きゅうに角田光代の本がよみたくなって、
本棚にあったこの本を手にとる。
エッセイや短編ではなく、長編小説という気分だったのだ。
とくにどうというはなしではないけど、
角田光代はちゃんとよませてくれる。
でてくる男も女も生理まるだしで、
ずるいことや自分の都合ばかりいっている。
わたしは男なので、角田光代の本をよむことで
女性にへんな期待をもたなくなった。
女性に失望した、という意味ではなく、
男も女もみんないっしょだ、というのがわかったというかんじ。
女性の読者は男性の本音の部分をしるのではないだろうか。
それは相手がわるいのではなく、
人間なんてそもそもたいしたことないので、
それがあたりえなのだ。
そんなことをさりげなく気づかせてくれるところが
角田光代のうまさであり、こわさでもある。
「そうちゃん、私たち、離婚しても何もかわらないね」
橙に染まる自分の手を見て房子は言った。
「はあー? 結婚や離婚で何かがかわるとか期待するのが
おかしいんじゃないの。
女性誌のコピーじゃあるまいし」
「かわると期待してるんじゃなくて、
ゼロのものにゼロを足してもゼロじゃん?
何か、私たちが何をやってもゼロになる気がするんだよね」
「口から唾をとばして力説しながら、
自分の口をついて出るその言葉の、
どれをも信じていないことに房子はそのたび気づいたが、
けれど信じてもいない言葉はなめらかに飛び出してきた」
うそをつこうとしているわけではないのに、
口をついてでることばは自分がおもってもないことばかり。
それで「房子」に嫌悪感をもつかというと、そうではなく、
そんなたいしたことなさをかかえながら、
いっしょに生きていければいい、とおもえるのが角田光代だ。
すこしまえに村山由佳の『ダブルファンタジー』に手をだした。
スケベおやじとして「どれどれ」というかんじだったのに、
ぜんぜんおもしろくなくて、とちゅうでなげだしてしまった。
わたしにとってのリアリティがない。
この程度の作品が、なんで賞をとったのか不思議におもう。
角田光代や三浦しをんをよんだあとだったのが
よくなかったのだろうか。
うまい小説のあとではへたなはなしをうけつけない。
この本は、角田光代の作品のなかではたいしたできではないだろう。
でも、あえていえば、だからこそ、
角田光代のエッセンスがつまった角田光代らしい作品になっている。
角田光代の本に特別なひとはでてこない。
みんなそこらへんにいそうなふつうの男と女で、
そのひとたちが生理をさらけだすのにいやらしさがない。
どれをよんでも、「うまいなー」と感心し、
作中の人物を肯定的にみることになる。
わたしの「たいしたことなさ」が
角田光代のかく、人間のあたりまえなひくさと、
きっと相性がいいのだろう。
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