ほとんどつづけてよむ。
『風葬の教室』は『学問』から
のんびりしたおとぎばなしの部分をとったような作品だ。
いかにもその年代(中学生や高校生)の子がかきそうな
まだるっこしい文章がすごくうまい。
子どもの感想文をよんでるような気分でいると、
だんだんと表現のするどさとおもしろさに気づいてくる。
「もしも、驚くような事件が教室で起こった場合、
その事件と同じ分量だけ驚くのでした」
「もしも、彼女たちが年齢を取った時、
これらの言葉を覚えているでしょうか。
いいえ、そんなことはないと思います。
覚えていたら、恥ずかしさに生きてはいけないでしょう。
もしも、恥を知った大人に成長出来ればの話ですが」
「私は、リボンのことを思うと泣けてきてしまいます。
ああ、人生って疲れます」
子どもがかいたようによませながら、自由自在に
小学生や中学生になったりする、山田詠美ならではのうまさをたのしむ。
『ぼくは勉強ができない』は、まるで村上龍の『69』を
1991年というあまり政治性をかんじない時代にもってきた作品だ。
高校3年のとき、時田秀美くんはクラスの自己紹介で
「最初に言っとくけど、
ぼくは勉強が出来ない」
と挨拶をする。
勉強ができなくても、そのことをなんともおもっていない。
いってることはあんがい子どもっぽいのに、
年うえの桃子さんという女性とつきあってるし、
いっしょにくらすお母さんとおじいさんは
恋愛こそすべてという、あまり「ふつう」ではない家族だ。
妻夫木聡がえんじるには、『69』の矢崎くんよりも
時田秀美くん役のほうがはまっている。
矢崎くんは女の子にもてることばっかりかんがえていたけど、
秀美くんはもうじゅうぶんいろいろ体験してしまってるので、
そのぶんのびのびとそだったかんじだ。
よんでいるとつい妻夫木くんの顔があたまにうかんできた。
「おじいちゃん、うちって貧乏だね」
「ふん、貧乏ごっこをしているだけだ」
「それを一生続けるのを貧乏って言うんだぜ」
『69』にはまともな先生がでてこなかったけど、
『ぼくは勉強ができない』には桜井先生という、
あまり先生らしくない「いい奴」がでてくる。
先生なのに、秀美くんをラーメンにさそって
なんとなくおしゃべりをしたり、
高校生の秀美くんといっしょに
桃子さんがはたらく店へお酒をのみにいったりする。
「おまえ、そりゃちょって極端な発想じゃないか?」
ラーメンを啜りながら桜井先生が言った。
「そうですか。でも、先生だって女の子にもてるでしょ」
「そうでもないぞ。先生はセックスがあまり強くないからな」
「強いって長時間できるってことですか?」
「うん、まあ、そうだな」
「でも、うちの母の言うことには、
時間が長いか短いかってのは、
あまり関係なんですって」
「いいお母さんだな。彼女美人だし」
どうかんがえても、先生と生徒の会話ではない。
お母さんはいつも恋愛をしていて、
服や靴にお金をかけるから秀美くんの家はたいていお金がない。
でも秀美くんをほったらかしにしているのではなく、
そうした自分の生き方をみせながら
いい男にそだてようとしている。
「世の中、そんなに、おもしろい教師が
溢れてる訳はないじゃないか。
どちらかと言うと、つまらない教師の方が多いぞ」
とおじいさんが秀美くんにいいきかせようとすると、
「でも、前の学校には、結構いたよ」
「そうよ。清水先生なんか、素敵だったわ」
「母さん、あの先生とできてたでしょ」
「できてたなんて言葉を使わないでよ、いやあね、秀美ったら。
そういう時は、おつき合いしてたって言うのよ。
うちで、品のない言葉を使うの許しませんよ」
つまりは、そいういうお母さんだ。
秀美くんが小学生のときの担任は、
頭がかたくて「あなたのような考えの母親を持つと、
子供は、ぐれますよ」
なんて本気でいうようなひとだった。
秀美くんのお母さんにしたらあまりにも価値観がちがい
ぜんぜんはなしにならないのに、
たまたま本屋さんでその先生をみかけたら、
お酒をのみにさそい、だんだんと先生のよさをひきだしたりする。
このひとはだめ、ときめつけるのではなく、
どんなひとでもうけいれてはなしができるすてきな女性だ。
秀美くんはお母さんのねがいどおりに
いい男にそだちつつある。
勉強はできないけれど。
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