連作短編集で、1話で主人公をふったひとが、
2話では主人公になってこんどはふられ、
そのふったひとが3話でふられるというつくりになっている。
1冊につめられた7つのはなしをよむと、
すべての主人公がふられるので、
こういうのを「ふられ小説」というのだそうだ。
ふられるのはだれにだってつらい体験だ。
でも、相手をふって自分のすきな生き方を手にいれたはずのひとも、
つぎのはなしでしあわせになったかというと、
そうはうまくはいかない。
自分がすきなひとのまえではまたちがう自分になり、
相手もまた自分のおもうようにはうごかない。
自分が以前ふった相手は、
いかに自分のことをおもってくれていたのかを、あとになって理解する。
いやー、恋愛ってむつかしいわ。
ふられるまでのあいだに、
それぞれのはなしでかたられるのは、
いったい人生における成功とはなんなのか、
しあわせとはなんなのか、ということだ。
まわりのひとにとってはりっぱに成功した人生でも、
本人にとってははじめにのぞんでいた手ごたえと
だんだんずれていくことがおおい。
どのはなしもそれぞれにうまくできていて、
いつもながら角田光代の才能に感心しながらの読書となった。
わたしがいちばんひかれたのは
「私はもう知ってるんだもの、
地味とかみみっちいとか、キャリアとかお給料とか、
人生にはなーんにも関係ないんだって。
なりたいものになるにはさ、
自分で、目の前の一個一個、自分で選んで、
やっつけてかなきゃならないと思うの」
という苑子の言葉だ。
彼女は1話で20代のときに「くまちゃん」にふられ、
6話でふたたび30代のぱっとしない女性として登場する。
このセリフをかたったあと、
いちじはマスコミにもてはやされながら、
いまはおちぶれてしまった(世間的には)料理人と
海辺の町でくらすことをえらび、子どもをうみ、そだてる。
苑子はしあわせになっただろうか。たぶん。
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