2021年09月18日

『挑発する少女小説』(斎藤美奈子)

『挑発する少女小説』(斎藤美奈子・河出新書)

9作の児童文学を、「挑発する少女小説」という視点から
文芸評論家の斎藤美奈子さんがよみといていく。
9作は以下のとおり。

・『小公女』(バーネット)
・『若草物語』(オルコット)
・『ハイジ』(シュピーリ)
・『赤毛のアン』(モンゴメリ)
・『あしながおじさん』(ウェブスター)
・『秘密の花園』(バーネット)
・『大草原の小さな家』シリーズ(ワイルダー)
・『ふたりのロッテ』(ケストナー)
・『長くつ下のピッピ』(リンドグレーン)

どれも名前はしってるとはいえ、ダイジェスト版を
よんだだけのものがおおい。
『ハイジ』と『赤毛のアン』は、
アニメをみて「よんだ」ことにしている。
ほんとうに「よんだ」のは、
『大草原の小さな家』シリーズと『長くつ下のピッピ』だけだ。

さすがは斎藤さんの本で、ストーリーにこめられた「挑発」を、
きれいにときあかしてくれており、
原作をよんでいなくても興味ぶかい読書となった。
たとえば、『秘密の花園』では、
主人公の少女メリーが、お屋敷にすむ
病弱な男の子 コリンをあるけるようにする場面がある。
部屋にこもってばかりいたコリンを、秘密の庭につれだし、
庭をつくりなおす仕事をすることで、
健康をとりもどしていくのだけど、
「歩けることは正しいことか」という視点を
斉藤さんは紹介している。

 しかし、じゃあ一生歩けない子はどうなのか。(中略)『ハイジ』や『秘密の花園』の根底にあるのは「健全な精神は健全な肉体に宿る」という障害者差別を正当化しかねない思想でしょう。自然の力で子どもは健康を取り戻すという、一見正しいように思える思想とも、それは地続きです。

そして斉藤さんは、荒唐無稽なピッピの言動に、彼女の孤独をみる。
 夜になれば父や母のいる家に帰るトミーとアンニカ。しかし、ピッピはいつもひとり。完全な自由と独立を手にした少女の孤独はそのぶん深い。存在をアピールしたくて突飛な行動に出てしまうのだともいえます。

どの論考も、斉藤さんがこれらの小説をどうよんだかであり、
けして正解とはかぎらない。わたしはべつのよみ方をしてもいい。
それでもこれだけトリックやポイントが整理されると
わかったつもりになる。ここちよい、おすすめの一冊だ。

posted by カルピス at 16:38 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月16日

定年後の読書について

『本の雑誌 10月号』の特集は、
「定年後は本当に本が読めるのか!?」。
たのしみにしていた特集だけど、
老後の読書として参考になるものはなかった。
いろんなひとが自分の体験をかいているものの、
老眼でちいさな字がよみにくいとか、
気力・体力がつづかない、など、
よめない理由はどれもきいたことのあるものばかりだ。
そして、退職すれば本をよむ時間がふえそうなのに、
あんがいよめないものだ、という意見もおおい。
自由な生活になれていないひとが、
きゅうに自由な時間をあたえられても
なれるにはいくらか時間がかかるだろう。
なにか生活のリズムをつくれる習慣があったほうが、
定年後をスムーズに生きられそうだ。
週に数時間の仕事をいれてもいいし、
運動で頭とからだのスイッチをいれるのもいい。
家でじっとしていたら、グダグダの生活になってしまうので、
たとえば図書館までの散歩をいれるとか。
頭をうごかすには、まずからだをうごかしたほうがいいというのが
これまでの経験からわかってきた。
ジョギングや筋トレほどはげしい運動でなくても、
家のそうじくらいのかるい運動で、確実に頭がきりかわる。
そうじさえめんどくさいときは、歯みがきをする。
とにかくなにかアクションをおこせば、やる気がでてくる。

定年後の読書として、具体的にあげていくと、
わかいころおもしろくよんだ本の再読がおおい。
・ホーンブロワーシリーズ
・梅棹忠夫著作集
・ジョン=アービングの作品
・北上次郎さんのおすすめミステリー
時間がいくらでもあるとおもっていると、
夏やすみの宿題みたいに、いつまでも手をつけないだろうから、
読書計画をたて、着実によみすすめていく。
仕事をやめたのだから、のんびりよめばいい、
なんていってたら、みのりある読書生活はおくれないだろう。
いちどよい習慣ができてきたら、あとはすんなりいくのではないか。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月06日

すべてに洗練されたMacBook Air13インチ(M1)

注文していたMacBook Airがとどく。
つぎのやすみの日に設定しようとおもっていたけど、
ふたをあけたら起動してしまい、そのまま設定にすすむ。
おどろいたのは、ほんの15分ほどで
まえのパソコンから70ギガのデーター移行ができたことだ。
これまでの経験では、データー移行は何時間もかかるし、
とちゅうで中止になることもよくあり、
おそるおそる つぎの日の朝をむかえたものだ。
今回は、歯みがきをしているあいだに
「移行が終了しました」となった。
なにかのまちがえかとおもったけど、
まえのパソコンの画面がそのままひきつがれ、
すべてがおなじ環境でつかえてとても気もちいい。
ブラウザのブックマークもおなじで(しつこい!)、
たった15分で ほんとうにすべてをひっこしできたようだ。

これまでつかっていたのは、3年まえにかった
MacBook Airの13インチだから、
おなじパソコンをもとめたことになる。
まだ まえのがじゅうぶんつかえるけど、
もしきゅうにこわれたら、と理由をつけた。
デザインがかわってないとはいえ、
まえのAirよりひとまわりちいさくなった。
モニターは13インチでいっしょなのだから、
よぶんなスペースがけずられたということになる。
おもさはほとんどかわらないので、
ちいさくなった分、かえっておもいような気がする。
キーボードは、まえの3インチのほうがうちやすい。
まあ、しばらくつかえばなれるだろう。
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【したが旧MacBook Air13インチ】

職場の同僚2人が、たてつづけにマックをかった。
ひとりは2011年型のiMac(中古)で、もうひとりは
MacBook Pro13インチだ。
ふたりとも、わたしにアドバイスをもとめたので、
いまマックをかうならMacBook Air13インチの一択だとこたえた。
けっきょくAir にしたのはわたしだけだ。
ひとによってつかい方がちがうのだから、
iMacやMacBook Proがわるいわけではないけど、
わたしは自分の選択に 100%満足している。
きょうは仕事のあと家にかえるのがたのしみだった。
ワクワクしたこの気分を味わうのはひさしぶりだ。

posted by カルピス at 21:29 | Comment(0) | パソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月04日

『子の無い人生』(酒井順子)「負け犬」につづく、「子ナシ族」の発見

『子の無い人生』(酒井順子・角川文庫)

酒井さんおとくいの、かるいエッセイかとおもったら、
かずある著作のなかで 代表作にもあげられる すぐれた作品だった。
『負け犬の遠吠え』で、30以上(のちに35歳と訂正)、
未婚・子なしを「負け犬」と定義した酒井さんに、
結婚しても子どもがいない女性たちから、
「わたしたちも『負け犬では?』という声がよせられる。
当時は、子どもがいなくても 結婚しているのだから、
「勝ち犬」にきまっている、としていた酒井さんは、
歳をとるにつれ、しだいに
結婚しているかどうかよりも、子どもがいるかどうかのほうが、
人生の方向性におおきくかかわってくることに気づく。
酒井さんは本書で 子がないものを「子ナシ族」と名づけ、
その心理や老後についてさまざまな角度から分析している。
子どもがいなければ、自分が死んだとき、だれがみとってくれるのか。
子どもがいるか いないかは、介護、そしてみとりへとつづく問題だ。
「負け犬」からとうぜん生まれてくる「子ナシ族」の発見である。
こうしてみると、酒井順子さんは、
「負け犬」問題をとりあげるため、作家として
うでをみがいてきたひとにおもえてくる。
ことばづかいがまったくうまい。おもっていることを
絶妙なバランス感覚で表現するテクニックは 酒井さんならではだ。
「負け犬」「子ナシ族」問題を、これからどうとりあげていくのか、
酒井さんの著作をまちたい。

なぜ「子ナシ族」がうまれるかというと、
ひとつの要因は、男性が子どもをほしがらないから。
ほとんどの女性は結婚もしたいし、子供も欲しいと思っているもの。しかし男性と交際しても、相手が結婚したがらなかったり子供を欲しがらなかったりすることがしばしばあるのです。だというのに、日本で晩婚化問題や少子化問題を俎上に載せる時は、ほとんど「女性の問題」としてかたられるのであり、男性をどうにかしようという視点は多くない。

でも、どうにかしようとしても、
どうにもならないかも、と酒井さんはおもう。
「自分がしたいことを邪魔されたくないので、子供はいらない」
ときっちり宣言して子供を持たない男性というのは、実は思いやりが深いのかもしれません。大好きな趣味があるのに何となく恋愛もセックスもしたくなってつい結婚し、妻に対してもいい顔をしてつい子供を作ってしまい、結局は妻がうんざり顔で一人で子育てをする、というのとどちらがよいのか。

 「子ナシ族」は、子供が「授かりもの」であるということを、今も信じている人達です。タイミングがきたら、神様が授けてくださるはずだから、特にがっつかなくてもいいのではないか。・・・そんな感覚を持つ人達は、結婚に対しても妊娠に対しても、自分からアクションを起こさず、待ちの姿勢。遠くの空を眺めているうちに時が過ぎていた、ということなのではないか。

わかい世代のひとたちに、
こうした自分たちの姿を参考にしてほしい、と酒井さんはねがう。
ただまっているだけでは、結婚できないし、子どももさずからない。
とはいえ、どっちがしあわせかは、だれにもわからないから
いまのような晩婚化・少子化がすすんだわけだけど。

わたしは、成人したら結婚するもの、と
なんとなくおもっていたので、
その線にのってなんとなく結婚し、
その結果として子どもがひとりできた。
わたしがフツーだったというより、
わたしみたいな男でもいいとおもってくれた
配偶者に感謝するべきだろう。
わかい女性が、結婚したいのに、結婚しないまま
歳をとっていくのは なんとももったいない。
なんとか協力したいところだけど、
もしわたしがいま30代・独身だったとして、
結婚したがっている女性の対象になるかというと、
こんなお金のない男はあいてにされないわけで。
そこらへんの問題は、小倉千加子さんの『結婚の条件』にくわしい。
結婚の条件をかんがえるから 結婚できないのでは、
というのがわたしの意見だ。

posted by カルピス at 16:44 | Comment(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月03日

『マチズモを削り取れ』(武田砂鉄)

『マチズモを削り取れ』(武田砂鉄・集英社)

オリンピックをめぐっての女性軽視発言などで、
男性有利社会としての日本の体質が、
しばらくまえから問題視されるようになっている。
会社ではお茶をいれるのが女性の仕事だし、
家では家事のほとんどを女性がするようもとめる
目にみえない圧力がある。
なぜそんな社会がいつまでもかわらずにつづいているのか。

男性であるわたしは、男だからという理由だけで、
女性がいやなおもいをあじあわないよう
気をくばっているつもりだけど、じっさいのところどうなのか。
わたしのひとりよがりにすぎず、女性にとっては
ずいぶん不愉快な行動をとっているのかもしれない。
女性であることは、どうたいへんなのだろう。
本書のタイトルをみたとき、すぐにとりよせて、
自分のふるまいをチェックしたくなった。

本書は13章からなり、それぞれの章で、
女性がこうむっている不利益といかりをとりあげている。
たとえば第1章の「自由に歩かせない男」では、
混雑した通路に わざと女性にぶつかってくる男がいて、
女性はただあるいているだけで、こわいおもいをしているという。
そのほかの章では、電車にのればチカンがいるし、
トイレの便器は男たちがたちションでよごすし、
甲子園には「つれていって」とたのむしかなく、
女性が男性部員を「つれていく」ことはできない。
お寿司は男がたべるもので、人事権のおおくは男がにぎっている。
部活だけでなく、日本の社会はすみずみまで体育会的だし、
おおきな会社につとめる おじさんたちは、
自覚がないまま どれだけえらそーにふるまっているか、
などを、ひとつひとつほりさげている。
なぜこんなひどい社会がほったらかしにされているのだろう。
わたしもそうした男のひとりなのか。

ただ、それぞれの章にかかれている内容は、
はじめの数行をよめばわかるものがおおく、
あとは延々と、なぜそうなのかについての考察がつづく。
男たちのみかたをするわけではないけど、
わたしには いささかくどくおもわれた。
本書は基本的に、ずっとこんな感じだ。考えすぎないから、いまだにこんな感じなんだと思う。この本は、考えすぎてみよう、という本だ。

確信犯的に理窟っぽいつくりとなっているのだから、
そういう本だとおもってよむしかない。
わたしは女性に不愉快なおもいをさせているか?
ただいるだけでなにか利益をえてはいないか?
本書をよんでも、わたしの疑問はけっきょくとけなかった。

posted by カルピス at 20:12 | Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月02日

W杯アジア最終予選、オマーンに0−1でやぶれる

W杯アジア最終予選、日本対オマーン

らいねん秋におこなわれるカタールでのW杯にむけ、
アジア最終予選がきょうからはじまった。
日本はBグループにぞくし、らいねんの3月まで、
5カ国によるホーム&アウエー方式で試合をすすめてゆく。

新型コロナウイルスが、世界じゅうで いまだにおちつかないなか、
W杯は予定どおりカタールでひらかれるみこみだ。
ヨーロッパでは、客をいれない国があるとはいえ、
それでもサッカーがなくては、生きていくはりがないと、
リスクをおかしてサッカーの試合をつづけている。
日本だって、完全にサッカーを中止したのは
ほんの数ヶ月にすぎず、そのあとは、無観客だったり、
観客を制限したりして、通常のリーグ戦を再開した。
感染予防の方法や、試合の運営など、
Jリーグのほうがプロ野球にお手本をしめしていた。
日本のサッカーが、ふかく生活に根づいてきたのをかんじる。
リスクがあろうがなかろうが、
サッカーの存在が、おおくのひとをささえている。
サッカーなしの生活はもはや日本でかんがえられない。

最終予選の初戦はオマーンとのホームゲームだ。
オマーンは、「ひいてまもってカウンター」、かとおもっていたら、
戦術とテクニックにすぐれたいいチームだった。
セルビア人の監督にかわってから、サッカーの質がかわったそうだ。
前半はせめあいがつづき、日本のリズムがうまれない。
まあ、そのうちオマーンのやり方に、
日本の選手たちがなれてくるだろう、とおもっているのに、
いつまでもおなじながれのまま前半がおわる。

後半にはいっても、オマーンはまだまだげんきにせめてくる。
日本は古橋・堂安・久保と、2列目の選手を
たてつづけにかえるけど、なかなかシュートまでいけない。
初戦でひきわけはいやだなー、とおもっていたら、
後半44分に、オマーンが右サイドからのクロスをあげる。
つめていた選手がすこしさわっただけで、
ボールはゴールへとすいこまれていった。
オマーンあいてにこれほどくるしみ、
1点もうばえないまま まさかホームでまけるとは。
試合終了間際にいれられた点がひびいたとはいえ、
90分をとおしてオマーンは いいサッカーをつづけていた。
ひいてまもるだけではなく、日本のパスをなんどもカットし、
カウンターへとつなげてゆく。チャンスのかずは、
オマーンのほうが日本をうわまわっていたかもしれない。
日本は、きめるべきときに きめられなかったつけが、
さいごにひびいてきた。初戦での敗戦はいたい。

森保監督は、スターティングメンバーに、
アジア最終予選を経験しているベテランの選手をならべた。
それだけ最終予選のむつかしさに配慮し、
この試合を重視していたのに、慎重にはいりすぎてしまったか。
オマーンは日本のやり方をよく研究してきたようで、
パスをなんどもカットされ、攻撃につなげられていた。
日本の2列目に仕事をさせず、日本のパスをよく予測して、
自分たちのカウンターにつなげていた。
オマーンがこんなにいいチームだったとは。

中東のオマーンがあいてなのに、
レフェリーはおなじ中東の国(どこかわすれた)のひとだった。
判定をみていると、あきらかに日本に不利な笛におもえる。
そんななか、後半6分に、長友がPKをあたえてしまった。
長友の手は、からだにくっついていたけど、
レフェリーによっては、いくらでも日本に不利な判定をくだすだろう。
さいわい、このレフェリーはVARを採用し、
結果として、この判定はくつがえされた。
そんな幸運があったにもかかわらず、
日本はさいごまで自分たちのリズムをとりもどせなかった。
なにがどうわるいのか、修正できないまま、
ズルズルと時間だけがすぎてゆき、
決定的な時間に先取点をゆるしてしまう。
日本がまけるときは、いつもこんなかんじだ。
つよい国にたいしてはいい試合をするのに、
格下とやるとなぜかリズムをつくれない。
ドリブルできりこみ シュートまでもってゆく選手、
そう、三苫がいたらなー、という試合だった。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月01日

「ぬか」のひとたちが大切にする「そのうち精神」

せんじつの記事にかいた介護事業所の「ぬか」では、
「なんでそんなんプロジェクト」のほかにも
たのしそうなとりくみをされている。
そのひとつが「そのうち精神」で、
一般的には あまりいい意味にとらえられていない「そのうち」だけど、
ほんとうは、とてもすぐれたことばだと 代表の中野さんはいわれる。

ふつう「そのうち」ということばは、
わかれるときにつかう なにげないあいさつにすぎない。
たとえば「そのうちごはんでも」とうのは、
ほとんど実行されることのない 害のないセリフだ。
いわれたほうが、その気になってまっていても、
おそらくずっとおさそいはかからない。
「そのうち」は、いいっぱなしですむ約束であり、
実行の義務がともなわない、便利なことばだ。

「ぬか」のひとたちは、そんな「そのうち」に
肯定的な意味をみいだしている。
いますぐにではなくても「そのうち」ほんとうにやろう、と
あまり信用されていない「そのうち」に、まえむきな意味をもたせた。
すぐにではなくても、「そのうち」やればいい。
わるいのは「そのうち」ということばではなく、
いいっぱなしにしてしまう、つかう側の人間だ。
気ながにかまえていれば、「そのうち」いい風がふいてくれるから、
それまで頭のすみにおいといて、あせらずにまつ。

せんじつよんだ小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学』にも、
状況がととのうまで わすれたかのように気ながにかまえる
タンザニアの露天商たちがでてくる。
商売をはじめるからとお金をせびので、いくらかわたしたけど、
いつまでたってもうごきだすようすがない。
けっきょく くちさきだけだったのか、と
小川さんが残念におもっていたら、
わすれたころに、あたらしくお店をはじめた。
小川さんの友人であるタンザニア人の露天商には、
お金をだましとるつもりはなかった。
ただ、ときがじゅくすのをまつ感覚が 日本人とちがうので、
日本人からすると、お金をせびるだけで、
けっきょくはたらかない、というみかたになってしまいがちだ。

口さきだけで「そのうち」というのではなく、
案としてずっとあたためておけば、
「そのうち」実行にうつすときがくる。
たいせつなのは、わすれないで、「そのうち」をまつことで、
まちさえすれば、「そのうち」いい風がふきはじめる。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする