ふと「特技:中途半端な体力」という自虐的なことばが頭にうかんだ。
どういう意味かというと、
どの競技についても、とくにスピードがあるわけではなく(ぜんぜんない)、
かといって持久力にすぐれているわけでもない。
『BORN TO RUN』でしられるタラウマラ族は、
マラソンの42.195キロくらいではみじかすぎて
長距離にひいでているかれらの特性をいかせないという。
わたしのはもっともっとひくいレベルのはなしだ。
才能よりも練習量がそのままあわられやすい長距離だと、
すこしはつけいるスキがでることを期待できる。
まったく体力がないわけではないけど、
客観的にいってその中身は特徴がなく、
ほとんど役にたたない中途半端なものでしかない。
かんがえてみると、中途半端なのは体力だけではない。
読書にしてもそうだし、パソコンついても、
さらにいえば本業の障害者介護についてもおなじことがいえる。
本はすきだけど、なにかのジャンルを
とりわけふかくほりさげているわけではない。
パソコンも、ひととおりのことはできるけど、
いっぽつっこんだ専門的な知識が必要なときにはまるで役にたたない。
どの対象についても、ただ、ひろく、あさく、
そこそこの知識と経験があるだけだ。
わたしはきっと、
この状況をこのんでまねいているのだ。
なにかをつきつめるより、ひろく・あさく、
目さきのたのしさにひかれてしまう。
それをくりかえし、つみかさねて、
できあがったのがわたしという人間だ。
ひらきなおるわけではなく、いまさらどうしようもない。
これでやっていくしかないのだ。
以前はやった力に「老人力」がある。
ほかにも「断る力」や、かわったところでは
「飽きる力」なんていうのもあった。
わたしは高野秀行さんが提唱する「間違う力」がすきで、
まちがわずにすませようとするよりも、
まちがったほうが人生をたのしくするとかんがえている。
というわけで、なにについても中途半端なわたしには
「中途半端力」をとなえることがゆるされるだろう。
一流であることや、突出した能力をめざすよりも、
「中途半端」ですますことこそが
平凡なしあわせにむすびつく。
バランスがだいじ、などという、
もっともらしいことばはつかいたくない。
どうしようもなく中途半端な状態にたどりついてしまうことを、
あまり役にたたないもののほこりとして肯定的にとらえたい。
スポンサードリンク