2013年07月23日

ほんとうはありえない『アルプスの少女ハイジ』第41話「お医者さまの約束」

『アルプスの少女ハイジ』第41話「お医者さまの約束」は、
ハイジのすむアルムの山が、クララの治療にてきしているかどうかを
フランクフルトからお医者さまがたしかめにこられる。
ハイジはクララが山にこられるよう、
せいいっぱい山のすばらしさをお医者さまにつたえようとする。
ヤギの乳をのんでもらい、うつくしい景色をみせ、
ここがクララにとってどんなにいい場所であるかをはなす。
お医者さまは、山の空気のよさと、
おちついたくらしそのものがすばらしいとみとめつつも、
山の斜面のけわしさをかんがえないわけにいかない。
クララの車いすが、ここで安全につかえるとはおもえないことを
ハイジにはなすしかなかった。

ハイジはなきじゃくってお医者さまにうったえる。
せっかくいい場所だとみとめながらも、
車いすがつかえないせいでクララがこれないなんて、かなしすぎる。

「そうよ、こんなところで車いすなんかつかえないわ。
でもそんなことあたりまえだわ。
ここだけじゃない。
フランクフルトだって車いすなんてなんにもならなかったわ。
車いすでクララがどこをうごきまわったっていうの!
車いすなんてなくったっていいのよ。
車いす、車いすって、先生は車いすのことばっかりおっしゃるけど、
クララだってほんとうはあんなものにのっていたくないんだわ。
あんな車いすにのっているより、
この草のうえにすわっているほうが、
ずっといいにきまっているわ!」

ハイジのこのうったえに、お医者さまは
それまでの自分の固定的観念のあやまりに気づく。
車いすにのっていると、いつまでもそれにたよってしまい、
なかなかあるきだす気もちをそだてにくい。
お医者さまはハイジに自分がまちがっていたことをみとめ、
クララがこの山ですごせるようにはなしをすすめると約束する。
第41話はこのように要約できる。

障害者介護にたずさわるものとして、
このハイジのうったえと、お医者さまの改宗を
どううけとめるべきだろう。
これまでげんきにすごしてきたひとが
車いす生活になった、なんていうと、
ひどくくらいイメージをもってしまうが、
老人の介護では、ねたきりの生活だったひとが、
車いすにのれるようになることで、
一気に生活にはりが生まれるそうだ。
どこでどもいけるし、なんでもできるような意欲がわいてくるという。
自分であるけはしないけれど、
車いすにのればどこへでもいけるのだから、
客観的にいえば、できることはまだまだたくさんある。

クララの場合は、あるけるようになるちからがはるはずなのに、
心理的なハードルをきずいてしまい、
あるくための訓練に正面からむかうことができない。
けっきょく、障害者にとっての車いす、
という漠然としたとらえ方ではなく、
ひとりひとりの個人にとって、
車いすとはどういう存在なのか、ということなのだろう。
車いすを自由にうごきまわるための補助具とするひともいるだろうし、
車いすがあるために、そのさきへの一歩をふみだせないひともいるだろう。

そしてもうひとつ。
ハイジのおこなった熱弁は、
バリアフリーなどほとんどかんがられていない時代においては、
かりに都会でくらしていたとしても、
車いすのメリットはなかったことを示唆している。
部屋のなかはうごくことができても、
いっぽおもてにでれば、車いすにのって移動できる場所なんて
そうおおくはなかったのだ。
それをしりつつ、なぜお医者さまはそんなに
車いすの利用を大前提にとらえていたのだろうか。
かんがえるまでもなく、
山のうえで車いすがつかえないことなど、
わざわざしらべにいかなくてもわかりきったことだ。
ふもとの村ならまだしも、
そこからさらにたかくあがったおじいさんの家で、
車いす用の通路がととのっているわけがない。
そうかんがえると、お医者さまがなにを懸念していたかが
わからなくなってくる。
車いすの利用を前提にしたクララの滞在など、
はじめから想定できなかったのではないか。

やさしそうな表情のお医者さまと、
ハイジの熱弁にかくされて、
この第41話はじつはありえないはなしであることがわかる。
お医者さまがするべき役割は、
車いすをつかわずに山のうえでどうすごせるかを
こまかいところまで確認することだったのではないだろうか。

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posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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