『アマデウス』(1984年・アメリカ)をみる。
アンケートの結果、
人気がたかかったから上映されたはずなのに、
3割程度しかお客さんがはいっていない。
3時間の作品で、アクビが2回でた。
作品のなかでかたられたオペラのガイドラインによると、
これはあまりよい評価ではない。
映像はとてもリアルだ。
みたことはないけど、きっと
1780年代のヨーロッパって、
こんなかんじだったのだろうとおもわせる。
うすぐらくてさむそうで、
かといって効果的な暖房があるわけがなく、
人々は服をきこんでしのぐよりない
(というより、かなりうすぎだ)。
冬の場面がおおく、みているだけで陰鬱な気分になってくる。
雪がぐしゃぐしゃになったとおりを馬車がゆききして、
ひとは足もとがぬれるのをいとわずにあるく。
あかりは当然ローソクだけ。どの場面でも、
たくさんのふとくてながいローソクが目につく。
きらびやかな舞踏会も、ものすごい数のローソクによって
ささえられていたことがわかる。
冬の中世には、絶対にいきたくない。
そんな時代だからこそ、
音楽がもつ意味はおおきかったのだろうか。
観客であるわたしは、かずあるモーツァルト象の
ひとつの解釈としてこの作品をみる。
耳につくたかわらいでモーツァルトが登場する。
音楽では突出したちからをしめしながらも、
音楽の価値観だけですべてを判断し、
世間の常識をかんだかい声であざわらう。
あの調子でやれば、
まわりからみはなされていくのは当然で、
仕事のくちはなく浪費はかさみ、
しだいにおちぶれた生活となる。
それぞれの人物が、
そんなにふかくほりさげられていたとはおもわない。
階級や職業によって、
その役割の範囲内での発言に終始する。
宮廷音楽家は宮廷音楽家としての、
妻は妻としての常識的なふるまいをする。
そこからはずれるのがモーツァルトだけなので、
どうしても彼だけ異端にみえる。
この作品は、いったいなんだったのだとふりかえる。
ある分野については天才でも、処世術にうとく、
生活力がないのはことはよくあることだ。
モーツァルトについて仮設をつみあげ
リアルにそれを再現すると、
たしかにこの作品のようになるのだろう。
そこにとくにおどろきはなく、
共同墓地になげこまれる悲運な最後を
残念におもうしかない。
映像はうつくしくリアルだった。
でも、それだけだった。
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