「発達障害 苦手なことは克服すべき?vs
ありのまま受け入れる?」前編・後編をみる(10月8・9日放送の録画)。
6人の当事者が「克服すべき派」と「受け入れる派」に3人ずつにわかれて
自分のかんがえや体験をはなす、という構成だ。
きいていると、どちらの派もおなじことをいっているようにおもえる。
「克服すべき派」は、なにがなんでも克服しなければ、
といっているわけではないし、
「受け入れる派」も完全にひらきなおって
努力を放棄しているわけでもない。
番組をすすめるうえでのひとつのきりくちとして、
ふたつの派にわかれただけであり、
両者は対立する概念ではなく、
おたがいがそれぞれの意見をふかい共感とともにうけいれていた。
6人の方すべて、はなしていると障害があるようにはみえない。
堂々と自分の意見を発表し、ひとのかんがえにも理解をしめす。
しかし、映像でひとりひとりの活動が紹介されると、
いわれたことをすぐにわすれたり、
整理整頓がぜんぜんできないというつまずきが、
わたしがかんがえているようなレベルではなく、
ほんとうに徹底的にできないことがわかる。
これは「障害」なのだ、と納得せざるをえない。
整理ができないという女性は、
時間と範囲をくぎると、なんとか成果をあげることができるという。
しかし、せっかくきれいになっても、
それがまたすぐにちらかってしまう。
どんなにがんばっても、
ふつうのひとみたいにはなれないとわかったので、
できるように努力するのをやめた、とその女性はなされる。
それはそうだろう。
あまりにも不毛なこころみだし、
できない自分をせめるので、鬱になるしかないようなつらさだという。
ものをかたずけるということが、
こんなにもある種の能力を必要とすることを
わたしはしらなかった。
とはいえ、仕事に必要なことを記憶することや、
身のまわりの整理が、ぜんぜんできないのだから、
まわりのひとにとったら、たまらない存在だろう。
「受け入れる派」の男性は、職場の同僚に
「しらないひとだったら、きっとあなたはすごくいいひとだろうけど、
となりの机で仕事をするわたしにとって最低」
というようなことをいわれている。
発達障害と診断されると、
自分が苦手だったことの原因がわかり
ホッとされるた方がおられた。
しかし、診断されたからといって、
まわりの理解が急激にひろがるわけではない。
やらなくてはならないことはいっしょだし、
それができない自分をどううけいれるかは
それぞれのかんがえ方しだいとなる。
わたしがふだんせっするのは
知的障害をともなう発達障害の方がおおく、
番組で紹介された方々のように、
一般社会ではたらきながら障害とむきあっておられる方の存在を
まったくしらなかった。
わたしだったら、とても「克服すべき派」にはなりそうにないし、
かといって「受け入れる派」にもなれず、
モンモンとなやみつづけるだろう。
仕事のうえで、発達障害の方にであうと、
すぐに「支援につなげなければ」という発想をしてしまいがちだ。
ほんとうに、それでいいのだろうか。
自分でおもうように意見をいえない彼らに、
わたしはどういう立場でのぞめばいいのかがわからなくなってきた。
(出演された片岡聡さんと、広野ゆいさんの感想がネットにのっている。
片岡さんはスタジオでのストレスに対応するために、
「感覚グッズ」としてぬいぐるみと毛布をかかえて出席されていた。
そうしたグッズが、車いすとおなじように、
障害者にとって必要なものという認識がひろがることもねがっておられた。
広野さんはかたづけが苦手な女性で、
ブログにあげた「整理ができないという女性」は広野さんのことだ。
おふたりとも「受け入れる派」としてはなしをされている)
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