2012年12月14日

灯油がある安心感。備蓄ごっこをいつまでもつづけたい

家での暖房にエアコンと灯油ストーブをつかう。
最近のエアコンはあまり電気代がかからないそうで、
灯油ストーブよりも経済的だという。
でも、灯油が備蓄してある、という安心感は
わたしにとってかなり大切なことだ。
家にある6つの灯油缶がすべて満タンになっていること。
かいものはお金がなくなるからきらいなのに、
備蓄に関係するものにはいそいそとからだがうごく。

食料としてはお米が最低1袋(10キロいり)は
かいおきしてあるようにする。
ミレニアム問題や新型インフルエンザのために、
ある程度の備蓄をこころがけるようになったのがはじまりだ。
塩やスパゲッティはきらさないし、
うめぼしも毎年つけているので、
いざとなったら2〜3週間は家にたてこもることができる。

「年収300万円時代」でしられる森永卓郎さんが
家にある程度の備蓄がある安心感についてふれ、
断捨離を批判しているのをよんだことがある。
もちろんためこめばいいというものではないにしろ、
できるだけものをもたずに「すっきり」というだけでは
なにかがおこったときの対応がむつかしい。
東日本大震災のときに、コンビニの棚から
商品がすっかりきえたのも、
かいおきをしておかなかったからだ。

わたしの場合はたいして計画性があるわけではなく、
心理的な安心感をもとめての「灯油6缶」だ。
水は期限のきれたペットボトルが2ケースあるだけだし、
トイレ用の水を確保しているわけでもない。
トイレットペーパーにもあまり関心がなく、
いざとなったら東南アジアみたいに手と水でふけばいいや、と
デコボコでいいかげんな備蓄だ。

お金よりも現物に安心をかんじるのは、
じっさいに切実な飢えを体験したからではない。
うまれながらの性格であり、
とびきりの成長株や証券をもっているよりも
(もったことはないけど)、
1俵の米とか、ドラム缶にいっぱいの灯油のほうが
わたしには魅力的だ。
あえて起源をさぐれば、
子どものころに『ロビンソン漂流記』がすきで、
なかでも小麦やヤギをじゅうぶんにたくわえて、
たべることにこまらなくなった、
という場面がお気にいりだった。
もうおなかをすかさなくても大丈夫、という安心感が
おさなかったわたしに備蓄への意識をうえつけたのかもしれない。

新型インフルエンザや地震には
我が家の備蓄がやくにたつけれど、
原発事故がおこればどうしようもない。
原発から20キロ圏にしっかりおさまるので、
家にたてこもるよりは避難をせまられそうだ。
備蓄ごっこのたのしみがなくなり、
いっきょに深刻な難民となるのは
まったくありがたくない。
原発廃止が経済にあたえるという影響よりも、
このままげんきに生きつづけられるほうが
わたしにとってはるかに大切だ。

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posted by カルピス at 11:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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