オリンピックをめぐっての女性軽視発言などで、
男性有利社会としての日本の体質が、
しばらくまえから問題視されるようになっている。
会社ではお茶をいれるのが女性の仕事だし、
家では家事のほとんどを女性がするようもとめる
目にみえない圧力がある。
なぜそんな社会がいつまでもかわらずにつづいているのか。
男性であるわたしは、男だからという理由だけで、
女性がいやなおもいをあじあわないよう
気をくばっているつもりだけど、じっさいのところどうなのか。
わたしのひとりよがりにすぎず、女性にとっては
ずいぶん不愉快な行動をとっているのかもしれない。
女性であることは、どうたいへんなのだろう。
本書のタイトルをみたとき、すぐにとりよせて、
自分のふるまいをチェックしたくなった。
本書は13章からなり、それぞれの章で、
女性がこうむっている不利益といかりをとりあげている。
たとえば第1章の「自由に歩かせない男」では、
混雑した通路に わざと女性にぶつかってくる男がいて、
女性はただあるいているだけで、こわいおもいをしているという。
そのほかの章では、電車にのればチカンがいるし、
トイレの便器は男たちがたちションでよごすし、
甲子園には「つれていって」とたのむしかなく、
女性が男性部員を「つれていく」ことはできない。
お寿司は男がたべるもので、人事権のおおくは男がにぎっている。
部活だけでなく、日本の社会はすみずみまで体育会的だし、
おおきな会社につとめる おじさんたちは、
自覚がないまま どれだけえらそーにふるまっているか、
などを、ひとつひとつほりさげている。
なぜこんなひどい社会がほったらかしにされているのだろう。
わたしもそうした男のひとりなのか。
ただ、それぞれの章にかかれている内容は、
はじめの数行をよめばわかるものがおおく、
あとは延々と、なぜそうなのかについての考察がつづく。
男たちのみかたをするわけではないけど、
わたしには いささかくどくおもわれた。
本書は基本的に、ずっとこんな感じだ。考えすぎないから、いまだにこんな感じなんだと思う。この本は、考えすぎてみよう、という本だ。
確信犯的に理窟っぽいつくりとなっているのだから、
そういう本だとおもってよむしかない。
わたしは女性に不愉快なおもいをさせているか?
ただいるだけでなにか利益をえてはいないか?
本書をよんでも、わたしの疑問はけっきょくとけなかった。