いただきもののボジョレーヌーボーをのんだ。
ああだこうだいえるほど、わたしはワインにくわしくない。
でも、このボジョレーはとてもおいしかった。
自分でかいておきながらなんだけど、
こういうきりだし方はよくみかける。
「くわしくない」なんていっておきながら、
けっきょくうるさいことをそのあとかきつらねる、イヤミな文章だ。
「わたしはグルメではないが、」というかきだしもいっしょで、
いろいろとエクスキューズしておいて、
そのさきでしっかりグルメなことをかく。
「みんなわたしはグルメではい、といいながら
かくけど、わたしはほんとうにグルメではない」
とさいげんなくおなじことをくりかえしている。
みんなグルメといわれるのはいやがるのに、
味についてなんだかんだいいたがるのはどうしてだろう。
これからわたしがかくのは、
ほんとうにワイン通やグルメなどと関係のない、
ただおいしいかおいしくないかだけのはなしだ。
今年のボジョレーはおいしかった。
なぜおいしいとわかったかというと、
そのあとにぜんぜんいただけない、
ものすごいできのワインをのんだからだ。
これは配偶者が出張のときにおみやげとしてかったもので、
商品名をだすのはきっとよくないだろうけど、
でもいいたくなるほどつくづくとまずかった。
のみこむのに気合が必要で、
寝酒に、とおもってコップ1/3くらいにいれたのが
なかなかのみほせない。
なぜこんなひどいものを商品、それもおみやげとして
うることができるのかほんとうに理解にくるしむ。
口なおしに、と料理用につかっている
チリ産赤ワイン1,8リットル紙パックいりをのむと、
これもまたおなじようにひどい味に顔をしかめる(比喩ではない)。
でも、1年くらいほったらかしにしてあった紙パックいりワインと、
なんとかという賞をとったらしいワイナリー産のビンいりワインが
おなじ味というのがほんとうはひどいはなしなのだ。
残念ながら料理用につかうしかないだろう。
料理用につかって料理がひどくならないか心配だけど。
島根には奥出雲ワイナリーという小規模ながら
ちゃんとしたワインをつくっている会社がある。
わたしがつぎに仕事をするとしたら、
そこのぶどう園かな、といまから目ぼしをつけてるくらい
しっかりとした味だ。
ちいさなワイナリーでも、
それなりの品質のワインをつくることは不可能ではない。
ゆうべのんだワインを商品としてうりだすということは、
すくなくともうるに値するワインとおもっているひとがいるわけで、
それがすでにまちがった認識といえる。
もちろんのみものなのだから、このみはわかれるだろう。
しかしこれはそんなデリケートなはなしではないのだ。
だれがどうみてもまずいものを、
どうせワインのよさなんか、だれもわからないだろうと、
たかをくくり、消費者をなめて商品として流通させる。
日本人には新米のコシヒカリをだすくせに、
外国人には三等米の古米をだして、
これがおいしい日本のごはんです、といってるかんじ。
つくり手がほんとうにおいしいとおもっているとしたら
それははっきりした事実としてまちがいだし、
おいしいとおもわないけど、仕事のためうっているとしたら
それは商売として、人間としてまちがっている。
ことしのボジョレーはあまりよいできではない、という
評価をきいていたのに、
おもいがけずおいしかった。
この評価というのがほんとうにあてにならない。
わるい年にもそれなりに、
いい年にはさらにおおげさに、
ボジョレーのできをもちあげる。
「今年は残念ながらよいできではありません」
なんて年はないのだ。
ボジョレーの評価をサイトでしらべると
どんな年でもそれなりのできとして
けしてわるくはいわれないことがわかる。
きょねんのブログにもかいたものをもういちどとりあげると、
95年「ここ数年で一番出来が良い」
96年「10年に1度の逸品」
97年「1976年以来の品質」
98年「10年に1度の当たり年」
99年「品質は昨年より良い」
00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」
01年「ここ10年で最高」
02年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
03年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
04年「香りが強く中々の出来栄え」
05年「ここ数年で最高」
06年「昨年同様良い出来栄え」
07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」
09年「50年に1度の出来」
おかげで毎年かならず今年のヌーボーはおいしいとおもいこませてもらい、
ボジョレーをたのしむことができる。
ことしは2003年についでほんとうにおいしかった。
ワイン通でもグルメでもないけど。
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