ネパールのポカラにあるゲストハウス
「スルジェハウス」にとまっていたときのこと。
わたしはアウトドア用品にうとく、寝袋なしで旅行していた。
おなじ部屋にいたひと(スルジェにとまるのは、ほとんどが日本人)が
べつの町へ移動する朝、ベッドにひろげてあった寝袋を、
てきとうなやり方で袋につめこんでいる。
袋といっても、靴をいれる程度のおおきさしかない。
そんな袋に、おおきな寝袋がはいるわけないじゃん、
とおもってみていたら、あれよあれよという間に
袋のなかへと おさまってしまった。
あとでしりあいに そのときのことをはなすと、
羽毛でできた寝袋だったのだろう、とおしえてくれた。
高級なダウンは、おどろくほどコンパクトにまとまるそうだ。
あまりにもちいさな袋におさまってしまったので、
わたしは手品をみたときのように、ただおどろいてしまった。
部屋にいたなんにんかの旅行者で 寝袋が話題となり、
あるひとが、べつにいやみではなく、自分の体験として、
「でも寝袋はあったかくないと意味がないよね」
と、さらっといった。
どんなにかるくてコンパクトでも、あったかくない寝袋は、
寝袋としての用をはたさない、という意味だ。
もちろん夏用の寝袋もあり、季節により、
いろいろなつかい方があるのだろうけど、
夏の寝袋は、べつに寝袋である必要はなく、
寝袋カバーやシーツでも用がたりる。
寝袋が、ほんとうになくてはならないのは、
さむくてねむれない冬や秋だけだ。
わたしはそれほどシビアな旅をした経験がなかったけど、
「寝袋はあったかくないと意味がない」
のひとことは、機能を重視したとらえ方として
わたしの胸にふかくささった。
こういう本質論がわたしはすきで、
たとえば服はいくらかっこよくても、
あたたかくなければ意味がないし、
カバンは量がはいらなければつかえないとおもう。
たべものだって、おいしさよりも、
腹もちでえらんでいるところがある。
自動車は、ちいさくて、物があるていどつめたらじゅうぶんで、
おおきな排気量や、外国産の車に興味はない。
わたしの価値観、というかものごとの優先順位は、
いつだって機能重視だ。
こんなわたしだから、ファッションには当然うとい。
自分のことだけならまだしも、髪がながい女のひとをみると、
あらったり、かわかしたりがめんどくさいだろうに、と
よけいな感想がどうしてもわいてくる。
デザイン重視のちいさなカバンは、
もしかしたらたかいブランドものかもしれないけど、
量がはいらないのにおつかれさま、とおもう。
機能的でないものにたいし、ひどくつめたい目をむけがちだ。
お金よりも、ものに価値をおくのは、
おさないころによんだ『ロビンソン漂流記』の影響だろう。
いくらお金をたくさんもっていても、
灯油の一斗缶や、コメ一俵がもつ 説得力のまえでは影がかすむ。
お金ではさむさや空腹はいやせないけど(貨幣経済に背をむける男)
お米さえあれば、とりあえずお腹いっぱいたべられる。
世間はキャッシュレスへとかわりつつあるけど、
ほんとうに大切なのは、お金ではなく ものなのだとしんじている。
2021年08月31日
2021年08月30日
『モゴール族探検記』(梅棹忠夫)アフガニスタンを舞台に、66年まえにおこなわれた探検の記録
『モゴール族探検記』(梅棹忠夫・岩波新書)
アフガニスタン全土がタリバーンの支配におかれ、
事実上ひとつの国が崩壊した。
20年にわたるアメリカの介入はいったいなにをもたらしたのか。
アメリカ軍がずっとアフガニスタンにのこっても
うまくいくみこみはなかったとはいえ、
タリバーンがこれから民主的に国をおさめるとはかんがえにくい。
こんなにもあっけなくひとつの国がガタガタになってしまうとは。
アフガニスタンというと、
梅棹忠夫さんの『モゴール族探検記』があたまにうかぶ。
1955年におこなわれた探検で、梅棹さんたちの一行は、
アフガニスタンにあるちいさな村にとどまり、
モゴール語をはなす一族をさがそうとする。
モンゴルからとおくはなれたアフガニスタンに、
なぜモゴール語(モンゴル語)をはなすひとがいるのか。
地理的な探検のおもしろさとともに、
うしなわれつつあるモンゴル語をさがすという
民族学的な調査のようすが全編にえがかれている。
はじめてこの本をよんだときは、正直なところ、
いったいなにがかいてあるのか よくわからなかった。
なぜとおい国へでかけ、ふるいことばを採取したいのか。
北極点をめざすとか、地理的な空白地の探検とかではなく、
はじめてよむ学術探検であり、10代のわたしは
なんのことかピンとこないまま、ななめに「よんだ」。
この本のおもしろさがわかってきたのは、
はじめて手にしてから、10年以上たってのことだ。
本についている地図をたよりに 本文をよんでいくと、
探検隊がとおった道がよくわるとともに、
いま新聞やニュースで名前がでてくる地名も目にはいってくる。
本書のなかにはふれられていないけれど、
探検をおえてからカーブル(ママ)へもどるとちゅう、
梅棹さんはバーミヤンの遺跡もたずねている。
アフガニスタンは民族学的な宝庫なのだとある。
この探検は、アフガニスタンが平和だった時期に、
奇跡的に実行された探検といっていいだろう。
『モゴール族探検記』(岩波新書)は、
第1刷が1956年に出版されている。
もう65年もまえにだされた本だ。
わたしがもっている本は、1975年の12月20日に、
第25刷として発行されたものだ。230円としるされている。
もうなんどもよみかえしているし、古本でかったものだから、
いまではページがほつれ、よみづらくなっているので、
この記事をかくのをきっかけに、アマゾンで注文した。
アフガニスタンが注目されているいまだから、
この本にもふたたび関心があつまればいいのに。
「村の将来」と題して、梅棹さんは下記のようにのべている。
歴史は、おおむね梅棹さんの予想どおりにすすみ、
アフガニスタンでくらすおおくのひとたちが、
混乱のなかでたちすくんでいる。
若干36歳の青年が、これだけ成熟した文章を記録したことに、
わたしはよむたびにおどろかされる。
アフガニスタン全土がタリバーンの支配におかれ、
事実上ひとつの国が崩壊した。
20年にわたるアメリカの介入はいったいなにをもたらしたのか。
アメリカ軍がずっとアフガニスタンにのこっても
うまくいくみこみはなかったとはいえ、
タリバーンがこれから民主的に国をおさめるとはかんがえにくい。
こんなにもあっけなくひとつの国がガタガタになってしまうとは。
アフガニスタンというと、
梅棹忠夫さんの『モゴール族探検記』があたまにうかぶ。
1955年におこなわれた探検で、梅棹さんたちの一行は、
アフガニスタンにあるちいさな村にとどまり、
モゴール語をはなす一族をさがそうとする。
モンゴルからとおくはなれたアフガニスタンに、
なぜモゴール語(モンゴル語)をはなすひとがいるのか。
地理的な探検のおもしろさとともに、
うしなわれつつあるモンゴル語をさがすという
民族学的な調査のようすが全編にえがかれている。
はじめてこの本をよんだときは、正直なところ、
いったいなにがかいてあるのか よくわからなかった。
なぜとおい国へでかけ、ふるいことばを採取したいのか。
北極点をめざすとか、地理的な空白地の探検とかではなく、
はじめてよむ学術探検であり、10代のわたしは
なんのことかピンとこないまま、ななめに「よんだ」。
この本のおもしろさがわかってきたのは、
はじめて手にしてから、10年以上たってのことだ。
本についている地図をたよりに 本文をよんでいくと、
探検隊がとおった道がよくわるとともに、
いま新聞やニュースで名前がでてくる地名も目にはいってくる。
本書のなかにはふれられていないけれど、
探検をおえてからカーブル(ママ)へもどるとちゅう、
梅棹さんはバーミヤンの遺跡もたずねている。
アフガニスタンは民族学的な宝庫なのだとある。
この探検は、アフガニスタンが平和だった時期に、
奇跡的に実行された探検といっていいだろう。
『モゴール族探検記』(岩波新書)は、
第1刷が1956年に出版されている。
もう65年もまえにだされた本だ。
わたしがもっている本は、1975年の12月20日に、
第25刷として発行されたものだ。230円としるされている。
もうなんどもよみかえしているし、古本でかったものだから、
いまではページがほつれ、よみづらくなっているので、
この記事をかくのをきっかけに、アマゾンで注文した。
アフガニスタンが注目されているいまだから、
この本にもふたたび関心があつまればいいのに。
「村の将来」と題して、梅棹さんは下記のようにのべている。
ほんとうをいうと、こういう問題を、問題としてとりあげるのは、まだちょっと早すぎるだろう。現在はまだ、アジアは国家的独立の時期であって、一国の中の諸民族、あるいは諸部族間の調整が問題になる時期には来ていない。しかし、大ていにおいてアジア諸国は民族国家ではない。ほとんどが複合民族国家である。それを構成する各民族の相互関係は、これからどうなってゆくのだろう。その調節が、つぎの時代のアジア史の課題になるのではないかと、わたしは考えている。(中略)
世界はいろいろに変転するだろうが、ジルニー(梅棹さんが調査で滞在した村)はなかなか変わるまい。十年たっても二十年たっても、サンギ・マザールの連峰のふもとで、モゴールの農民たちは、かさかさの土を、そまつな農具で引っかきまわしているだろう。しかし、だんだんと部族間の交渉は深刻になってくるかもしれない。有能な村の指導者が、村をあやまちなくみちびいてゆくことを、わたしたちは祈っている。
歴史は、おおむね梅棹さんの予想どおりにすすみ、
アフガニスタンでくらすおおくのひとたちが、
混乱のなかでたちすくんでいる。
若干36歳の青年が、これだけ成熟した文章を記録したことに、
わたしはよむたびにおどろかされる。
2021年08月29日
斎藤幸平さんと柴咲コウさんによる ふつうのおしゃべりがいいかんじ
『人新生の「資本論」』をかいた斎藤幸平さんが、
俳優の柴咲コウさんと対談する番組をみた。
斎藤さんは、柴咲さんの仕事ぶりを、かねてから注目していたといい、
対談のあいてとして おねがいしたらしい。
はなしのなかで、斎藤さんが
アメリカへ留学していたころの写真が紹介された。
ロックにのめりこんでいた18歳ころなのだそうで、
いかにもパンクロックなわかものがそこにうつっている。
斎藤さん本人だとは、とてもおもえない。
『人新生の「資本論」』をよむと、このまま資本主義をつづけては
地球がだめになる、とおもえてくるけど、
それをふせぐためには、「私」をかなりおさえないといけないようだ。
総論としては賛成だけど、実践となると、
わたしはどれだけのことをやる覚悟があるだろう。
ただ、番組での斎藤さんからは、いい印象をうける。
いいのがれできそうにない、えらそうなひとから、論理的に
「私」をおさえよう、といわれても、なかなか実行できない。
でも、むかしパンクだったわかものなら、すこし事情がかわり、
なんだかしんじられそうな気がする。
斎藤さんのふつうっぽさが いいかんじだ。
『人新生の「資本論」』をよんでから、気候変動の問題が、
テレビや新聞でとりあげられるに 気づくようになった。
ことしもまた世界的に異常気象で、
イタリアやギリシャを熱波がおそい、
ドイツでは大雨による被害が問題となった。
日本だって、猛暑と梅雨前線という、
ありえない2つの現象が、どうじにおきている。
気温がたった1℃あがっただけでも、
これまでの数倍も 異常気象がひきおこされる。
新型コロナウイルスだって、ふえすぎた人間を
ウイルスがターゲットにしたものだと解釈できる。
アクセルから足をはなし、おもいっきりブレーキをふまなければ、
おおきな壁への衝突がすぐそこまできている。
あの本をよんで、おおきなショックだったのはまちがいないのに、
わたしは、あいかわらず具体的なうごきがとれていない。
ただ、サランラップのつかい方とか、
自動車や飛行機による移動へのためらいとか、
本をよんだときのショックが、ボディブローとして、
じわじわきいてくるのをかんじている。
定年とあわせ、自分のいきかたを かんがえるときのようだ。
俳優の柴咲コウさんと対談する番組をみた。
斎藤さんは、柴咲さんの仕事ぶりを、かねてから注目していたといい、
対談のあいてとして おねがいしたらしい。
はなしのなかで、斎藤さんが
アメリカへ留学していたころの写真が紹介された。
ロックにのめりこんでいた18歳ころなのだそうで、
いかにもパンクロックなわかものがそこにうつっている。
斎藤さん本人だとは、とてもおもえない。
『人新生の「資本論」』をよむと、このまま資本主義をつづけては
地球がだめになる、とおもえてくるけど、
それをふせぐためには、「私」をかなりおさえないといけないようだ。
総論としては賛成だけど、実践となると、
わたしはどれだけのことをやる覚悟があるだろう。
ただ、番組での斎藤さんからは、いい印象をうける。
いいのがれできそうにない、えらそうなひとから、論理的に
「私」をおさえよう、といわれても、なかなか実行できない。
でも、むかしパンクだったわかものなら、すこし事情がかわり、
なんだかしんじられそうな気がする。
斎藤さんのふつうっぽさが いいかんじだ。
『人新生の「資本論」』をよんでから、気候変動の問題が、
テレビや新聞でとりあげられるに 気づくようになった。
ことしもまた世界的に異常気象で、
イタリアやギリシャを熱波がおそい、
ドイツでは大雨による被害が問題となった。
日本だって、猛暑と梅雨前線という、
ありえない2つの現象が、どうじにおきている。
気温がたった1℃あがっただけでも、
これまでの数倍も 異常気象がひきおこされる。
新型コロナウイルスだって、ふえすぎた人間を
ウイルスがターゲットにしたものだと解釈できる。
アクセルから足をはなし、おもいっきりブレーキをふまなければ、
おおきな壁への衝突がすぐそこまできている。
あの本をよんで、おおきなショックだったのはまちがいないのに、
わたしは、あいかわらず具体的なうごきがとれていない。
ただ、サランラップのつかい方とか、
自動車や飛行機による移動へのためらいとか、
本をよんだときのショックが、ボディブローとして、
じわじわきいてくるのをかんじている。
定年とあわせ、自分のいきかたを かんがえるときのようだ。
2021年08月28日
「ぬか」の「なんでそんなんプロジェクト」がすばらしい
ひごろから交流のある7つの介護事業所があつまり、
実践報告会と講演会がひらかれた。
さくねんは、新型コロナウイルスの影響で中止となり、
2年ぶりの報告会となる。3つの事業所が
活動をつうじてかんじたことを発表する。
そのあとは、岡山県ではばひろい活動を展開する「ぬか」のようすを
代表の中野さんがおはなし してくださる。
http://nuca.jp/
コロナの感染がひろがっているなかなので、
Zoomによる講演会となった。
わたしは、なんねんかまえに、「ぬか」を見学している。
そのときも、ものすごく自由な活動におどろいたものだ。
その後も中野さんたちは、おもしろそうな企画をいくつもたちあげ、
ますます活発にうごいておられた。
そのひとつとして「なんでそんなんプロジェクト」がある。
意味がよくわからないことにたいし、
なんでそんなんやるの?と、いちいちつっこんでいく。
よくわからないものを排除するのではなく、
かといって、むりしてわかろうとするのではなく、
わからないままにたのしむプロジェクトだ。
「なんでそんなんやるの?」といいたくなることは、
現場にたくさんおちている。
芸術なのか、表現なのか、よくわからない。
たいせつなのは、それをおもしろいと気づくかどうかで、
職員には、おもしろさを発見する目がもとめられる。
そして、日々の発見・気づきを記録し、蓄積していくこと。
量があつまると、おもしろさがうまれる。
「なんでそんなんプロジェクト」には、
「なんでそんなん大賞」も用意されている。
世界じゅうのひとが、だれでも参加できる賞で、
国籍も年齢もとわない。
フランスの「アンデパンダン展」とよくにた精神だという。
中野さんのおはなしをきいていると、
「ぬか」のとりくみは、わたしがすきなwebサイト、
デイリーポータルZとよくにているのに気づく。
ふつうなら、意味がないときりすてられるような企画に、
おとなたちが正面からむきあっておもしろがる。
わたしたちの事業所は、すこしまじめすぎるのでは、とおもえてきた。
クッキーの仕事をしていると、どうしても衛生に気をつけたり、
生産数を確保したり、販売につとめたりと、
職員がでしゃばる場面がおおくなる。
わたしたちの事業所は、「なんでそんなんプロジェクト」を
たちあげるやわらかな精神があるだろうか。
「ぬか」は障害があるかどうかを あまり意識していない。
障害はあとづけされたもので、
そのひとの特質と関係ないかもしれない。
ひとりひとりの発言や行為じたいに
すぐれた資質がかくされているのであり、
障害があるから特殊だというのは おもいこみでしかない。
中野さんは、「ピンチはピンク」とかかれたTシャツをきておられた。
「ピンチはチャンス」なら だれにでもいえるけど、
「ピンチはピンク」はすごい。
このわけのわからなさを、おもしろがるところが「ぬか」なのだ。
実践報告会と講演会がひらかれた。
さくねんは、新型コロナウイルスの影響で中止となり、
2年ぶりの報告会となる。3つの事業所が
活動をつうじてかんじたことを発表する。
そのあとは、岡山県ではばひろい活動を展開する「ぬか」のようすを
代表の中野さんがおはなし してくださる。
http://nuca.jp/
コロナの感染がひろがっているなかなので、
Zoomによる講演会となった。
わたしは、なんねんかまえに、「ぬか」を見学している。
そのときも、ものすごく自由な活動におどろいたものだ。
その後も中野さんたちは、おもしろそうな企画をいくつもたちあげ、
ますます活発にうごいておられた。
そのひとつとして「なんでそんなんプロジェクト」がある。
意味がよくわからないことにたいし、
なんでそんなんやるの?と、いちいちつっこんでいく。
よくわからないものを排除するのではなく、
かといって、むりしてわかろうとするのではなく、
わからないままにたのしむプロジェクトだ。
「なんでそんなんやるの?」といいたくなることは、
現場にたくさんおちている。
芸術なのか、表現なのか、よくわからない。
たいせつなのは、それをおもしろいと気づくかどうかで、
職員には、おもしろさを発見する目がもとめられる。
そして、日々の発見・気づきを記録し、蓄積していくこと。
量があつまると、おもしろさがうまれる。
「なんでそんなんプロジェクト」には、
「なんでそんなん大賞」も用意されている。
世界じゅうのひとが、だれでも参加できる賞で、
国籍も年齢もとわない。
フランスの「アンデパンダン展」とよくにた精神だという。
中野さんのおはなしをきいていると、
「ぬか」のとりくみは、わたしがすきなwebサイト、
デイリーポータルZとよくにているのに気づく。
ふつうなら、意味がないときりすてられるような企画に、
おとなたちが正面からむきあっておもしろがる。
わたしたちの事業所は、すこしまじめすぎるのでは、とおもえてきた。
クッキーの仕事をしていると、どうしても衛生に気をつけたり、
生産数を確保したり、販売につとめたりと、
職員がでしゃばる場面がおおくなる。
わたしたちの事業所は、「なんでそんなんプロジェクト」を
たちあげるやわらかな精神があるだろうか。
「ぬか」は障害があるかどうかを あまり意識していない。
障害はあとづけされたもので、
そのひとの特質と関係ないかもしれない。
ひとりひとりの発言や行為じたいに
すぐれた資質がかくされているのであり、
障害があるから特殊だというのは おもいこみでしかない。
中野さんは、「ピンチはピンク」とかかれたTシャツをきておられた。
「ピンチはチャンス」なら だれにでもいえるけど、
「ピンチはピンク」はすごい。
このわけのわからなさを、おもしろがるところが「ぬか」なのだ。
2021年08月27日
3ヶ月後の治療が12月、におどろく
歯医者さんへ定期検診へ。
まえは1年にいちど、歯石をとってもらいに
歯医者さんにいく程度だったけど、
歯周病といわれてからは、3ヶ月ごとにかよっている。
そのつど歯茎の状態をしらべ、数値をタブレットにかきこみ、
前回の検診から どうかわったかを説明される。
そのあと歯石をとり、さいごに
男性の「先生」がチェックする、というながれだ。
いくらまじめに歯みがきをしても、
歯周病がいっこうによくならないので、
3ヶ月にいちどとはいえ、歯医者にいくのは気がおもい。
すこしずつ歯茎の状態がわるくなっているそうで、
親しらず歯が、ほかの歯にわるい影響をあたえるから、
はやくぬいたほうがいい、といつも先生にいわれる。
年をとれば、あるていど歯茎がおとろえるのは
しかたがないと、ひらきなおっていた。
老化にさからおうとすると、どこかにひずみがでる。
ジタバタせずに、親しらずはぬかず、
このままうやむやにすごせたら、とおもっている。
前回の治療のあと、歯茎がひきしまった気がする。
歯をみがいたとき、血がでることがなくなったし、
定期的に歯茎がはれて くるしむこともなくなった。
まじめに歯みがきをつづけた成果が、
ここにきて ようやくあらわれたのだろうか。
歯石をとると、歯をみがきやすくなり、
その結果として歯ぐきがしまってくるそうで、
まさにそんなかんじがしている。
わたしの実感を先生につたえると、
そうだとおもいます、いいサイクルになっているようです、
といわれた。
親しらず歯については、このままようすをみましょうと、
きょうは はじめてぬくはなしをされなかった。
しはらいのあと、3ヶ月後の予約をいれる。
11月の下旬かとおもっていたら、11月は予約でうまっているそうで、
12月3日はどうでしょう?といわれた。
次回の治療は、12月なのかとおどろく。
夏にしてはめずらしく雨もようの天気がつづいたあと、
またあつさがもどり、きょうはいつもの夏だった。
つぎに歯医者さんへいくときは、冬になっている、
というのが なんだかすごい。
夏から冬は、あっというまに季節がかわってしまう。
次回は、秋ではなく冬、というのが、きょうのおどろきだ。
まえは1年にいちど、歯石をとってもらいに
歯医者さんにいく程度だったけど、
歯周病といわれてからは、3ヶ月ごとにかよっている。
そのつど歯茎の状態をしらべ、数値をタブレットにかきこみ、
前回の検診から どうかわったかを説明される。
そのあと歯石をとり、さいごに
男性の「先生」がチェックする、というながれだ。
いくらまじめに歯みがきをしても、
歯周病がいっこうによくならないので、
3ヶ月にいちどとはいえ、歯医者にいくのは気がおもい。
すこしずつ歯茎の状態がわるくなっているそうで、
親しらず歯が、ほかの歯にわるい影響をあたえるから、
はやくぬいたほうがいい、といつも先生にいわれる。
年をとれば、あるていど歯茎がおとろえるのは
しかたがないと、ひらきなおっていた。
老化にさからおうとすると、どこかにひずみがでる。
ジタバタせずに、親しらずはぬかず、
このままうやむやにすごせたら、とおもっている。
前回の治療のあと、歯茎がひきしまった気がする。
歯をみがいたとき、血がでることがなくなったし、
定期的に歯茎がはれて くるしむこともなくなった。
まじめに歯みがきをつづけた成果が、
ここにきて ようやくあらわれたのだろうか。
歯石をとると、歯をみがきやすくなり、
その結果として歯ぐきがしまってくるそうで、
まさにそんなかんじがしている。
わたしの実感を先生につたえると、
そうだとおもいます、いいサイクルになっているようです、
といわれた。
親しらず歯については、このままようすをみましょうと、
きょうは はじめてぬくはなしをされなかった。
しはらいのあと、3ヶ月後の予約をいれる。
11月の下旬かとおもっていたら、11月は予約でうまっているそうで、
12月3日はどうでしょう?といわれた。
次回の治療は、12月なのかとおどろく。
夏にしてはめずらしく雨もようの天気がつづいたあと、
またあつさがもどり、きょうはいつもの夏だった。
つぎに歯医者さんへいくときは、冬になっている、
というのが なんだかすごい。
夏から冬は、あっというまに季節がかわってしまう。
次回は、秋ではなく冬、というのが、きょうのおどろきだ。
2021年08月26日
キングサイズのグラスでのむウイスキーがたのしみ
ブログをかきはじめたら、あんがいとぎれずにつづけられたので、
そのうち、10年間かきつづけのが目標になってきた。
まいばんシコシコと記事を更新し、ついにあと10日となった。
グレートレースなど、超長距離レースでは、
ウィニングランといって、最終日は はしる距離をみじかくして、
これまでのがんばりをたたえる日とするようだ。
ゴールテープまでを、達成感にひたりつつ、
いっしょにはしってきたランナーと、
健闘をたたえながらさいごの道をゆく。
ウィキペディアをみると、ウィニングランの本来の意味は、
ゴールした優勝者が、観客の声援にこたえるために、
ゆっくりスタンドをはしることらしい。
でもまあ、ゴールまでのあとすこしの距離だって、
ウィニングランとよんでもいいではないか。
100里の道をいくときは、99里をもってなかばとせよ、
なんておかたいことをいうようりも、
ちゃっかりいまのうちから
「おめでとう10年」企画をたのしむのも、
自分にあまいわたしらしくていい。
ブログ10年連続を おいわい日は、たまたま禁酒100日目にもあたる。
めったにない記念日として、ひさしぶりのお酒をたのしもうとおもう。
家にあるグラスは、形もおおきさも いまひとつなので、
お酒の解禁日にそなえて、
アマゾンでタンブラーとビールグラスを注文した。
おもいっきりおおきなタンブラーがほしかったので、
430ccのものをえらんだら、ほんとうに、
わらってしまうぐらいおおきい。
タンブラーはこうでなくっちゃ、というよい見本だ。
こんなおおきなグラスでつよい酒をのんでいたら、
あっという間に依存症になりそうだ。
わたしがすきなカーター=ブラウンの軽ハードボイルドでは、
主人公のアル=ウィーラー警部が
キングサイズのグラスを愛用している。
いきさきで「なにかのみものは?」とたずねられると、
「スコッチのオンザロック、ソーダをちょっぴりいれて」
と いつもこたえるのがすきだった。
自分の家でくつろぐとき、おおきなグラスにたっぷりいれたお酒、
そして音楽のセットは、なにものにもかえがたい。
映画をみていると、ばかでかいグラスに
ウィスキーをすこしだけそそぐ場面をよくみかける。
オンザロックでなくても、ストレートでたのしむのにも、
おおきなグラスは ゴージャスな雰囲気をつくってくれるだろう。
そのうち、10年間かきつづけのが目標になってきた。
まいばんシコシコと記事を更新し、ついにあと10日となった。
グレートレースなど、超長距離レースでは、
ウィニングランといって、最終日は はしる距離をみじかくして、
これまでのがんばりをたたえる日とするようだ。
ゴールテープまでを、達成感にひたりつつ、
いっしょにはしってきたランナーと、
健闘をたたえながらさいごの道をゆく。
ウィキペディアをみると、ウィニングランの本来の意味は、
ゴールした優勝者が、観客の声援にこたえるために、
ゆっくりスタンドをはしることらしい。
でもまあ、ゴールまでのあとすこしの距離だって、
ウィニングランとよんでもいいではないか。
100里の道をいくときは、99里をもってなかばとせよ、
なんておかたいことをいうようりも、
ちゃっかりいまのうちから
「おめでとう10年」企画をたのしむのも、
自分にあまいわたしらしくていい。
ブログ10年連続を おいわい日は、たまたま禁酒100日目にもあたる。
めったにない記念日として、ひさしぶりのお酒をたのしもうとおもう。
家にあるグラスは、形もおおきさも いまひとつなので、
お酒の解禁日にそなえて、
アマゾンでタンブラーとビールグラスを注文した。
おもいっきりおおきなタンブラーがほしかったので、
430ccのものをえらんだら、ほんとうに、
わらってしまうぐらいおおきい。
タンブラーはこうでなくっちゃ、というよい見本だ。
こんなおおきなグラスでつよい酒をのんでいたら、
あっという間に依存症になりそうだ。
わたしがすきなカーター=ブラウンの軽ハードボイルドでは、
主人公のアル=ウィーラー警部が
キングサイズのグラスを愛用している。
いきさきで「なにかのみものは?」とたずねられると、
「スコッチのオンザロック、ソーダをちょっぴりいれて」
と いつもこたえるのがすきだった。
自分の家でくつろぐとき、おおきなグラスにたっぷりいれたお酒、
そして音楽のセットは、なにものにもかえがたい。
映画をみていると、ばかでかいグラスに
ウィスキーをすこしだけそそぐ場面をよくみかける。
オンザロックでなくても、ストレートでたのしむのにも、
おおきなグラスは ゴージャスな雰囲気をつくってくれるだろう。
2021年08月25日
うんこネタをおそれない林雄司さんがすばらしい
デイリーポータルZのwebマスターである林雄司さんは、
「うんこ」といいたいために仕事をしてるようなもの、
と どこかではなしていた。
いや、ちがうか。これはさすが記憶ちがいだろう。
「うんこ」といいたくて、はたらくひとなんているわけがない。
とはいえ、林さんがかく記事には、ストレートに
「うんこ」とかいてあるものがおおいので、
仕事の目的が「うんこ」ということではなくても、
「うんこ」といえる自由を わりとだいじにされているのはたしかだ。
わたしの記憶は あながちまちがえではないとおもう。
林さんが個人のブログ「やぎの目」にかいた今回の記事も、
タイトルは「皆既月食」だけど、ないようは ほぼ「うんこ」だ。
http://yaginome.jp/?p=3022
「いいえ、それはうんこです」。
たしかにおかしい。
ブログをかくときに、PVをかせごうとおもえば、
「うんこ」なんてことばを つかわないほうがいいそうだ。
糸井重里さんの「今日のダーリン」をみていると、
おしっこは「C」、うんこは「U」と、ストレートには
表現しないよう工夫されている。
これは、PVをかせぐための配慮というよりも、
いまこの文章をよんでいるひとは、食事ちゅうとか会議ちゅうとか、
いろんなシチュエーションがあるだろうから、
「うんこ」とか「しっこ」などと、無神経に連呼しないほうがいい、
という糸井さんなりの配慮があるのだとおもう。
ふつう、おとなはそんなふうに判断する。
林さんだって、それぐらいのことはわかっていながら、
それでも「うんこ」とかくことをおさえきれないから
ポロっと、いろんなところで「うんこ」とかいてしまうのだ。
わたしがながねんブログをつづけてるうちに、
すこしずつではあるけれど、PVがふえていった。
そりゃまあ、そうだろうな。まいにちシコシコと更新するのだから、
そのみかえりとして、PVがふえていかないとわりがあわない。
傲慢にそうかんがえていたある日、きゅうにPVがさがったときがある。
樋口毅宏さんの小説『テロルのすべて』をとりあげたつぎの日なので、
グーグルが「テロ」ということばをきらい、
検索されないように操作した結果なのでは、とおもった。
ほんとのことはわからないけど、
あまりにもきゅうにPVが激減したので、
グーグルの介入は、こういう形であらわれるのか、
と背中がゾゾゾっとした。なにか、いやなかんじだけど、
わたしはPVによってお金をかせいではいないので、
どれだけPVがへっても、実害はない。
ひとによまれない、というのはさみしいことではあるけど、
それだけ気らくに すきなことをかけるともいえる。
わたしは、「テロ」だろうが「うんこ」だろうが、
グーグルのご機嫌をうかがわずに かきたいことばをつかえる。
その点、林雄司さんはえらい。
Webマスターとして、PVを無視できない立場なのに、
小学生みたいに「うんこ」をつかいたがる。
確信犯であるために、グーグルもいまさら手をださず、
林さんのやりたいように させているのだろうか。
「うんこ」といいたいために仕事をしてるようなもの、
と どこかではなしていた。
いや、ちがうか。これはさすが記憶ちがいだろう。
「うんこ」といいたくて、はたらくひとなんているわけがない。
とはいえ、林さんがかく記事には、ストレートに
「うんこ」とかいてあるものがおおいので、
仕事の目的が「うんこ」ということではなくても、
「うんこ」といえる自由を わりとだいじにされているのはたしかだ。
わたしの記憶は あながちまちがえではないとおもう。
林さんが個人のブログ「やぎの目」にかいた今回の記事も、
タイトルは「皆既月食」だけど、ないようは ほぼ「うんこ」だ。
http://yaginome.jp/?p=3022
「いいえ、それはうんこです」。
たしかにおかしい。
ブログをかくときに、PVをかせごうとおもえば、
「うんこ」なんてことばを つかわないほうがいいそうだ。
糸井重里さんの「今日のダーリン」をみていると、
おしっこは「C」、うんこは「U」と、ストレートには
表現しないよう工夫されている。
これは、PVをかせぐための配慮というよりも、
いまこの文章をよんでいるひとは、食事ちゅうとか会議ちゅうとか、
いろんなシチュエーションがあるだろうから、
「うんこ」とか「しっこ」などと、無神経に連呼しないほうがいい、
という糸井さんなりの配慮があるのだとおもう。
ふつう、おとなはそんなふうに判断する。
林さんだって、それぐらいのことはわかっていながら、
それでも「うんこ」とかくことをおさえきれないから
ポロっと、いろんなところで「うんこ」とかいてしまうのだ。
わたしがながねんブログをつづけてるうちに、
すこしずつではあるけれど、PVがふえていった。
そりゃまあ、そうだろうな。まいにちシコシコと更新するのだから、
そのみかえりとして、PVがふえていかないとわりがあわない。
傲慢にそうかんがえていたある日、きゅうにPVがさがったときがある。
樋口毅宏さんの小説『テロルのすべて』をとりあげたつぎの日なので、
グーグルが「テロ」ということばをきらい、
検索されないように操作した結果なのでは、とおもった。
ほんとのことはわからないけど、
あまりにもきゅうにPVが激減したので、
グーグルの介入は、こういう形であらわれるのか、
と背中がゾゾゾっとした。なにか、いやなかんじだけど、
わたしはPVによってお金をかせいではいないので、
どれだけPVがへっても、実害はない。
ひとによまれない、というのはさみしいことではあるけど、
それだけ気らくに すきなことをかけるともいえる。
わたしは、「テロ」だろうが「うんこ」だろうが、
グーグルのご機嫌をうかがわずに かきたいことばをつかえる。
その点、林雄司さんはえらい。
Webマスターとして、PVを無視できない立場なのに、
小学生みたいに「うんこ」をつかいたがる。
確信犯であるために、グーグルもいまさら手をださず、
林さんのやりたいように させているのだろうか。
2021年08月24日
『チョンキンマンションのボスは知っている』(小川さやか)
『チョンキンマンションのボスは知っている』
(小川さやか・春秋社)
著者の小川さやかさんは、タンザニア本国につづき、
香港で商売をするタンザニア人を調査している。
この本は、学術的な報告ではなく、
エッセイという形をとっていながら、
内容はじゅうぶん文化人類学で、
タンザニア人のビジネスマンたちが、
どのようなコミュニティをつくり、
商売にいかしているかを、こまかくさぐっている。
なお、チョンキンマンションとは、
香港の中心部にあるふるいビルのことで、
民族料理のレストランや、ゲストハウスが
びっしりとはいりこんでいる。
香港についたバックパッカーは、
とりあえずチョンキンマンションをめざし、
やすい宿を確保するのがおやくそくだった(1987年当時)。
1階にはアフリカ系やインド系のひとたちがたむろし、
いかにも外国にきたことを実感させてくれた。
チョンチンマンション(重慶大厦)のボスとは、
タンザニア人のカラマ氏(以下、「カラマ」)のことで、
カラマは、中古自動車や自動車部品をあつかう
ブローカーとして香港でビジネスを展開している。
タンザニア人など、アフリカ人に中古自動車をうりたいものの、
信頼関係のなさにためらう香港・中国の自動車業者と、
やすい自動車がほしいけど、自分で香港から輸入するのはちょっと、
というタンザニア人とのあいだにはいり、
おたがいのニーズをおぎなうのがカラマの役割だ。
カラマたちは、仲間と「タンザニア香港組合」をつくり、
香港でビジネスをするタンザニア人
(だけでなく、ケニアやウガンダ人も)が
たすけあって生きるしくみをつくりあげている。
たとえば、香港でタンザニア人の仲間が亡くなったとき、
組合がうごいて組合メンバーに寄付をつのり、
本国へ遺体をおくる手つづきをすすめる。
その過程は完全に自由なはなしあいで、
集会では、個人とのおもいでを、はなしたいメンバーがかたり、
どんなに親切にしてくれたかをのべるうちに、
「ある種の連帯感が即興的に醸成され」る。
カラマが必要な経費のみとおしをたて、
なんと ととのった組合であり、スムーズな連携プレーだろう。
強制ではなく、自由意志で、これだけの組合活動がおこなわれている。
「無理をしないこと」が基準であり、
最終的には「いろいろな事情があるんだから、
細かいことをいうのはやめようぜ」といった結論に落ちつく」そうだ。
香港でくらす、すべての外国人が、
タンザニア人のようにたすけあっているわけではない。
タンザニア人は、生粋の商売人で、
つねにどうやってかせぐかをかんがえている。
ひとのテリトリーにふみこまないけど、
協力できるところは協力しあう。
まったくしらなもの同士がであったときでも、
あいてがこまっていれば、そして自分にたすけるだけの余裕があれば、
ベッドをかしたり、食事をおごったりするのは
彼らの生き方において当然であり、
世話になったからといって、すぐにおかえしを気にしたりはしない。
自分のその余裕ができたときに、直接たすけてくれたひとにではなく、
みしらぬ同国人にたいし、手をさしのべたらいい。
わたしは、なにかプレゼントされたら、
なにをおかえししたらいいのかが気になってしょうがない。
はやく相手に それなりの品をかえし、おちつきたくなる。
ここらへんの心理がタンザニア人とはまったくちがうところで、
小川さやかさんは、彼らの商売が、どのような倫理のもとに
成立しているかをこまかくさぐっている。
カラマたちはスマホのSNSをつかい、ビジネスにつなげていく。
SNSの利用により、あたらしい方法がうまれたとおもっていたけど、
企業中心に社会がまわっている いまが特別なのであり、
産業革命までは、個人対個人でやっていた、
という指摘がおもしろい。
小川さんは、タンザニアの露天商を調査しているときに、
スワヒリ語を身につけ、こんかいのこの調査でも、
スワヒリ語ができるつよみをいかし、
ややこしくてふかい内容までを 自由にやりとりしてききだしている。
タンザニア人たちのコミュニティにはいりこみ、
仲間としてうけいれられ、スワヒリ語を自在にあやつって、
彼らのくらしをききだしている小川さんは すごくたのしそうだ。
小川さんにしか かけない本にしあがっている、といっていいだろう。
(小川さやか・春秋社)
著者の小川さやかさんは、タンザニア本国につづき、
香港で商売をするタンザニア人を調査している。
この本は、学術的な報告ではなく、
エッセイという形をとっていながら、
内容はじゅうぶん文化人類学で、
タンザニア人のビジネスマンたちが、
どのようなコミュニティをつくり、
商売にいかしているかを、こまかくさぐっている。
なお、チョンキンマンションとは、
香港の中心部にあるふるいビルのことで、
民族料理のレストランや、ゲストハウスが
びっしりとはいりこんでいる。
香港についたバックパッカーは、
とりあえずチョンキンマンションをめざし、
やすい宿を確保するのがおやくそくだった(1987年当時)。
1階にはアフリカ系やインド系のひとたちがたむろし、
いかにも外国にきたことを実感させてくれた。
チョンチンマンション(重慶大厦)のボスとは、
タンザニア人のカラマ氏(以下、「カラマ」)のことで、
カラマは、中古自動車や自動車部品をあつかう
ブローカーとして香港でビジネスを展開している。
タンザニア人など、アフリカ人に中古自動車をうりたいものの、
信頼関係のなさにためらう香港・中国の自動車業者と、
やすい自動車がほしいけど、自分で香港から輸入するのはちょっと、
というタンザニア人とのあいだにはいり、
おたがいのニーズをおぎなうのがカラマの役割だ。
カラマたちは、仲間と「タンザニア香港組合」をつくり、
香港でビジネスをするタンザニア人
(だけでなく、ケニアやウガンダ人も)が
たすけあって生きるしくみをつくりあげている。
たとえば、香港でタンザニア人の仲間が亡くなったとき、
組合がうごいて組合メンバーに寄付をつのり、
本国へ遺体をおくる手つづきをすすめる。
その過程は完全に自由なはなしあいで、
集会では、個人とのおもいでを、はなしたいメンバーがかたり、
どんなに親切にしてくれたかをのべるうちに、
「ある種の連帯感が即興的に醸成され」る。
カラマが必要な経費のみとおしをたて、
その説明を受けて、現組合長のイッサが「一人1000香港ドル(約120米ドル)の寄付を募りたい」と提案した。売春を生業にしている女性から「香港で商売をしている者なら、それがどんなビジネスでも1000香港ドルくらいは用意できるはずだ」と声が上がり、それに同意する声が続いた。
その後にカラマは、各手続きを担当する者を順番に指名していった。寄付を集める係が四人、行政的手続きを担当する係二人、棺桶やエンバーミングの手続きを担当する係二人、家族との連絡係一人、中国のタンザニア人組合との連絡係ひとり。寄付を集める係が任命されると、すぐさまカンパ帳が回り始めた。
なんと ととのった組合であり、スムーズな連携プレーだろう。
強制ではなく、自由意志で、これだけの組合活動がおこなわれている。
「無理をしないこと」が基準であり、
最終的には「いろいろな事情があるんだから、
細かいことをいうのはやめようぜ」といった結論に落ちつく」そうだ。
香港でくらす、すべての外国人が、
タンザニア人のようにたすけあっているわけではない。
タンザニア人は、生粋の商売人で、
つねにどうやってかせぐかをかんがえている。
ひとのテリトリーにふみこまないけど、
協力できるところは協力しあう。
まったくしらなもの同士がであったときでも、
あいてがこまっていれば、そして自分にたすけるだけの余裕があれば、
ベッドをかしたり、食事をおごったりするのは
彼らの生き方において当然であり、
世話になったからといって、すぐにおかえしを気にしたりはしない。
自分のその余裕ができたときに、直接たすけてくれたひとにではなく、
みしらぬ同国人にたいし、手をさしのべたらいい。
わたしは、なにかプレゼントされたら、
なにをおかえししたらいいのかが気になってしょうがない。
はやく相手に それなりの品をかえし、おちつきたくなる。
ここらへんの心理がタンザニア人とはまったくちがうところで、
小川さやかさんは、彼らの商売が、どのような倫理のもとに
成立しているかをこまかくさぐっている。
カラマたちはスマホのSNSをつかい、ビジネスにつなげていく。
アルン・スンドララジャンは企業中心の現代は人類の歴史から見ればごく短期間にすぎず、産業革命までは大部分の経済的関係が個人対個人の形を取り、コミュニティに根ざし、社会関係と密接に絡まっていたと述べ、かつて存在した共有体験、自己雇用、コミュニティ内での財貨の交換が現代のデジタル技術によって復活しつつあるというのが、新規なもののように語られているシェアリング経済に対する正しい見方であると指摘している。
SNSの利用により、あたらしい方法がうまれたとおもっていたけど、
企業中心に社会がまわっている いまが特別なのであり、
産業革命までは、個人対個人でやっていた、
という指摘がおもしろい。
小川さんは、タンザニアの露天商を調査しているときに、
スワヒリ語を身につけ、こんかいのこの調査でも、
スワヒリ語ができるつよみをいかし、
ややこしくてふかい内容までを 自由にやりとりしてききだしている。
タンザニア人たちのコミュニティにはいりこみ、
仲間としてうけいれられ、スワヒリ語を自在にあやつって、
彼らのくらしをききだしている小川さんは すごくたのしそうだ。
小川さんにしか かけない本にしあがっている、といっていいだろう。
2021年08月23日
みんなで筋肉体操のキモは「限界までおいこみきる」こと
「みんなで筋肉体操」について、
このブログになんどかかいてきた。
筋肉はうらぎらない、
あと2回しかできない、
あすの筋トレがいまからたのしみ、など、
講師の谷本さんが独特のいい方ではげましてくれる、
5分間ほどの あの体操だ。
まいにちかかさずとりくんでいるうちに、
このトレーニングのキモは、
「限界までおいこみきることが大切」
なのが、いまさらながらわかってきた。
うでたてふせが、まともにできないひとでも、
100回を楽にこなせるひとでも、
だれでも「限界までおいこみきる」ことはできる。
回数ができるようになることより、
そのつど、限界までおいこめば、
筋トレの目的をはたしたことになる。
たとえば、胸の筋肉が女性はよわいので、
うでたてふせをしようとしても、きれいなフォームで
10回できるひとはあまりいないだろう。
そういうひとのために、谷本さんは、
ひざをついたり、ひざとうでの距離をみじかくしたり、
テーブルをつかってななめの姿勢をとったり、
それでもできなくなったら5秒やすんだり、と
いろいろは方法で回数をこなせるように配慮している。
あるていど回数をこなせないと、
やる気をなくしてしまいがちだけど、
ひざをついたり、テーブルをつかったりしたら、
できる回数がふえ、ふえれば、とりくむ気になりやすい。
でも、谷本さんがほんとうにもとめているのは、
回数よりも、きめられた秒数、
とにかく全力をかたむけることのほうだ。
これを、谷本さんふうにいうと「限界までおいこみきる」となる。
わたしは、まいにちとりくんだあとに、回数を記録しているけど、
たとえ数年以上つづけても、右肩あがりには回数はふえていかない。
ながい停滞のあと、さらに回数がおちたり、
かとおもうと、なんでか調子よくできる日があったりと、
自分のからだでも、よくわからない。
回数がすくないと、いじけてしまいがちだけど、
大切なのは、「限界までおいこみきる」ことだとおもえば、
回数はよこにおいておき、とにかく、全力でとりくばいい。
イチロー選手が、打率より
ヒットの数にこだわったのとおなじだ(ほんとうか?)。
あまり気がすすまない日でも、数が目的でないと はじめやすい。
シリーズ1のうでたてふせは、ゆっくり20回こなしたあと、
全力で30秒、そのあと10秒やすんだのち、
また全力で20秒、というメニューだ。
かなりくるしい1分間になるし、
調子がよくない日は、30秒やっているときに、
こりゃ、きょうは回数がのびないな、というのがわかる。
わかっても、全力で30秒つづけるのがなによりのポイントだ。
いつもより回数がすくなくても、
とにかく30秒間、その日のベストをつくす。
なぜだかわからないけど、いまのところ
わたしはまいにち「筋肉体操」をつづけている。
バーベルやダンベルをつかったトレーニングにくらべると、
地味で、モチベーションをたもちにくい。
それでも、とにかくまいにちつづけているわたしは、
もしかしたら筋肉体操において、天才なのかもしれない。
やらない、という選択肢をなくし、
つかれていても、やりたくなくても、とにかく毎晩とりくむ。
ほかのこと、たとえば勉強や仕事では、
「限界までおいこみきる」感覚がわかりにくいけど、
筋トレだと あきらかに ベストをつくした実感がある。
とブルガリア出身の鳴戸親方がいったそうだ。
コツコツは、あんがいわたしにむいているのかも。
このブログになんどかかいてきた。
筋肉はうらぎらない、
あと2回しかできない、
あすの筋トレがいまからたのしみ、など、
講師の谷本さんが独特のいい方ではげましてくれる、
5分間ほどの あの体操だ。
まいにちかかさずとりくんでいるうちに、
このトレーニングのキモは、
「限界までおいこみきることが大切」
なのが、いまさらながらわかってきた。
うでたてふせが、まともにできないひとでも、
100回を楽にこなせるひとでも、
だれでも「限界までおいこみきる」ことはできる。
回数ができるようになることより、
そのつど、限界までおいこめば、
筋トレの目的をはたしたことになる。
たとえば、胸の筋肉が女性はよわいので、
うでたてふせをしようとしても、きれいなフォームで
10回できるひとはあまりいないだろう。
そういうひとのために、谷本さんは、
ひざをついたり、ひざとうでの距離をみじかくしたり、
テーブルをつかってななめの姿勢をとったり、
それでもできなくなったら5秒やすんだり、と
いろいろは方法で回数をこなせるように配慮している。
あるていど回数をこなせないと、
やる気をなくしてしまいがちだけど、
ひざをついたり、テーブルをつかったりしたら、
できる回数がふえ、ふえれば、とりくむ気になりやすい。
でも、谷本さんがほんとうにもとめているのは、
回数よりも、きめられた秒数、
とにかく全力をかたむけることのほうだ。
これを、谷本さんふうにいうと「限界までおいこみきる」となる。
わたしは、まいにちとりくんだあとに、回数を記録しているけど、
たとえ数年以上つづけても、右肩あがりには回数はふえていかない。
ながい停滞のあと、さらに回数がおちたり、
かとおもうと、なんでか調子よくできる日があったりと、
自分のからだでも、よくわからない。
回数がすくないと、いじけてしまいがちだけど、
大切なのは、「限界までおいこみきる」ことだとおもえば、
回数はよこにおいておき、とにかく、全力でとりくばいい。
イチロー選手が、打率より
ヒットの数にこだわったのとおなじだ(ほんとうか?)。
あまり気がすすまない日でも、数が目的でないと はじめやすい。
シリーズ1のうでたてふせは、ゆっくり20回こなしたあと、
全力で30秒、そのあと10秒やすんだのち、
また全力で20秒、というメニューだ。
かなりくるしい1分間になるし、
調子がよくない日は、30秒やっているときに、
こりゃ、きょうは回数がのびないな、というのがわかる。
わかっても、全力で30秒つづけるのがなによりのポイントだ。
いつもより回数がすくなくても、
とにかく30秒間、その日のベストをつくす。
なぜだかわからないけど、いまのところ
わたしはまいにち「筋肉体操」をつづけている。
バーベルやダンベルをつかったトレーニングにくらべると、
地味で、モチベーションをたもちにくい。
それでも、とにかくまいにちつづけているわたしは、
もしかしたら筋肉体操において、天才なのかもしれない。
やらない、という選択肢をなくし、
つかれていても、やりたくなくても、とにかく毎晩とりくむ。
ほかのこと、たとえば勉強や仕事では、
「限界までおいこみきる」感覚がわかりにくいけど、
筋トレだと あきらかに ベストをつくした実感がある。
どんな とき でも まいにち こつこつ やること たいせつ です
とブルガリア出身の鳴戸親方がいったそうだ。
コツコツは、あんがいわたしにむいているのかも。
2021年08月22日
『FAMILY GYPSY/ファミリー・ジプシー』家族4人で世界一周
『FAMILY GYPSY/ファミリー・ジプシー』
(高橋歩・A-Works)
家族4人で世界一周したはなし。
旅行記ずれしてきたわたしは、
このたぐいの本に あまり手をださなくなった。
おもいがこめられすぎて、あまりおもしろくないから。
あるいは、自分がやっていることを
「すごいでしょー」とはしゃいでしまっているから。
著者が、自分の旅におもいいれするのは当然としても、
からまわりして、ごくふつうの旅行記になりがちだ。
でも、この本はおもしろかった。
よみやすいしあがりと、自分のかんがえを、
作者がありのままにさらっとかいているからだろう。
背のびせず、そのときの気分がくっきりと記録されている。
ちからのぬけかげんが絶妙で、たのしさがつたわってくる。
この手の本は、とかく たずねたところを順番にすべてかき、
なかなかよむ気がおこらないほど
めちゃくちゃこまかい記録になりがちだ。
高橋さんのこの本はかなりぶあつく、
なかなかひらいてみる気になれなかった。
でも、いったんよみはじめると はやかった。
左のページは写真、右のページは文章というレイアウトなので、
319ページを、ほんの2時間でよみおえている。
あっというまに世界旅行をした気になれた。
右のページの文章は、芸能人のブログみたいに
行間がひろく、文字数はあまりない。
だからといって、内容がうすいというわけではなく、
著者がつたえたいことと、本のレイアウトがぴったりあっており、
ぶあつくても すらすらとよみすすめられる。
「もし、なんでも夢が叶うとしたら、何をしたい?」
と高橋さんが妻のさやかさんにたずねたのが
旅のきっかけだった。
かるい話題のつもりだったのに、
はなしはすぐ実現にむけてうごきはじめ、
資金の準備やら自宅の整理やらをすすめる。
本をよみおえてしったのだけど、
高橋さんは、夫婦の旅行として 世界一周をすでに体験している。
こんどは子ども2人をつれてなので、状況がかわるとはいえ、
旅行のノウハウをじゅうぶんしりつくしている2人だ。
北米大陸とオーストラリアではキャンピングカーをレンタルし、
アジアでは安宿にとまってお金を節約する。
子どもがいるので、アフリカ大陸は、ケニアでのツアーと、
南アフリカだけにしぼる。
一生にいちどの旅行、という気おいはなく、
いまできることを、できるだけたのしもうという姿勢が
家族全員に共有されている。
4人はぶじ日本にもどってきたけど、
これからもずっと日本にいるとはかぎらない。
根っからの自由人として、高橋さん一家はくらしていくだろう。
著者のスケールのおおきさにふれると、
自分のちいささがいやになってくる。
日ごろ気になっているささいなことは、
ぜんぶどうでもよくおもえてきた。
(高橋歩・A-Works)
家族4人で世界一周したはなし。
旅行記ずれしてきたわたしは、
このたぐいの本に あまり手をださなくなった。
おもいがこめられすぎて、あまりおもしろくないから。
あるいは、自分がやっていることを
「すごいでしょー」とはしゃいでしまっているから。
著者が、自分の旅におもいいれするのは当然としても、
からまわりして、ごくふつうの旅行記になりがちだ。
でも、この本はおもしろかった。
よみやすいしあがりと、自分のかんがえを、
作者がありのままにさらっとかいているからだろう。
背のびせず、そのときの気分がくっきりと記録されている。
ちからのぬけかげんが絶妙で、たのしさがつたわってくる。
この手の本は、とかく たずねたところを順番にすべてかき、
なかなかよむ気がおこらないほど
めちゃくちゃこまかい記録になりがちだ。
高橋さんのこの本はかなりぶあつく、
なかなかひらいてみる気になれなかった。
でも、いったんよみはじめると はやかった。
左のページは写真、右のページは文章というレイアウトなので、
319ページを、ほんの2時間でよみおえている。
あっというまに世界旅行をした気になれた。
右のページの文章は、芸能人のブログみたいに
行間がひろく、文字数はあまりない。
だからといって、内容がうすいというわけではなく、
著者がつたえたいことと、本のレイアウトがぴったりあっており、
ぶあつくても すらすらとよみすすめられる。
「もし、なんでも夢が叶うとしたら、何をしたい?」
と高橋さんが妻のさやかさんにたずねたのが
旅のきっかけだった。
かるい話題のつもりだったのに、
はなしはすぐ実現にむけてうごきはじめ、
資金の準備やら自宅の整理やらをすすめる。
本をよみおえてしったのだけど、
高橋さんは、夫婦の旅行として 世界一周をすでに体験している。
こんどは子ども2人をつれてなので、状況がかわるとはいえ、
旅行のノウハウをじゅうぶんしりつくしている2人だ。
北米大陸とオーストラリアではキャンピングカーをレンタルし、
アジアでは安宿にとまってお金を節約する。
子どもがいるので、アフリカ大陸は、ケニアでのツアーと、
南アフリカだけにしぼる。
一生にいちどの旅行、という気おいはなく、
いまできることを、できるだけたのしもうという姿勢が
家族全員に共有されている。
4人はぶじ日本にもどってきたけど、
これからもずっと日本にいるとはかぎらない。
根っからの自由人として、高橋さん一家はくらしていくだろう。
こういう仕事がしたい=「職種」で仕事を選ぶんじゃなくて、
こういう生活ができる仕事=「ライフスタイル」重視で仕事を選ぶ。創る。
大好きな人たちと、笑いあって過ごすこと。
俺が求めているのは、結局、それだけかもしれない。
世界の平和を願うなら、
まずは、目の前のひとを大切にすることから。
いいことがあったから、元気なんじゃない。
元気にやってるから、いいことが起こるのさ。
若い頃は、お金をいっぱい稼いでリッチな暮らしをしたい、って頑張っていたけど、あるとき、なんか違うな、って気付いたの。
やっぱり、好きなもの、好きなひとに囲まれて過ごしたい、って想って。
著者のスケールのおおきさにふれると、
自分のちいささがいやになってくる。
日ごろ気になっているささいなことは、
ぜんぶどうでもよくおもえてきた。
2021年08月21日
ヨシダプロ氏の「人生はデフォルトでは無観客」に共感する
ヨシダプロ氏が、デイリーポータルZに
毎年恒例の「夏休みおとなの絵日記」をのせていた。
https://dailyportalz.jp/kiji/otona-no-enikki-2021
さすがに東京五輪がらみの日記がおおい。
なかでもよかったのが
と、もうひとつ。
このふたつをあわせると、
日本がらみではない試合が
無観客・放送なし、でおこなわれた場合、
選手たちは、わざわざ東京まできて
いったいなにをしているのかと、
モチベーションをたもちにくい、となる。
だれもきいてないところで森の木がたおれたら、
その現象は現実かどうか、という禅問答みたいなのがあるけど、
東京の体育館で、ひっそりと試合がおこなわれたら、
はたしてそれは五輪の試合とおもえるかどうか。
おおくのひとが注目してくれたり、
テレビで放送されるから、選手たちはやる気がでるのであり、
無観客の会場で、テレビカメラもなし、となれば、
わざわざ東京にくる必要があったのか、という気がしてくる。
五輪がおわり、あとから評価がたかまった競技に、
スケボーなどのマイナースポーツがある。
おおきな組織がバックにあるわけではなく、
ただすきでやっています、というかんじがこのましい。
いぜんからある競技だけでなく、
こんなふうに、あたらしい競技が五輪の種目にとりいれられたら、
わかいひとたちも、関心をもつかもしれない。
反対に、種目のなかにはおなじひとばかりが参加するものもある。
乗馬とか射撃は、いちぶのひとだけが独占しているようで
五輪の種目として適切かどうか疑問だ。
ほかの競技も、たとえば野球は人気がある国のほうがすくないし、
サッカーはU-23とかで、べつにやらなくてもいい大会だし、
バスケットボールは3人制とか、わけがわからなくなっているし、
ふるくからある陸上や水泳は、栄誉とかなんとか
いろんなものがくっつきすぎているし、
けっきょく五輪はたいして必要のない大会におもえてくる。
まだマイナーで、五輪に参加しなければ、
その競技をしってもらえない、というのなら しかたないけど、
そうでなければ、種目としてとりいれなくてもいいのでは。
誘致にまつわる不正や、IOCの偽善的な体質、たかすぎる運営費など、
五輪の本質がうきぼりになってきたのが今回の東京大会だ。
無観客・放送なしの開催は、いろいろなことをおしえてくれた。
毎年恒例の「夏休みおとなの絵日記」をのせていた。
https://dailyportalz.jp/kiji/otona-no-enikki-2021
さすがに東京五輪がらみの日記がおおい。
なかでもよかったのが
五輪で知らない国同士の試合が
無観客の会場で行われているのを見ると、
一体これは何なのか、部活の練習か、と思える。
と、もうひとつ。
五輪の競技で無観客なうえに
放送まで無しとなると、
一体何のためにやっているのか、と
モチベが難しそうだが、
人生というのはデフォルトでは
無観客で放送も無いものなのである。
このふたつをあわせると、
日本がらみではない試合が
無観客・放送なし、でおこなわれた場合、
選手たちは、わざわざ東京まできて
いったいなにをしているのかと、
モチベーションをたもちにくい、となる。
だれもきいてないところで森の木がたおれたら、
その現象は現実かどうか、という禅問答みたいなのがあるけど、
東京の体育館で、ひっそりと試合がおこなわれたら、
はたしてそれは五輪の試合とおもえるかどうか。
おおくのひとが注目してくれたり、
テレビで放送されるから、選手たちはやる気がでるのであり、
無観客の会場で、テレビカメラもなし、となれば、
わざわざ東京にくる必要があったのか、という気がしてくる。
五輪がおわり、あとから評価がたかまった競技に、
スケボーなどのマイナースポーツがある。
おおきな組織がバックにあるわけではなく、
ただすきでやっています、というかんじがこのましい。
いぜんからある競技だけでなく、
こんなふうに、あたらしい競技が五輪の種目にとりいれられたら、
わかいひとたちも、関心をもつかもしれない。
反対に、種目のなかにはおなじひとばかりが参加するものもある。
乗馬とか射撃は、いちぶのひとだけが独占しているようで
五輪の種目として適切かどうか疑問だ。
ほかの競技も、たとえば野球は人気がある国のほうがすくないし、
サッカーはU-23とかで、べつにやらなくてもいい大会だし、
バスケットボールは3人制とか、わけがわからなくなっているし、
ふるくからある陸上や水泳は、栄誉とかなんとか
いろんなものがくっつきすぎているし、
けっきょく五輪はたいして必要のない大会におもえてくる。
まだマイナーで、五輪に参加しなければ、
その競技をしってもらえない、というのなら しかたないけど、
そうでなければ、種目としてとりいれなくてもいいのでは。
誘致にまつわる不正や、IOCの偽善的な体質、たかすぎる運営費など、
五輪の本質がうきぼりになってきたのが今回の東京大会だ。
無観客・放送なしの開催は、いろいろなことをおしえてくれた。
2021年08月20日
「女の子だって甲子園!」(『花鈴のマウンド』)がおもしろそう
朝日新聞では、すこしまえから
女性が硬式野球にとりくむ記事を目にするようになった。
けさも『花鈴のマウンド』というマンガが
1ページをまるまるつかって広告されていた。
「女の子だって甲子園!」なのだそうだ。
あれだけ「高校野球」がさわがれたら、
女の子だって甲子園をめざしたくなるだろう。
じっさいに、女子生徒が男性の硬式野球部にはいり、
野球をする記事もいくつかのった。
硬式野球がどんなルールになっているのかしらないけど、
女子生徒が男子生徒にまじって甲子園をめざすのは、
いまの環境では いろいろむつかしそうだ。
ちいさなころから男の子にまじり
野球をやっていた女の子にとって、
高校生になると、自分たちのいきさきが、
とつぜんきられてしまうのは さぞかし残念だろう。
甲子園をめざす 男子だけが脚光をあびるなんてずるい。
サッカーでは、女子サッカーというカテゴリーが以前からあり、
女性だけのチームがあるし、大会にも参加できる。
野球にも、女性だけのリーグがあるのかもしれないけど、
わたしはそこらへんの情報にうとく、
これまで女性による野球について まったくしらなかった。
アメリカには、女性だけのプロリーグが以前はあり、
『プリティ・リーグ』として映画にもなった。
ウィキペディアによると、第二次世界大戦で、男たちが兵役にとられ、
メジャーリーグの存続があぶなくなったことから、
女性だけによる野球のリーグがつくられたそうだ。
1954年をさいごにリーグは運営されなくなった。
女性のサッカーリーグはあるのに、野球がないのは、
どんな事情からだろうか。
日本には、マンガの『花鈴のマウンド』だけでなく、
現実にも 女性による硬式野球チームがあるようだ。
男だけに野球をひとりじめされるのではなく、
自分たちもたのしみたいと、
すくなくない女性が野球をつづけている。
女性による野球というと、
わたしは沖倉利津子さんがかいたマンガ、
「セッチシリーズ」をおもいうかべる。
中学生の武田世津子(セッチ)は、女の子だけど、
男の子にまじって野球をたのしんでいる。
セッチがすすんだ高校には女性の野球部がなく、
しかたなくセッチはソフトボール部をえらぶ。
「セッチシリーズ」は、野球だけをあつかったマンガではないし、
作者がいちばんいきいきとかいていた時期はみじかく、
セッチがソフトボールにすすんでからは
よみものとしてあまりおもしろくなくなった。
「高校野球」からイメージされる根性主義がわたしはすきではなく、
セッチシリーズでのセッチは、ただ野球がすき、という
ゆるい雰囲気なのが気もちよかった。
「セッチシリーズ」は、女性が野球にしたしむときの
ひとつの理想だったのではないか。
女性が硬式野球にとりくむ記事を目にするようになった。
けさも『花鈴のマウンド』というマンガが
1ページをまるまるつかって広告されていた。
「女の子だって甲子園!」なのだそうだ。
あれだけ「高校野球」がさわがれたら、
女の子だって甲子園をめざしたくなるだろう。
じっさいに、女子生徒が男性の硬式野球部にはいり、
野球をする記事もいくつかのった。
硬式野球がどんなルールになっているのかしらないけど、
女子生徒が男子生徒にまじって甲子園をめざすのは、
いまの環境では いろいろむつかしそうだ。
ちいさなころから男の子にまじり
野球をやっていた女の子にとって、
高校生になると、自分たちのいきさきが、
とつぜんきられてしまうのは さぞかし残念だろう。
甲子園をめざす 男子だけが脚光をあびるなんてずるい。
サッカーでは、女子サッカーというカテゴリーが以前からあり、
女性だけのチームがあるし、大会にも参加できる。
野球にも、女性だけのリーグがあるのかもしれないけど、
わたしはそこらへんの情報にうとく、
これまで女性による野球について まったくしらなかった。
アメリカには、女性だけのプロリーグが以前はあり、
『プリティ・リーグ』として映画にもなった。
ウィキペディアによると、第二次世界大戦で、男たちが兵役にとられ、
メジャーリーグの存続があぶなくなったことから、
女性だけによる野球のリーグがつくられたそうだ。
1954年をさいごにリーグは運営されなくなった。
女性のサッカーリーグはあるのに、野球がないのは、
どんな事情からだろうか。
日本には、マンガの『花鈴のマウンド』だけでなく、
現実にも 女性による硬式野球チームがあるようだ。
男だけに野球をひとりじめされるのではなく、
自分たちもたのしみたいと、
すくなくない女性が野球をつづけている。
女性による野球というと、
わたしは沖倉利津子さんがかいたマンガ、
「セッチシリーズ」をおもいうかべる。
中学生の武田世津子(セッチ)は、女の子だけど、
男の子にまじって野球をたのしんでいる。
セッチがすすんだ高校には女性の野球部がなく、
しかたなくセッチはソフトボール部をえらぶ。
「セッチシリーズ」は、野球だけをあつかったマンガではないし、
作者がいちばんいきいきとかいていた時期はみじかく、
セッチがソフトボールにすすんでからは
よみものとしてあまりおもしろくなくなった。
「高校野球」からイメージされる根性主義がわたしはすきではなく、
セッチシリーズでのセッチは、ただ野球がすき、という
ゆるい雰囲気なのが気もちよかった。
「セッチシリーズ」は、女性が野球にしたしむときの
ひとつの理想だったのではないか。
2021年08月19日
気温のデーターで脳トレしても効果なし
脳トレには、記憶力を刺激するのがよさそうなので、
朝ごはんをたべながら新聞をみるとき、
まえの日の最高気温・最低気温、
それにくわえて、それぞれ例年との気温差を
ほぼ日手帳にかきこんでいる。
新聞の「気温と湿度」欄に、各地のデーターがのっているので、
松江について、4つの数字をしばらくにらんでおぼえたあと、
手帳にかきだし、ぜんぶあっていたら赤色で丸をつける。
おぼえやすい数字、たとえば30.0とか2.2なんて数字のときは、
すぐに記憶でき、わりとまちがえずにかきうつせる。あたりまえだ。
その反対に、24.1や27.9など、ちょっとややこしくなると、
何秒かけてもおぼえられない。
8月17日の松江は、最高気温26.3/例年との差-6.3、
最低気温22.5/例年との差-0.8/だった。
ほぼ日手帳にかきこんだ数字が、4つとも正解だったので、
記憶力がついたとよろこんでいたら、これは鳥取市の温度だった。
そもそもの、最初からあつがえている。
松江の温度についてやりなおすと、
こんどは4つのうち3つがまちがっていた。
記憶力がついてきたと、よろこんでいたのに、
記憶しやすい数字についてだけ、
おぼえるコツを身につけたにすぎず、
じっさいの記憶力はあいかわらず残念なレベルにとどまっている。
もう5年もこうやって毎朝しこしこと数字をおぼえていたのに、
まったく記憶力アップに役だっていなかったのは残念だ。
もっとも、もともとわるかった記憶力が、
さらにわるくなっていないだけでも、効果があった、
とかんがえることもできる。
ちからをつけられなくても、ちからをおとさないだけでとおとい。
ヒロシさんの「駅前迷宮グルメ」をみていたら、
タイのノーンカーイへでかけるはなしだった。
ラオスの国境にちかいこの町は、わたしもいこうとしたことがある。
「駅前迷宮グルメ」でも、まえにとりあげていたのをみた。
コロナ禍になってからは、あたらしい町にでかけられないので、
まえに放送した映像を再編集して、
国内編とあわせて放映するようになった。
再編成ものになってから、まだ1年ちょっとしかたっていないから、
さすがのわたしでも、よくおぼえているはずだ。
でも、番組をみても、うっすらと記憶している場面はあっても、
全体について、これはたしかにみた!と、
自信をもっていいきれるほどクリアーな記憶ではない。
けっきょく、夕ごはんをたべながら、
ほとんどはじめてとおなじように番組をたのしめた。
徳をしたような、なさけないような、へんなかんじだ。
わたしより、配偶者のほうが、まだおぼえていた。
ノーンカーイとか、ウドンターニー、コーンケーンなど、
きいたことがあっても、まだいったことがない町だと、
頭のなかでぐちゃぐちゃな記憶になってしまう。
どこへいっても、駅まえをぶらつき、
目についた食堂にはいる、というながれはかわらないから、
ますますどこの町のはなしなのかがわからなくなる。
いちどいった町は、記憶にしっかりのこる。
はやくまたタイの町をぶらつきたくなった。
朝ごはんをたべながら新聞をみるとき、
まえの日の最高気温・最低気温、
それにくわえて、それぞれ例年との気温差を
ほぼ日手帳にかきこんでいる。
新聞の「気温と湿度」欄に、各地のデーターがのっているので、
松江について、4つの数字をしばらくにらんでおぼえたあと、
手帳にかきだし、ぜんぶあっていたら赤色で丸をつける。
おぼえやすい数字、たとえば30.0とか2.2なんて数字のときは、
すぐに記憶でき、わりとまちがえずにかきうつせる。あたりまえだ。
その反対に、24.1や27.9など、ちょっとややこしくなると、
何秒かけてもおぼえられない。
8月17日の松江は、最高気温26.3/例年との差-6.3、
最低気温22.5/例年との差-0.8/だった。
ほぼ日手帳にかきこんだ数字が、4つとも正解だったので、
記憶力がついたとよろこんでいたら、これは鳥取市の温度だった。
そもそもの、最初からあつがえている。
松江の温度についてやりなおすと、
こんどは4つのうち3つがまちがっていた。
記憶力がついてきたと、よろこんでいたのに、
記憶しやすい数字についてだけ、
おぼえるコツを身につけたにすぎず、
じっさいの記憶力はあいかわらず残念なレベルにとどまっている。
もう5年もこうやって毎朝しこしこと数字をおぼえていたのに、
まったく記憶力アップに役だっていなかったのは残念だ。
もっとも、もともとわるかった記憶力が、
さらにわるくなっていないだけでも、効果があった、
とかんがえることもできる。
ちからをつけられなくても、ちからをおとさないだけでとおとい。
ヒロシさんの「駅前迷宮グルメ」をみていたら、
タイのノーンカーイへでかけるはなしだった。
ラオスの国境にちかいこの町は、わたしもいこうとしたことがある。
「駅前迷宮グルメ」でも、まえにとりあげていたのをみた。
コロナ禍になってからは、あたらしい町にでかけられないので、
まえに放送した映像を再編集して、
国内編とあわせて放映するようになった。
再編成ものになってから、まだ1年ちょっとしかたっていないから、
さすがのわたしでも、よくおぼえているはずだ。
でも、番組をみても、うっすらと記憶している場面はあっても、
全体について、これはたしかにみた!と、
自信をもっていいきれるほどクリアーな記憶ではない。
けっきょく、夕ごはんをたべながら、
ほとんどはじめてとおなじように番組をたのしめた。
徳をしたような、なさけないような、へんなかんじだ。
わたしより、配偶者のほうが、まだおぼえていた。
ノーンカーイとか、ウドンターニー、コーンケーンなど、
きいたことがあっても、まだいったことがない町だと、
頭のなかでぐちゃぐちゃな記憶になってしまう。
どこへいっても、駅まえをぶらつき、
目についた食堂にはいる、というながれはかわらないから、
ますますどこの町のはなしなのかがわからなくなる。
いちどいった町は、記憶にしっかりのこる。
はやくまたタイの町をぶらつきたくなった。
2021年08月18日
『本の雑誌』10月号の特集「定年後は本当に本が読めるのか!?」がたのしみ
『本の雑誌 9月号』をもとめ、ひととおりながめる。
さいごから2番目のページは次号予告と編集後記がのっている。
10月号の特集は、「定年後は本当に本が読めるのか!?」だという。
これこそわたしがしりたい情報だ。
定年後は、おもっているように、本がよめるのだろうか。
『本の雑誌』10月号がいまからまちどおしい。
あと5年たらずで定年をむかえるわたしは、
ずっとまえから本にどっぷりつかる 定年後の生活を夢みてきた。
これまでにも、仕事をやめたり、
きわめてみじかい時間の仕事だったりと、
ながめの休暇を多少なりともすごしてきた。
その経験からいえるのは、仕事をやめたからといって、
本をよむ時間がめちゃくちゃふえたりはしない、ということだ。
雑用におわれ、いちにちがなんとなくおわるのは、
仕事をしていても、していなくても、あまりかわりはなかった。
いまだって、やすみの日はダラダラとすごしてしまうことがおおい。
いつもの時間に目をさまし、そこそこの運動をして、
かいものをすませると、もうおひるご飯の時間だ。
ひるねをしたら、そのまま夕方になだれこむ。
まとまったことをせずに いちにちがおわってしまう。
定年となり、時間はあるにもかかわらず、
読書がすすまない生活になりそうなことは想像がつく。
定年後に本をたくさんよもうとおもえば、
まるで仕事をしているかのように
規則ただしい生活をおくったほうが
本を中心にしたリズムをつくりやすいかもしれない。
よみたい本をリストアップし、読書計画をたて、
よんだ本についてブログにかく。
これまでほったらかしてきたブログを整理し、
本に的をしぼったサイトを、あたらしくつくりたいともおもう。
なにかあたらしいことをはじめると、生活にはりがうまれる。
知的消費だけでなく、知的生産にもとりくみたい。
やれやれ やっと定年だ、といったん気をぬいてしまえば、
本にむかうときに、新鮮な気もちをたもちにくいだろう。
これまでずっと職場にかよってきた人間は、
きゅうに時間がふえても、おそらく自由にはつかえない。
本気で老後の読書をたのしむためには、
いまのうちから、はやめに老後の読書をはじめたほうがいい。
わたしの本棚には、2どめの読書をたのしみたい本が、
定年後によまれるのをまっている。
新聞などの書評からも、よみたい本はどんどんふえていく。
本をかうお金はともかく、よむ本にはこまらない。
問題は、本にむきあうときの、こころの安定だ。
精神的に不安定だったり、自分と家族の生活に問題があれば、
こころやすらかに本をひらけない。
充実した定年後は、おだやかな日々の実現にかかっている。
『本の雑誌』10月号は、定年後の生活について、
どんな方法をおしえてくれるだろうか。
さいごから2番目のページは次号予告と編集後記がのっている。
10月号の特集は、「定年後は本当に本が読めるのか!?」だという。
これこそわたしがしりたい情報だ。
定年後は、おもっているように、本がよめるのだろうか。
『本の雑誌』10月号がいまからまちどおしい。
あと5年たらずで定年をむかえるわたしは、
ずっとまえから本にどっぷりつかる 定年後の生活を夢みてきた。
これまでにも、仕事をやめたり、
きわめてみじかい時間の仕事だったりと、
ながめの休暇を多少なりともすごしてきた。
その経験からいえるのは、仕事をやめたからといって、
本をよむ時間がめちゃくちゃふえたりはしない、ということだ。
雑用におわれ、いちにちがなんとなくおわるのは、
仕事をしていても、していなくても、あまりかわりはなかった。
いまだって、やすみの日はダラダラとすごしてしまうことがおおい。
いつもの時間に目をさまし、そこそこの運動をして、
かいものをすませると、もうおひるご飯の時間だ。
ひるねをしたら、そのまま夕方になだれこむ。
まとまったことをせずに いちにちがおわってしまう。
定年となり、時間はあるにもかかわらず、
読書がすすまない生活になりそうなことは想像がつく。
定年後に本をたくさんよもうとおもえば、
まるで仕事をしているかのように
規則ただしい生活をおくったほうが
本を中心にしたリズムをつくりやすいかもしれない。
よみたい本をリストアップし、読書計画をたて、
よんだ本についてブログにかく。
これまでほったらかしてきたブログを整理し、
本に的をしぼったサイトを、あたらしくつくりたいともおもう。
なにかあたらしいことをはじめると、生活にはりがうまれる。
知的消費だけでなく、知的生産にもとりくみたい。
やれやれ やっと定年だ、といったん気をぬいてしまえば、
本にむかうときに、新鮮な気もちをたもちにくいだろう。
これまでずっと職場にかよってきた人間は、
きゅうに時間がふえても、おそらく自由にはつかえない。
本気で老後の読書をたのしむためには、
いまのうちから、はやめに老後の読書をはじめたほうがいい。
わたしの本棚には、2どめの読書をたのしみたい本が、
定年後によまれるのをまっている。
新聞などの書評からも、よみたい本はどんどんふえていく。
本をかうお金はともかく、よむ本にはこまらない。
問題は、本にむきあうときの、こころの安定だ。
精神的に不安定だったり、自分と家族の生活に問題があれば、
こころやすらかに本をひらけない。
充実した定年後は、おだやかな日々の実現にかかっている。
『本の雑誌』10月号は、定年後の生活について、
どんな方法をおしえてくれるだろうか。
2021年08月17日
『藤井聡太論』(谷川浩司)藤井さんのつよさの本質とは
『藤井聡太論』(谷川浩司・講談社α新書)
藤井聡太さんのつよさを、永世名人の谷川さんが分析する。
将棋の本というと、棋譜がいくつもならび、
とりつきにくそうな印象があるけど、
この本は、さいごのほうに、すこしだけ棋譜がでるだけだ。
谷川さんは、データーを駆使して、
藤井さんのつよさにせまろうとする。
たとえば、藤井さんの年間勝率は8割4分で、
それをコンスタントに4年つづけることがいかにすごいかを、
谷川さんはほかの棋士とくらべて説明する。
大山・中原など、有名な棋士が活躍した時代、
羽生世代、そして藤井さんの登場と、
いまにつらなる将棋界のながれを俯瞰できるのは、
第一線の棋士でありつづける谷川さんならではだろう。
藤井さんは、連勝記録や最年少記録などに価値をおいてない。
藤井さんは、自分がつよくなることで、
将棋の真理にせまりたいとねがっており、
だからこそ、かった・まけたに一喜一憂するのではなく、
いい内容の将棋をさそうとする。
自分も棋士である以上、谷川さんだって
ほかの棋士を手ばなしにほめたりはしたくないだろう。
谷川さんがこの本をかいたのは、
藤井さんの将棋観に共感するところがあるからではないか。
糸井重里さんが、「今日のダーリン」のなかで
という比喩を紹介している。
つよいのはわかっている。でも、どれだけつよいかは、
ふだん将棋をささないものにはわかりにくい。
「ポルシェでなくジェット機」というのは
圧倒的につよいのだとイメージしやすい。
いまの名人である渡辺明さんは、藤井さんのつよさについて
名人としてのプライドにとらわれず、
藤井さんがどんなにけたはずれのちからをもっているかを
おどろきとともに、客観的にかたっている。
A1の発達は、人間のかんがえがおよばないところまでさきをよみ、
たしかにつよいけど、血のかよってない将棋、
みたいなイメージをわたしはもっていた。
でも、いまの将棋界は、おおくのトップ棋士がA1をとりいれ、
A1の存在なしにはかたれなくなっている。
と谷川さんはかんじている。
相手にかつためではなく、将棋の真理にちかづくために、
藤井さんはつよくなろうとする。
結果として、トップ棋士との対戦がおおくなり、
藤井さんは、これからもさらにつよくなっていくだろう。
藤井聡太さんのつよさを、永世名人の谷川さんが分析する。
将棋の本というと、棋譜がいくつもならび、
とりつきにくそうな印象があるけど、
この本は、さいごのほうに、すこしだけ棋譜がでるだけだ。
谷川さんは、データーを駆使して、
藤井さんのつよさにせまろうとする。
たとえば、藤井さんの年間勝率は8割4分で、
それをコンスタントに4年つづけることがいかにすごいかを、
谷川さんはほかの棋士とくらべて説明する。
大山・中原など、有名な棋士が活躍した時代、
羽生世代、そして藤井さんの登場と、
いまにつらなる将棋界のながれを俯瞰できるのは、
第一線の棋士でありつづける谷川さんならではだろう。
藤井さんは、連勝記録や最年少記録などに価値をおいてない。
藤井さんは、自分がつよくなることで、
将棋の真理にせまりたいとねがっており、
だからこそ、かった・まけたに一喜一憂するのではなく、
いい内容の将棋をさそうとする。
自分も棋士である以上、谷川さんだって
ほかの棋士を手ばなしにほめたりはしたくないだろう。
谷川さんがこの本をかいたのは、
藤井さんの将棋観に共感するところがあるからではないか。
糸井重里さんが、「今日のダーリン」のなかで
ポルシェがくるのか、ベンツがくるのかってね。
そしたら、どっちでもなくて‥‥ジェット機だった!
という比喩を紹介している。
つよいのはわかっている。でも、どれだけつよいかは、
ふだん将棋をささないものにはわかりにくい。
「ポルシェでなくジェット機」というのは
圧倒的につよいのだとイメージしやすい。
いまの名人である渡辺明さんは、藤井さんのつよさについて
いままでもタイトル戦で負けたことはありますけど、今回の棋聖戦のような負け方をしたことはありません。自分がまったく気づいていない想定外のことが起きまくっているんです
名人としてのプライドにとらわれず、
藤井さんがどんなにけたはずれのちからをもっているかを
おどろきとともに、客観的にかたっている。
A1の発達は、人間のかんがえがおよばないところまでさきをよみ、
たしかにつよいけど、血のかよってない将棋、
みたいなイメージをわたしはもっていた。
でも、いまの将棋界は、おおくのトップ棋士がA1をとりいれ、
A1の存在なしにはかたれなくなっている。
A1の進化と藤井さんの登場により、将棋界は新たな時代を迎えた
と谷川さんはかんじている。
相手にかつためではなく、将棋の真理にちかづくために、
藤井さんはつよくなろうとする。
結果として、トップ棋士との対戦がおおくなり、
藤井さんは、これからもさらにつよくなっていくだろう。
2021年08月16日
オリンピックの本質をえぐりだす大北栄人さんの実験
デイリーポータルZにのった
「めちゃめちゃに運動して金属の円盤を首にかけられると嬉しいのか」
(大北栄人)がおもしろかった。
https://dailyportalz.jp/kiji/to-get-a-metal-medal
ためすにあたり、なんの運動でもいいとはいえ、
野球やサッカーではこのみがでてしまうので、
ここではバスケットボールほどのおおきなダルマを
いろいろうごかす運動に大北さんがとりくむ。
時間は1分間。
気温34.8℃でのダルマまわし1分はきつそうだ。
服には日の丸をぬいつけてある。
応援をうけるとちからのはいり方がちがうのだという。
そして、いよいよごほうびとして、首に金属の円盤をかけてもらう。
なんとなく、銅より銀、銀より金のほうが
ありがたくおもえてくる。でも、この気もちはほんものだろうか。
ためしに、蛍光ピンクの円盤をかけてもらう。
しかし、なんとなく納得いかない。
それではと、1万円札を首にかけてもらう。
ほかにも鍋のふたをためしたあと、
こんどは花を首にかけられた。
花はたしかにうつくしいけど、
花ですまされると、やはり納得できない感情がわいてくる。
そしてつぎは、まるくてたべられるせんべい「雪の宿黒糖みるく味」。
大北さんがだいすきなおかしだけど、圧倒的に納得できない。
なんだかんだあって、表彰が無事におわり、
大北さんは金メダルを胸にかけて事務所を表敬訪問する。
オリンピックとはなにか。まとめてみると、
運動して1位になると金メダルがもらえる。
日の丸を背おうと、団体戦のような気がしてがんばれる。
メダルではなく、お札や花、ましてや おかしでは気もちがなえる。
ここはやはり、ありがたみのある、
比較的ちいさめの金属でできた円盤がのぞましい。
もらった金メダルをしらないおっさんにみせたら、
うっかりかじられてしまうかもしれない。
オリンピックの本質を、ダルマをうごかす運動によって
みごとにえぐりだす 会心の記事にしあがっている。
大北さんと安藤さんのコンビから目がはなせない。
「めちゃめちゃに運動して金属の円盤を首にかけられると嬉しいのか」
(大北栄人)がおもしろかった。
https://dailyportalz.jp/kiji/to-get-a-metal-medal
なんであんなに金、銀、銅、金、銀、銅、と金属種を言ってるのだろうか。もしかしたら運動して首に金属の円盤状のものをかけられる行為にはものすごい良さがあるのだろうか。
だとしたら一度やってみないといけないのではないだろうか。
ためすにあたり、なんの運動でもいいとはいえ、
野球やサッカーではこのみがでてしまうので、
ここではバスケットボールほどのおおきなダルマを
いろいろうごかす運動に大北さんがとりくむ。
時間は1分間。
気温34.8℃でのダルマまわし1分はきつそうだ。
服には日の丸をぬいつけてある。
応援をうけるとちからのはいり方がちがうのだという。
遠くからカメラマンである安藤さんから声が聞こえる。自分がオリンピック選手のようなイメージを抱く。故郷の人も応援しているのだろうなと。
するとこれは個人戦ではなく団体戦であるように思えてくる。自分の体ではなくみんなの体のような気がしてくるのである。
今だるまを持ち上げる力を抜くのは簡単だ、だがそれは個人の考えによるもので許されないだろう。この体は所属している集団のものなのだから。
そして、いよいよごほうびとして、首に金属の円盤をかけてもらう。
なんとなく、銅より銀、銀より金のほうが
ありがたくおもえてくる。でも、この気もちはほんものだろうか。
ためしに、蛍光ピンクの円盤をかけてもらう。
しかし、なんとなく納得いかない。
それではと、1万円札を首にかけてもらう。
「一分で一万円だからすごいよ!」と安藤さんは言う。たしかに総理大臣クラスの時給だろう。だが納得はいかない。お金に換算されている違和感がある
金じゃねえんだ…という思いがある。この競技がなんなのかはわからないのに
ほかにも鍋のふたをためしたあと、
こんどは花を首にかけられた。
花か〜!! これがなんでかはわからないがめちゃくちゃ膝に来た。もう体力が限界に近かったのだろう
花はたしかにうつくしいけど、
花ですまされると、やはり納得できない感情がわいてくる。
そしてつぎは、まるくてたべられるせんべい「雪の宿黒糖みるく味」。
大北さんがだいすきなおかしだけど、圧倒的に納得できない。
でもこれが雪の宿だからだめだと言ってるわけではない。王様しか食べられないキャビアの缶詰めであってもきっと納得いかなかっただろう。食べられるからダメなのだ。実利がともなってはいけないのである。
金属は食べられない無駄なものであり象徴であるからこそいいのだ。
なんだかんだあって、表彰が無事におわり、
大北さんは金メダルを胸にかけて事務所を表敬訪問する。
「かじるんですか!?」と鈴木さんは何も言わないでもわかってくれた。それほどに話題の一件だったのである。
そしてかじっていただいたところ、これが何の競技かもわからないし、真鍮の安い自作の金メダルではあるのにも関わらず、なんとなくげんなりするものがあった。
先程までその価値がどうとか、自分の身体は自分のものではない、みんなのものだとか色々ごたくを並べて葛藤してきたもの。それを知らないおっさんが噛む。ああ、こういうことか、と一瞬で理解をした。
オリンピックとはなにか。まとめてみると、
運動して1位になると金メダルがもらえる。
日の丸を背おうと、団体戦のような気がしてがんばれる。
メダルではなく、お札や花、ましてや おかしでは気もちがなえる。
ここはやはり、ありがたみのある、
比較的ちいさめの金属でできた円盤がのぞましい。
もらった金メダルをしらないおっさんにみせたら、
うっかりかじられてしまうかもしれない。
オリンピックの本質を、ダルマをうごかす運動によって
みごとにえぐりだす 会心の記事にしあがっている。
大北さんと安藤さんのコンビから目がはなせない。
2021年08月15日
高野秀行さんの宿泊療養むけリストにそって 新型コロナウイルス感染にそなえる
高野秀行さんの「コロナ感染の歩き方」、
第3回目は「回復した今、振り返って思うこと」。
https://note.com/henkyochannel/n/n096f9892bbfc
わりと感染者のすくない島根県にいると、
東京をはじめとする首都圏の感染状況は、
リアルなおそろしさにみちていそうだ。
でも、高野さんは、自分だけはかかるわけがない、
とおもっていたというから、コロナにたいする意識は
ひとによってずいぶんちがう。
高野さんは、ワクチンを1どうち、2回目をまっている時期に
新型コロナウイルスに感染した。
高野さんは、1どでもワクチンをうっていたからこそ
わりと軽症ですんだのでは、とかんじている。
たかい熱に3日くるしんでも「軽症」あつかいなのだから、
「軽症か無症状」と報道されていても、じっさいは
かなりくるしんでいるひとがおおいのではないか。
高野さんは宿泊療養の対象となったわけだけど、
感染に歯どめがかからない いまの東京では
自宅療養にわりふられるかもしれない。
ホテルへひっこすための荷づくりはしなくていいけど、
自宅でやすんでいるあいだ、きゅうな病状の変化がおきても
入院や往診といった治療にはつながりにくいようだ。
家でモンモンと病気への恐怖にふるえるより、
医療機関の目がとどいている宿泊療養のほうが、
まだましなようにおもえる。
高野さんがせっかく「コロナ感染の歩き方」をかいてくれたのだから、
よんだものとしては それなりの準備をしておきたいとおもった。
「宿泊療養持ち物リスト」を参考に、
https://note.com/henkyochannel/n/n2d8dd7490387
100均とドラッグストアへかいものにでかけた。
100均では、お皿・ナイフ・フォーク・さじをもとめる。
ホテルには紙コップしかないそうなので、
プラスチックのコップもかった。
紅茶やコーヒーを、自分のコップでたのしめるだろう。
ドラッグストアでは、体温計とバファリン(80錠)をかった。
せきどめに「ルル」を高野さんはすすめているけど、
わたしはまだ「ルル」をのんだことがなく、
値段もけっこうするので、ま、いいか、ということにした。
西暦2000年をむかえるとき、デジタル製品が暴走をはじめるのでは、と
うわさされたことがある。流通がとまったときのために、
3日分くらいの水・食料を準備したほうがいい、というはなしで、
わたしはスーパーへかいものにはしった。
災害にそなえてのかいものもすきで、
水や袋麺、それにスパゲティなどをかったこともある。
こんかいは、まだ身ぢかにせまったわけではない
新型コロナウイルス感染での 宿泊にむけた準備なので、
あいかわらずあそび感覚のかいものだ。
いろいろかってみると、ピクニックへいくみたいでもあり、
それらがぜんぶそろっている家でのくらしが
いかに快適かも再確認したところだ。
家にいて、すきなものをすきなようにたべ、
本をよみ、音楽をきくいまの生活は、
入院や宿泊療養にくらべたら天国みたいなものだ。
宿泊療養への準備はひとまずととのったけど、
このままなにごともなく家ですごしたい。
第3回目は「回復した今、振り返って思うこと」。
https://note.com/henkyochannel/n/n096f9892bbfc
わりと感染者のすくない島根県にいると、
東京をはじめとする首都圏の感染状況は、
リアルなおそろしさにみちていそうだ。
でも、高野さんは、自分だけはかかるわけがない、
とおもっていたというから、コロナにたいする意識は
ひとによってずいぶんちがう。
高野さんは、ワクチンを1どうち、2回目をまっている時期に
新型コロナウイルスに感染した。
高野さんは、1どでもワクチンをうっていたからこそ
わりと軽症ですんだのでは、とかんじている。
私は発症から3週間前に妻と一緒にワクチンを1回接種している。これを「ワクチンを打っていたのに感染してしまった」ととらえる人もいるかもしれないが、私個人的には「ワクチンを1回でも打っていたからごく軽症で済んだのではないか」と感じている。
感染した人たちの話を見聞きするかぎり、(無症状ではなく)ちゃんと発症して高熱と激しい頭痛、咳、下痢に苦しめられながらも、私ほど短期間で症状が収まった例はめったにない。たいていは1週間以上高熱が続くが、私は三日ほどで下がった。
たかい熱に3日くるしんでも「軽症」あつかいなのだから、
「軽症か無症状」と報道されていても、じっさいは
かなりくるしんでいるひとがおおいのではないか。
高野さんは宿泊療養の対象となったわけだけど、
感染に歯どめがかからない いまの東京では
自宅療養にわりふられるかもしれない。
ホテルへひっこすための荷づくりはしなくていいけど、
自宅でやすんでいるあいだ、きゅうな病状の変化がおきても
入院や往診といった治療にはつながりにくいようだ。
家でモンモンと病気への恐怖にふるえるより、
医療機関の目がとどいている宿泊療養のほうが、
まだましなようにおもえる。
高野さんがせっかく「コロナ感染の歩き方」をかいてくれたのだから、
よんだものとしては それなりの準備をしておきたいとおもった。
「宿泊療養持ち物リスト」を参考に、
https://note.com/henkyochannel/n/n2d8dd7490387
100均とドラッグストアへかいものにでかけた。
100均では、お皿・ナイフ・フォーク・さじをもとめる。
ホテルには紙コップしかないそうなので、
プラスチックのコップもかった。
紅茶やコーヒーを、自分のコップでたのしめるだろう。
ドラッグストアでは、体温計とバファリン(80錠)をかった。
せきどめに「ルル」を高野さんはすすめているけど、
わたしはまだ「ルル」をのんだことがなく、
値段もけっこうするので、ま、いいか、ということにした。
西暦2000年をむかえるとき、デジタル製品が暴走をはじめるのでは、と
うわさされたことがある。流通がとまったときのために、
3日分くらいの水・食料を準備したほうがいい、というはなしで、
わたしはスーパーへかいものにはしった。
災害にそなえてのかいものもすきで、
水や袋麺、それにスパゲティなどをかったこともある。
こんかいは、まだ身ぢかにせまったわけではない
新型コロナウイルス感染での 宿泊にむけた準備なので、
あいかわらずあそび感覚のかいものだ。
いろいろかってみると、ピクニックへいくみたいでもあり、
それらがぜんぶそろっている家でのくらしが
いかに快適かも再確認したところだ。
家にいて、すきなものをすきなようにたべ、
本をよみ、音楽をきくいまの生活は、
入院や宿泊療養にくらべたら天国みたいなものだ。
宿泊療養への準備はひとまずととのったけど、
このままなにごともなく家ですごしたい。
2021年08月14日
「ホームタウン」といえば「スイートホーム・シカゴ」(『ブルース・ブラザース』)
きょうのラジオマンジャックのテーマは「ホームタウン」。
ホームタウンといえばあれだ。
『ブルース・ブラザース』にでてきた「スイートホーム・シカゴ」。
いつかかるのだろうとおもっていたら、
「あみハジジャック」のコーナーでとりあげられた。
『ブルース・ブラザース』のオープニング曲をバックに、
ハジ子ちゃんが作品についてざっと説明してくれる。
出演しているミュージシャンの豪華さとストーリー。
ラストちかく、税務局にお金をもっていくときに
この曲がかかるの、とハジ子ちゃんがいう。
そして、7分52秒のながい曲を、ぜんぶきかせてくれた。
のりのいい曲をきくと、あの場面をおもいだし、
血がさわいでくる。またみたくなった。
1980年だから、もう40年以上まえの作品なんだ。
ハジ子ちゃんの説明によると、映画は2時間13分で上映されたけど、
もともとは2時間28分ものながさだったという。
あんまりながいのでカットされたわけだけど、
DVD版では またもとのながさにもどされて発売されたそうだ。
オリジナルのバージョンがいい、とつい おもいがちだけど、
ハジ子ちゃんはみじかくしたものでじゅうぶんだった、という。
カットして、みじかくなっても筋がつうじるなら、
それで問題ない、というかんがえ方だ。
オリジナルをありがたがるのではなく、
ちぢめても意味がとおればOK、というとらえ方が柔軟でいい。
文章も、3行にまとめる、というやり方や、
9行でまとめる、というのもある。
「9行以内でスパッと言い切れないなら、結局それは伝わらない」
https://cyblog.jp/43216
といわれると、自分がかいている文章をみなおしてしまう。
いっぽうで「5秒のことを200字かけて書く」
という古賀さん流もおもしろい。
お子さんへの布教(アドバイスではなく)として
と古賀さんがはなしたら、むすめさんは
「靴下をはいた状態で玄関に立ち
サンダルと靴どちらを履こうか悩んだ」
と日記にかいて提出したそうだ。
ものごとのぜんぶをかこうとするのではなく、
かきたいものについて焦点をしぼる。
『ブルース・ブラザース』でいうと、
ストーリーぜんたいを紹介するのではなく、
税務署へむかう場面だけにしぼり、
そのときにつかわれた曲をとりあげる。
ファンとしては、ずるずるとぜんぶはなしたくなるところだけど、
そして、ラストの「監獄ロック」はたしかにすてがたいけど、
そこをあえて「スイートホーム・シカゴ」だけにとどめる。
はじめて『ブルース・ブラザース』にふれるひとだって、
あの曲をきけば、作品のノリが かならずつたわる。
ホームタウンといえばあれだ。
『ブルース・ブラザース』にでてきた「スイートホーム・シカゴ」。
いつかかるのだろうとおもっていたら、
「あみハジジャック」のコーナーでとりあげられた。
『ブルース・ブラザース』のオープニング曲をバックに、
ハジ子ちゃんが作品についてざっと説明してくれる。
出演しているミュージシャンの豪華さとストーリー。
ラストちかく、税務局にお金をもっていくときに
この曲がかかるの、とハジ子ちゃんがいう。
そして、7分52秒のながい曲を、ぜんぶきかせてくれた。
のりのいい曲をきくと、あの場面をおもいだし、
血がさわいでくる。またみたくなった。
1980年だから、もう40年以上まえの作品なんだ。
ハジ子ちゃんの説明によると、映画は2時間13分で上映されたけど、
もともとは2時間28分ものながさだったという。
あんまりながいのでカットされたわけだけど、
DVD版では またもとのながさにもどされて発売されたそうだ。
オリジナルのバージョンがいい、とつい おもいがちだけど、
ハジ子ちゃんはみじかくしたものでじゅうぶんだった、という。
カットして、みじかくなっても筋がつうじるなら、
それで問題ない、というかんがえ方だ。
オリジナルをありがたがるのではなく、
ちぢめても意味がとおればOK、というとらえ方が柔軟でいい。
文章も、3行にまとめる、というやり方や、
9行でまとめる、というのもある。
「9行以内でスパッと言い切れないなら、結局それは伝わらない」
https://cyblog.jp/43216
といわれると、自分がかいている文章をみなおしてしまう。
いっぽうで「5秒のことを200字かけて書く」
という古賀さん流もおもしろい。
お子さんへの布教(アドバイスではなく)として
日記は1日のことをまるまる書こうとせずに5秒のことを200字かけて書くと良い
と古賀さんがはなしたら、むすめさんは
「靴下をはいた状態で玄関に立ち
サンダルと靴どちらを履こうか悩んだ」
と日記にかいて提出したそうだ。
ものごとのぜんぶをかこうとするのではなく、
かきたいものについて焦点をしぼる。
『ブルース・ブラザース』でいうと、
ストーリーぜんたいを紹介するのではなく、
税務署へむかう場面だけにしぼり、
そのときにつかわれた曲をとりあげる。
ファンとしては、ずるずるとぜんぶはなしたくなるところだけど、
そして、ラストの「監獄ロック」はたしかにすてがたいけど、
そこをあえて「スイートホーム・シカゴ」だけにとどめる。
はじめて『ブルース・ブラザース』にふれるひとだって、
あの曲をきけば、作品のノリが かならずつたわる。
2021年08月13日
お酒の再開がいよいよ秒よみ開始
禁酒は9月4日までときめている。あと20日ほどだ。
ながいといえばながいけど、もうすこしともおもえる。
これまでノンアルコール飲料の手だすけで、
あまり禁欲感なしにつづけられたけど、
いよいよ酒をのみだすときのことをかんがえると、
それはそれでたのしみだ。
すこしはやいけど、きょうは解禁への準備として、
イオンの白ワイン(プダ・680円)と、
ジントニックをつくるときのために炭酸水をかった。
ジンはすでに冷凍庫でひやされているし、
赤ワイン5本、ウィスキー(バランタイン)と
芋焼酎(黒霧島)も出番をまっている。
きょうのデイリーポータルZには、
地主さんによる
「ノンアルコールハイボールで焼酎を割ると美味しい」
https://dailyportalz.jp/kiji/zero-alcoholic-highball-is-the-best
という、ちょっとわけがわかりにくい記事がのった。
地主さんによると、焼酎をハイボールでわると、
とんでもなくまずいのみものになるけど、
ノンアルコールのハイボール(以下、ノンアルハイ)だと、
「恐ろしく美味しい」らしい。
地主さんの発見は、焼酎だけでなく、なんとソフトドリンク
(コーラ・コーヒー・特茶)でも、ノンアルハイは万能だという。
だからといって、コーラをノンアルハイでわろうとはおもわないけど。
酒を再開したときにやってみたいのは、
おなじくデイリーポータルZにのった
「果汁100%ジュースと発泡酒で作る
『なんちゃってクラフトビール』」だ。
https://dailyportalz.jp/kiji/nanchatte-craft-beer
あとは単純に、ジン・トニックとウィスキーのロック。
それに白ワインが夏の夜をたのしくしてくれる。
もうひとつ、低アルコールビールとして
ビアリーをためしたい。0.5%のアルコールって、
どんなよいをもたらしてくれるのか。
先週までめちゃくちゃあつい日がつづいていたのに、
台風9号がきてから不安定な気圧配置となり、
きょうなどは気温が26℃しかなかった。
これではひえたジン・トニックのよさがいきないかもしれない。
なぜお酒をのみはじめるのが9月4日なのかというと、
この日がブロクをかきはじめて10年目にあたるからだ。
たまたまことしの5月下旬から酒をやめており、
再開するのに ちょうどいいきっかけのような気がする。
ブログをかかなくていいとなれば、はやくからお酒をのめるし、
ほかにもいろいろできそうだ(筋トレや外国語の勉強)。
そんなに9月4日をたのしみにするくらいなら、
10年連続にこだわらず、さっさとブログをやめればよさそうだけど、
よくいわれるように、やめるのは決断であり、
継続はただの惰性にすぎない。
つづけるより、やめるほうがむつかしいこともある。
お酒以外では、MacBook Airをかうつもりだ。
3年まえに、いまメインでつかっている
MacBook Air13インチをかっており、
まだもうすこしこのままひっぱれそうだけど、
これもまた10年連続のおめでとうかいものとして
まえから予定にいれていた。
なんだかんだと9月4日をこころまちにしており、
そうなると、なかなか日がすぎていかない。
あと1ヶ月になってからが あんがいながく、
ブログも、とにかくつづければいいでしょ!
みたいな、内容のない記事がおおくなっている。
それもまた、そのときのわたしの心理状態だから、
これでいいのだ、とわりきって、
とにかく、なんとかブログ10年目をむかえたい、
というのが赤裸々なわたしの心境だ。
ながいといえばながいけど、もうすこしともおもえる。
これまでノンアルコール飲料の手だすけで、
あまり禁欲感なしにつづけられたけど、
いよいよ酒をのみだすときのことをかんがえると、
それはそれでたのしみだ。
すこしはやいけど、きょうは解禁への準備として、
イオンの白ワイン(プダ・680円)と、
ジントニックをつくるときのために炭酸水をかった。
ジンはすでに冷凍庫でひやされているし、
赤ワイン5本、ウィスキー(バランタイン)と
芋焼酎(黒霧島)も出番をまっている。
きょうのデイリーポータルZには、
地主さんによる
「ノンアルコールハイボールで焼酎を割ると美味しい」
https://dailyportalz.jp/kiji/zero-alcoholic-highball-is-the-best
という、ちょっとわけがわかりにくい記事がのった。
地主さんによると、焼酎をハイボールでわると、
とんでもなくまずいのみものになるけど、
ノンアルコールのハイボール(以下、ノンアルハイ)だと、
「恐ろしく美味しい」らしい。
地主さんの発見は、焼酎だけでなく、なんとソフトドリンク
(コーラ・コーヒー・特茶)でも、ノンアルハイは万能だという。
だからといって、コーラをノンアルハイでわろうとはおもわないけど。
酒を再開したときにやってみたいのは、
おなじくデイリーポータルZにのった
「果汁100%ジュースと発泡酒で作る
『なんちゃってクラフトビール』」だ。
https://dailyportalz.jp/kiji/nanchatte-craft-beer
あとは単純に、ジン・トニックとウィスキーのロック。
それに白ワインが夏の夜をたのしくしてくれる。
もうひとつ、低アルコールビールとして
ビアリーをためしたい。0.5%のアルコールって、
どんなよいをもたらしてくれるのか。
先週までめちゃくちゃあつい日がつづいていたのに、
台風9号がきてから不安定な気圧配置となり、
きょうなどは気温が26℃しかなかった。
これではひえたジン・トニックのよさがいきないかもしれない。
なぜお酒をのみはじめるのが9月4日なのかというと、
この日がブロクをかきはじめて10年目にあたるからだ。
たまたまことしの5月下旬から酒をやめており、
再開するのに ちょうどいいきっかけのような気がする。
ブログをかかなくていいとなれば、はやくからお酒をのめるし、
ほかにもいろいろできそうだ(筋トレや外国語の勉強)。
そんなに9月4日をたのしみにするくらいなら、
10年連続にこだわらず、さっさとブログをやめればよさそうだけど、
よくいわれるように、やめるのは決断であり、
継続はただの惰性にすぎない。
つづけるより、やめるほうがむつかしいこともある。
お酒以外では、MacBook Airをかうつもりだ。
3年まえに、いまメインでつかっている
MacBook Air13インチをかっており、
まだもうすこしこのままひっぱれそうだけど、
これもまた10年連続のおめでとうかいものとして
まえから予定にいれていた。
なんだかんだと9月4日をこころまちにしており、
そうなると、なかなか日がすぎていかない。
あと1ヶ月になってからが あんがいながく、
ブログも、とにかくつづければいいでしょ!
みたいな、内容のない記事がおおくなっている。
それもまた、そのときのわたしの心理状態だから、
これでいいのだ、とわりきって、
とにかく、なんとかブログ10年目をむかえたい、
というのが赤裸々なわたしの心境だ。
2021年08月12日
グループホームをたてるため、解体作業で「ハウルの動く城」みたいになった家
グループホームをひらくにあたり、
これまで事務所や生活介護につかってきた
ごくふつうの民家をこわすことになった。
更地にして、そこに2階建のグループホームをたてる。
ふるい家をぶちこわすなんてかんたんそうだけど、
ふるいだけにアスベストをつかっているかもしれないので、
しんちょうに解体作業をすすめる必要があるそうだ。
すこしずつ、丁寧にこわしていく過程であらわれた家は、
どこかでみたような気がする。『ハウルの動く城』だった。
わたしたちの家は、トイレがさいごにのこされた。
まえからあったトイレだけではつかいにくいので、
車イスでもうごけるような、ひろいトイレを
あとからたてまししており、
そのトイレの部分だけがそっくりのこった。
「ハウル」でいえば、城のようにおおきな家だった「ハウル」が
しきりなおしのあと、必要最小限の機能だけとなり、
カルシファーとマルクル、それにカカシだけ
(もちろんソフィーも)をのせて旅にでる。
トイレだけになったわたしたちの家は、
まさにこのときの「ハウル」だった。
たいらにならされた土地に、トイレだけがぽつねんとのこっている。
なかなかシュールなながめだったけど、
重機がじきにこわしてダンプにつみこんだ。
2階だてで、テラスもあり、庭には数本の木がはえ、
車を7台とめられた わりとひろい敷地は、
あとにひとやまのガレキだけをのこし、更地となった。
更地になった土地は、このあと3ヶ月ほどねかせるそうだ。
そのあとグループホームの建築にとりかかり、
グループホームがうごきだすのは来年度となる。
予定では、ことしの9月からはじめられるとおもっていたのに、
なんだかんだと、計画は順調におくれてしまった。
とはいえ、もし9月からグループホームがうごきだしたとしたら、
とても準備がまにあわなかっただろう。
家はたっても、そこではたらくスタッフがぜんぜんたりない。
いまいる職員でやりくりするのが無理なのはあきらかだ。
とまるひと、利用者をサポートするひと、支援計画をたてるひと。
あたらしいひとをまきこんで、たくさんのひとがかかわらないと、
グループホームでの生活がスムーズにながれない。
半年後にひらかれるはずの、あたらしいグループホームは、
この土地で、どんな生活をスタートさせるだろうか。
これまで事務所や生活介護につかってきた
ごくふつうの民家をこわすことになった。
更地にして、そこに2階建のグループホームをたてる。
ふるい家をぶちこわすなんてかんたんそうだけど、
ふるいだけにアスベストをつかっているかもしれないので、
しんちょうに解体作業をすすめる必要があるそうだ。
すこしずつ、丁寧にこわしていく過程であらわれた家は、
どこかでみたような気がする。『ハウルの動く城』だった。
わたしたちの家は、トイレがさいごにのこされた。
まえからあったトイレだけではつかいにくいので、
車イスでもうごけるような、ひろいトイレを
あとからたてまししており、
そのトイレの部分だけがそっくりのこった。
「ハウル」でいえば、城のようにおおきな家だった「ハウル」が
しきりなおしのあと、必要最小限の機能だけとなり、
カルシファーとマルクル、それにカカシだけ
(もちろんソフィーも)をのせて旅にでる。
トイレだけになったわたしたちの家は、
まさにこのときの「ハウル」だった。
たいらにならされた土地に、トイレだけがぽつねんとのこっている。
なかなかシュールなながめだったけど、
重機がじきにこわしてダンプにつみこんだ。
2階だてで、テラスもあり、庭には数本の木がはえ、
車を7台とめられた わりとひろい敷地は、
あとにひとやまのガレキだけをのこし、更地となった。
更地になった土地は、このあと3ヶ月ほどねかせるそうだ。
そのあとグループホームの建築にとりかかり、
グループホームがうごきだすのは来年度となる。
予定では、ことしの9月からはじめられるとおもっていたのに、
なんだかんだと、計画は順調におくれてしまった。
とはいえ、もし9月からグループホームがうごきだしたとしたら、
とても準備がまにあわなかっただろう。
家はたっても、そこではたらくスタッフがぜんぜんたりない。
いまいる職員でやりくりするのが無理なのはあきらかだ。
とまるひと、利用者をサポートするひと、支援計画をたてるひと。
あたらしいひとをまきこんで、たくさんのひとがかかわらないと、
グループホームでの生活がスムーズにながれない。
半年後にひらかれるはずの、あたらしいグループホームは、
この土地で、どんな生活をスタートさせるだろうか。