業務用スーパーのドライフルーツうりばに、
「しょうじきのごほうびに、きれいなジャイアンをあげましょう。」
というポップがはられていた。
ドラえもんの絵ではなく、
「きれいなジャイアン」なのが意表をつく。
職場にもどって、このポスターをのことを報告すると、
おもしろがってくれたけど、
「きれいなジャイアン」をもらってもこまる、
という意見がでた。
たしかに。きれいでないジャイアンもこまるけど、
だからといって、きれいになったジャイアンをもらって
どうするのか。
このポップが気になるので、サイトでしらべてみた。
ドラえもんの「きこりの泉」という話にでてくるそうだ。
泉からでてきた女神がのび太たちに
「あなたが落したのはこれですか?」とたずねる。
いえ、もっときたないの、とこたえると、
あなたはしょうじきだから、ごほうびに・・・、
という展開だという。むかしばなしで、よくありそうだ。
おまけの情報では、「きれいなジャイアン」フィギュアが、
¥15,800-の高価格で販売されているという。
わたしの職場とちがい、きれいなジャイアンに
価値をみとめるひとがいるのだ。
それにしても、なぜ業務用スーパーが
「きれいなジャイアン」のポップを用意したのだろう。
このポップと商品とは、なんの関係もなさそうなのに。
商品の特徴をかきあげるだけの、宣伝くさいポップより、
「しょうじきのごほうびに・・・」といわれるほうが、
意味不明なぶん、たのしいのはたしかだ。
もしかしたら、これはプレゼントのむつかしさを
さりげなくつたえようとした寓話ではないか。
プレゼントする側は、自分としてはいいものをあげたつもりでも、
うけとるほうにとっては、「きれいなジャイアンをもらっても・・・」
と、ありがたいおくりものにならないケースもある。
女神がにっこりほほえんで、
「あなたはしょうじきだから・・・」といえば、
うけとるほうはことわるわけにいかないだろう。
自分が「きれいなジャイアン」をひとにあげてないか、
よくかんがえてプレゼントするよう いましめたい。
2021年07月11日
2021年07月10日
コロナワクチンと「アナ雪」
職場が介護事業所のため、新型コロナウイルスのワクチンを
関連するいくつかの事業所があつまり 合同でうった。
ワクチンを うつかどうかのためらいはなかったけど、
どんな反応がでるかはすこし心配していた。
糸井重里さんがワクチン接種の体験を、
選挙とよくにていた、とかいている。
ながれにそって、粛々とすすんでいったという。
きょうは、職場のメンバーだけだったので、かんたんだった。
問診票をあらかじめ提出しておき、
時間になったらグループごとに会場へ移動する。
注射じたいはすぐおわるし、そのあと15分間、
ようすをたしかめる時間をおく。
あとは保護者のむかえをまつだけだ。
2回めは7月31日と すでにきまっており、
接種券と予診票のようなものは、とくになにもわたされない。
結果からいえば、注射したときも、そのあともいたくなかった。
2時間後に注射のあとをおしても なにもかんじない。
わたしは日常的にひだり側のうでや肩がいたいので、
注射したからといって、いつもとなにもかわらない。
夜になってうでがあがらなくなった、
というひともいるので まだ安心はできないけど、
とりあえず注射が無事におわったことをよろこぶ。
事業所を利用している人と職員がワクチンをうつため、
土曜日だけどきょうは開所日あつかいとなった。
午前はなんらかの活動をして、午後の注射をまつ、
というスケジュールだ。
ほかのグループは、工作などしていたけど、
わたしが所属するクッキー班は、DVDをみることにする。
作品はなんとなく『アナと雪の女王』にきまる。
評判になった作品なのに、わたしはまだみたことがなく、
仕事でみられるなんて まるもうけの気分だ。
でも、よくあることながら、プロジェクターにうつらない。
プロジェクターが問題なのではなく、
パソコンがDVDをひらいてくれず、どうにもならない状態だ。
ウィンドウズパソコンのことはよくわからないので、
担当職員にまかせていたけど、
3台のノートパソコンをためしても うまくいかなかった。
しかたないので、事務処理につかっている
わたしのふるいiMacをもちだした。
21.5インチの画面は、プロジェクターにくらべ かなりみにくいけど、
10人がiMacをかこみ、じっと「アナ雪」に目をこらす。
ワクチンとiMacでの『アナと雪の女王』。
これはこれで、記憶にのこるいちにちとなった。
映画の感想としては、ものすごく絵がきれいで、
声優さんもじょうずなのにおどろかされる。
ただ、あれだけリアルなうごきをかくなら、
なんで実写の作品にしなかったのか不思議におもえた。
アニメーションにする意味をかんがえさせられる作品だ。
関連するいくつかの事業所があつまり 合同でうった。
ワクチンを うつかどうかのためらいはなかったけど、
どんな反応がでるかはすこし心配していた。
糸井重里さんがワクチン接種の体験を、
選挙とよくにていた、とかいている。
ながれにそって、粛々とすすんでいったという。
きょうは、職場のメンバーだけだったので、かんたんだった。
問診票をあらかじめ提出しておき、
時間になったらグループごとに会場へ移動する。
注射じたいはすぐおわるし、そのあと15分間、
ようすをたしかめる時間をおく。
あとは保護者のむかえをまつだけだ。
2回めは7月31日と すでにきまっており、
接種券と予診票のようなものは、とくになにもわたされない。
結果からいえば、注射したときも、そのあともいたくなかった。
2時間後に注射のあとをおしても なにもかんじない。
わたしは日常的にひだり側のうでや肩がいたいので、
注射したからといって、いつもとなにもかわらない。
夜になってうでがあがらなくなった、
というひともいるので まだ安心はできないけど、
とりあえず注射が無事におわったことをよろこぶ。
事業所を利用している人と職員がワクチンをうつため、
土曜日だけどきょうは開所日あつかいとなった。
午前はなんらかの活動をして、午後の注射をまつ、
というスケジュールだ。
ほかのグループは、工作などしていたけど、
わたしが所属するクッキー班は、DVDをみることにする。
作品はなんとなく『アナと雪の女王』にきまる。
評判になった作品なのに、わたしはまだみたことがなく、
仕事でみられるなんて まるもうけの気分だ。
でも、よくあることながら、プロジェクターにうつらない。
プロジェクターが問題なのではなく、
パソコンがDVDをひらいてくれず、どうにもならない状態だ。
ウィンドウズパソコンのことはよくわからないので、
担当職員にまかせていたけど、
3台のノートパソコンをためしても うまくいかなかった。
しかたないので、事務処理につかっている
わたしのふるいiMacをもちだした。
21.5インチの画面は、プロジェクターにくらべ かなりみにくいけど、
10人がiMacをかこみ、じっと「アナ雪」に目をこらす。
ワクチンとiMacでの『アナと雪の女王』。
これはこれで、記憶にのこるいちにちとなった。
映画の感想としては、ものすごく絵がきれいで、
声優さんもじょうずなのにおどろかされる。
ただ、あれだけリアルなうごきをかくなら、
なんで実写の作品にしなかったのか不思議におもえた。
アニメーションにする意味をかんがえさせられる作品だ。
2021年07月09日
酒をのまなくなって40日
酒をのまなくなって1ヶ月以上すぎた。
我慢できないほど酒がほしいというおもいはなく、
淡々とカレンダーがすぎていく。
どうしても酒をやめる、というつよい意思があるわけではなく、
のみ会にさそわれたときくらいはいいか、と
ゆるいかまえなのが うまくいっている理由かもしれない。
とはいえ、夜に酒をのむのが習慣になっていたので、
なにもなしですごすのはおちつかない。
酒(ワインや焼酎がおおかった。夏はジントニック)のかわりに
ノンアルコールドリンクにお世話になっている。
デイリーポータルZのwebマスター、林さんが、
ノンアルコールビールのレビューをブログにとりあげている。
http://yaginome.jp/?p=2984
たしかに、ビールのかわりとおもうと、
いろいろ不満がわいてきそうだ。
ビールテイストではあるけど、ぜったいにビールではない。
そこのところを ほんとうはちゃんとわかっているのに、
「ビールみたい」と自分にいいきかせるのは かなり無理がある。
ビールとはまったくちがうのみものと、
わりきったほうがいいのではないか。
デイリーポータルZの記事で、
アルコール度数が0.5%の「ビアリー」という
微アルコール飲料を紹介していた。
https://dailyportalz.jp/kiji/osumeshi13_04
すごくよくできていて、ほんとにビールみたいらしい。
ビールをのんでよわないというのを、体験したいけど、
これをのんでしまうと、いっきょに飲酒生活にもどりそうで、
こわくてまだ手がだせない。
0.5%しかアルコール分がないのに、
180円もするのもすこしくやしいし。
すごく酒がつよいひとにとってのビールは、
わたしがビアリーをのむようなものだろうか。
デイリーポータルZつながりでいうと、もうひとつ、
フルーツジュースに発泡酒をいれると、
なんちゃってクラフトビールになる、
というのも、酒をまたのみはじめたらつくってみたい。
https://dailyportalz.jp/kiji/nanchatte-craft-beer
わたしがこれまでにためしたノンアルコール飲料は
・香り華やぐハイボールテイスト(アサヒ)
・ゼロイチ/キリン氷零・グレープフルーツ(キリン)
・シャルドネスパークリング(アサヒ)
・レモンサワー(イオン)
そのほかに、サントリーのライムショットとオールフリーは
いつもかいおきしてあり、いまのところ
ライムショットをえらぶ日がおおい。
チューハイ系はカロリーゼロとかいてあるけど、
かなりあまくて毎日はのめない。
香り華やぐハイボールテイストは、
ほんとうにハイボールの味なのでおどろいた。
よわないけど、ハイボールをのんだ気になる。
いまのところ、酒なしでもとくに不満はないけど、
酒をまたのみはじめたら、ためしたいものがいくつもある。
我慢できないほど酒がほしいというおもいはなく、
淡々とカレンダーがすぎていく。
どうしても酒をやめる、というつよい意思があるわけではなく、
のみ会にさそわれたときくらいはいいか、と
ゆるいかまえなのが うまくいっている理由かもしれない。
とはいえ、夜に酒をのむのが習慣になっていたので、
なにもなしですごすのはおちつかない。
酒(ワインや焼酎がおおかった。夏はジントニック)のかわりに
ノンアルコールドリンクにお世話になっている。
デイリーポータルZのwebマスター、林さんが、
ノンアルコールビールのレビューをブログにとりあげている。
http://yaginome.jp/?p=2984
たしかに、ビールのかわりとおもうと、
いろいろ不満がわいてきそうだ。
ビールテイストではあるけど、ぜったいにビールではない。
そこのところを ほんとうはちゃんとわかっているのに、
「ビールみたい」と自分にいいきかせるのは かなり無理がある。
ビールとはまったくちがうのみものと、
わりきったほうがいいのではないか。
デイリーポータルZの記事で、
アルコール度数が0.5%の「ビアリー」という
微アルコール飲料を紹介していた。
https://dailyportalz.jp/kiji/osumeshi13_04
すごくよくできていて、ほんとにビールみたいらしい。
ビールをのんでよわないというのを、体験したいけど、
これをのんでしまうと、いっきょに飲酒生活にもどりそうで、
こわくてまだ手がだせない。
0.5%しかアルコール分がないのに、
180円もするのもすこしくやしいし。
すごく酒がつよいひとにとってのビールは、
わたしがビアリーをのむようなものだろうか。
デイリーポータルZつながりでいうと、もうひとつ、
フルーツジュースに発泡酒をいれると、
なんちゃってクラフトビールになる、
というのも、酒をまたのみはじめたらつくってみたい。
https://dailyportalz.jp/kiji/nanchatte-craft-beer
わたしがこれまでにためしたノンアルコール飲料は
・香り華やぐハイボールテイスト(アサヒ)
・ゼロイチ/キリン氷零・グレープフルーツ(キリン)
・シャルドネスパークリング(アサヒ)
・レモンサワー(イオン)
そのほかに、サントリーのライムショットとオールフリーは
いつもかいおきしてあり、いまのところ
ライムショットをえらぶ日がおおい。
チューハイ系はカロリーゼロとかいてあるけど、
かなりあまくて毎日はのめない。
香り華やぐハイボールテイストは、
ほんとうにハイボールの味なのでおどろいた。
よわないけど、ハイボールをのんだ気になる。
いまのところ、酒なしでもとくに不満はないけど、
酒をまたのみはじめたら、ためしたいものがいくつもある。
2021年07月08日
『平凡すぎる犠牲者』(レイフ=GW=ペーション) ベックストレーム警部にうんざりしながらも かたりくちがうまい
『平凡すぎる犠牲者』
(レイフ=GW=ペーション・久山葉子:訳・創元推理文庫)
ペーションの作品は、『許されざる者』がすばらしかった。
引退した元犯罪捜査局長官、ヨハンソンが脳貧血をおこし、
車イスでの生活をおくることになる。
不自由なからだになりながらも捜査に協力し、
ゆるしがたい罪をおかした犯人を、じわじわとおいつめていく。
ラストでは、犯人がにげられない状況を みごとにおぜんだてして、
それまでにたまっていた溜飲をさげたものだ。
いっぽう、『平凡すぎる犠牲者』は、
ベックストレームという くちの達者な警部が主人公だ。
おいしい料理とつよい酒に目がなく、
自分にはきわめてあまく、だれもかれもをみくだし、
おもてだってわるぐちはいわないものの、
腹のなかではあいてのひとことひとことに
チャチャをいれるものすごくゴーマンでいやな男。
これまでによんだミステリーにはなかったタイプで、
ヨハンソンとは正反対の うすっぺらな人間性がひどい。
ベックストレームの本質をみやぶっているひとたちは、
彼が口さきだけというだけでなく、人間として信頼できず、
金のためならいくらでも犯罪者に協力するような、
とんでもない警部だと気づいている。
という元上司の評価が、
ベックストレームの仕事ぶりを過不足なくあらわしている。
ベックストレームは自信だけでいきているタイプだ。
問題ありありの性格が鼻につき、とちゅうまで、
なんどもよむのをやめたくなった。
ひとがいうことに、いちいちケチをつけるけど、
くちにはださず、おなかのなかでおもうだけ。
表情は、いかにももっともらしいので、
まわりは彼がまじめに仕事をこなしているとかんちがいする。
いっしょにいると、たまらないタイプなのに、
なぜかまわりのひとはベックストレームの本性に気づかず、
かんちがいをかさねるうちに、捜査がなんとなくすすんでいる。
でも、よくかんがえると、ベックストレームはわたしだ。
にこやかにおしゃべりしていても、
わたしはいつもお腹のなかでブツブツ悪態をついている。
むつかしそうなことをかんがえているふりをして、
楽をするチャンスをねらっているのもわたしといっしょだ。
ひとりゆっくりとひるごはんをたべ、
おひるねもしっかりというのは、まさにわたしではないか。
無能でゴーマンな男なら、だんだんまわりがあいてにしなくなるけど、
ベックストレームはただのバカではなく、
すこしは頭がまわるから、あつかいがむつかしい。
捜査がいきづまり、解決の糸ぐちがみつからないときでも、
ベックストレームは自信満々で、自分の能力をすこしもうたがわない。
ひとがやることは おもいっきりみくだし、
かといって、自分の捜査もひどい見当ちがいなのに、
マイナスとマイナスをかけるとプラス、みたいに、
まちがいをかさねながらも、犯人にちかづいているのが
ベックストレーム流の結果オーライスタイルだ。
タイトルに『平凡すぎる犠牲者』とあるのは、
アルコール依存症の男性がころされ、
いっけんしたところ、すぐに解決されそうな
簡単な事件におもえたからだ。
しかし、調査がすすむにつれ、謎がいくつもでてきて、
だんだんと犯人の特定がむつかしくなってくる。
これまでによんだことのないタイプのミステリーで、
内容がどうこうよりも、かたりくちのうまさでひっぱる。
ベックストレームものはシリーズになっており、
さんざん彼の人間性をわるくかいてきたけど、
不覚ながら、一作目の『見習い警官殺し』もよみたくなった。
自信満々のベックストレームがうらやましいのかもしれないし、
彼の本性が自分といっしょなのにひかれたのかもしれない。
本来なら、『許されざる者』のようなヨハンソンものがよみたいけど、
ヨハンソンはすでにしんでしまった。
ベックストレームも、生活習慣病に一直線の食生活なので、
これからのシリーズは、彼の健康から目がはなせない。
(レイフ=GW=ペーション・久山葉子:訳・創元推理文庫)
ペーションの作品は、『許されざる者』がすばらしかった。
引退した元犯罪捜査局長官、ヨハンソンが脳貧血をおこし、
車イスでの生活をおくることになる。
不自由なからだになりながらも捜査に協力し、
ゆるしがたい罪をおかした犯人を、じわじわとおいつめていく。
ラストでは、犯人がにげられない状況を みごとにおぜんだてして、
それまでにたまっていた溜飲をさげたものだ。
いっぽう、『平凡すぎる犠牲者』は、
ベックストレームという くちの達者な警部が主人公だ。
おいしい料理とつよい酒に目がなく、
自分にはきわめてあまく、だれもかれもをみくだし、
おもてだってわるぐちはいわないものの、
腹のなかではあいてのひとことひとことに
チャチャをいれるものすごくゴーマンでいやな男。
これまでによんだミステリーにはなかったタイプで、
ヨハンソンとは正反対の うすっぺらな人間性がひどい。
ベックストレームの本質をみやぶっているひとたちは、
彼が口さきだけというだけでなく、人間として信頼できず、
金のためならいくらでも犯罪者に協力するような、
とんでもない警部だと気づいている。
「象のようにのしのし歩き回って、周囲にあるものをすべて破壊するような男なんです。その埃が落ち着いた頃に同僚が価値のある証拠をいくらかみつけることもある。そんなやりかたでもいいなら、あなたのおっしゃるとおりです。ベックストレームの周りでは、必ず何かが起きる」
という元上司の評価が、
ベックストレームの仕事ぶりを過不足なくあらわしている。
ベックストレームは自信だけでいきているタイプだ。
問題ありありの性格が鼻につき、とちゅうまで、
なんどもよむのをやめたくなった。
ひとがいうことに、いちいちケチをつけるけど、
くちにはださず、おなかのなかでおもうだけ。
表情は、いかにももっともらしいので、
まわりは彼がまじめに仕事をこなしているとかんちがいする。
いっしょにいると、たまらないタイプなのに、
なぜかまわりのひとはベックストレームの本性に気づかず、
かんちがいをかさねるうちに、捜査がなんとなくすすんでいる。
でも、よくかんがえると、ベックストレームはわたしだ。
にこやかにおしゃべりしていても、
わたしはいつもお腹のなかでブツブツ悪態をついている。
むつかしそうなことをかんがえているふりをして、
楽をするチャンスをねらっているのもわたしといっしょだ。
ひとりゆっくりとひるごはんをたべ、
おひるねもしっかりというのは、まさにわたしではないか。
無能でゴーマンな男なら、だんだんまわりがあいてにしなくなるけど、
ベックストレームはただのバカではなく、
すこしは頭がまわるから、あつかいがむつかしい。
捜査がいきづまり、解決の糸ぐちがみつからないときでも、
ベックストレームは自信満々で、自分の能力をすこしもうたがわない。
ひとがやることは おもいっきりみくだし、
かといって、自分の捜査もひどい見当ちがいなのに、
マイナスとマイナスをかけるとプラス、みたいに、
まちがいをかさねながらも、犯人にちかづいているのが
ベックストレーム流の結果オーライスタイルだ。
タイトルに『平凡すぎる犠牲者』とあるのは、
アルコール依存症の男性がころされ、
いっけんしたところ、すぐに解決されそうな
簡単な事件におもえたからだ。
しかし、調査がすすむにつれ、謎がいくつもでてきて、
だんだんと犯人の特定がむつかしくなってくる。
これまでによんだことのないタイプのミステリーで、
内容がどうこうよりも、かたりくちのうまさでひっぱる。
ベックストレームものはシリーズになっており、
さんざん彼の人間性をわるくかいてきたけど、
不覚ながら、一作目の『見習い警官殺し』もよみたくなった。
自信満々のベックストレームがうらやましいのかもしれないし、
彼の本性が自分といっしょなのにひかれたのかもしれない。
本来なら、『許されざる者』のようなヨハンソンものがよみたいけど、
ヨハンソンはすでにしんでしまった。
ベックストレームも、生活習慣病に一直線の食生活なので、
これからのシリーズは、彼の健康から目がはなせない。
2021年07月07日
了解しました、とはふつういわない。かくだけ
ゴンチチの「世界快適音楽セレクション」をよくきいている。
前回のテーマは「了解の音楽」だった。
おふたりが、了解にまつわる曲を、
あちこちからひっぱりだしてくるのはさすがだ。
了解にかぎらず、どんなテーマでも、ふたりは世界じゅうから
いくつもの該当する曲をもってくる。
音楽への造詣がおそろしくふかいと、いつも感心しているのだけど、
ふたりがしっている曲だけでなく、
番組スタッフからも知恵をかりてるのだろう。
そこらへんの役割分担について、裏事情がしりたいものだ。
「了解」について、ふたりがやりとりするなかで、
「了解」ということばは、日常ではあまりつかわない、
というはなしがでた。
たしかに、文字としてはよくかいても、
会話のとき「了解」とはふつうあまりいわない。
日本語は、かきことばと、はなしことばに、
あまりずれがないことばだとおもっていたけど、
「了解」は無意識でつかいわけている。
ほかにも、かきことばとはなしことば、
それぞれを専門にする単語がいくつもあるのだろう。
了解は、圧倒的にかきことばのなかでつかうことばだ。
わたしはあるしりあいからの影響で、
このことばをおもしろがってつかってきたから、
会話のなかで「了解」と、よくいっているほうだとおもう。
そして、かきことばにおいて、
わたしがラインでいちばんよくつかうのも、この「了解」だ。
あいてからのメッセージには、「了解しました」
とこたえるのがいちばん無難な気がする。
いつもいつも「了解」では芸がなさすぎるけど、
もっともらしくひねるのはもうあきらめて、
ぜんぶ「了解しました」でかえすことにきめた。
ネットをみると、わかものは「了解」でさわずらわしいらしく、
「り」のひとことが「了解」を意味するのだという。
それでさえ、2年まえの記事だから、いったいいまは
なんといって「了解」をあらわしているのだろう。
ほかにもわたしがしらない略語がたくさんのっていた。
「了解しました」と「り」とのあいだには、
ずいぶん距離があるような気がする。
そうしたこまかなニュアンスを承知していなければ、
コミュニケーションがとれないのだから、
わかいひとたちのオリジナルなやりとりは、
きっとわたしにはさっぱりわからないのだろう。
職場では、20歳・30歳したの職員といっしょに仕事をしているけど、
会話がなりたっているのがこうなってくると不思議だ。
あいてが本気をだして「り」とか「マ」とかいいだしたら、
わたしには外国語みたいに意味不明なことばだ。
それにたいし、「了解しました」としか わたしはかえせない。
前回のテーマは「了解の音楽」だった。
おふたりが、了解にまつわる曲を、
あちこちからひっぱりだしてくるのはさすがだ。
了解にかぎらず、どんなテーマでも、ふたりは世界じゅうから
いくつもの該当する曲をもってくる。
音楽への造詣がおそろしくふかいと、いつも感心しているのだけど、
ふたりがしっている曲だけでなく、
番組スタッフからも知恵をかりてるのだろう。
そこらへんの役割分担について、裏事情がしりたいものだ。
「了解」について、ふたりがやりとりするなかで、
「了解」ということばは、日常ではあまりつかわない、
というはなしがでた。
たしかに、文字としてはよくかいても、
会話のとき「了解」とはふつうあまりいわない。
日本語は、かきことばと、はなしことばに、
あまりずれがないことばだとおもっていたけど、
「了解」は無意識でつかいわけている。
ほかにも、かきことばとはなしことば、
それぞれを専門にする単語がいくつもあるのだろう。
了解は、圧倒的にかきことばのなかでつかうことばだ。
わたしはあるしりあいからの影響で、
このことばをおもしろがってつかってきたから、
会話のなかで「了解」と、よくいっているほうだとおもう。
そして、かきことばにおいて、
わたしがラインでいちばんよくつかうのも、この「了解」だ。
あいてからのメッセージには、「了解しました」
とこたえるのがいちばん無難な気がする。
いつもいつも「了解」では芸がなさすぎるけど、
もっともらしくひねるのはもうあきらめて、
ぜんぶ「了解しました」でかえすことにきめた。
ネットをみると、わかものは「了解」でさわずらわしいらしく、
「り」のひとことが「了解」を意味するのだという。
それでさえ、2年まえの記事だから、いったいいまは
なんといって「了解」をあらわしているのだろう。
ほかにもわたしがしらない略語がたくさんのっていた。
「了解しました」と「り」とのあいだには、
ずいぶん距離があるような気がする。
そうしたこまかなニュアンスを承知していなければ、
コミュニケーションがとれないのだから、
わかいひとたちのオリジナルなやりとりは、
きっとわたしにはさっぱりわからないのだろう。
職場では、20歳・30歳したの職員といっしょに仕事をしているけど、
会話がなりたっているのがこうなってくると不思議だ。
あいてが本気をだして「り」とか「マ」とかいいだしたら、
わたしには外国語みたいに意味不明なことばだ。
それにたいし、「了解しました」としか わたしはかえせない。
2021年07月06日
冗談みたいにつよい風のなかをはしると、イベントに参加したみたいな爽快感
つよい風のなか、宍道湖岸をレース仲間とはしる。
コースをかえようと、つれが提案するほどすごい風だ。
でも、このコースは風がデフォルトみたいなもので、
風がふくたびに いちいちコースをかえていたら
いつもべつのコースになってしまう。
これまでの経験から、すこしぐらい風がふいていたって、
はしってみればなんとかなるとわかっている。
それに、町のなかをはしった場合、
つよい風がふいていると、なにかがとんできて、
頭にあたったりしたら、大ケガするかもしれない。
宍道湖岸なら、自分のからだが風と勝負するだけだ。
なにかがとんでくる心配はすくない。
けっきょくいつものコースをはしる。
結果的にはたのしいランになったけど、
これまでに1位か2位くらいのつよい風だった。
むかい風のときは、なかなかすすめないし、
おい風のときは、ヨットになったみたいに、
からだじゅうが風をうけて 自然とかけあしになる。
はしりおわると、筋トレのあとみたいなつかれがやってきた。
ゆっくり足をうごかしている場合ではないので、
しぜんとからだじゅうの筋肉をつかったようだ。
あるレベル以上の負荷をからだにかけると、
いつもとはちがう爽快感がおとずれる。
なにかのイベントをやりおえたときみたいだ。
ふたりともハイ状態で、なんだかやたらとたのしかった。
練習がマンネリ化したときは、きょうみたいな、
冗談としかおもえない過酷な状況にあえて身をおくと、
新鮮な気分でトレーニングにとりくめるのに気づいた。
いつもだと、ゆっくりだらだらが基本だとうそぶいて、
自分のからだにあまえているけど、
そんなことをしていたらまえにすすめないので、
どうしても自然にがんばってしまう。
つよい風が適度な刺激となって 非日常をあじわえた。
低気圧が停滞しているために、これからの数日は、
雨と風がつづくと天気予報がいっていた。
雨と風にためらっていたら、練習がはかどらない。
冬の雨とちがい、ぬれたってからだがひえたりはしないので、
よほどのことがなければ、覚悟をきめてはしろうとおもっている。
はりれば、それなりに満足感があじわえる。
はしって後悔したことはない。
コースをかえようと、つれが提案するほどすごい風だ。
でも、このコースは風がデフォルトみたいなもので、
風がふくたびに いちいちコースをかえていたら
いつもべつのコースになってしまう。
これまでの経験から、すこしぐらい風がふいていたって、
はしってみればなんとかなるとわかっている。
それに、町のなかをはしった場合、
つよい風がふいていると、なにかがとんできて、
頭にあたったりしたら、大ケガするかもしれない。
宍道湖岸なら、自分のからだが風と勝負するだけだ。
なにかがとんでくる心配はすくない。
けっきょくいつものコースをはしる。
結果的にはたのしいランになったけど、
これまでに1位か2位くらいのつよい風だった。
むかい風のときは、なかなかすすめないし、
おい風のときは、ヨットになったみたいに、
からだじゅうが風をうけて 自然とかけあしになる。
はしりおわると、筋トレのあとみたいなつかれがやってきた。
ゆっくり足をうごかしている場合ではないので、
しぜんとからだじゅうの筋肉をつかったようだ。
あるレベル以上の負荷をからだにかけると、
いつもとはちがう爽快感がおとずれる。
なにかのイベントをやりおえたときみたいだ。
ふたりともハイ状態で、なんだかやたらとたのしかった。
練習がマンネリ化したときは、きょうみたいな、
冗談としかおもえない過酷な状況にあえて身をおくと、
新鮮な気分でトレーニングにとりくめるのに気づいた。
いつもだと、ゆっくりだらだらが基本だとうそぶいて、
自分のからだにあまえているけど、
そんなことをしていたらまえにすすめないので、
どうしても自然にがんばってしまう。
つよい風が適度な刺激となって 非日常をあじわえた。
低気圧が停滞しているために、これからの数日は、
雨と風がつづくと天気予報がいっていた。
雨と風にためらっていたら、練習がはかどらない。
冬の雨とちがい、ぬれたってからだがひえたりはしないので、
よほどのことがなければ、覚悟をきめてはしろうとおもっている。
はりれば、それなりに満足感があじわえる。
はしって後悔したことはない。
2021年07月05日
おもしろくよんだ木村岳人さんの「カンボジアの車窓から」はもうよんでいた
ヒロシさんの『迷宮グルメ 異郷の駅前食堂』をよくみる。
コロナ禍の影響で、海外の取材は ほぼ無理な状況となり、
番組は、ずいぶんまえから国内編にとりくんでいる。
国内編と海外編の再放送をつないで1回分の放送、
という方針が、テレビ局のだしたこたえだ。
わたしにとって問題なのは、
まえにかならずみたことがある内容のはずなのに、
ほぼ記憶にないため、新鮮な気もちでみられることだ。
この番組は、おとずれる国や町がちがっても、
やることはだいたいきまっている。
駅のまわりを散歩して、おもしろそうな店をひやかし、
お腹がすいたころに、よさそうなお店にはいって郷土料理を注文する。
だから、わたしがわすれてもいいわけできそうだけど、
いっしょに番組をみている配偶者は、
この場面はみおぼえがある、となんどか声をあげる。
わたしには記憶にないことばかりなのは なんだか残念だ。
タイトルにあげられた国名にはみおぼえがあり、
確実にみたことがあるはずなのに、
こまかなことはすっかりわすれている。
完全におなじ番組をながしたら再放送になってしまうので、
番組のスタッフが気をきかせて、
撮影したものの、放映はしてない お蔵いりのデーターをつかい、
あらたにべつの内容を編集している、
という仮説をわたしはたてている。
もうひとつすきな番組である「チャリダー 」でも
おなじことがおきている。
「チャリダー 」は、毎週土曜日の6時からの番組だけど、
かならずあたらしい内容をながすわけではなく、
「チャリダー 選」として、過去の番組を
再放送することがよくある。
このまえは、2ヶ月まえの番組の再放送だったのに、
そのほとんどをわたしはわすれており、
はじめてみたかのように 番組をたのしめた。
きょうのデイリーポータルZに、再放送としてのった
木村岳人さんの「カンボジアの車窓から」をよみ、
https://dailyportalz.jp/kiji/161219198351
わたしもいったことがあるアンコールワットの記事など、
なつかしくなってブログにかきたくなった。
でも、なんだかまえにもかいたような気がして、
検索してみると、そのとおり、ちゃんと4年前に記事にしていた。
みた番組、よんだ記事をすぐわすれる、
というこの文章だって、どこかですでにかいたような気がする。
年をとってくると、なにをやっても新鮮な気もちでとりくめる。
だれにも迷惑をかけてないし、自分もたのしいのだから、
年をとるのは わるいことばかりではない。
コロナ禍の影響で、海外の取材は ほぼ無理な状況となり、
番組は、ずいぶんまえから国内編にとりくんでいる。
国内編と海外編の再放送をつないで1回分の放送、
という方針が、テレビ局のだしたこたえだ。
わたしにとって問題なのは、
まえにかならずみたことがある内容のはずなのに、
ほぼ記憶にないため、新鮮な気もちでみられることだ。
この番組は、おとずれる国や町がちがっても、
やることはだいたいきまっている。
駅のまわりを散歩して、おもしろそうな店をひやかし、
お腹がすいたころに、よさそうなお店にはいって郷土料理を注文する。
だから、わたしがわすれてもいいわけできそうだけど、
いっしょに番組をみている配偶者は、
この場面はみおぼえがある、となんどか声をあげる。
わたしには記憶にないことばかりなのは なんだか残念だ。
タイトルにあげられた国名にはみおぼえがあり、
確実にみたことがあるはずなのに、
こまかなことはすっかりわすれている。
完全におなじ番組をながしたら再放送になってしまうので、
番組のスタッフが気をきかせて、
撮影したものの、放映はしてない お蔵いりのデーターをつかい、
あらたにべつの内容を編集している、
という仮説をわたしはたてている。
もうひとつすきな番組である「チャリダー 」でも
おなじことがおきている。
「チャリダー 」は、毎週土曜日の6時からの番組だけど、
かならずあたらしい内容をながすわけではなく、
「チャリダー 選」として、過去の番組を
再放送することがよくある。
このまえは、2ヶ月まえの番組の再放送だったのに、
そのほとんどをわたしはわすれており、
はじめてみたかのように 番組をたのしめた。
きょうのデイリーポータルZに、再放送としてのった
木村岳人さんの「カンボジアの車窓から」をよみ、
https://dailyportalz.jp/kiji/161219198351
わたしもいったことがあるアンコールワットの記事など、
なつかしくなってブログにかきたくなった。
でも、なんだかまえにもかいたような気がして、
検索してみると、そのとおり、ちゃんと4年前に記事にしていた。
みた番組、よんだ記事をすぐわすれる、
というこの文章だって、どこかですでにかいたような気がする。
年をとってくると、なにをやっても新鮮な気もちでとりくめる。
だれにも迷惑をかけてないし、自分もたのしいのだから、
年をとるのは わるいことばかりではない。
2021年07月04日
平坂さんの「釣った魚はフラットな気持ちで食べたい」に共感する
めずらしいいきものをつかまえるのが専門みたいな
平坂さんへのインタビューがデイリーポータルZにのった。
タイトルは「釣った魚はフラットな気持ちで食べたい」。
https://dailyportalz.jp/kiji/hirasaka-outtakes-03
平坂さんがいいたいことと、すこしちがうかもしれないけど、
「外でたべるごはんはおいしい」や
「おおぜいでたべるごはんはおいしい」も
「バイアスがかか」っているようにおもう。
おおくのひとが、外でたべたり、おおぜいでたべたりして、
いつもよりも おいしかった経験があるのかもしれないけど、
おいしいにきまっている、みたいに
きめつけられるのは すきではない。
さらにいえば、魚の新鮮さに価値をおくのも、程度問題ではないか。
テレビをみていると、とりたての魚をありがたがって
あまいだの、コリコリしているだのいっているけど、
魚が新鮮なのと、新鮮でうまいというのは、またべつのはなしだ。
とりたての魚より、つってから なんにちかたったほうがうまみがでる、
という説もあるようだから、とりたて・つりたての魚はおいしい、
というのは、 おもいこみにすぎないかもしれない。
空腹は最高のコック、みたいなはなしがある。
どんなに食材に気をくばり、料理法を工夫しても、
おなかがすいていなければ、おいしくたべられないというものだ。
でも、お腹がすいていさえすれば、なんでもおいしい、
というのも、いいすぎだとおもう。
教訓めいていて、いかにも親や大人がよろこびそうだ。
おいしくないものは、いくらお腹がへっていても
おいしくないとわたしはおもう。
アウトドアブームで、キャンプにでかけても、
いろいろこった料理をするひともいるようだ。
ヒロシさんみたいに、キャンプ場へいくとちゅうのスーパーで、
土地の食材をかう、くらいならいいけど、
おおげさな料理道具をもちこむのは、わたしの趣味にあわない。
外でおいしいものをたべよう、というのが そもそも気にいらない。
もっと質素で、ビンボーな食事をめざしたいものだ。
火をおこし、あたたかい料理をたべられたら、
それだけでもうごちそうだ。食後にコーヒーがつけばいうことない。
けっきょくわたしがやりたいのは、
西部劇にでてくるキャンプかもしれない。
ブリキの皿によそった豆料理をまずそうにたべ、
おわったら砂でさっとこすってよごれをおとす、
というのがあこがれの食事風景だ。
平坂さんへのインタビューがデイリーポータルZにのった。
タイトルは「釣った魚はフラットな気持ちで食べたい」。
https://dailyportalz.jp/kiji/hirasaka-outtakes-03
よく「自分で釣った魚はおいしい」っていうじゃないですか?
そういうバイアスがかかるのが嫌なんですよ。
それ言い出すと素材の味というか、その生物そのものの味が公平にジャッジできなくなってしまう。それはもったいない。
だから持ち帰って。ひと息ついて、フラットな状態で食べたい。
っていうのがあるので、なるべくキッチン付きの宿で、なるべくつまらない精神状態で食べる。
平坂さんがいいたいことと、すこしちがうかもしれないけど、
「外でたべるごはんはおいしい」や
「おおぜいでたべるごはんはおいしい」も
「バイアスがかか」っているようにおもう。
おおくのひとが、外でたべたり、おおぜいでたべたりして、
いつもよりも おいしかった経験があるのかもしれないけど、
おいしいにきまっている、みたいに
きめつけられるのは すきではない。
さらにいえば、魚の新鮮さに価値をおくのも、程度問題ではないか。
テレビをみていると、とりたての魚をありがたがって
あまいだの、コリコリしているだのいっているけど、
魚が新鮮なのと、新鮮でうまいというのは、またべつのはなしだ。
とりたての魚より、つってから なんにちかたったほうがうまみがでる、
という説もあるようだから、とりたて・つりたての魚はおいしい、
というのは、 おもいこみにすぎないかもしれない。
空腹は最高のコック、みたいなはなしがある。
どんなに食材に気をくばり、料理法を工夫しても、
おなかがすいていなければ、おいしくたべられないというものだ。
でも、お腹がすいていさえすれば、なんでもおいしい、
というのも、いいすぎだとおもう。
教訓めいていて、いかにも親や大人がよろこびそうだ。
おいしくないものは、いくらお腹がへっていても
おいしくないとわたしはおもう。
アウトドアブームで、キャンプにでかけても、
いろいろこった料理をするひともいるようだ。
ヒロシさんみたいに、キャンプ場へいくとちゅうのスーパーで、
土地の食材をかう、くらいならいいけど、
おおげさな料理道具をもちこむのは、わたしの趣味にあわない。
外でおいしいものをたべよう、というのが そもそも気にいらない。
もっと質素で、ビンボーな食事をめざしたいものだ。
火をおこし、あたたかい料理をたべられたら、
それだけでもうごちそうだ。食後にコーヒーがつけばいうことない。
けっきょくわたしがやりたいのは、
西部劇にでてくるキャンプかもしれない。
ブリキの皿によそった豆料理をまずそうにたべ、
おわったら砂でさっとこすってよごれをおとす、
というのがあこがれの食事風景だ。
2021年07月03日
『老いる意味』(森村誠一)老いるとは、どういうことなのだろう
『老いる意味』
(森村誠一・中公新書ラクレ)
老いるとはどういうことなのだろう。
断片的には情報がはいってくるものの、
老いを体験しつつあるひとりの老人として、
森村さんが自分の状況をかたってくれるのはありがたい。
わたしはもうすぐ60歳となり、
年をとったと自虐的にいうものの、さほど実感がともなわない。
わすれものはおおくなったし、
およぐタイムはだんだんとおそくなっているけど、
それでもまだ決定的に老いをダメおしされた気はしない。
年をとるとは、どういうことなのだろう。
これからのわたしに、なにがやってくるのだろう。
なにか参考になればと本書をひらいた。
森村さんは、老人性うつ病に3年間くるしんでいる。
食欲がなくなり、まわりの景色が色をうしない、
作家なのによごれきったことばしかかけなくなる。
認知症の症状もでて、腰痛にもなやまされ、
それでもいつかはたちなおれることをしんじて
いちにち いちにちを生きていく。
こういう情報が、わたしはしりたかった。
いつかわたしがどんよりとした朝をむかえたとき、
これが老人性うつというやつか、と
自分で診断がつけば、うろたえずにすむだろう。
いちど最低なときを経験した森村さんは、
仕事への意欲はもちつづけたものの、
あまりおおくをのぞまず、
ほどほどのところで生きていければいいと
達観したようにみえる。
病気にかかっても、病気といっしょに生きていけばいい。
第4章からは、老いをむかえるにあたり、
具体的なアドバイスがかかれている。
・「昼寝」の効用は大きい
・誰でも「一日三食」がいいとは限らない
・「量より質」で、おいしいものを求め続ける
めあたらしい項目はとくになく、
あたりまえのことがかかれているのすぎない。
老いとは、特別なことではなく、
だれにでもくるあたりまえの変化なのがわかる。
わたしが「老い」にイメージしているのは、
からだがおもうようにうごかなくなり、
社会とのかかわりがうすれる 孤独な老人だ。
わたしがそんな老いをむかえても、ひととのかかわりを、
あまりのぞまずに生きてきたツケだから、
いまさらどうしようもない。
こわいのは、病気やケガだだけど、
これもまた心配してもしょうがない。
老いをむかえる準備として、
なにかこころがまえができるかとおもったけど、
じっさいに自分が老いてみないと 切実な問題としてよめない。
けっきょく、これまで生きてきたようにしか
老いをむかえられないのだろう。
(森村誠一・中公新書ラクレ)
老いるとはどういうことなのだろう。
断片的には情報がはいってくるものの、
老いを体験しつつあるひとりの老人として、
森村さんが自分の状況をかたってくれるのはありがたい。
わたしはもうすぐ60歳となり、
年をとったと自虐的にいうものの、さほど実感がともなわない。
わすれものはおおくなったし、
およぐタイムはだんだんとおそくなっているけど、
それでもまだ決定的に老いをダメおしされた気はしない。
年をとるとは、どういうことなのだろう。
これからのわたしに、なにがやってくるのだろう。
なにか参考になればと本書をひらいた。
森村さんは、老人性うつ病に3年間くるしんでいる。
食欲がなくなり、まわりの景色が色をうしない、
作家なのによごれきったことばしかかけなくなる。
認知症の症状もでて、腰痛にもなやまされ、
それでもいつかはたちなおれることをしんじて
いちにち いちにちを生きていく。
こういう情報が、わたしはしりたかった。
いつかわたしがどんよりとした朝をむかえたとき、
これが老人性うつというやつか、と
自分で診断がつけば、うろたえずにすむだろう。
いちど最低なときを経験した森村さんは、
仕事への意欲はもちつづけたものの、
あまりおおくをのぞまず、
ほどほどのところで生きていければいいと
達観したようにみえる。
病気にかかっても、病気といっしょに生きていけばいい。
第4章からは、老いをむかえるにあたり、
具体的なアドバイスがかかれている。
・「昼寝」の効用は大きい
・誰でも「一日三食」がいいとは限らない
・「量より質」で、おいしいものを求め続ける
めあたらしい項目はとくになく、
あたりまえのことがかかれているのすぎない。
老いとは、特別なことではなく、
だれにでもくるあたりまえの変化なのがわかる。
わたしが「老い」にイメージしているのは、
からだがおもうようにうごかなくなり、
社会とのかかわりがうすれる 孤独な老人だ。
わたしがそんな老いをむかえても、ひととのかかわりを、
あまりのぞまずに生きてきたツケだから、
いまさらどうしようもない。
こわいのは、病気やケガだだけど、
これもまた心配してもしょうがない。
老いをむかえる準備として、
なにかこころがまえができるかとおもったけど、
じっさいに自分が老いてみないと 切実な問題としてよめない。
けっきょく、これまで生きてきたようにしか
老いをむかえられないのだろう。
2021年07月02日
ドリトル先生と肉食はなじみにくい
朝日新聞では、福岡伸一さんによる
「新・ドリトル先生物語」を連載しており、
いまは気球にのってガラパゴス諸島をめざす、
というところにさしかかっている。
順調に航海をすすめていると、カツオドリのむれがやってきて、
ドリトル先生一行に、魚をプレゼントしてくれる。
福岡さんだって、承知しながらかいているのだろうけど、
ドリトル先生と肉食はなじまないような気がする。
鳥や哺乳類とはことばをとおしてコミュニケーションをとるのに、
ドリトル先生にとって魚は、食欲の対象でしかないのだろうか。
ドリトル先生は、食料としてゴンドラにほし肉をつみこんでいるから、
ほんとは哺乳類だってたべているのだけど、
そこらへんはおもてだって問題とはされていない。
ほし肉だと、ステーキとちがい
あまりなまなましさをかんじないけど、
いっしょに活動している仲間のブタは、
内心どうおもっているだろうか。
そして、きょうカツオドリたちからプレゼントされた
とりたての魚は、なにしろ生きているのだから、
ドリトル先生の倫理コードが
どうなんているのかわからなくなってきた。
鳥や哺乳類は仲間だけど、魚はそこまでではない、
という暗黙のルールがあるのだろうか。
それにしても、ラビスがいった
「獲物はみな、もう頭を叩いて気絶させてあります」は、
どぎついひとことだ。
ドリトル先生を敬愛している魚がいなければいいけど。
朝日新聞の話題をつづけると、7月から数独の問題を、
火曜日から金曜日まで 紙面にのせるようになった。
これまでは土曜日版beだけだったのが、
そのうえに、週4回ふえることになる。
初日のきのうは、難易度のひくい問題だったので、
ひさしぶりにとりくんでみた。
数独は、なんねんかまえ、雑誌をかうほど
夢中になっていた時期もある。
でも、いまはもう問題をとくコツを すっかりわすれてしまった。
30分ほどかけ、かなりのマスがうまったところで、
自分のまちがいに気づき、そこであきらめた。
数独は、できたときはうれしいけど、
だめだったときはかなりがっかりする。
朝日新聞では、もうひとつの連載、
池澤夏樹さんによる『また会う日まで』をたのしみにしている。
たいくつな部分はとばしてよむ、けしていい読者ではないけど、
戦前の日本社会をしるよいテキストだ。
組織のありかたは、現代日本とかわらないところもおおく、
日本はずいぶんまえから いまの形にできあがっていたことがわかる。
根気づよく大量の資料をあつめ、よみこんでいった
池澤夏樹さんの仕事ぶりがすばらしい。
新聞ばなれがいわれるなかで、
わたしは朝日新聞にすっかりなじみ、
もうほかの新聞にはうつれそうにない。
いしいひさいちさんの「ののちゃん」だってあるし、
金曜日には隔週で伊藤理佐さんのコラムものる。
土曜日版beにも、すっかり愛着がわいてきた。
朝ごはんをたべながらながめる朝日新聞は、
わたしにかかせない日常となっている。
自分の生活スタイルにしがみつくのは、
それだけ年をとったということなのだろう。
「新・ドリトル先生物語」を連載しており、
いまは気球にのってガラパゴス諸島をめざす、
というところにさしかかっている。
順調に航海をすすめていると、カツオドリのむれがやってきて、
ドリトル先生一行に、魚をプレゼントしてくれる。
そのうち、海におりていったカツオドリたちが次々とゴンドラに戻ってきました。なんとカツオドリたちはくちばしにそれぞれプレゼントをくわえていました。それはイカ、タコ、エビ、それからトビウオといった海の幸でした。カツオドリたちはほんとうに優秀な漁師です。
ドリトル先生は荷物から網カゴを出して、そのプレゼントを受け取りました。
カツオドリのラビスは言いました。(中略)
「獲物はみな、もう頭を叩いて気絶させてありますので、カゴから飛び出す心配もありませんよ」
福岡さんだって、承知しながらかいているのだろうけど、
ドリトル先生と肉食はなじまないような気がする。
鳥や哺乳類とはことばをとおしてコミュニケーションをとるのに、
ドリトル先生にとって魚は、食欲の対象でしかないのだろうか。
ドリトル先生は、食料としてゴンドラにほし肉をつみこんでいるから、
ほんとは哺乳類だってたべているのだけど、
そこらへんはおもてだって問題とはされていない。
ほし肉だと、ステーキとちがい
あまりなまなましさをかんじないけど、
いっしょに活動している仲間のブタは、
内心どうおもっているだろうか。
そして、きょうカツオドリたちからプレゼントされた
とりたての魚は、なにしろ生きているのだから、
ドリトル先生の倫理コードが
どうなんているのかわからなくなってきた。
鳥や哺乳類は仲間だけど、魚はそこまでではない、
という暗黙のルールがあるのだろうか。
それにしても、ラビスがいった
「獲物はみな、もう頭を叩いて気絶させてあります」は、
どぎついひとことだ。
ドリトル先生を敬愛している魚がいなければいいけど。
朝日新聞の話題をつづけると、7月から数独の問題を、
火曜日から金曜日まで 紙面にのせるようになった。
これまでは土曜日版beだけだったのが、
そのうえに、週4回ふえることになる。
初日のきのうは、難易度のひくい問題だったので、
ひさしぶりにとりくんでみた。
数独は、なんねんかまえ、雑誌をかうほど
夢中になっていた時期もある。
でも、いまはもう問題をとくコツを すっかりわすれてしまった。
30分ほどかけ、かなりのマスがうまったところで、
自分のまちがいに気づき、そこであきらめた。
数独は、できたときはうれしいけど、
だめだったときはかなりがっかりする。
朝日新聞では、もうひとつの連載、
池澤夏樹さんによる『また会う日まで』をたのしみにしている。
たいくつな部分はとばしてよむ、けしていい読者ではないけど、
戦前の日本社会をしるよいテキストだ。
組織のありかたは、現代日本とかわらないところもおおく、
日本はずいぶんまえから いまの形にできあがっていたことがわかる。
根気づよく大量の資料をあつめ、よみこんでいった
池澤夏樹さんの仕事ぶりがすばらしい。
新聞ばなれがいわれるなかで、
わたしは朝日新聞にすっかりなじみ、
もうほかの新聞にはうつれそうにない。
いしいひさいちさんの「ののちゃん」だってあるし、
金曜日には隔週で伊藤理佐さんのコラムものる。
土曜日版beにも、すっかり愛着がわいてきた。
朝ごはんをたべながらながめる朝日新聞は、
わたしにかかせない日常となっている。
自分の生活スタイルにしがみつくのは、
それだけ年をとったということなのだろう。
2021年07月01日
ブログをかきはじめてもうすぐ10年
きょうから7月にはいった。
いちねんの半分がおわったわけで、ふるい職員がそういうと、
わかいひとは、いったいこのひとはなにをいいだすんだ、
みたいに ぜんぜん共感してもらえない。
わかいひとにとって、いちねんはたしかに12ヶ月なので、
半分すぎたのは事実だけど、とても
「あと半分しかない」という気にはならないようだ。
年よりは、いちねんの半分がおわると、
もうことしがおわりにちかづいたような、せわしい気分になる。
ブログを10年つづけてかこうとしている。
2011年の9月4日にはじめたブログなので、
もうすぐその10年に あと2ヶ月とせまってきた。
はじめて5年くらいのときは、10年連続は現実味がなかったけど、
のこりあと1年となってからは、するするっとちかづいてきた。
あと2ヶ月ということは、あと1/60をのこすのみ、ということで、
ここまでくれば よほどのことがなければすんなり達成できそうだ。
なんどかかいたことだけど、ブログを10年つづけたからといって、
なにがどうなるわけではなく、ただのひとりずもうにすぎない。
まえはもうすこし内容にこだわったような気がするけど、
このごろは、ネタがないときは
くるしまぎれに日記みたいなことをかいてごまかしている。
でもまあ、10年つづけて、という事実にはかわりないので、
ぶじに達成できたら、ひそかにおいわいしようとおもっている。
わかいころの10年は、たとえば20歳から30歳までの10年は、
仕事や家庭で いろんなことがありすぎて、
なにかをまいにちつづけるのはむつかしいだろう。
半年すぎただけで、「いちねんは、もうあと半分しかない」
なんて、年よりみたいに調子のいいことはかんがえられない。
わたしがブログをかきはじめたのは、50歳のときで、
これくらい年をとってくると、自分の時間がとりやすいし、
生活にあまり波・風がたたない。
酒をのまなくなってから、1ヶ月がすぎた。
なんとなくはじめた禁酒なので、
なにがなんでも我慢しつづけようとはおもわない。
ちかい将来、ふらふらと またのみはじめるだろう。
いまは、ふたたび酒をのみはじめたときがたのしみだ。
そういえば、ブログもなんとなくかきはじめた。
かいてみると 意外とまいにちかくことがあり、
それでも100日つづけてかいたときは、感慨ぶかかった。
ただ、そのうち海外旅行へいくつもりだったので、
そのときはさすがにブログどころではないとおもっていた。
10月になり、カンボジアとベトナムへいってみると、
ちいさな喫茶店でさえwi-fi環境がととのっており、
旅行ちゅうでも、ネットをみるのに、なんのさしさわりもない。
日本を旅行するほうが、ずっとwi-fiには苦労するだろう。
外国旅行へいっても ブログをつづけたのだからと、
そのあともズルズル、どうでもいいことをのらりくらりかいている。
10年つづけてのブログは、たいして達成感はなく、
なんとなくゴールをむかえそうだ。
なんとなくはじめるのが、つづけるコツかもしれない。
いちねんの半分がおわったわけで、ふるい職員がそういうと、
わかいひとは、いったいこのひとはなにをいいだすんだ、
みたいに ぜんぜん共感してもらえない。
わかいひとにとって、いちねんはたしかに12ヶ月なので、
半分すぎたのは事実だけど、とても
「あと半分しかない」という気にはならないようだ。
年よりは、いちねんの半分がおわると、
もうことしがおわりにちかづいたような、せわしい気分になる。
ブログを10年つづけてかこうとしている。
2011年の9月4日にはじめたブログなので、
もうすぐその10年に あと2ヶ月とせまってきた。
はじめて5年くらいのときは、10年連続は現実味がなかったけど、
のこりあと1年となってからは、するするっとちかづいてきた。
あと2ヶ月ということは、あと1/60をのこすのみ、ということで、
ここまでくれば よほどのことがなければすんなり達成できそうだ。
なんどかかいたことだけど、ブログを10年つづけたからといって、
なにがどうなるわけではなく、ただのひとりずもうにすぎない。
まえはもうすこし内容にこだわったような気がするけど、
このごろは、ネタがないときは
くるしまぎれに日記みたいなことをかいてごまかしている。
でもまあ、10年つづけて、という事実にはかわりないので、
ぶじに達成できたら、ひそかにおいわいしようとおもっている。
わかいころの10年は、たとえば20歳から30歳までの10年は、
仕事や家庭で いろんなことがありすぎて、
なにかをまいにちつづけるのはむつかしいだろう。
半年すぎただけで、「いちねんは、もうあと半分しかない」
なんて、年よりみたいに調子のいいことはかんがえられない。
わたしがブログをかきはじめたのは、50歳のときで、
これくらい年をとってくると、自分の時間がとりやすいし、
生活にあまり波・風がたたない。
酒をのまなくなってから、1ヶ月がすぎた。
なんとなくはじめた禁酒なので、
なにがなんでも我慢しつづけようとはおもわない。
ちかい将来、ふらふらと またのみはじめるだろう。
いまは、ふたたび酒をのみはじめたときがたのしみだ。
そういえば、ブログもなんとなくかきはじめた。
かいてみると 意外とまいにちかくことがあり、
それでも100日つづけてかいたときは、感慨ぶかかった。
ただ、そのうち海外旅行へいくつもりだったので、
そのときはさすがにブログどころではないとおもっていた。
10月になり、カンボジアとベトナムへいってみると、
ちいさな喫茶店でさえwi-fi環境がととのっており、
旅行ちゅうでも、ネットをみるのに、なんのさしさわりもない。
日本を旅行するほうが、ずっとwi-fiには苦労するだろう。
外国旅行へいっても ブログをつづけたのだからと、
そのあともズルズル、どうでもいいことをのらりくらりかいている。
10年つづけてのブログは、たいして達成感はなく、
なんとなくゴールをむかえそうだ。
なんとなくはじめるのが、つづけるコツかもしれない。