本質的におなじ罪を当時のフランス政府もおかしていた。
1942年にパリでユダヤ人の一斉検挙がおこなわれ、
女性・子どもをふくむ13,000人が
食料もトイレもない屋内競技場にあつめられる(ヴェルディブ事件)。
サラは警察がアパートにやってきたときに
危険をかんじて弟をタンスにかくし、鍵をかける。
サラはこのあと両親とともに
屋内競技場につれていかれ、
やがて臨時収容所、そしてそこから男女別・年齢別にわけられて
家にかえれるみこみのない最終地点におくりこまれていく。
ナチスドイツだけでなく、フランスでもこうした事実
があったことをわたしははじめてしる。
ナチスに協力した一部のひとが「犯人」なのではなく、
それらに暗黙のうちに加担したおおくのフランス市民が
おなじ罪をせおっていまも生きている。
場面は現在にうつり、
主人公の女性がつとめる雑誌の編集会議で
パリでの事件が話題にのぼる。
これまでそのことをしらなかったわかい男性記者が、
屋内競技場の写真がのこされていないことをいぶかしがる。
「でもおかしいな、
ナチは完璧に記録をのこすのに」
一瞬の沈黙のあと、ヴェルディブ事件をおこしたのは、
ナチではなくフランス政府なのだと女性がつげる。
サラは仮収容所から脱出し、
運よくちかくの村にすむ夫婦にかくまわれる。
しばらくして、夫婦とともにパリにいくことができ、
自分たちのすんでいたアパートにかけつけ
タンスの戸をあける。
おおくの民族が負の歴史をもつ(もちろん日本も)。
この作品は、フランス国民を糾弾しているのではなく、
民族として、家族として、そして個人として、
その歴史とどうむきあうかについて
わたしたちにといかけるところに
この作品のおくゆきがある。
歴史とどうむきあうか。
わたしの平凡な日常生活と、
ヴェルディブ事件はもちろんなんの関係もない。
しかし、わたしの責任から
まったくはなれたところであったとしても、
国や祖先がかかわった負の歴史にたいし、
どういう態度をとっていくのかは
自分の問題としてのこる。
事件をしらべるうちに、
主人公の女性はサラのむすこにたどりつき、
彼がしらなかった家族の過去についてつたえようとする。
彼は不快感をしめし、女性もまた傷つくが、
しかし、2年後に彼のほうから連絡をとってきた。
女性にはそのあいだに子どもがうまれ、
サラと名をつけている。
レストランでの再会で彼がそのことをがしると、
一瞬ことばをうしない、やがて母親の名をつけることで
母の一生を無にせずに、つないでくれたことに感謝する。
自分の、そして家族の歴史とどうむきあうかについて
それぞれがこたえをさがす。
すてきなラストシーンだった。
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