日本にすむ外国人がどんな食事をしているか。
そして、食事をかたることは
そのままそのひとがどう日本でくらしているかにつながってくる。
日本には207万人の外国人がくらしているという。
島根県の人口の3倍だ。
それだけのひとが、旅行者ではなく、
日本で生活しているというのにまずおどろいた。
そういわれると、松江でも外国人の姿がとくにめずらしいものではなくなった。
スーパーでもみかけるし、
バスのなかでエクアドル人の女性にはなしかけられたこともある(日本語で)。
わたしだって、この町にすむ外国人に
関心がないわけではない。
おしゃべりをしてみたいし、
なにかできることがあればお手つだいもしたい。
でも、ふつうにくらしているぶんには、
ふつうにくらしている外国人と接点をもつのは
なかなかむつかしい。
たしかにこれは高野さんにピッタリの仕事だ。
高野さんは1年間の取材で
日本にすむ外国人の食事風景をみてまわる。
「訪問した建物の扉を開けた瞬間に、
別世界に連れて行かれたことも一度や二度ではない。
ドラえもんの『どこでもドア』のように、
一瞬で外国に行ってしまうのだ。
そして、ちょっと旅行をしたくらいでは
現地でもみることのできない場面にも出くわした」(中略)
そして、もはやそれが特殊な場所ではなく、
明らかに日本の一部となっているのだ」
本のなかで紹介されているひとたちは、
それぞれの理由で日本にくらすようになっている。
共通するのは、移動することへの抵抗のひくさだ。
ある町にうまれたからといって、
ずっとそこでくらさなければならないとはかんがえていない。
簡単に移動し、日本にだってうつりすんでしまう。
高野さんは豊富な体験から
ある現象がおこったときに、
一般的な解釈をうのみにすることなく、
そのうらにかくれている意味をかぎとることができる。
たとえば、東日本大震災の被災地支援で、
パキスタン人を中心にしたイスラム教徒のたきだしが
ニュースによくながれた。
これについて「イスラムの教えに従って」と説明するととおりやすいが、
高野さんは自分の体験と、
みたりきいたりしてあつめたデーターから仮説をたてる。
「『イスラムの教え』以前に
『人間として、あるいは同じ日本に住む者として、
困った人を助けるのは当然だ』という
強い意思と熱い気持ちを感じる。
この人情味と信義の篤さは
私がパキスタンや他のイスラム圏を旅したとき、
現地の人たちと接して感じた印象とほぼ同じだ」
いわれてみればそのとおりで、
ああいう場合には、宗教のおしえからうごく、というよりも、
おなじ人間として、という気もちがつよくはたらくのだろう。
それをメディアはついもっともらしい説明をくわえたがる。
高野さんらしいはなしとしては、
「イエティ(雪男)」さがしがおかしかった。
高野さんたちは支援物資をつんだ車をはしらせたものの、
被災地にはいっても、それらをわたす相手がみあたらない。
唯一おもいついたのが、
気仙沼でネパール料理店「イエティ」をいとなむひとのことだった。
これまでさんざん未知の動物をさがしもとめてきた高野さんが、
「まさかイエティを求めて気仙沼に行くとは思わなかった」
もうひとつは
「カレーたきだし説」だ。
被災地で外国人がおこなったたきだしのおおくはカレーだった。
カレーはたしかにたきだしにむいている。
というか、そもそもカレーはたきだしだったのではないか、
と高野さんはいうのだ。
「経済的で、環境にもローインパクトで、おいしく、
毎日食べても飽きず、大人数の分量を手早く作れる料理ー
それを追求していった結果がカレーなのではないか」
半分は冗談にしても、あんがい本質をついているかもしれない。
この本をよんでおもうのは、
世界はひろく、日本も多様であるということだ。
自由なひとたちにとって、
日本や世界はまだまだやれることがたくさんある。
自分や仕事のことを、せまい範囲でばかりでかんがえていると、
つまらないしみったれた人間になってしまう。
自分のすむところもいもの場所に限定する必要は全然ない。
自分がこれからどんな人生をゆむのかをきめるのは
自分であるし、運命であるともいえる。
たいていのことはその気になればはじめることができる。
はじめたら、あんがいそれがつづくかもしれない。
まじめになりすぎず、気おわないほうがたのしい人生になりそうだ。
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