「新・ドリトル先生物語」を連載しており、
いまは気球にのってガラパゴス諸島をめざす、
というところにさしかかっている。
順調に航海をすすめていると、カツオドリのむれがやってきて、
ドリトル先生一行に、魚をプレゼントしてくれる。
そのうち、海におりていったカツオドリたちが次々とゴンドラに戻ってきました。なんとカツオドリたちはくちばしにそれぞれプレゼントをくわえていました。それはイカ、タコ、エビ、それからトビウオといった海の幸でした。カツオドリたちはほんとうに優秀な漁師です。
ドリトル先生は荷物から網カゴを出して、そのプレゼントを受け取りました。
カツオドリのラビスは言いました。(中略)
「獲物はみな、もう頭を叩いて気絶させてありますので、カゴから飛び出す心配もありませんよ」
福岡さんだって、承知しながらかいているのだろうけど、
ドリトル先生と肉食はなじまないような気がする。
鳥や哺乳類とはことばをとおしてコミュニケーションをとるのに、
ドリトル先生にとって魚は、食欲の対象でしかないのだろうか。
ドリトル先生は、食料としてゴンドラにほし肉をつみこんでいるから、
ほんとは哺乳類だってたべているのだけど、
そこらへんはおもてだって問題とはされていない。
ほし肉だと、ステーキとちがい
あまりなまなましさをかんじないけど、
いっしょに活動している仲間のブタは、
内心どうおもっているだろうか。
そして、きょうカツオドリたちからプレゼントされた
とりたての魚は、なにしろ生きているのだから、
ドリトル先生の倫理コードが
どうなんているのかわからなくなってきた。
鳥や哺乳類は仲間だけど、魚はそこまでではない、
という暗黙のルールがあるのだろうか。
それにしても、ラビスがいった
「獲物はみな、もう頭を叩いて気絶させてあります」は、
どぎついひとことだ。
ドリトル先生を敬愛している魚がいなければいいけど。
朝日新聞の話題をつづけると、7月から数独の問題を、
火曜日から金曜日まで 紙面にのせるようになった。
これまでは土曜日版beだけだったのが、
そのうえに、週4回ふえることになる。
初日のきのうは、難易度のひくい問題だったので、
ひさしぶりにとりくんでみた。
数独は、なんねんかまえ、雑誌をかうほど
夢中になっていた時期もある。
でも、いまはもう問題をとくコツを すっかりわすれてしまった。
30分ほどかけ、かなりのマスがうまったところで、
自分のまちがいに気づき、そこであきらめた。
数独は、できたときはうれしいけど、
だめだったときはかなりがっかりする。
朝日新聞では、もうひとつの連載、
池澤夏樹さんによる『また会う日まで』をたのしみにしている。
たいくつな部分はとばしてよむ、けしていい読者ではないけど、
戦前の日本社会をしるよいテキストだ。
組織のありかたは、現代日本とかわらないところもおおく、
日本はずいぶんまえから いまの形にできあがっていたことがわかる。
根気づよく大量の資料をあつめ、よみこんでいった
池澤夏樹さんの仕事ぶりがすばらしい。
新聞ばなれがいわれるなかで、
わたしは朝日新聞にすっかりなじみ、
もうほかの新聞にはうつれそうにない。
いしいひさいちさんの「ののちゃん」だってあるし、
金曜日には隔週で伊藤理佐さんのコラムものる。
土曜日版beにも、すっかり愛着がわいてきた。
朝ごはんをたべながらながめる朝日新聞は、
わたしにかかせない日常となっている。
自分の生活スタイルにしがみつくのは、
それだけ年をとったということなのだろう。