たまごやきがだいすきなので、
毎日のお弁当にいれるよう、
奥さんにたのんでいる、というはなしてくれたことがある。
そのことばがずっと頭にのこり、ときどきおもいかえす。
お弁当のたまごやきをたのしみに仕事をする、ということが
すごくまっとうな人生におもえたからだ。
たまごやき、というのがだいじなところで、
これがカラアゲやシューマイだったりすると、
たんなるわがままにかんじられる。
ある年代からうえのものにとって、
たまごやきはささやかなしあわせを実感するものだった。
はやおきをして、からだをうごかす仕事をしたあとに
たのしみにしていたたまごやきいりのお弁当をひらくのが、
とてもうつくしい風景におもえた。
お母さんが子どものために
いろいろ工夫してつくるお弁当もいいけれど、
こんなふうに、奥さんがダンナのために淡々と
(かどうかわからないけど)用意するお弁当は、
平凡な日常生活を一日いちにち
ていねいに生きているかんじがする。
コンビニでかった298円のお弁当や、
マクドナルドのハンバーガーでは絵にならない。
ここはどうしても奥さんがつくってくれた
たまごやきいりのお弁当でなければならない。
このはなしをきいてから、
わたしもイメージとしてのたまごやきを意識するようになった。
わたしにとって大事なのは塩シャケで、
これにたまごやきがあればなおありがたい、という位置づけだ。
夕ごはんのおかずがたくさんあまっていればそれをつめるけど、
なにもなければ冷凍庫に保存してある塩シャケをとりだす。
その日はすこしだけお弁当をたのしみに午前中をすごす。
こうしたささやかなしあわせこそ日常生活のだいごみであることが
この歳になってなんとなくわかってきた。
スポンサードリンク