、とちゅうから
きゅうに左手がうまくとじなくなった。
最近しりあいが脳梗塞をおこしたことが頭をよぎる。
脳梗塞のまえぶれって、どんな症状だったっけ。
こわくなって、とちゅうでたちどまりかけたけど、
これぐらいのことでおよぐのをやめていては、
このさきなにもできないぞ、とおもいなおし、
そのままなんとかおよぎつづける。
プール監視がみていてくれるから、
もしわたしがおぼれても、たすけてくれるだろう。
1500メートルをおよぎおえると、
タイムはいつもより1分おそいものの、
これぐらいのおそさは「いつものこと」なのでおどろかない。
なにもおきなくてよかったと、ほっと一息ついた。

わたしは善玉コレステロールがたかく、
悪玉コレステロールはひくい。
中性脂肪はひくく、血圧もたかくない。客観的にいって、
動脈硬化や血栓ができるおそれはあまりないとおもうけど、
可能性はゼロではないので、脳梗塞はこわい症状だ。
いろいろなまえぶれがいわれているけど、
よほどはっきりした自覚症状がなければ、病院へはいかず、
そのままやりすごしてしまうだろう。

人間は、どうせいずれはなにかで死ぬわけで、
ガンかもしれないし、脳梗塞かもしれない。
映画をみていると、七難八苦をくぐりぬけて、
なんとか恋人や家族のいのちをすくう場面がよくでてくる。
なみだながらに 無事をよろこびあうひとたち。
たすかったのだから、わたしも素直に感動すればいいわけだけど、
いまは死ななくても、いずれはどうせ死ぬんだけどな、と
つぶやいてしまいがちな人間だ。
いきのびて、おおよろこびしても、いつかはみんな死んでしまう。

いつかは死ぬと、達観したようなことをいいながら、
じっさいは、ちょっと異常をかんじると、おびえてしまう。
60歳というと、からだに異変がおきても おかしくない年齢で、
おおきな症状は まだでていなくても、あちこにちガタがきて
わかいころとおなじようには くらせなくなっている。
なにがおきても、もう不思議ではない。
そのつづきとして、死も身ぢかにせまりつつある。
はしったり、およいだりしているとき、
きゅうにたおれたら いやだなー、と
心配がこころをかすめるようになった。
こんなことをいっている人間には、
ぜんぜんべつの方向から死がやってくるかもしれないけど。
実態がないものを こわがってもしかたないので、
プールでたちどまらなかったことをささえに、
これまでつづけてきたことを、
これからもできるだけつづけようとおもっている。

posted by カルピス at 21:09 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月22日

老後のあそびにバイクがほしい

「クールジャパン」(NHK-BS)で、
日本のオートバイをとりあげていた。
大型バイクだけでなく、スーパーカブなど、
日本製バイクの性能は、世界でも有名だという。
たのしそうにバイクとつきあっているひとを番組でみると、
わたしもまたバイクにのってみたくなる。
わたしは中型免許をもち、わかいころはヤマハ・セローにのっていた。
でも、雪や雨のおおい山陰の気候では、
バイクをもっていても、快適にのれる日はあんがいすくない。
さむい冬はもちろん、夏だってあつすぎてのる気にならない。
ちかい場所へは自転車でいくし、とおくなれば自動車だ。
お天気のいい日にバイクではしるたのしさを想像すると、
これこそが自由の象徴のようにおもえるけど、
現実は自転車置場になげっぱなしとなり、いつしか手ばなした。

東南アジアへ旅行にいくと、おおくの国で
125ccのバイクがげんきに、たくさんはしっている。
土地がひろく、信号もすくないので、バイクのもち味がいきる。
どこの国でも125ccのバイクが生活にとけこんでいる。
そのうちにホンダドリーム125がわたしのあこがれとなり、
タイのチェンライで じっさいにのったときはうれしかった。
タイでは、バイクをかんたんにかりられるので(免許もいらない)、
バンコク以外のちいさな町では手ごろなあそび道具となる。
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日本でバイクをもつなら、スーパーカブときめている。
わたしはスピードがこわいし、トンネルも苦手なので、
せっかくおおきなバイクをかっても、その性能をいかせない。
カブはまさしく 必要にして じゅうぶんなバイクだ。
トコトコと田舎道をはしれたらそれでいい。

わたしがいちばんはじめにかったバイクは、
ヤマハの原付で、MRという機種だった。
2サイクルエンジンで、うるさいわりにはスピードがでない。
ネットで写真をみると、すごくなつかしくなった。
10年ほどまえに、職場からでかけた広島県の山で、
現役のMRをみかけ、おどろいたことがある。
わたしが学生のときにのっていた原付が、
30年後にも、まだはしっているなんて。
保存状態がよく、たいせつにのられているのがわかる。
ちかくに所有者がいたので はなしかける。
わたしもむかしこのバイクにのっていました、というと
よろこんでもらえた。MRがだいすきだとはなされる。

カブでじゅうぶん、といっておきながらなんだけど、
老後には、あそび用の原付バイクがいいような気もする。
実用をはなれてこそのあそびなのだ。
とはいえ、いまの原付は スクーターが主流で、
むかしみたいに若者のあそび用バイクはすくないようだ。
タイホンダがつくる125ccバイクのほうがいいだろうか。
のこされたあそび時間はそうおおくないはずで、
バイクとなれば、さらに条件がきびしくなる。
老後といわず、はじめるのはいまかもしれない。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月21日

『ランスマ倶楽部』との決別

タレントの高樹リサさんは、
フルマラソンでの4時間ぎり(サブ4)をめざしており、
『ランスマ倶楽部』(NHK-BS)はこれまでになんども
彼女のトレーニングやレースのようすを放送してきた。
先日は、いよいよサブ4の本番として、記録会がおこなわれた。
新型コロナウイルスのため、レースがのきなみ中止になっており、
記録会というかたちでサブ4をめざす、というのはわかる。
でも、高樹さんのサブ4を実現させるために、
ペースメーカーが約10キロごとにかわり、
そのペースメーカーも、高樹さんのしりあいでかため、
はしっている最中に、アドバイスをしたり、
リラックスするようはなしかけたり。
「きれいだよ!」と声援をおくるひともいた。
いったいこの記録会はなんなのだと、
みているうちにしらけてきた。
番組のメンツにかけて、なにがなんでも高樹さんに
サブ4を実現させようと、ありえないサポートだらけなのだ。

これが、人類はじめてであるサブ4をめざし、
一流のスタッフからなるチームをくんで
偉業を達成しようというのならわかる。
でも、あくまでも高樹さんが個人的にめざしていた
ひとつのくぎりとしてのサブ4にすぎず、
それなのに、よってたかって
夢にむかっての困難な挑戦だとあおりたてる。
女性のナレーターが、いかにくるしいチャレンジかと
おもいいれたっぷりで「ものがたり」にしたてようとする。

これはもう 高樹さん個人の記録というよりも、
番組が総力をあげてとりくんだヤラセといってよい。
たしかに高樹さんは自分ではしったわけだけど、
まわりがよってたかってズルするものだから、
せっかくの記録も「なんだかなー」という気になる。
番組のあまえた体質と、こんな記録会をゆるす
陸上界エリートたちがたらす いたい汁に いやけがさした。
いっけん美談にしたてあげられた このなんちゃって記録会は、
チョモランマにのぼるために、専属のガイドをやとい、
頂上までいたりつくせりのサポートをうけ、
登頂がカジュアルなイベントとなっている登山とおなじだ。
高樹さんが、せっかくがんばったサブ4へのチャレンジが、
番組のいやらしさにけがされて、価値をおとしている。
『ランスマ倶楽部』をみるのは もうやめよう。

posted by カルピス at 20:47 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月20日

松江市議選で、落選したひとの傾向をさぐる

松江市の市長選・市議選の結果が発表された。
市長選はともかく、市議選は、
わたしがえらんだ候補が 当選していたのでおどろいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/481069452.html?1618922311
しかも、上位10名にはいる健闘ぶりだ。
投票したひとが当選したのは はじめてではないか。
自分の票がいかされるのは、あんがいいい気分なのをしる。

市議選には、41人が立候補して、7人がおちている。
どんなひとがおちたのだろう。なにか傾向があるだろうか。
7人のチラシを選挙公報で確認すると、
そのうちの2人は手がきのチラシで、
いかにもやばそうなかんじだ。
おもしろがって投票したくなるような内容ではなく、
かかわらないほうがよさそうと、おおくの市民が判断したのだろう。
断トツの最下位と、下から2番目を、このふたりが独占している。

落選したのこり5名は、チラシをみるだけでは
なぜおちたのかわからない。
あたりさわりのないチラシなのに、どこが不評だったのだろう。
そのうちのふたりは 50代後半と、たしかにわかくはないけど、
もっと年配の候補者はいるのだから、決定的なマイナス点ではない。
落選したほかの3人は、いっけんふつうの立候補者におもえるのに、
よほど人望がなかったのだろうか。

41人の立候補者のうち、10人が広報にQRコードをのせていた。
そのうち2人は落選しており、うち1人は、
印刷がわるいのか、サイトをひらけなかった。
ちゃんとひらけても、ととのいすぎて
ぜんぜんSNSっぽさがないのもまた いただけない。
QRコードをのせただけでは、SNSをいかしたことにはならない。

配偶者に立候補者の一覧がのった選挙公報をわたし、
おちた7人をあててみて、ともちかけた。
チラシをみただけで、このひとにはいれたくないと、
マイナスのイメージをだく候補者がいるだろうか。
手がきのチラシ2人はのぞくとして、のこる5名はだれでしょう?
結果は、2人の落選者を配偶者は あてている。
チラシと、のっている写真をみて、いやなかんじがしたのだという。
まじめに応援したくなる候補者がいない場合、
なんとなくのイメージで投票するわけだから、
チラシからうける印象はとても大事だ。
チラシづくりにもっとちからをいれたら、
市議になるのは あんがい そうむつかしくないのかも。

posted by カルピス at 21:33 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月19日

カフタン氏の指揮によるベートーベン交響曲第7番

「ベートーベン生誕250年 メモリアルコンサート」として
NHKが「ベートーベン・オーケストラ・ボン」の演奏を放送していた。
3曲による編成で、さいごに演奏された交響曲第7番は、
わたしがベートーベンでいちばんすきな曲だ。指揮者はカフタン氏。
ロックダウンのあと、はじめてひらかれたコンサートだったそうで、
カフタン氏と、会場をおとずれたひとたちは、
演奏をふたたびたのしめるよろこびをはなしていた。

交響曲7番は、有名な第1楽章、そして、
最高にゴージャスな第4楽章がここちよくひびいてくる。
第4楽章がはじまるときは、オーケストラのメンバー全員が、
それまでの演奏で曲の主題をかたりつくした充実感にあふれていた。
そして、さいごはおもいっきりたのしもうという
やりつくしたあとの、開放的な姿勢を指揮者がみせる。
カフタン氏による指揮は、タクトをふるというより、
準備体操みたいなからだのつかい方で、
すごく熱がはいっているからみていてたのしい。
でも、楽器を演奏しているひとたちが、指揮者をみているかというと、
あんがいそうでもないのがおかしかった。
自分のパートがおわったひとは、やれやれと一息ついているし、
別のひとは譜面や あらぬところへ 視線をさまよわせている。
カフタン氏は、おもいいれたっぷりに、
それぞれの演奏者に個別のメッセージをおくっており、
そしてさすがに曲はすばらしいもりあがりをみせるけど、
指揮者にみちびかれて、というよりも、
曲にあわせて自然にクライマックスをむかえたようにみえる。
指揮者の仕事である演奏者全体の把握は、
当日をむかえるまでに完成されたレベルにたっしており、
その日の演奏は、それまでにつちかってきたものを、
自由に表現する時間なのかもしれない。

カフタン氏の指揮は、みているだけで興味ぶかかった。
会場におとずれていたひとたちも、満足したのではないか。
わたしはクラシックコンサートにふなれなせいか、
演奏や指揮者に意識がむいてしまうと、
曲への集中がきれて よけいなことをかんがえてしまう。
目にはいってくる情報のたのしさと、
耳からはいる音とのかねあいがむつかしい。
雑念がまじりやすいわたしのようなタイプは、
目をつむって演奏をきいたほうがいいのかもしれない。
とはいえ、カフタン氏のうごきを目にいれないのはもったいないし。
音楽ずきなひとは、どうやってコンサートにのぞむのだろうか。

posted by カルピス at 21:26 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月18日

棄権せずに投票したらなんだか気分よかった

今回の選挙はやめようか、と夕方までおもっていたところ、
職場で「選挙にはもういきましたか?」とたずねられた。
まだです、とこたえながら、あらためてきかれると、
棄権するのは なんとなくもうしわけない気がしてきた。
松江市は、市長選に3名(全員が新顔)、
市議選に41名(定数34)が立候補している。
市長選はともかく、市議選は、
定数を7名もこえているので、混戦になるかもしれない。
とくに票をいれたいひとがいないので、
候補をしぼりきれないまま ほったらかしてきたけど、
せっかくだから、おつとめをはたそうか、という気になった。
仕事をおえて家にかえってから、
あらためて自転車で投票所へむかう。
夜7時まえに会場となっている学校につくと、
投票におとずれたひとの車がたくさんとめてあった。

きのう母を不在者投票に市役所へつれていったときも、
なにごとがおきたのかとおもうくらい、
ひとがたくさんおとずれていた。
今回の投票率は、どれくらいだったのだろう。
不在者投票や、もうすこしで投票がしめきられる夜7時に、
これだけひとがいるのだから、
たかい関心をあつめた選挙だったのだろうか。

投票するのに、まったく候補者のことをしらないでは、
候補者をしぼれないので、なにか情報をえようと、
市の選挙管理委員会がだしている選挙公報を参考にする。
候補者が提出した原稿を、そのまま両面ずりの
公報にしたもので、全候補者のうったえが一覧できる。
公報の一覧に目をくばったのは はじめてで、
どの候補がつくるチラシも、
たいしてかわりないだろう、とおもっていたけど、
あんがい候補者のひととなりをあらわしているものだ。
いくつかのチラシは、このひとにいれたい、というより、
このひとにはいれたくない、という気もちにむかわせた。
頭がかたそうな候補におもえるチラシや、
あたりさわりのないことばかりかかれたチラシ、
党名がかいてあるチラシ、
自分がついている役職をならべたひと、
直筆でかいたチラシが3つあった。
わかい候補者は、年齢をアピールするし、
老人の候補者は年齢をかくしている。
わたしならどんなチラシをつくるだろうか。

投票をおえ、また自転車にのって家にもどる。
仕事でつかれ、いつもなら からだがおもい時間なのに、
妙に気もちよく自転車をこげる。
棄権せず、ちゃんと投票をすませたことが、
宿題をおえたような爽快感につながっているのかも。
投票が、こんなに気分がいいものとはしらなかった。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月17日

ヒロシさんの「迷宮グルメ」で北マケドニアのやこしい事情をしる

ヒロシさんの「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」をみていたら、
北マケドニア縦断特集の回だった。マケドニアという国が、
旧ユーゴスラビアにあることはしっていたけど、
北マケドニアというのははじめてきいた。
スーダンから南スーダンが独立したように、
マケドニアの北部地方が独立をはたしたのだろうか。
ネットをみると、マケドニアから独立したわけではなく、
ただ名前がかわっただけだ。2019年のことだという。
https://britannicalearnjp.com/2019/08/23/macedonia/
サイトにある説明には、旧ユーゴスラビアならではの
こみいった事情がわかりやすくかいてあり、
よみものとして とてもきょうみぶかい。
北マケドニアはあっても南マケドニアはないようだ。

ヒロシさんが町をぶらつき、
注文するコーヒーや料理はどれもやすくておいしそうだ。
ギリシャ料理に にているようにみえた。
薪ストーブをうっているお店があり、
北マケドニアはまずしいから薪ストーブをつかうんだ、と
お店のひとがはなしていた。
国がまずしいことを、自虐的にうけいれているようすに、
自虐ギャグでわらうしかない島根県民として好感をもった。

「音楽遊覧飛行」(NHK-FM)のエキゾチッククルーズでは、
サラーム海上さんが世界各地の音楽を紹介してくれる。
エンディングにかかる曲がいちばんいいという、かわった番組だ。
あまりにもマイナーな曲がかかるので、
リクエストしてくるひとはめったになく、
よくこの番組がつづいているものだとすこし心配している。
このまえは、めずらしく3通のリクエストがよせられていて、
海上さんがよろこんでいた。

番組では、曲の紹介だけでなく、国の歴史もざっとふれられる。
このまえは、ハンガリーの首都ブダペストについてはなしてくれた。
ブダペストは、ケルト人がすむ町としてはじまり、
13世紀には、アジアからきた騎馬遊牧民族の
マジャール人によって略奪をうけ、
15世紀にハンガリー帝王国として再建されたものの、
16世紀にはオスマン帝国に侵略され、18世紀からは
オーストリア=ハンガリー帝国に支配されている。
もともとは、ドナウ川をはさんだ2つの町、
ブダとペストにわかれていたのが、合併され、
ウィーンにつづく第2の首都になったそうだ。
なんども列強からの侵略をうけた歴史がいたましい。
北マケドニアとブダペストとは、なにも関係ないけど、
複雑な歴史からむりやりこじつけてみた。
ドナウ川といえばスメタナの「モルダウ」で、と
かこうとしたら、「モルダウ」にでてくるのは
チェコをながれるべつの川だった。

posted by カルピス at 17:48 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月16日

去勢について いまさらながらかんがえる

オスネコのプリンに去勢手術をほどこしたら、
スプレー行為をまったくしなくなったと、
すこしまえの記事にかいた。
去勢手術の効果に、いまさらながらおどろいているわけだけど、
かんがえてみると、ペットだけでなく、
家畜(いやないい方だけど)にも去勢手術をする。
民族学者の梅棹忠夫さんによると、
去勢と乳しぼりという2つの技術により、
人類はあたらしい生活様式である遊牧を手にいれたという。
去勢をしないオスの動物は、おとなになると、
群をはなれて自分の居場所をさがしにでかける。
ひとつの群に何匹ものオスがいると、
どうしてもメスをめぐってあらそいがおき、
安定した集団にまとまらない。
遊牧をしなくても、牛や豚をかうときは、
種をのこすオス以外はぜんぶ去勢する。

とはいえ、人間が自分たちの都合のいいように
あつかうための技術が去勢なのであり、
ペットや家畜以外の動物は、もちろん去勢なんてしない。
おとなになった動物は、なわばりあらそいだったり、
メスをめぐってのケンカだったりを、せずにはおれない。
キズついたり、うえて死んだり、
野生に生きるオスはたいへんだ。
それでも、群からでずにはおれないのがオスの本能で、
それは、種がよりいきのびやすいための知恵なのだろう。

何年かまえにひらかれたサイト「村上さんのところ」で、
オス猫が脱走してかってこない、という相談がのった。
村上さんからの返答は、
その猫くんは去勢してあるのでしょうか? もししていなければ、しばらくは戻ってこないと思います。猫はそのシーズンになると、頭のヒューズがどこかに吹き飛んでしまいます。

だった。

あらゆる動物は、基本的に「そのシーズン」になると、
「頭のヒューズがどこかに吹き飛んで」
しまった状態でくらしている。
いくらそれまで人間となかよくやっていても、
「ヒューズがどこかに吹き飛んで」しまえば、
はなせばわかる かわいい仲間ではなくなる。
そうやって、なわばりあらそいだったり、
メスをめぐってのケンカだったりを、
せずにはおれないのが、去勢してない動物たちだ。
ヒューズがとんだ状態で生きるのは、きっとたいへんだろうけど、
かんがえてみれば、野生動物だけでなく、人間だって去勢をしない。
しないから、ヒューズがとんであらそいがたえないのだろうか。
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posted by カルピス at 21:01 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月15日

人新世時代に、なにを実践するか

職場が斡旋するお弁当がやすみの日は、
チェーン店のお弁当屋さんにたよることがある。
4つくらいのお弁当をかって事業所にもどり、
たべおえた容器をあつめると、あまりにも
膨大な量の「ゴミ」をだすのにおどろいてしまう。
こんなことをやってたら、日本はほろぶぞ、というレベルの量だ。
テイクアウトをするお店がふえているということは、
それだけプラスチック容器もたくさんつかわれているのだろう。
資源のことをかんがえたら、もちかえりより
お店でたべたほうがゴミはでない。
レジ袋やストローにつかうプラスチックなんて、
全体からすれば、ほんの微々たるものだろう。
やらないよりはやったほうがいいのはもちろんだけど、
そのていどの配慮ではどうにもならない。

『人新世の「資本論」』(斎藤幸平)をよみ、
テーヘンだ、テーヘンだとさわぎたて、
しりあいにすすめ、感想もはなしたけど、
じっさいになにをするかというと、なにもしていない。
スーパーで肉や魚をかうと、お店にそなえつけられた
うすいビニール袋にいれるし、
そもそも肉や魚をたくさんたべる生活は、
環境にとっていかがなものかとおもう。
おもうけど、なにもしてない。
夜、お風呂にはいっているあいだに、
洗濯機をまわすのが習慣になっているけど、
そうやって、毎日のように洗濯機をうごかすのはどうなんだ。
洗剤は、ほんのちょっぴりしかつかわない。
でも、水は確実につかうし、電気だって必要だ。
毎日の洗濯は、どれだけの大義名分があるだろうか。

スーパーでかいものをしても、夜のおかずをつくるだけで
たくさんのプラスチック容器を資源用ゴミ袋にいれる。
いちねんに、どれだけのプラスチック製品をつかっていることか。
といいながら、わたしはレンジでチンするときや、
冷蔵庫におかずをしまうときはラップをつかう。
仕事でクッキーをつくっていても、
たくさんのラップやビニール袋にたよっている。
なにをするときも、つかうのはビニール製品だ。
できあがったクッキーをいれるのだって、
どうしてもビニール袋となる。
がんばって仕事をすればするほど、地球環境に負担をかける。

東南アジアを旅行していると、なにかの葉っぱに
おかずをくるんで うっているのをみかける。
いちばん環境に負担をかけない容器は葉っぱだろう。
マレーシアでは、バナナの葉っぱをお皿にして、
カレーをたべさせるお店があった。
葉っぱをささっとフキンでふき、
そのうえにご飯と何種類かのカレーをもりつける。
カレーそのものもおいしかったし、
バナナの葉っぱというのがうれしかった。
たべおえてもお皿をあらわないので 洗剤にたよらないですむ。
日本では、バナナの葉っぱ、というわけにはいかないから、
テイクアウトするときには、お弁当箱をもっていくのはどうか。
いまは、プラスチック容器がやすすぎるから、
ゴミがでるのを気にせずつかってしまうのだ。
環境保全のために、プラスチック容器にたかい税金をかければ、
気やすくつかうわけにはいかなくなる。
プラスチック容器をつかわない生活へ、
根本的なきりかえをいそがなければ。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月14日

選挙運動のスタイルはなぜかわらないのか、すごく不思議

かくまえから いやなかんじで 気がのらず、
でも2021年においても、昭和と、あるいはもっとまえから
なにもかわらない 日本の残念な風俗として
文章で記録しておく意味があるかもしれないので
60まえの男性がかんじた 選挙運動についてふれておく。

わたしがすむ町でも市議会議員選挙がはじまり
演説やら選挙カーがうるさくてかなわない。
自分の名前をさけびつづけるだけの選挙カーがおおく、
なぜこのスタイルが、ぜんぜんかわらなのか ほんとうに不思議だ。
かならずみなさまのお役にたちます、
くるしいたたかいになっています、
この地区を代表してみなさまの声を市政にとどけます。
具体的な内容がなく、うるさいだけのうったえに うんざりする。
わたしが小学生のころから選挙のたびに
おなじやりかたが延々とくりかえされてきた。
小学生にも、連呼による「選挙運動」のおろかさはわかる。
候補者の名前をさけびつづけるだけで、
だれかが票をいれてくれるなどと、期待するほうがどうかしている。
もしかしたら、おとなにたいする不信感は、
これらの へんな選挙運動をみたのが きっかけになっているのかも。
おとなはもっとまともかとおもっていたのに じっさいは・・・。

市議レベルの選挙では、おおきな政策をかかげるわけにもいかず、
選挙運動のやり方は ごくかぎられたものになるのかもしれない。
今回きいたなかには、任期ちゅうに自分がのこした実績について
具体例をあげて アピールしている候補者がいた。
できっこない政策をうたうより、
じっさいに実行した仕事をいうのはいい方法で、好感がもてる。
それができず、ただ みなさまのあたたかいご支援を、
ばかりくりかえすのは、 なにもしなかったひとだからだろう。

市議選が県議選、さらには国会議員選にかわっても、
選挙運動のスタイルはたいしてかわりがないけど、
市議選がいちばん候補者の人数がおおく、
うったえる政策がかぎられているためか、いちばんうるさい。
本気で仕事にとりくもうとしている候補者がわかれば、
応援し、選挙にいって投票したくなるけれど、
いまの候補者をみるかぎり、あまりにも不毛な選択におもえる。
つぎの日曜日、18日が投票日だ。
それまでに、気もちをゆさぶる候補者があらわれるだろうか。

posted by カルピス at 21:40 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月13日

文章をみぢかくするとうまくいく

アルバイトさきのハーブショップでは、
苗の発送にあわせ、スタッフがかいた
「季節のあいさつ」を納品書に同封し、
お客さまへのサービスとしている。
あらためて文章をかくのはたいへんなので、
わたしはブログにかいた記事のうちから適当なものをえらび、
この「季節のあいさつ」につかいまわしをしている。

まるうつしできたららくだけど、40行ほどの記事を、
A5紙におさまるよう、みぢかくする作業が必要で、
これがあんがいむつかしく、勉強にもなる。
ブログをかくときには、必要最小限の記述となるよう
気をくばっているつもりなので、それをさらにみぢかくすると、
もとの趣旨をあらわせないのでは、とはじめはおもっていた。
あるいは、要点だけの文となり、うるおいにかけるのでは、とも。
でも、A5紙におさまるように、大胆なみなおしをかけると、
もとの記事をかなり省略したものになりながらも、
ちゃんとした内容をたもったままの「あいさつ文」ができあがる。
文章がみぢかいだけ、かきなおしたもののほうが、
すんなりつたわりやすいかもしれない。
かくほうは、できるだけわかりやすいように、
いろいろな例をあげて説明したつもりでも、
よむ側からすると、ただくどいだけかもしれないから。

「シゴタノ!」の大橋悦夫さんが、「えのさん」の発行している、
9行のみのメルマガを紹介していた。
https://cyblog.jp/238
えのさんに
「9行以内でスパッと言い切れないなら、結局それは伝わらない」
といわれ、大橋さんはたしかにそうだと納得したという。
1.最初はとりあえず行数を気にせずワーッと書く
2.次に9行に収まるようにどんどん縮めていく
3.努力の甲斐なく9行に収まらなかったら、そのネタは捨てる

せっかくかいた文章をすてるのは、もったいない気がするけど、
「9行以内に収まらないということは自分で扱える範囲を超えているのだと考えています。(中略)そもそも自分でスパッと言い切れないようなことを書いても読んでいる人には伝わらないでしょう」

そして、えのさんは、引用もしないのだそうで、
なぜなら引用なんかしていると、9行におさまらないから。
わたしの記事は、ときには引用だらけなので耳がいたい。

ブログをかくときに、どうにもうまくいかないときは、
ひとまとまりの文をきりすてたら、すんなりまとまることがある。
うまくいかなかったらみぢかくきりすてる、はひとつのコツだ。
とはいえ、9行は、そうとうみぢかい。
40行をA5紙におさめるだけでたいへんなのだから、
9行にしぼるのは、発想をかえないとむつかしそうだ。
のこされた9行は ほんとう必要な情報なのだろう。
えのさんのかんがえ方はおもしろいけど、
わたしにはとてもできそうにないテクニックだ。

posted by カルピス at 21:22 | Comment(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月12日

失敗が気にならなくなるまで失敗をかさねるという仕事のすすめ方

「本の雑誌社」の営業を担当している杉江さんが、
ブログ「帰ってきた炎の営業日誌」で
仕事の準備をどうすすめるかについてとりあげていた。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/2021/04/06/061605.html
何もかも用意周到にして前日までにはすべてのことを終えている私に、「杉江さんはなんでそんないつも心配症なんですか? 失敗に対する恐怖? 自尊心? 子供の頃のトラウマ?

としりあいにたずねられたという。
私は確かに失敗を極度に恐れており、なぜそんなに恐れるのかといえば、やはり心のどこかで仕事ができる人間と思われたい、あるいは人から叱られたくないという気持ちがかなりあるのではないかと思い至ったのである。

と杉江さんは自分の心理を分析している。

たずねたほうのひとは、準備をどうとらえるかについて、
何事も当日に一気にやり進めるという性分らしい。それで毎回失敗するから失敗が気にならなくなったそうだ。

ふつうなら、失敗すれば それにこりてあらためそうなものだけど、
気にならなくなるほど失敗をかさねるというのがすごい。
それぐらいでないと、おおきな仕事はできないかも、と
気がちいさくて、失敗におびえるわたしはおもった。
なにごとも気にするから気になるのであり、
といっても、気にするな、といったところで、
気になるひとは どうしても気にしてしまう。
けっきょく、気にする・しないは性分なのであり、
あとからなおしたり追加したりは基本的にできない。

人生の極意は、過去や将来にとらわれず、
いま、目のまえのことだけをかんがえること、とよくいわれる。
ということは、「何事も当日に一気にやり進める」スタイルは
けしてまちがっておらず、純度のたかい生き方かもしれない。
「いま」しかない。「いま」のことしかかんがえない。
子どもがそうだし、犬やネコも「いま」しかないような気がする。
その姿勢は 自由ともつながっており、
いろんなことにとらわれないから、自分のやりたいことに集中できる。
自由とは、失敗が気にならなくなるまで失敗しつづけること、
だとしたら、失敗とか成功とかは どうでもよくなってくる。
ひとの評価などを気にするから雑念がまざるのであり、
ものごとの本質は、失敗しても なにもかわりはしない。
失敗を意識からおいやってしまえば、
自分がやりたいことを、ストレートに表現できそうだ。

posted by カルピス at 21:28 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月11日

車いすをおしているひとをみると、挨拶をしたくなる心理がよくわからない

障害者介護という仕事がら、車いすにのった方と、
町なかや宍道湖岸をよく散歩する。
そんなときは、なぜか挨拶をうけやすいようだ。
車いすだけでなく、障害をもっていると、
外見からわかるひととあるいていても、挨拶されやすい。
このまえはジョギングちゅうのランナーに、
すれちがいざま「こんにちは」 、
うしろからおいぬくときに
「きょうは天気がよくて気もちいいですね」
とおなじ方から声をかけられた。
挨拶されてわるい気はしないけど、
ひとりであるいているひとには挨拶しないのに、
車いすにのっているひと、車いすをおしているひとには、
挨拶したくなる心理とはなんなのだろうか。

ちいさな子どもをつれた女性は、
かなりたかい確率で挨拶してくれるし、
中学生くらいの男の子にも、
「こんにちは」をときどきいわれる。
自発的な挨拶なのか、それとも
学校で、車いすでおでかけしているひとをみかけたら、
挨拶しましょう、とはなされているのだろうか。

わたしは、もともと挨拶したくなるタイプのようで、
通学ちゅうの高校生から挨拶されて
おどろくことがときどきある。
ジョギングをしてるときも、ときどき挨拶される。
挨拶したくなるタイプの男(わたしのことだ)が
車いすをおしていたら、挨拶したくなる条件がそろい、
相乗効果で つい挨拶してしまうのだろうか。
挨拶するのはいいことだとおもうけど、車いすの、
あるいは、わたしのどこが挨拶をまねくのか 不思議な気がする。
挨拶をしたくなる心理が、いまひとつよくわからない。

いっぽうで、わたしはひとから無視されやすいタイプだ。
たとえば居酒屋で店員さんに声をかけても、
すぐに反応してくれることはまずない。
スーパーのレジにならんでいても、
店員さんにスルーされることもある。
180センチと、背はたかいけど、存在感がどこか希薄なのだ。
わたしは声がちいさく、パッションもとぼしいため、
相手に悪気はなくても、無意識のうちに
わたしをメンバーとしてカウントしない心理がはたらくようだ。
挨拶したくなるタイプのはずなのに、
存在は目にはいりにくい、というのがおもしろい。

posted by カルピス at 21:37 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする