2013年02月28日

ピピとの「あたりまえな生活」をのぞむ

ブログに脳天気なことをかいていたら、
きのう家にもどったとき、ピピのようすがおかしいと配偶者がいう。
コタツのなかをのぞいてみると、
たしかにおちつきがなく、
ネコ同士がけんかするときみたいに
威嚇するようなうなり声をときどきあげる。
からだをさわろうとすると
どこかいたいのかひどくいやがる。
とにかく次の日に病院へつれていこうと
そのままそっとしておく。

ケンカをしてケガをしたのだろうか。
あんなようすのピピはみたことがない。
ほんのいちにちまえ、というか、
朝まではふつうにすごしていたのに。
いつもなら夜はわたしのうでまくらでねるのに、
ゆうべはチャコだけが毛布にくるまり、
ピピはずっとコタツですごす。

こういうときはよくないことばかりが頭をめぐる。
あのおちつきのなさ、むこうの世界にいったようなかんじは、
ネコエイズかもしれない。
もうピピをまえみたいに、ほおずりすることができないのだろうか。

わたしは質問されるのが苦手で、
たとえば「あなたがいまほしいものは?」なんてきかれると、
簡単にこたえられず、うーん、とかんがえこんでしまう。
でも、ピピのようすがふつうでなくなったいまなら
すぐにこたえがわかる。
ほしいのは、もちろんピピがいつまでもげんきでいることだ。
こんな状態にならないと、ほんとうに大切なものがわからないなんて、
わたしはなんて気のきかないまぬけなのだろう。
げんきでいてほしいのは、ピピのためというよりも、
むしろわたしのためだ。
ピピがいなくなったときにどんな精神状態になるか
かんがえただけでおそろしい。

三谷幸喜さんが朝日新聞に連載している「ありふれた生活」で、
いっしょにくらしていた「とび」という犬がなくなったことにふれている。
「ひとごと」とはいえ、よんでいるだけでもつらいのに、
当事者の三谷さんはどんなかなしみのなかにいるだろう。
まったく、なぐさめることばもない。
三谷さんによると、とびは自分のことよりも、
のこされる三谷さんのことを心配する目をしていたという。

動物は、自分の病気や死をそのままうけいれるようにみえる。
まえに死をみとったネコは
死をおそれているようすはなく、
かといってなげやりになっているわけではなく、
さいごまで生きようとしていた。
いたみやくるしさにたえ、淡々と死とむかいあい、
死ぬまで生きつづけようとするつよさがあった。

病院でピピをみてもらっても、はっきりした原因がわからなかった。
オスネコによくある症状で、おしっこがでにくくて
いたがっているのかもしれない、といわれる。
注射をうたれてそのまま家にもどる。
仕事からかえってコタツをのぞくと、
きようよりすこしはおちついたようすだ。
ご飯もすこしたべ、わたしの指をなめてくれた。
ピピとあたりまえのようにいっしょにねて、あそび、だきしめたのが
どれほどしあわせなことだったか。
わたしにとって大切なのは、まちがいなく平凡な日常生活だ。

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posted by カルピス at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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