2021年05月18日

安泰寺での修行に、ずうずうしくわかいころの自分をかさねる

「何も求めず ただ座るだけ」(NHK-BS)

兵庫県にある安泰寺は、禅の修行をするお寺として
外国人にもよくしられているという。
檀家をもたないお寺で、自給自足の生活をしながら
1日4時間、年間に1800時間も座禅をするという。
生きる手ごたえをもとめ、年に何人もの若者が
安泰寺をたずねてくる。

ただすわるだけで、なにかがみえてくるのだろうか。
わかいひとたちが、自分にあった生き方をもとめ、
座禅をしながら真剣に自分とむきあう姿はすがすがしい。
わたしはずうずうしく、自分のわかいころをおもいだした。
20代のころ、農業研修で島根県の村ですごした1年間は、
わたしにとって安泰寺での修行を、ぐっとカジュアルにした
自分さがしの時期だったともいえる。
自給自足とはいえないまでも、できるだけ
自分たちがたべるものを自分たちでつくろうとしていたし、
あつまってくるもののおおくは若者で、
自分の生き方に、どこか満足していない点が共通していた。
といって、真剣に修行をしているつもりはなく、
クラブ活動みたいなノリの集団生活は、
まだわかかったわたしには、いい体験となった。
マレーシアからきたわかものも そういえばひとりいた。
農業の研修というより、なんとなく居場所をもとめて、みたいな
わけのわからない理由でも、みとめられる場所だった。
宴会では、フォークソング中心の歌詞カードがまわされて、
大学のコンパみたいに おおさわぎしながらみんなでうたう。
「イムジン河」をはじめてきいたのも、そこでの生活だ。
修行というよりサークル活動みたいで、
農作業のたいへんさよりも たのしかったことしかおもいださない。

安泰寺での修行を記録した番組では、
休日に繁華街へでかけた修行者をおっかけていた。
ひとりは、卵とバター、それにラーメンをかっていた。
ひさしぶりにあるく繁華街がたのしそうだ。
ラーメンをつくってたべるとき、
のこった汁をすてないで、ぜんぶのむところが
いかにも修行僧らしかった。
健康のためには汁をのこすようすすめられるけど、
汁をながしにすてれば環境に負担がかかる。
安泰寺ではたべのこしをしないのに、
寺をはなれて生活がかわるようでは
修行の意味がない、といっていた。
その、頭でっかちな、青くさいところが
いかにもわかものらしくていいなーとおもった。

posted by カルピス at 21:26 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする