2013年01月19日

西村賢太氏の「ケダモノの舌」4回目に期待する

朝日新聞の土曜日版に
「作家の口福」というコラムがあり、
ひとりの作家が4回ずつ
食にまつわるエッセイをかいている。
いまは西村賢太氏が「ケダモノの舌」というタイトルで連載中だ。

西村氏のイメージからいっても、
グルメな内容はそぐわない。
1回目は「エサはエサとして」の題で、

「結句食べ物とはその場、その場の
空腹をみたすエサの感覚なのであろう」

というからいかにも西村さん的だ。
西村さんなら、ぜったいにふつうの食エッセイのほうにはむかわないだろうから、
どんな連載になるのかたのしみにしていた。

2回目は自身の日常における食生活の紹介されている。

「外で食べるときは、大抵中華屋で
ラーメンに炒飯か餃子ライス。牛丼屋では特盛乃至カレー。
あとは立ち食いの、不味い天ぷら を載せたお蕎麦(中略)
と云うのがそのローテーションであり、
家における場合はコンビニその他 の弁当、
惣菜パン、インスタントラーメン、
カップ焼きそばを主食にした日々を経てている」

こうした食生活でも、「ショージ君」のように
詩心のあるエッセイをしあげることは不可能ではないが、
西村さんは「そうした”味覚エッセイ”が、私は鼻につくと云うのである」
とはなから否定している。
しかし、量を重視したまずしいローテーションにおどろきはなく、
グルメではないかもしれないが、
いまの日本ではごくふつうの食事といえる。

連載の3回目では
17歳のときにバイトをした洋食店で
まかない食としてだされた白米とみそ汁をおもいだしている。

「味噌汁は、作り立てのものであるだけに、
まだ十分に香り高くて食欲をそそった」

となると、なんだかふつうのグルメエッセイにちかづいてきたかんじだ。
たべものについてかくということは、
いかに「ケダモノの舌」をもってしても
”味覚エッセイ”からぬけだすのはむつかしいのだろうか。
なにをどのようにたべるかは
生理的な欲求をみたすだけにはおさまらず、
かならず文化としての面が顔をだす。
西村さんがいかにグルメからはなれた食をかたろうとしても、
よむほうは、それもまたひとつの食のスタイルとしてからめとる。
なんだかんだいいながら、西村さんだって
けっこうふつうにおいしいものをたべてるじゃない、とわたしはおもった。
4回目は最終階だ。
どれだけ”味覚エッセイ”からはなれられるのかを期待したい。

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posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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