『ゴッドファーザー・パートU』をみる。
むかしは柳のしたに2匹目のどじょうはいなかったけど、
このゴッドファーザーやエイリアンくらいから
どじょうの生態についての研究がすすんだのか、
2匹目、ときによっては3匹目もみつかるようになる
(というのはでまかせで、2作目があたった映画について
くわしくしっているわけではない)。
パートUではありながら、パートTとはべつの魅力をもつ
すぐれた作品にしあがっている。
イタリアからの移民がどうやってアメリカ社会に根づいていったか、
この作品をみるとものすごくよくわかる。
根づいたといっても根本にはイタリア人社会があり、
そのまた根本が家族への愛だ。
イタリア人だけでなく、ほかの国からの移民も
おおかれすくなかれにたような状況で
アメリカ社会に浸透していったのだろう。
これを、移民時代の回想をいれず、
ただマイケル時代のコルレオーネファミリーに焦点をあてたのでは
パートTのつづきにすぎず、ありきたりのヤクザ映画だ。
作品のふかみが全然ちがったものになっただろう。
つよくて家族を大切にした「父」へのおもいが
ずっとマイケルの頭のなかにはあり、
ファミリーを懸命にささえようとするが
いまや身内すらかためるのがむつかしい。
つよみはよわみでもあるとよくいうけど、
あまりにもゴッドファーザーが偉大だったために、
そのピースがかけるとファミリーのおさえがきかずガタガタになる。
時代もまた変化している。
社会はマフィアに対して寛容ではなくっているし、
女性の意識も以前とはちがう。
マイケルがどう最善をつくしても、
移民時代からきずきあげてきた
社会的な信用がベースになっている父の役割を
つづけるのはむつかしい。
かといって、マイケルがほかの道をすすむのは不可能だったわけで、
兄弟や妻からもみはなされていくマイケルのあせりと失望を理解できる。
移民時代のロバート=デ=ニーロがはまり役だ。
ビトー=コルレオーネが、知恵と度胸をいかしながら
どうやってのしあがっていったのかがよくわかる。
ある意味では社会が彼の役割を必要としていたのだ。
あの笑顔をだされると、だれだって信用するだろうし、
たよりにしたくなる。
イタリア人街のマフィアのボスにおどされても、
すんなりいうことをきかずに時間をかせぐ場面がすきだ。
「拳銃の始末の仕方をしってるか?」
「バラバラにして煙突にほうりこめばいいんだろ」
という軽口をおもいついけど、いかがですか?
有名な場面なので、どこかでパロディになってるのだろうか。
このまえは『タクシードライバー』だったし、
来週は『ディア・ハンター』が上映される。
ロバート=デ=ニーロのファンにはありがたい
今年度の「午前10時の映画祭」だ。
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