2021年06月30日

『我が家のヒミツ』(奥田英朗) 会社人間という「ふつう」の病人たち

『我が家のヒミツ』(奥田英朗・集英社文庫)

家庭を舞台にした6編からなる短編集で、
2話と6話には、どちらも会社に身もこころもささげ、
ながねんはたらいてきた男性がでてくる。
なんてかくと、ガチガチの会社人間をイメージするするけど、
ようするに「ふつう」の大企業であり、
日本ではめずらしくない男性社会の会社が舞台だ。
おおきな会社ではたらいたことのないわたしには、
男性社会として、しくみができあがっている会社が、
きわめて異様な姿にうつる。

「正雄の秋」は、同期との出世レースにやぶれ、
局長にえらばれなかった53歳の男性(正雄)が、
そのショックからすこしずつたちなおっていくはなしだ。
おおきな会社において、役職をえるということが、
どういう意味をもつのかが、わたしにはよくわからない。
なぜそんなに正雄がちからをおとすのか 不思議におもえる。
日本の大会社や公務員、それに銀行なども、正雄がつとめる会社と
おなじような価値観のうえになりたっているのだろう。
奥田さんの小説にでてくる男性をみていると、
日本の会社の特異性をかんじないではおれない。

正雄はまだ53歳なのに、同期の河島が局長にえらばれたということは、
自分がこれから閑職にとばされることを意味する。
退職する60歳までの7年間を、このさき
どうすごせばいいのかと、正雄は途方にくれる。
まだ53歳なのだから、これからなんでもできそうなのに、
正雄は53歳という年齢で はやばやと会社から
引導をわたされたようにかんじている。
なぜ自分ではなく河島を役員たちはえらんだのか。
自分は これから河島のまえでどうふるまえばいいのか。

正雄は、家のことなどまるで できない。
ぜんぶ妻の美穂が世話をやいてくれ、
それがあたりまえだとおもって これまではたらいてきた。
ふたりだけでなく、正雄がつとめる会社のひとたちも、
ぜんぶその価値観ではたらき、生きている。

6話の「手紙に乗せて」も、舞台はちがいながら、
男社会の価値観が できあがった会社、という点はおなじだ。
亨の父親は、妻を脳梗塞でうしない、
そのショックから なかなかたちなおれない。
げんきがないし、食欲もなく、だんだんやせていく。
亨は、職場の上司に父親のことをはなす。
その上司も、数年まえに配偶者をきゅうな病気でうしなっており、
亨の父親へ ふかい理解をしめし、はげましの手紙をかく。
もちろん配偶者をうしなえば、どうしようもないかなしみに
おおくのひとが、身もこころも ちからをうしなうだろう。
でも、亨の父親と、亨の上司が、こころをかよわせられたのは、
会社人間というバックボーンがあるからこそ、
という点がすけてみえるてくる。
ふたりは、会社人間という共通点から、
おたがいの境遇に理解がおよび、相手のつらさによりそえる。
男性中心の社会ができあがっている職場というのは、
病人の集団みたいなもので、女性職員もまた、
その価値観にのみこまれて生きているのが 不思議だ。

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2021年06月29日

ののちゃんがまよっていた おくりがな問題の解決法

すこしまえの「ののちゃん」で
漢字のおくりがな問題をとりあげていた。
ののちゃんが、おくりがなのつかい方にまよい、
お母さんにたずねている場面がある。
おかしいなぁ
なんで同じ送り仮名に
毎回迷うんだろ。
おかーさーん、
「短かい」だっけ
「短い」だっけ。
「終わる」だっけ
「終る」だっけー。
「上がる」だっけ
「上る」だっけ。

文字でかいた漢字とそのおくりがなを
お母さんにたずねるのならわかるけど、
ただ声にだしていうだけでは、
お母さんに なにがどうちがうのか、わかるわけがない。
それだけおくりがな問題は、
ややこしいだけで、どうでもいいこと、
という意味なのだろう。

「短かい」と「短い」は、どちらがただしいか、なんて、
だれにとってもわかりにくい。
ひとつの方法として、活用があるものは
すべておくりがなをそえる、という手がある。
ののちゃんがまよっていた漢字でいうと、
「短い」「終る」「上る」がただしい。
と、おもっていたところ、
ウィキペディアをみると、
なにやらややこしい原則がかいてあった。
こんなのおぼえられないし、まちがっていたとしても、
じっさいにはつうじてしまうのだから、
おくりがな なんて、どうつかってもいいではないかと、
さじをなげ、ひらきなおってしまいがちだ。
おくりがなにまよう、ののちゃんはただしい。

おくりがな問題の、てっとりばやい解決法は、
おくりがなをつかわない、だ。
おくりがなが必要な漢字は、
ぜんぶひらがなでかけばいい。
「みじかい」「おわる」「あがる」
とかけば、不毛な問題に まよわなくてすむ。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月28日

地理的な記録においても、歴史の知識がかかせない

わたしが梅棹忠夫さんの本ですきな探検記をあげると、
『モゴール族探検記』
『東南アジア紀行』
『カイバル峠からカルカッタまで』
となる。
いずれも探検や旅行記なのだけど、
地理的な記述ばかりではなく、
探検している土地の歴史についても おおくかたっている。
はじめによむときは、しらない土地の歴史なんて、
いくらくわしくかかれていても、わたしにはたいくつなだけだった。
それが、なんどかよむうちに、ジワジワとおもしろくなってくる。
たとえ地理的な探検記であっても、
歴史あっての地理ということが ようやくわかってきた。

たとえば『モゴール族探検記』は、
モゴール語をはなすひとたちをもとめ、
アフガニスタンのちいさな村にとどまり、
梅棹さんたちのグループがフィールドワークをする記録だ。
その土地にのこっているモゴール語をしらべていくと、
アフガニスタンの奥地に、どういういきさつで、
モゴール族(モンゴル族)がたどりついたのかがわかってくる。
そして、いま彼らがどういう境遇にあるのかを
具体例をあげて梅棹さんは読者にしめし、
これからモゴール族というひとつの民族が、
どう うごいていくのか、推理をかさねていく。

『カイバル峠からカルカッタまで』は、
アフガニスタンのカーブルから、インドのカルカッタまで、
梅棹さんが2人のアメリカ人学者といっしょに、
フォルクスワーゲンにのって旅をした記録だ。
梅棹さんはひざのうえにタイプライターをのせ、
車ではしりながら、窓からみえるけしきを記録していく。
アフガニスタンからインドへの道は、
西からきた征服者が なんどもとおってきた道だ。
梅棹さんは、その歴史を紹介しながら、
どうじに地理的な風景のうつりかわりにも目をくばる。

『東南アジア紀行』は、日本からもっていった車で、
タイ・カンボジア・ベトナム・ラオスをまわっている。
この本もまた、それぞれの国の歴史について おおくかたられている。
日本やタイでかった本を車につみ、梅棹さんは移動しながら
いまはしっている土地の情報を本からえている。
効果的に知識をえる方法として、梅棹さんは
このスタイルを移動図書館と名づけ、
目のまえにあらわれた景色を記録していった。
そして、しばしば歴史的な事件について、
おおくのページをさいて紹介している。

探検記というと、地理的な発見におもきがおかれがちだけど、
梅棹さんはそこに歴史の知識をもちこむことで、
ふかみのある記録となっている。
地理的な探検をひくくみるつもりはないけど、
梅棹さんのつよみは、歴史への視点もまじえながら
地理的な発見を記録できる点にある。
基礎的な教養として 歴史をおさえることが、
たとえ地理的な記録においても必要なことが、
梅棹さんの探検記をよむとよくわかる。

posted by カルピス at 22:16 | Comment(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月27日

J1リーグ第20節、浦和対福岡 解説にJリーグ審判統括の扇谷さん

J1リーグ第20節、浦和対福岡 2−0で浦和

きょうの解説は、播戸竜二さんと、Jリーグ審判統括の扇谷さん。
審判の組織にいるひとが、解説をつとめるのはめずらしい。
せっかく実況にまねいても、なかなか本音をききだせないのでは、
とあまり期待していなかったけど、
扇谷さんはわかりやすく、そしてたくさんはなしてくれた。
もうひとりの解説者、播戸さんの存在もよかった。
あかるく、ハキハキと、ポジティブな発言が、
試合をおもしろくしてくれる。
実況のアナウンサーも、扇谷さんが審判側のひとだからと、
遠慮することなく、
「これまでにすごいとおもった選手は?」
なんて ストレートに たずねていた。
そんなこときいても、まともにこたえてくれるわけない、
とおもっていたら、あんのじょう、「どの選手もそれぞれ・・・」
と、あたりさわりのないこたえがかえってきた。
でも、そのあと「柿谷選手のシュートがすごかった」と
具体的な選手名をあげてはなすところが扇谷さんのいいところだ。
播戸さんもそのシュートみていたようで、
あのチョンチョンチョンときめたやつですか、
とすぐにくいつく。チョンチョンと、ボールをあやつり、
さいごはヒールできめたのだそうだ。
扇谷さんは、「あのシュートをまぢかにみられてよかった」と
ほんとうに感心したようにはなす。

第4の審判の役割とか、審判たちが水をとるときや、
試合の後半がはじまるときに、
審判たちがあつまってグータッチをするところなど、
きょうは審判のうごきに話題があつまる。
ひとつのチームとして機能しなければ、
スムーズな試合進行がのぞめない。
審判側の解説者という、めずらしい人選がうまくあたり、
試合をいつもとはちがう角度からたのしめた。

きょうの試合の主審は荒木さんがつとめていた。
扇谷さんは荒木主審の判断について、
どこがどういいのかを具体的にはなされる。
表情がゆたかで、笑顔もまじえ、でもきびしい判定もくだす。
たしかに、選手と笑顔ではなしていたし、
イエローカードはためらいなく毅然とした態度でしめす。
浦和のユンカー選手がドリブルでカウンターにもちこんだとき、
ほかのひとはシュートの結果を気にしていたけど、
扇谷さんは、荒木主審がちゃんとボールについてはしり、
いいポジションでプレーをみていたことを評価していた。

試合がおわり、2−0でまけた福岡の長谷部監督が、
扇谷さんになにやら苦言をていしている。
内容はわからないけど、そういう批判もあえてうけ、
それでもさんごはグータッチでおわったのを、
播戸さん・扇谷さんとも、いい場面だったとはなされる。

ほかにもVARのしくみが話題となった。
今シーズンからJリーグでとりいれられたVARが、
いまのところうまく運営されており、
ストレスをかんじることなく試合をたのしめている。
そのために、審判たちとVARのスタッフが
どんな役割分担で仕事をすすめているかを扇谷さんが説明される。
VARはごねたものがち、みたいなところがあり、
わたしはないほうがいいとおもっているけど、
審判団とVARスタッフの連携がうまくとれていると、
試合のながれがさまたげられることなく ただしい判定をみちびく。
きょうの試合でもVARの場面があったけど、
VARにたよりすぎず、適正な判断がとられていた。

きょうの試合でひかったのは、浦和の小泉選手で、
先制点をあげたほかにも、なんどもチャンスメイクしていた。
あのゴールが、J1リーグであげたはじめての得点だったという。
福岡はこれで3連敗。浦和は2連勝だ。
まけたとはいえ、福岡は浦和と互角にわたりあっていた。
6位という福岡の成績が、けしてまぐれではないことをあらわしている。
ただ、波状攻撃をみせるものの、さいごのことろで精度をかき、
得点のにおいはあまりしなかった。
ジョン=マリ選手にボールをあつめようとしても、
なかなかいい体勢でシュートまでもちこめない。
福岡は、ここがふんばりどころだろう。

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月26日

朝日新聞土曜日版beにのった「看取り」2題

今週の朝日新聞土曜日版beに、みとりについて
2つの記事がのっていた。
ひとつ目は、小谷みどりさんによる、
「これからは『ひとり死』時代がやってきます」というもの。
理由は死亡年齢の高齢化で、
20年まえは男性の2/3が70代で亡くなっていたのに、
いまは54%が80歳以上まで生きている(女性は75.8%)。
 親が90歳になるころには、親のきょうだいや友人も亡くなっているか、介護や看護が必要な年齢です。子ども自身が高齢者の仲間入りをし、親を介護できる健康状態ではなく、経済的に支えるのも厳しくなっている可能性があります。今後は「老いては子に従え」ではなく、「老いた時には子どもも老いている」という状況に突入します。

たしかに、親の兄弟たちの高齢化は、死ぬときにも影響する。
わたしの母(89歳)は3人姉妹のまんなかで、
姉は股関節の骨をおったのをきっかけに入院し、
2年まえからは老人施設にはいっている。
妹は、先日これまた股関節の骨折で入院し、今月に退院したところだ。
親戚がげんきなうちは、母になにかあったとき、
家族だけでおくります、とはなかなかいえないけど、
いまみたいに、まわりが年をとり、からだの自由がきかなくなると、
自分のことで精一杯となり、そううるさいことはいわないだろう。
みとる側のわたしは、母と年齢差が30あるので、
「老いた時には子どもも老いている」ほどではないとしても、
これが70歳で、「介護や看護が必要」となれば、
ますますこれまでどおりの みとりや葬儀はできなくなる。

もうひとつの「みとり」は、
柴田久美子さんがはじめた「日本看取り士会」についての記事。
柴田さんは、「看取りを専門にする職業『看取り士』を作り上げ、
世に広め」ている。
 余命告知をされた患者の自宅などを訪問し、24時間態勢で寄り添う。手を握りながら、肩を抱きながら、思いや悩みをじっくり聴く。看取り士の誘導で、家族は患者にひざ枕をして手を握る。「ふれあうことで、死が温かいものとして、残された家族の心の中に宿っていくのです」。ネガティブな感覚でとらえられがちな「死」について、「敗北ではなく、次世代費のギフトである」と、とらえる。

わたしは自宅で死にたいとおもっているけど、
ひとりでポックリはさみしいし、死んでから
まわりがこまるのはもうしわけない。
「看取り士」にだかれ、ことばをかわしながら死ねたら、
死をそれほどおそれなくてもいい気がする。
まえに歯がいたくてつらい夜をすごしているとき、
ネコのピピがそばについていてくれて、
ものすごく安心できたことをおぼえている。
死ぬときも、「看取り士」とまではいかなくても、
ネコがいっしょにいてくれたら ずいぶんちがうのではないか。
ちゃんとわたしを「みとって」くれるネコに
いまいっしょにくらしているココとプリンはそだってくれるだろうか。

posted by カルピス at 16:14 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月25日

競泳用水着をかいかえる

スポーツ用品の店「デポ」で水着をかう。
わたしは中学生のころから水泳部に所属し、
もうレースにでることはないけど、
いまでも週にいちどはプールにかよっている。
きわめてゆっくりしかおよげないとはいえ、
それでも水着をえらぶときは、競泳用しか選択肢にない。
問題はデザインで、お店でうっているのは、
ひざうえまであるようなタイプがおおい。
わたしの美意識では、できるだけみじかい形がのぞましいけど、
サイズ・デザイン、そして値段が条件にあうものはすくない。

わたしがえらんだのは、スピードのMサイズで、税こみ3200円。
30%割引でもこの値段だから、水着はたかい。
割引がなければ、4620円もする。
たかいから、数年にいちどしかかいかえない。
「丈夫で長持ち」とあり、塩素につよいとタグにかいてある。
そのとおりに、丈夫でながもちしてくれないとこまる。
わたしがあたらしい水着をかうのは4年にいちどくらいだ。
お金もちが車をかいかえるのと、わたしの水着とは、
おなじような意識と頻度かもしれない。
わかいころは、練習用と大会用で水着をわけ、
シーズンに数枚のパンツをかっていたのに。
ちなみに、プール用の帽子だって数年にいちどのかいものだ。
やぶれても、つくろって、半年ほどつかっていた。
やぶれた帽子をぬってまでつかうスイマーは、
いまの時代、そういないのではないか。
あたらしい水着をはくと、気分がかわるせいか、
いつもよりはやくおよげた。よくのびる生地がつかってあり、
これまではいていた水着より、からだがひきしまったようにかんじる。

ジョギング用の短パンもさがしたけど、いいものがない。
やたらにながいものしかなく、値段も5000円くらいする。
わたしがほしいのは、女子高生が体育ではいてるような
いわゆるショートパンツなのに、お店にあるのは
ハーフパンツくらいのながさのものばかりだ。
家にかえってから、1500円くらいのものをネットで注文する。
トレーニング用品をかうのは、ファッションの問題ではなく、
医療と健康づくりという意味あいがつよくなってきた。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月24日

おしっこは便座にすわって

しりあいの女性とはなしていたら、
おしっこをするとき、便座にすわるか、
たったままでするかが話題になった。
わたしはたったままおしっこをするひとで、
そしたらずいぶんえらそうなことを
あいてにいわれてしまった。
自分がトイレをよごしていると自覚していながら、
そのよごれたトイレを女性にそうじさせて
平気なのはおかしい、という。
そうした状態をほっておく女性のほうもよくないと、
あいての女性は、自分のことはたなあげして、
ずいぶんたかいところから えらそうにものをいう。
わたしはムッとなり、いろいろ反論したかったけど、
なぜ不愉快だったかを、すこしかんがえてみると、
いたいところを指摘されたのが おもしろくなかったのだろう。

わたしは、家のトイレそうじをじぶんでしているから、
たっておしっこしても いいじゃないか、とおもっていた。
家以外のところでするおしっこのときは、
よごれたら紙でふくぐらいで、そうじまではしない。
そこらへんの曖昧さを、自分でも気づいていながら
ずっとたったままのおしっこをつづけていきた。
たっておしっこをすれば、
目にみえないシブキが たくさんまわりにとんでいるそうで、
女性たちがいやがるのもわかる。
そこらへんはデリケートなな問題で、
あんまりこまかなことをいわなくても、というおもいもあるし、
自分がやられて不愉快なことは、
ごちゃごちゃいわずにあらためたい気もちもある。
なによりも、男であることにアグラをかくようなまねはしたくない。
たってするおしっこを非難され、これをきっかけに、
便座にすわってみようか、という気になった。

ちょうど職場の休憩室をひっこすことになり、
トイレもこれまでとはちがったものをつかうようになる。
わたしは、男性利用者にも、便座でのおしっこを
おねがいしようとおもった。
こういう機会があると、おしっこはすわってするもの、と
おおきな変化を うけいれやすいのではないか。
なにかをかえるときは、すこしずつよりも、
がらっといっぺんにかえるほうが うけいれやすいという。
イラストが得意な職員におねがいして、
目でみてわかりやすい絵をかいてもらい、トイレの扉にはった。
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というわけで、休憩室でも、そして、家でも
わたしはすわっておしっこをするようにかえた。
おしっこのとき便座にすわると、
からだがかんちがいするのか、おしっこではなく、
おおきいほうがでそうになり、すこしあわてる。
まあ、これはなれの問題だろう。
禁酒とはちがい、たってするおしっこをやめるのは、
我慢というほどではなく、頭をきりかえるだけでいい。
どうしてもたってしなければならないわけではなく、
ただめんどくさいから、すわらなかったにすぎない。
まだなれないので、自分にいいきかせないと、
たったままおしっこをしそうになってしまう。
そこのところがいまはなんだか新鮮で、
おごそかな気分を味わいつつ、便座にすわっている。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月23日

ワークマンでかった980円のデイパック

ワークマンでデイパックをかう。
これまでは、モンベルのリュックをつかってきた。
通勤カバンでもあり、仕事のかえりには
スーパーでかった食材をいれる。
10年以上つかってきたので、ファスナーがほどけ、
なんどか自分でなおしている。
わたしのへたくそな裁縫では、ほどけた糸がファスナーにからまり、
リュックのあけしめがやりにくくなってきた。
それに、ながいことつかっていると、
もっていたら便利な気がする、という荷物がふえてきて、
デフォルトの状態ですでにおもたい。
介護職についているので、排泄介護にそなえ、
ゴム手袋がかかせないし、ビニール袋もあったほうがいい。
バスにのって市内をうごくには、時刻表も必要だ。
道ばたでないている子ネコをみかけたとき用に、
子ネコがたべるごはんも つねにつんでおきたい。
汗をかいたときのために、タオルとTシャツもあったほうがいい。
あいた時間にたいくつするのはいやなので、
文庫や冊子もしのばせている。
そんなこんなで、余計な荷物がポケットにたまり、
これから仕事のしたくをしようか、というまえからすでにおもたい。

『ゴンチチの世界快適音楽』をきいていたら、
チチ松村さんが、いつも分度器をカバンにいれている、
というはなしがでた。もっていたら便利だろう、とおもい
ずっとカバンにいれているけど、
これまでにつかったことはないそうだ。
わけがわからない道具をもつのは、
茶人としてのたしなみなのかもしれない。
わたしのリュックも、チチ松村さんのカバンと
よくにた状況になっていて、それぞれちゃんとした理由のもとに、
リュックにいれているものの、
もっていて便利だったことはいちどもない荷物がほとんどだ。
ずっしりとおもいリュックをせおいながらも、
この10年は、そのおもさになれてきた歴史ともいえる。

ワークマンであたらしくかったリュックは、
生地がうすいのか、すごくかるい。
それでいて22リットルはいるそうなので、
通勤とかいものには じゅうぶん役にたってくれるだろう。
シンプルなつくりで、前がわにちいさなポケットがあり、
両脇にペットボトルがいれられる他は、
なにもついていないところが気にいった。
なによりも、980円とやすかった。
わたしには、「いいものはやすい」というおもいこみがある。
なにかでよんで感心した「いい薬はやすい」の転用だ。
患者のよわみにつけこむような、たかい薬は よくない。
いい薬は、時間をかけてこなれてきたものだから
やすいし ききめも信頼できる、というかんがえ方だ。
薬だけでなく、すべてにおいて真理だとおもっている。
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980円のリュックは、まだつかいはじめたばかりだけど、
とくにわるいところはない。なによりも、かるくてたすかる。
ワークマンらしく、頑丈でながもちなリュックであってほしい。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月22日

「ぼく」ではなく「おれ」をつかう「わたし」

朝日新聞の書評欄で、坂井豊貴氏が
『「自分らしさ」と日本語』(中村桃子)
をとりあげていた。
 男子は幼児期に自分を「○○くん」と呼ぶが、少年期に「ぼく」や「おれ」に変わり、大人になると「わたし」が加わる。ところが女子の自称詞には「ぼく」や「おれ」に対応するものがない。幼児期に自分を「○○ちゃん」と呼んでいても、その次はいきなり大人の女性と同じ「わたし」なのだ。

とある。
わたしはずっと「ぼく」といっていたのに、
大学のころに影響をうけた本多勝一さんが、
「ぼく」という いいかたがきらい、と
どこかでかいていたのをよみ、
それ以来、「ぼく」をつかわなくなった。
本多さんは、ほんとに「ぼく」がきらいらしく、
とくに「ボク」と、カタカナでかくと、
生理的な嫌悪感をもよおすようだ。
いくら本多さんがすきだからといって、
このみまでまねしなくてもいいのに、
「ぼく」は軟弱さの象徴のような気がして、
ひとがいうのはまだしも、自分ではつかわなくなった。
「ぼく」のかわりに、はなすときには「おれ」、
文章をかくときは「わたし」となのっている。
「おれ」がにあうようなマッチョタイプではないけど、
「ぼく」がつかえなければ、「おれ」というしかない。
大学生が自分のことを「わたし」というのは
すごく違和感があったし。

坂井氏は、わたしと反対で、
自分を「ぼく」とよび、「おれ」とはいわないそうだ。
「おれ」の語がもつ荒い男性イメージが、自己イメージに馴染まない

からだという。 
その気もちはわかる。自分のことを「おれ」というのは、
男っぽいひと、たとえば椎名誠さんみたいなひとでないと にあわない。
わたしみたいに、ケンカはできないし、気がよわく、
ひっこみじあんで 存在感のうすい男が、
「おれ」なんていうと、まわりは迷惑していることだろう。
わかっていながらも、「ぼく」はいやなのだから、
自分をどうなのるかはややこしい問題だ。

その点、女性は「わたし」の一択だから、まよいようがない。
たいていの外国語も、一人称はひとつだけだ。
自分をどうよぶかにまようのは、日本人男性だけなのだろうか。

posted by カルピス at 21:16 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月21日

『variety(ヴァラエティ)』(奥田英朗)かきあつめだけど、よませる雑多な内容

『variety(ヴァラエティ)』(奥田英朗・講談社文庫)

第1話の「おれは社長だ!」は、38歳の中井和宏が主人公。
これまでつとめていた広告代理店をやめ、自分で会社をたちあげた。
すぐに仕事がとれると、かんたんにかんがえていたのに、
あてにしていた会社がきゅうに態度をかえ、
いっきょにさきゆきがあやしくなった。
ひきぬこうとおもっていた部下は、
やっぱりいまの会社にのこります、
と自分のところにきてくれなかったし、
まえの会社の上司は、露骨に中井の仕事を邪魔してくる。
こういうはなしは、順調にいけばおもしろくないわけで、
困難をどうのりこえたかが みどころとなる。
社長である中井は、たちあげたばかりの会社を
なんとか起動にのせようと、必死に会社まわりをする。
必要なときは頭をさげ、ようやく社長としての覚悟がめばえはじめる。
あたらしく採用した社員は、知識や経験はないものの、
自分が得意とする分野で、一生懸命に中井をもりたてようとする。
中井と社員の気もちがまとまりをみせ、
会社は ようやくスタートラインにたどりついた。

これからの彼らの活躍について、つづきをよみたくなる。
第2話はまさに「つづき」となる内容だ。
連作短編集かとよろこんでいたら、そうではなかった。
対談があったり、ショートショートがまじっていたり、
ぜんぜん別の短編が4つと、本書は構成にまとまりがない。
『variety(ヴァラエティ)』というタイトルは、
結果的に雑多な内容となってしまい、苦肉の策でつけたのだろう。
イッセー尾形さん、山田太一さんとの対談は興味ぶかいし、
それなりによませる短編もあり、
雑多だけに、おとくな内容といえるかもしれない。

著者による「あとがき」をみると、
そこらへんの事情がよくわかる。
 あとがき、というより、言い訳です。
 お読みになった方はお察しいただけると思いますが、本書はまとまらなかった短編集です。眠っていて、お蔵入りいしたかもしれない作品たちです。

とある。
 編集者は、一本書かせればあとはこっちのものだと思っているようです。
 ところが、そこから先はわたしもお人よしではありません。だって、サボっているのではなく、本当に書けないんですから。今まで黙ってましたが、わたしの小説の才能は、とっくに切れかかっています。

つづきはぜひ本書の「あとがき」で。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月20日

飲酒運転をしないために、飲酒運転の経験を

免許の更新で、地元の運転免許センターへ。
優良運転手ということで、30分の講習だけで
5年間有効のゴールド免許を手にする。
講習では、飲酒運転の危険性や、
シートベルト着用の映像をみせられる。

飲酒運転はもちろんよくないけど、
ただ「危険です」といわれても、
アルコールがどれだけ判断能力をうばうのか、
じっさいに体験しないと こわさはわからない。
わたしは、「飲酒運転」をしたことがあり、その経験で、
飲酒がどれだけ運転能力をうばうかが、よくわかった。
かなりよっぱらい、でも、よってるから なおさら「まだ大丈夫」
とおもっている状態で ためしに大学の構内を運転してみた。
大学4年生のころのはなしだ。
いくら構内といっても、あぶないことにかわりはないけど、
でもまあ道路じゃないんだからと、友だちをとなりにのせ、
ゆっくりとはしりだす。夜だし、まわりにひとはいない。
ゆっくりなのに、十字路をまがるのも、クランクっぽい
ジグザグの通路も、まるでうまくはしれない。
こんなにも自分の意識と運転に差があるものかと、
よったわたしでもおどろき、つよく印象にのこった。

わたしが飲酒運転をしないのは、
たぶんこのときの体験をわすれられないからだ。
無理を承知の提案だけど、飲酒運転をなくそうとおもったら、
飲酒運転の経験が、いちばん効果があるのではないか。
じっさいに飲酒運転をしてつかまり、あるいは事故をおこし、
とりかえしがつかなくなるまえに、
飲酒運転を経験しておおけば、あやまちをおかさなくてすむ。
「飲酒運転をやめましょう」のビラを道路でくばったり、
免許をとるときや、きょうの講習のように、免許の更新のとき、
飲酒運転の危険性にふれるより、
じっさいに飲酒運転を体験するほうが効果的だ。
22歳のときの体験が、その後、40年ちかくたっても、
いまだにこりたままなのだから、その効果は絶大だ。

ついでにいえば、わたしがドラッグをやらないのも、
わかいころハシシでわるよいした経験があるからだ。
モロッコを旅行ちゅうのことで、
その道にくわしい友だちといっしょに、
水パイプみたいな装置でハシシをすった。
なかなかよいがまわらないので、調子にのり
なんどもふかくすいこんだら、いっきにきた。
わたしはふだんタバコをすわないので、
からだがこの手のよいになれていなかったのだろう。
トリップするというより、自分の頭とからだがコントロールできず、
気もちわるくて、そのあと3日くらいフラフラしていた。
わたしのからだに薬物があわないことがよくわかった。
それにこり、あそびで薬に手をだす気にはとてもなれない。
わかいころにハシシを経験しておいてよかったとおもっている。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月19日

「ノーサイン野球」をわたしもみたい

5月下旬から6月にかけて、
サッカーのU-24と、A代表の試合が9試合おこなわれた。
新型コロナウイルス対策として、無観客試合だったため、
コーチングスタッフの声がよくきこえる。
まるで子どもの試合に大人がアドバイスをしてるみたいで、
じつにこまかく指示をあたえている。
選手同士が声をかけているのがきこえないくらいだ。
「そうそう」「サイドがあいてる」「それでよし」
子どもの試合でも、このごろは
大人が口だしをしない、というながれができつつあるのに、
プロの試合でもこれかー、というかんじだ。

きょうの朝日新聞に、安藤嘉浩氏による
「ノーサイン野球の本質」という記事がのった。
 1年生部員が送りバントをファウルして、「しまった」という顔をすることがある。「うちはノーサイン野球やで。自分で決めてバントをしたんだから、言い訳みたいな表情をつくらなくていいよ」と大原監督は諭すという。むしろ次の一手を考えよう。またバントしてもいいし、打って出てもいい。結果的に粘って四球を選べば、送りバントよりもいい結果じゃないか。
 「それがノーサイン野球の本質です。小学生が理解して実践するには、時間と指導者の我慢が必要になる。だけど長い目で見たら、子どもにとってプラスになるはずです」

監督の顔色をうかがってのプレーより、
自分でかんがえる野球をわたしもみたい。

すこしまえには、サンフレッチェ広島の城福監督が、
なぜ飲水タイムをとらないかについて、
朝日新聞のコラムがとりあげていた
(「飲水タイム」広島が取らぬ理由・吉田純哉)。
飲水タイムとは、コロナ禍での特別ルールで、
選手たちがペットボトルを共有せず水をのめるよう、
前半と後半に1回ずつもうけられている。
今季からは両チームが合意すれば、
飲水タイムをとりいれなくてもよくなった。
飲水タイムは、監督が指示をあたえる時間にもなりがちで、
ハーフタイムみたいに、飲水タイムのまえとあとでは、
チームのいきおいがかわる試合がみられた。
城福監督は「連続したサッカーの場面を見せていく志を持っている」と語る。清水のロティーナ監督も「飲水はサッカーの魅力を損なう」と同意する。
 「飲水」による1分近い中断は、試合の流れを止めてしまう。作戦タイムとして重要視するクラブもあるなかで、城福監督は試合の中身を濃くして、観戦する側の喜びを大事にする。

城福監督の志に拍手をおくりたい。

posted by カルピス at 17:24 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月18日

『ナオミとカナコ』(奥田英朗)第一級のエンタメ小説

『ナオミとカナコ』(奥田英朗・幻冬舎文庫)

(ネタバレあり)
ナオミは、大学時代からの親友であるカナコが
夫からひどいDVをうけていることをしる。
ナオミは病院や警察へいくようカナコを説得するが、
カナコは夫の暴力におびえ、精神的にも支配下におかれている。
離婚をすすめても、夫への恐怖心から、冷静にかんがえられない。
精神的にも、完全に夫の支配下におかれてしまっている。
ナオミはおさないころ、父親が母親に暴力をふるうのをみてそだち、
父親の暴力が、どれだけ自分と姉を不幸にしたかをおもいだす。
このままカナコをほっておいたら、
夫の奴隷のような生活がつづくだろう。
夫の暴力がさらにエスカレートし、カナコは死んでしまうかも。
かといって、夫からにげることも、
たちむかうことも カナコにはできそうにない。
ナオミは、カナコの夫をころすしかないと判断する。
カナコにそのことをはなすと、あんがいすんなりとうけいれた。
夫の暴力はとまらず、それしかないと、
カナコ自身もおもっていたふしがある。

ナオミは、仕事ちゅうにたまたまみかけた中国人男性が、
カナコの夫と 非常によくにていることにおどろく。
ナオミは、この中国人をトリックにつかい、
カナコの夫が中国へ旅だつシナリオをおもいつく。
自分たちふたりでカナコの夫をころし、山のなかにうめる。
死体がみつからなければ、犯罪がばれることはない。

計画の時点では、非のうちどころのないトリックにおもえたものの、
じっさいにカナコの夫をころしてからは、
つぎつぎとおもわぬ事態がひきおこされる。
つとめさきである銀行や警察からの捜査をうけると、
完璧だとおもっていた犯行には、いくつもほころびがでてきた。
本書の前半は、犯行を計画し、実行するまで、
後半は、じわじわと捜査がすすみ、
ふたりがおいつめられていく過程がえがかれる。

圧巻は、すべてがばれて、警察に任意同行をもとめられてからだ。
証拠となる写真をいくつもおさえられているのに、
カナコは「しりません」でおしとおす。
まだ立件されてないので、警察は強引なことができないだろうと、
つぎの日に中国への逃亡をこころみる。
無事にイミグレーションをとおり、
ナオミとカナコはだきあってよろこぶのだけど、
中国へにげたからといって、
おちついてくらせるわけではないだろう。
それでも、まずはめでたしめでたしでおわり、
よんでいるわたしたちの気分に よりそってくれる。

10年以上まえ、奥田英朗さんの小説を、よみあさっていた時期がある。
『ララピポ』『サウスバウンド』がわたしのこのみで、
奥田さんはダメ男小説が得意ともいえるかもしrない。
精神科医の伊良部先生シリーズもおもしろかった。
長編・短編の、どちらもうまさはおりがみつきだ。
『ナオミとカナコ』は、質のたかいエンタメ小説で、
ハラハラドキドキがおわりまでつづく。
つぎになにがおこるのか たのしみで、
580ページあるのにスルスルと3日でよめた。
覚悟をきめたふたりが、全力をつくして計画をねり、
実行し、逃亡するまでの展開がリアルで、さいごまで気をぬけない。
よみおえたあとの爽快感も保証します。

posted by カルピス at 18:24 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月17日

サブスクリプションの住宅版サービス

「クールジャパン」(NHK-BS)で日本のすまいをとりあげていた。
話題のひとつが、月4万円で、日本じゅうに点在している貸家に
すみほうだい、というサービスだった。
いまはやりの、サブスクリプションの住宅版だ。
廃校を利用した家とか、海や山をたのしめる家とか、
それぞれに特徴があり、たった4万円でとまり放題はやすい。
日本のあちこちを旅行しながら、滞在費は格安におさえられる。
家族ができたり ネコをかったりすると、
気がるにとまりあるくわけにはいかないかもしれないけど、
たった月に4万円で、ホテルや旅館にとまる気分が
ずっと味わえるなんてすごいサービスだ。
部屋をでるときにそうじをする、というのがきまりだそうで、
それにしても4万円でつかい放題といわれると、
ぜんぶの家を体験したくて なやましくなってくる。
アジアの国を旅行したとしても、
いちにち1300円でとまれる快適なホテルはそれほどない。
もともとは、日本でふえているあき家対策として
かんがえられたサービスだそうで、
いろんなひとがきてくれたら、町おこしとしても期待できる。

いまの日本は、あるていどのお金さえはらえば、
やりたいことはなんでもできる国になっている。
だいじなのは、自分がやりたいことがなにか、ということだ。
日本各地をまわりたいのか、土地のたべものをたのしみたいのか、
地元のひとたちと交流したいのか。

地元の空港から、韓国や香港への定期便ができたとき、
あまりにもゆたかな選択肢がしめされ、
いったいわたしはどこへゆきたいのか、
なにがしたいのか、わからなくなったことがある。
どこへいくのも、そんなにたかくなく、
お金では、差がつかないので きめてにならない。
そもそも、やすいからいきたい、というのはすこしへんだ。
いきたいから、いく、であったほうがいい。

やりたいことが、たいしてお金をかけなくてもできる国。
わたしはなんでもできるはずなのに、
いったいなにをしたいのだろう。
年金をもらえる65歳まではたらいて、と
漠然とおもいえがいていたけど、
そんなのは、ただのおもいこみにすぎない。
やりたいことがわかっていれば、
仕事は最小限におさえ、たのしみのために
のこりの時間を有効につかえる。
サブスクリプションというサービスにふれると、
なんでもできるがゆえに、自分がやりたいことはなにか、
の判断をせまられる。
映画や音楽、そして住宅まで、なんでも手にはいる状況に、
わたしは途方にくれている。

posted by カルピス at 21:38 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月16日

「やさしい日本語」は、だれにとってもやさしい言葉

けさの朝日新聞に、「やさしい日本語」について
言語学者の庵功雄(いおりいさお)さんへ
インタビューした記事がのっていた。
「(やさしい日本語は)『日本語が乱れる』
と違和感を抱く人もいるようです」、
というといかけには、
「『やさしい日本語』は、外国人との会話のための道具です。日本人としては、場面に応じて使い分ければいいので、これだけで日本語が変わることはないでしょう。公共の場の英語表記と同じようなもので、日本語ネイティブがめくじらを立てる必要はないと、私は思います」

「少子化と人口減少に悩む日本にとって、日本人と同等の給料を稼いで税金を払い、家族で暮らす外国人を増やすことは極めて重要です。子どもたちにはさらに大切で、遅くとも高校卒業時に同年代の日本人と同じ日本語レベルに達していないと付加価値の高い職業にはつけない。不必要な難しさをそぎ落とした『やさしい日本語』をステップにして一定レベルに追いつけば、あとは自力で知識を得ることができます」

「やさしい日本語」と、ただしい日本語の、
ふたつが 断絶して存在するのではなく、
まず「やさしい日本語」をつかえるようになれば、
そのあとは自力で知識や語彙をふやしていける。
「例えば中国語は方言が多く、地域で言葉が違うことを前提としているので、発音や文法の間違いに寛大です。(中略)英語はすでにネイティブだけのものではありません。中国語も英語もいわば『寛容な言語』であり、そんな国際語に日本語も近づくべきだと私は思います」

これとおなじことを、梅棹忠夫さんもいっていた。
日本語をはなすひとが世界じゅうでふえれば、
みだれた日本語や、文法的にまちがった日本語を、
目や耳にする機会がふえていくだろう。
これからの日本人は、そうした「おぞましい日本語」に
たえるだけの寛容さが必要となる。
「『やさしい』には、『易しい』と『優しい』の両方の意味が込められています。実際のコミュニケーションでは、どうしたら相手に伝わるだろう、と思う気持ちが最初にあるはずです。耳が遠い高齢者や語彙が少ない子どもに対して、わたしたちは言葉を調整して話しています。それが、まさに『やさしい日本語』です。外国人に対してだけではなく、ハンディを持った多くの日本人にとっても、やさしい言葉なのです」

posted by カルピス at 22:27 | Comment(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月15日

なぜ母(89歳)は有名人よりながいきなのか

せんじつは、ノーベル化学賞を受賞した根岸さんの死去がほうじられ、
きょうの新聞には、小林亜星さんの死がつたえられている。
根岸さんは85歳で、亜星さんは88歳。
日本人男性の平均寿命は81.4歳なので、
どちらもそれよりながいきされている。
わたしの母は89歳で、まだすぐにはいきそうにない。
日本人女性の平均寿命は87.4歳というので、
平均をようやくすこしうわまわったところだ。

最近なくなったおふたりが、母より年下だったのは、
日本人の平均寿命の男女差を、
そのままあわらしているだけかもしれない。
とはいえ、有名人や科学者は、健康についても
豊富な情報をもっているようなイメージがある。
亜星さんのような芸能人は、その手の話題が
いくらでも耳にはいってきそうだし、
根岸さんのように、ノーベル賞をうけた科学者なら、
科学的な知識で健康を維持されているようにおもってしまう。
母よりも年下の有名人がなくなると、
お金と情報を豊富にもっているひとたちより、
なぜ母のほうがながいきなのかと不思議におもう。

母の健康法は、ヨーグルトやヤクルトをのむくらいで、
とくにサプリメントをとっているわけではないし、
運動だって、むかしやっていたヨガを、
うんとかんたんにして、畳にねっころがるくらいだ。
ながくはあるけなくなり、200メートルはなれた
スーパーマーケットへ、発泡スチロールやアルミ缶の資源ゴミを
もっていくのがやっとな状態になっている。
7年まえに大腸ガンの手術をしたけど、
順調に回復し、いまではなんでもたべられる。
とくに夕ごはんは、わたしと配偶者とおなじ料理を、
量はすこしへらすとはいえ、ぜんぶたべている。
このごろは、老人が栄養失調にならないよう、
たんぱく質をたくさんとるようにいわれるけど、
母くらいたくさん肉や魚をたべている老人はそういないとおもう。
母がノーベル賞受賞者や、伝説的な作曲家よりもながいきなのは、
なんでもよくたべることと関係ありそうだ。

中年のころの母は、こまかなことも気にするような
いっしょにいてたのしい人物ではなかったけど、
60歳くらいから、きゅうにまるい性格になった。
いまは、どんなひとにもやさしいし、
なにごとにも感謝して生きている。
そんなこころのもち方が、ながいきについても
いいほうに影響しているのかもしれない。

ながいきするかどうかは、いくつもの要因がからみあい、
有名であることとながいきは、あまり関係がなさそうだ。
では、どんなひとがながいきしているのか、
そして、どんなことをすればながいきにつながるのか。
もうひとつ、ながいきをしたひとは、
自分の一生を、しあわせだったとおもえるかどうかもしりたい。
母にきけばよさそうだけど、おそろしくて、うっかりきけない。

posted by カルピス at 22:15 | Comment(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月14日

英語の勉強にもなる「ヒロシの駅前食堂」

ヒロシの駅前食堂のラトビア編をみていたら
(ただしくは、「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」)、
ヒロシさんが駅のちかくで 撮影現場にでくわしていた。
女優っぽいひとに、スタッフがつきっきりでお化粧をしている。
ヒロシさんが「有名な女優さん?」
と ちかくにいた女性にたずねると、
「いずれね」(Will be)とこたえがかえってきた。
「Will be」。かっこいい 。
ただしいかどうかより、それっぽい、というのがだいじだ。
まさか「駅前食堂」が、英語の勉強になるとはおもわなかった。

ヒロシさんは、流暢に英語をしゃべらないので
テレビをみている側の人間も、自分のこととして、
ヒロシさんの旅行を追体験しているような気になる。
ヒロシさんは、おもしろそうな店があると、
「ジャパニーズTVプログラム、シューティングOK?」
とたずね、撮影の許可をもらう。
これが、意外とどこでも通用するのでおどろきだ。
ヒロシさんはこれまで英語圏の国へはいってないはずで、
でも「シューティングOK?」はどこでもまずつうじる。
撮影スタッフが、ヒロシさんのあとから
ぞろぞろついてまわっているので、
「シューティングOK?」といえば
だいたいわかってくれるのかもしれない。
もうひとつヒロシさんが得意なのは、
土地の料理を注文することで、
なんだかんだいいながら、結果的には
土地の名物料理がちゃんとでてくるからすごい。

わたしも、ろくに英語をはなせないけど、
旅行でつかう英語はたいていきまっているので
外国へいっても、食堂やチケットをかうのはなんとかなる。
社会情勢や宗教についてかたるわけではないし、
こちらがお客さん(お金をはらう側)なので、
むこうはなんとかこっちのいうことを理解しようとしてくれる。
ただ、もともとがひどい英語なので、
わたしがいっていることが、まったくつうじなくて、
なさけないおもいをすることがときどきある。
ヒロシさんは、そこらへんをじょうずにきりぬける。
ついてまわっている撮影スタッフには、
通訳のひともいるようなのに、
ヒロシさんがこまっていても、たすけてくれない。
ヒロシさんも、つうじないのがあたりまえとわりきり、
カタコトの英語でどうどうと質問し、
自分なりの解釈をのべ、ブツブツいいながらも
注文からしはらいまでを自分でのりきる。
わたしの印象では、おもしろさの傾向が、
アジア>西ヨーロッパ以外のヨーロッパ>西ヨーロッパ
の順になっている。
新型コロナウイルスがおちついたら、
ヒロシさんには東ヨーロッパへの旅にでてもらいたい。

posted by カルピス at 21:12 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月13日

腕時計の秒針をあわせると、おてがるに生まれかわれる

アメリカのテレビドラマ『コンバット』では、
攻撃開始の時間がきまると「時計をあわせろ」と声をかけあって、
おのおのが自分の腕時計を正確な時間になおす場面がある。
そして、秒針がちょうど「12」にかさなったとき、
いっせいに爆撃が開始され、味方はそれにあわせて突撃する。
たとえば11時10分に爆撃開始だったら、おおよそ10分なのではなく、
1秒のくるいもなく、ぴったり10分を意味する。
ドラマだから、リアリティをだすための演出で、
冗談みたいなものだろうとおもっていたけど、
ああいう場合、秒まで正確にあわせてないと、
味方の爆撃をうけて ひどいめにあうかもしれない。
戦場では、秒針のあるアナログ時計がどうしても必要だった。
正確にうごく時計でないと生死にかかわる。

わたしの腕時計は、ふつかで1秒くらいすすんでしまうので、
ずっとほったらかしていたら、3分もずれてしまった。
時計がおくれると不自由だけど、すすむ分にはあんがいこまらない。
とはいえ、このままほっておくと、実用にさしつかえるので、
おもいたって秒針まできちっと時刻をあわせてみた。
ラジオをきいていると、1時とか2時とかのきりのいい時間に、
ちょうどその時刻になったとおしえてくれる。
自分と腕時計と、ラジオがつげる時間が
ぴったりいっしょなのは気もちがいい。
こまかなところまで 目くばりのいきとどいたひとに
うまれかわったような気がしてくる。
有能なスパイにもなれそうな、クールでタフな男。

なんねんかまえは、腕時計をつけるのがわずらわしかった。
携帯電話をもつようになってからは、腕時計なしですませ、
そのほうが便利だとおもっていたけど、
じっさいは、時刻をしるために
いちいち携帯電話をとりだすのは意外とめんどくさい。
けっきょく、時刻には腕時計、そのほかはスマホと、
機能をかぎったほうがすっきりすごせることがわかった。
正確な時計とスマホがあれば、
たいていの仕事はきっちりこなせる、ような気がする。

サッカーでは、ポリバレントとか
ユーティリティプレイヤーとかいって、
複数のポジションができる選手を評価する傾向にある。
センターバックを専門にやってるけど、
いざとなればボランチもできます、
という選手のほうが監督につかわれやすい。
でも、おれは右のサイドバックしかできないよ、
という選手には、愚直に生きているかっこよさをかんじる。
日本人はあんがい「それしかできない」という
あまり器用でない選手がすきなのではないか。

posted by カルピス at 21:55 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月12日

「まん延・改ざん・ねつ造・・・交ぜ書きはおかしい?」むつかしい漢字よりも「まぜがき」のほうがまし

「まん延・改ざん・ねつ造・・・交ぜ書きはおかしい?」
という記事が6月3日の朝日新聞にのった。
哲学・倫理学者の古田徹也・東大准教授に聞きました、とある。

まぜ書きは、かたほうが常用漢字でないため新聞にはつかえず、
しかたなくかたほうだけ漢字、という奇妙な形になっている。
わたしは できるだけ漢字をつかわないで
日本語をかきたいとおもっており、
「まぜ書き」は苦肉の策としてみとめるものの、
できればほかのことばにおきかえたほうがいいとおもう。
おきかえられないから、いまも「まぜ書き」がのこっている、
というかんがえ方もあるそうで、
漢字をつかおうとすると、こうした問題が
どうしてもでてくるため、できるだけ漢字をつかわない、
という原則をまもりたい。できればひらがなで、
それに抵抗があるなら「まぜ書き」のほうがまだまし、
というのがわたしの方針だ。
ところで、「交ぜ書き」というかき方は、
この記事でいう「まぜがき」ではなく、
おくりがなをふってあるだけだけど、
こっちのほうがよほどどわたしは気になる。
「交ぜ」って、すごくうつくしくない。「まぜ」のほうがいい。

古田氏は、漢字をつかう実用的な利点として
よみやすさをあげている。
「ちゅうちょなく実行する」と「躊躇なく実行する」をパッと見比べた時、どちらがより読みやすいか。漢字は平仮名に比べて「固まり」として目に入ってくるため、見た瞬間、言葉の意味がつかみやすいでしょう。

とはいえ、「躊躇」をなにもみなずに漢字でかけるひとは、
あまりいないのでは。
「ためらわずに」といいかえればいいようにおもう。
「見た瞬間、言葉の意味がつかみやすい」は
たしかに漢字の特性だけど、そのアドバンテージだけでなく、
まなびにくいという不利益についてもかんがえると、
できるだけ むつかしい漢字は
つかわないほうがいいと わたしはおもう。
 また、たとえば「蔓延」の「蔓」は、草かんむりの時からも分かるように、草やツルがのび広がることを意味しています。平仮名にすると、こうした漢字の機能がなくなり、元の意味をたどれなくなる。1千年単位の歴史をもつ漢字の意味成り立ちのトレーサビリティー(元をたどれること)が失われることになります。

もとの意味をたどれることに、どれだけの価値をおくかで
ここらへんはかわってくるだろう。
「蔓」にかぎらず、漢字のおおくは
たどろうとすれば元の意味をしることができるのだろうけど、
それが必要かどうかはこのみの問題になってしまう。
もとの意味をたとえたどれなくても、
かけもしない「蔓」という字を わたしはつかいたくない。

まったくはなしがそれるけど、ここまでかいていて、
デイリーポータルZの地主さんの記事をみていたら
(「今が旬! 多摩川沿いで鮎の和菓子を食べる」)、
多摩川をまえにした写真に、「たま川」という看板があった。
https://dailyportalz.jp/kiji/ayu-sweets-by-the-tama-river
常用漢字でも、あえて「まぜ書き」にしている。
さらによみすすめると、狛江にあるお菓子屋さんの名前が
「志むら」とあった。自分からわざわざ「まぜ書き」にしている。
こうなると、常用漢字ではないから「まぜ書き」では、
説明がつかなくなる。
あんがいおおくのひとが「まぜ書き」に抵抗がないのでは。
わたしは、おくりがなが必要なときは漢字をつかわず、
原則的にひらがなでとおしている。
地主さんの記事でいうと、「沿い」は「ぞい」で、
「食べる」は「たべる」だ。
でも、おおくのひとは、おくりがなをつけて漢字をつかっている。
「食べる」だって「まぜ書き」みたいなものではないか。
「まん延・改ざん・ねつ造」という「まぜ書き」に
そんなにめくじらをたてなくても、とわたしはおもう。

posted by カルピス at 18:18 | Comment(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月11日

「乗り続けることもエコ」に賛成する

愛着のある車、フィットを、あぶなく手ばなすところだったわたしは、
フィットを車検にとおし、けっきょくまたのりつづけることにした。
ものをだいじにつかう、という意味あいよりも、
愛着をかんじたものと、おわかれができないこころのよわさのためだ。
とはいえ、まだのれる車を手ばなして、排気ガスがすくないとはいえ、
あたらしい車(中古車だけど)をかうのは、
資源のムダづかいにおもえ、なんだかしっくりこない。
今朝の朝日新聞に「乗り続けることもエコ」という記事がのった。

半導体不足が足かせとなり、売れるのに思うように(自動車を)つくれない状態がつづいている。
 壊れて乗れなくなり、新車が必要になっても欲しい車がすぐに手に入らない。ならば、と中古車を求める消費者が増え、中古車市場が活況を呈している。

 新車が品薄で、中古車相場も高いとなると、乗れる間はいまの車に乗り続けるという選択も十分合理的だ。「もったいない」という気持ちで大切に使い続けることは、トータルでみればエコである。

わざわざこの記事をひくまでもなく、
ものをすてないでつかいつづけることが
エコなのはあたりまえのはなしだ。
日本では、登録から13年以上たったふるい自動車にのると
自動車税がたかくなり、かいかえをうながす制度になっている。
燃費がわるいとか、排気ガスをおおくだすとか、
わるい点がいくらかあるにしても、
じゅうぶんにうごく車をべつの車にかえるのは、
どうかんがえても資源のむだづかいだ。
「乗り続けることもエコ」なんてあたりまえのことを、
いまさらいわなくてはならないほど、
ふるい車にのるひとはあまりおおくない。
わたしがのっているホンダのフィットは、
2002年に登録された自動車なので、もうすぐ20年になる。
すこしキズがついてはいるものの、じゅうぶんよくはしるし、
ふるい車ならではのおもむきもでてきた。
走行時の排出ガスの抑制効果が高い電気自動車の販売を奨励する国は多いのだが、燃費のよい小型乗用車を大切に長く使用することを奨励する国は少ない。

とおくない将来に、ガソリン車は 生産できなくなりそうだし、
ふるい車の使用が、規制される方向に世界はうごくだろう。
でも、あたらしく電気自動車をつくるには、
たくさんの電力や資源をつかわなければならない。
わたしみたいに いちねんに2000キロもはしらない人間は、
いまのっているガソリン車を、そのままのりつづけたほうが
環境へのダメージがすくないはずだ。
いろいろなこまかなデーターをしめされるより、
「もったいない」のひとことが、わたしの胸にすんなりとどく。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする