朝日新聞でいうと、天声人語にあたる場所だ。
公共施設のなかでまち時間があったので、
そこにおいてあった山陰中央新報をながめていた。
きょうづけの「明窓」に、朝日新聞から引用して
石原慎太郎氏のことがかいてある。
石原慎太郎氏はどうでもいいけど、
堂々と他社の記事から引用していたのでおどろいた。
なんて意気地のないコラムなのだろう。
石原慎太郎氏が芥川賞の選考委員を
辞任するにあたりおこなったインタビューが
朝日新聞にのっていたのだそうだ。
なにもわざわざ朝日新聞からもってこなくても、
ソースはいくらでもありそうだし、
そもそも小なりといえども
山陰地方では最大の発行部数の新聞なのに、
平気で「朝日新聞に載っていた」
とかく神経はどうしたものだろう。
こういうことは、柔軟性とはちがう性質のものだ。
プライドはないのだろうか。
逆のことを想定してみる。
朝日新聞が山陰中央新報から引用して天声人語をかく。
山陰地方についての情報をひろく紹介したいときは
そういうこともあるかもしれない。
しかし、石原慎太郎氏が芥川賞の選考委員を辞任することを
他社の記事から引用するはまずありえない。
引用が意気地なし、とおもっていたら、
引用だけではなかった。
全文が、いったいなんのことか意味がつたわってこない。
もっともらしいことばをつらねているけれど、
形をつくっているだけで
よむがわのこころにせまってくるものがまるでない。
きょうの文章が特別ひどいのかもしれないと、
最近のものをいくつかよんでみた。
まちがいない。どれもみなひどい内容だ。
いいたいことがないのに
無理をして、まともな新聞のコラムを気どろうとするからこうなるのだろう。
わたしたちは本気でかなしんだほうがいい。
これが山陰でいちばん部数をうっている新聞なのだ。
この文章をよんでどうおもうか、
いろいろなひとにきいてみたくなった。
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